ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『朝長』について(その14)

2006-04-29 01:34:33 | 能楽
ほとんどの観客がその人物像をしらない主人公、源朝長。それだけでも不審なのに、この能では前場でも主人公の化身が現れてその人生を語る能の常套手段からは遠く離れていて、彼自身はとうとう前場では姿を見せず、あくまで彼をとりまく第三者ばかりによって彼のおぼろげな記憶が語られるのみです。その中で朝長という人間はどのように描かれているのでしょうか。

前シテの青墓の女長者は、この役が『平治』に登場する大炊だとすれば、彼女は義朝にとっては義理の母にあたりますが、彼女の娘・延寿は義朝の正妻ではなく、しかも都には召されずに義朝との間の子・夜叉御前や母の大炊とともに青墓に住んでいるのですから、今年16歳になる朝長を幼少から見守っていたとは考えにくいでしょう。能『朝長』の中でも前シテは「一夜の御宿りにあへなく自害し給へば」とか「一樹の蔭の宿り、他生の縁と聞く時は」などと、朝長が亡くなった夜が彼と初対面であったとも受け取れる表現があります。

またワキは子守役として幼少から朝長に付き従っていながら、「さる事ありて御暇賜り、はや十箇年に餘り、かやうの姿となりて候」と語っています。とすれば彼は朝長が6歳になる以前に義朝の邸を後にした事になり、さらにこのワキはその後出家して、いまは嵯峨・清涼寺の住侶となっています。従僧を引き連れて旅をする身分なのだから彼が出家したのは最近の事ではなく、彼は朝長が武将の子として成長著しい輝かしい青春時代を見ていない可能性が高いでしょう。(実際、小書『懺法』のときにワキが語る「大崩の語」では、ワキは平治の乱の顛末を語りますが、最後に「そのとき自分は寺に居たので目の前で見たわけではない」というような事を言います)

いうなれば、誕生時の朝長と、最期に臨む朝長と、同じひとりの人間に関わっていながら、はるかに時間を隔てて朝長の人生の中のほんの一部分=誕生と死という両極=だけしか見ていない二人が邂逅しているのが能『朝長』の前場なのです。ぬえは、ここに能『朝長』の前場に作者が意図した仕掛けがあるのではないか、と考えています。

能『朝長』の前場の主眼は、言うまでもなく前シテが朝長の自害のさまを語る「語り」で、この部分はこの能全体の中でもクライマックスと捉えられるほど重要な場面です(ぬえもどうしても稽古の比重はこの「語り」に偏ってしまうのですよねー。。)。およそ、前シテがややもすると後シテよりも比重が大きくなってしまうのは、『道成寺』を除けば、他にはちょっとすぐには思いつかないほど例は少ないでしょう。

朝長の人生の両極の中でも、誕生・成長の喜びよりも、若くして命を散らしたその死の方がずっと劇的であることは当然で、実際、能『朝長』では子守りだったワキから幼少の朝長の事はほとんど語られず、朝長の事を語るのはもっぱら前シテの女長者で、それも「夜に入りて」落人となった義朝一行が突然女長者の宿を訪ねる場面から、その深夜、「夜更け人静まってのち」朝長が自害するまでの、数時間程度の間の事なのです。とすれば結局、この能の前場では、みずから望んで死を選んだという強固な意志の力のようなもの以外には、朝長の人物像というものはまったく描かれていない、と言えるのではないか?

ぬえは、この前場で作者が描いたものは、前シテの口から語られる朝長という人間そのものではなくて、やはり前シテ青墓の女長者その人だったのではないか、と考えています。極論すれば、女長者その人でさえなくて、「追憶」というのが、前場のみならずこの能全体のテーマなんじゃないだろうか。

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『朝長』について(その13)

2006-04-25 12:31:54 | 能楽
こう考えてみると、どうやら『平治物語』には束縛されずにまったく自由な発想で作られたらしい能『朝長』ですが、じつは修羅能としてもかなり異色な構成で作られている事がわかります。

たとえば…
1)ワキが諸国一見の僧ではなく朝長にゆかりの者。
2)前シテ(青墓の長者)が後シテ(朝長)の化身ではなく前後のシテが別人格。
3)前場が現在能で後場が夢幻能の形式を持つ。
4)朝長の最期がその役自身ではなく前シテによって語られる。

前後のシテが別人格、というのは、『船弁慶』や『賀茂』、『烏帽子折』『天鼓』『谷行』、そして『鵜飼』『昭君』『国栖』などの「護法型」と言われる能にも類例を見いだす事は比較的容易ではありますが、修羅能、となるとこの『朝長』一番だけです。

またワキが後シテと何らかの関わりを持った人物である事は、『敦盛』(ワキは敦盛を討った熊谷次郎直実が出家した蓮生法師)や『忠度』(ワキは忠度の歌道の師・俊成の子である定家に仕える者)『清経』(ワキ=清経の家臣)『経正』(ワキ=経正が師事した仁和寺の僧都)にも類例があり、むしろ修羅能の特色に近く思えるほど例が多い舞台設定ではあるのですが、能全体の中でシテとワキの間に(生前からの)関わりがある曲は、やはり少数の例にとどまると言えるでしょう。それにワキがシテのゆかりの者である場合、たとえば『清経』が主君の最期の現場に供をしていて、その遺髪を届けに北の方のもとに赴く家臣であったり、『敦盛』のようにシテ本人を殺害した武将の前にその化身が姿を現すように、シテとは直接的なつながりを持っていて、それが能のストーリーの展開に直接関係する、という構図で統一されていると言うことができそうです。

ところが『朝長』では前シテの青墓の長者とワキの清涼寺の僧(もと朝長の傳=めのと=子もり役)は一面識もありません。また前シテの長者も、これを『平治物語』の「大炊」とするならば、娘の延寿が義朝と契り、夜叉御前という孫まで持つ身なので義朝にとっては義理の母に当たるのですが、能『朝長』の本文には「わらはも一夜の御宿りにあえなく自害し果て給へば」「わらはも一樹の蔭の宿り、多生の縁と聞くときは、げにこれとても二世の契りの」と言っている事を考えると、朝長とはこの自害事件が起こったその夜に初めて会ったと読むことができて、これまた前後のシテがかねてより深く交流していたとは思いにくいようです。

この能の前場は、初対面のシテとワキが朝長という人物をめぐってお互いの回想を通じて親密になり、その薄くはかない出会いの中で今は亡き朝長を追想していく、という筋立てになってるわけで、これをよく考えると、じつは大変緻密に舞台効果が計算された人物設定になっているのではなかろうか。

この稿の最初に触れたように、源朝長という人物は『平治物語』の中でも決して傑出した存在ではなく、むしろ平家の公達に共通するような薄倖の若武者として描かれてはいるものの、前述のように、この能が書かれた当時から現代にいたるまで、観客にとって源朝長という人物は無名に近い存在であると言えるでしょう。能『朝長』の舞台を見る観客は、朝長という人物像がわからないままに、その目に見えぬ人物を偲ぶ二人の登場人物(前シテとワキ)の沈痛な問答によって、彼が非業の死を遂げたこと、そして彼が愛されていたことを知ることになります。

現代のように能の本文が流布していて、能の番組にも舞台写真が掲載されている時代とは違って、昔はもっともっと、後シテ・朝長の人物像は曖昧模糊としたものだったでしょう。前場でその最期が描かれますが、それが朝長本人の化身などではなく、第三者として、偶然その場に居合わせた青墓の長者にその模様を語らせたのは、朝長の人となりを観客に印象づけるのに、本人(の化身)が語るよりも雄弁な事もある、と気づいた作者の意図したところ、作者の仕掛けなのではないか、と思えてきました。

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『朝長』について(その12)

2006-04-24 21:21:31 | 能楽
このところずっと多忙を極めていまして、ブログの更新もすっかりサボってしまいました~~

昨日は伊豆で子ども能の稽古に行き、またまた数時間 小学生のお相手で疲れきりました。。いやー若いっていいねー。それでも子どもたちは部分的に、ではあるけれども確実な成長を遂げていて、だんだんに7月の公演の全体像も見えてきました。まだまだ霞の向こう側に、ですけれども。


さて『朝長』。(^^;)

それにしても源朝長という人物は、源義朝の次男ではありながら、実際のところはやはり、現代はもとよりこの能が作られた時代にあっても、またその後に能が享受された後世にあっても、さほど有名な人物とは思えないのです。前述の通り『平治物語』でも朝長が登場するのは、父や兄弟とともに御所を警護するために日華門に勢揃いする場面が、華やかな武将の姿として唯一描かれている場面で、その後は竜華越えで矢傷を負う場面、そして青墓で父の手に掛かって果てる場面だけで、源義平や平重盛のようにおよそ武将としての勇壮な合戦の場面とは縁遠い存在と言わざるを得ません。

なぜ彼がこれほど大曲とされる能の主人公として描かれるようになったのか、ははなはだ興味をそそられる問題ではあるのですが、それは一時措いておいても、ただ、これほど地味な登場人物をここまでしっかりした能に脚色した作者は本当の才能はまことに非凡である事は疑いがないでしょう。

もっとも現在のところ『朝長』は、金春禅竹の『歌舞髄脳記』にこの曲名が見えるために、禅竹よりは古い作である事は間違いないものの、作者は未詳です(一説には観世元雅の作ではないか、という意見があるようです。ぬえはあまりこの説に説得力を感じませんが。。)。

この曲の背景となる平治の乱を理解するためにこのブログでも『平治物語』を紹介してきたわけですが、能『朝長』を読むとき、その内容が『平治物語』とあまりにも隔絶しているのに驚きを禁じ得ません。と言うより、『朝長』には『平治物語』からの引用は一言一句ない、と言ってよいでしょう。

世阿弥は『三道』に「軍体の能姿。仮令、源平の名将の人体の本説ならば、ことにことに平家の物語のままに書くべし」と記しています。『朝長』が金春禅竹以前に作られた能だとして、また一方 禅竹によるこの曲への言及があったり、元雅作という説が展開される事を考えて、かりに観世座か金春座にゆかりがある人物によって作られ、世阿弥のなんらかの影響があったと考えるならば、これは大いに疑問となるところでしょう。(もっとも、かく言う世阿弥自身が作った修羅能が、『平家物語』の引用に満ちているとはとても言い難いのも事実なんですが。。)

また『朝長』は世阿弥式の複式夢幻能の形式を踏まえていながら、前シテはその化身ではなく、朝長の最期を看取った青墓の宿の長者がその有様を語る、という現在能の形式です。これまた『朝長』が世阿弥の作劇法とはずいぶん異なった視点で作られた能であることを示しているのかもしれません。

前回も少し書いた事にも通じるのですが、能が作られるときには必ず作者の意図というものがこめられているものでしょう。「ことにことに平家の物語のままに書くべし」と書いた世阿弥を含めて、それは本説の内容や本説の作者の意図とはまったく無関係である事も多いのです(もちろん、いかに典拠とした本説があったとしても、創作というものは本来 本説そのものとは無関係に展開されるものなのでしょうけれども…)

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『朝長』について(その11)

2006-04-19 02:16:09 | 能楽
さて『平治物語』の中での朝長について、彼はこの物語の中では軍勢を率いた義朝が御所の日華門で平家の来襲を待ちかまえる場面と、竜華越えで僧兵が射た矢を膝に受けるところ、そして青墓宿で義朝の手に掛かって落命するところ、の都合三カ所しか登場しません。印象としては煌びやかな装束を着て馬に乗り、父や兄とともに御所の門前に颯爽と居並ぶ公達ぶりと、それとは対照的に合戦の場面ではすでに矢傷を負い、悲痛な思いで落人一行の一員となり果て、ついには覚悟のうえで父の手に掛かる、という。。運命に翻弄される生き様は、どこか平家の公達と見まごうような人物像です。。

こう考えてくると、そういえば、能の登場人物の中で、源氏の武者でありながら法被ではなく長絹を着るのはシテではこの『朝長』と『巴』の「替装束」の小書の時ぐらいのもので、そのほかツレでも『正尊』の義経、『土蜘蛛』の頼光などに限られるのではないか、と気がつきました。

このうち、『巴』は女武者で、「替装束」でこそ長絹を着るけれども、小書がない普通の演出では唐織を坪折りに着ているから、『朝長』のシテの役柄とはおのずから違いがあるでしょう。またツレの役の場合も『正尊』のツレ義経は、土佐坊を邸に迎えるという舞台設定なので、長絹を着るのは軍装を解いた高位の者の普段着という意味合いでしょうし、『土蜘蛛』の源頼光は高名な武将ながら、この曲では病床に伏している設定で、この役は裳着胴で演じる場合も多い事を考えると、これも例外的な装束付けだと考えるべきでしょう。実際、義経役では『木曽』(ツレ)や『船弁慶』『七騎落』『大仏供養』(子方)は法被を着ていて、これらの役は『屋島』と同様、軍装をしている=まさしく『朝長』と同じ設定=なのです。

やはり『朝長』は、源氏の武将という範疇では捉えられない作品で、(装束付けも『朝長』の作者みずからが考え出したとするならば)作者がこの曲を作った意図も義朝・頼朝・義経の、源氏の父子・兄弟の系譜とは無関係にあると考えるべきでしょう。

それと、注目すべきは主人公・朝長の最期が『平治物語』とはまったく違った展開となっている点です。能では、たとえば『葵上』のように原作(や史実)とはまったく違う展開を見せる脚本の曲は多く見いだせるのですが、これらは舞台の進行は当初原作の通りに進んでゆきながら、途中で原作を離れて、作者の発想に従って自由に展開している場合がほとんどです。

たとえば『葵上』では光源氏の正妻で身重の葵上が病臥しているのは、物の怪(六条御息所(シテ)の嫉妬の心が生み出した生霊)が原因で、生霊は葵上を取り殺そうと企てますが、ここまでは『源氏物語』に忠実に作られています。ところが原作が物の怪の攻撃がやんだ間隙に葵上は夕霧を出産し、左大臣家の人々が喜んでいる隙に物の怪がついに葵上を取り殺すのに成功したのに比べて、能では物の怪を退散させるために横川の小聖という、宇治十帖に登場して自殺未遂をした浮舟を救う人物を配して鬼女となった生霊と対決させ、最後には生霊は自分の所行を悔いて成仏する、という脚本になっています。

なぜこのような方法を取る能の脚本があるのでしょうか? 作者が能を作曲する場合に、まず本説に依りながら、じつは作者自身がその曲に描きたいテーマはあらかじめ別にあったのだと ぬえは考えています。すなわちこの脚本は作者が自分の考えるテーマを観客に自然に受け入れてもらうための、いわば「仕掛け」だと思うのです。観客は『葵上』の能を見ながら、それぞれが知っている『源氏物語』をその上に重ねながら舞台を見ていて、次第にそのストーリーが『源氏』を離れてきている事に気づく。しかし能の導入部分が本説に忠実であったために、すでに観客はその舞台の推移を見届けるのに違和感を覚えないでしょう。『葵上』の場合、『源氏』を舞台上に視覚化する事が作者の意図でなかったことは明白で、ぬえはこの曲のテーマ=作者が描きたかったこと=とは、すなわち「嫉妬というものが人間を鬼に変える」という事の真偽だと思うのです。

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『朝長』について(その10=平治の乱、その後)

2006-04-18 00:20:20 | 能楽
この後遮那王は承安4年(1174)、16歳のときに鞍馬に参った奥州の金売り吉次に従って奥州を目指して下向、その途次 鏡の宿で元服してみずから「源九郎義経」と名のり(能『烏帽子折』の題材)、また盗賊退治など武勇の手柄もあり(能『熊坂』の題材)、はじめての郎等として伊勢の三郎を得、奥州ではかつての義朝の郎等の娘の老尼から、我が子佐藤次信・忠信の二人を家人として差し出され(彼らの活躍は能『忠信』『吉野静』などにも描かれ、老尼は能『摂待』のシテ)、ついに奥州の藤原秀衡に保護されます。

頼朝は伊豆の蛭が小島の配所にて21年を過ごしていました。治承4年(1180)、以仁王の乱の折に平家追討の令旨が諸国の源氏に向かって発せられ、頼朝もこれを受け取ります。しかし以仁王は源頼政とともに宇治で討たれ(能『頼政』の題材)、平家はこの令旨を受けた源氏の討伐に乗り出し、ここに頼朝は平家打倒のため挙兵を決意します。はじめ頼朝軍は相模国へ向けて進軍しますが石橋山の合戦で大庭景親・熊谷直実らに破れ、土肥実平らわずかな勢で真鶴岬から安房国へ逃れ(能『七騎落』の題材)ますが、やがてそこから再決起してついに関八州(武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)を従えます。義経も奥州から馳せ参じて合流、日本中を巻き込んだ源平の戦乱の時代に続いてゆきます。

長田忠致・景致の最期】

寿永2年(1183)、木曽義仲の軍勢の軍勢がいち早く都に入ると聞こえると平家一門は安徳天皇を戴き、三種の神器を携えて西海に逃れました。そのとき頼朝を助けた池禅尼と平頼盛の一族だけには頼朝から、恩義に報いるため都落ちを思いとどまる旨 事前に内々の使いが遣わされ、それに従った者は頼朝によって所領を安堵されました。

一方、主君・義朝をだまし討ちにした長田父子は平家にも憎まれて西国へも同道できずにいましたが、いずれ討たれると承知してか彼らは鎌倉に頭を垂れて参上しました。頼朝は「いしう参りたり」とだけ言ってしばらくは土肥次郎に預けおきましたが、範頼・義経が平家討伐のために西国に下るときにその軍勢のうちに長田父子を加え、「身を全くして合戦の忠節を致せ。毒薬変じて甘露と成ると云ふことあれば、勲功あらば大なる恩賞を行ふべし」と申しつけました。

されば鎌倉勢は木曽義仲を追い落とし、平家を摂津・一ノ谷に破りましたが、その戦況報告にも長田父子は「又なき剛の者にて候ふ。向ふ敵を討ち、当たる所を破らずと云ふことなし」と獅子奮迅の活躍。しかし屋島の城が落ちたとき頼朝は土肥に命じて長田父子を連れて鎌倉に帰るよう命じました。

頼朝は長田に「今度の挙動神妙なりと聞く。約束の勧賞取らするぞ。相構えて頭殿(=義朝)の御孝養よくよく申せ」と言うと父子を搦め取り、義朝の墓前に引き出すと磔に処されました。人々は「平家の方へも落行かず、さらば城にも引籠り矢の一つをも射ずして、身命を捨てて軍して、欲しからぬ恩賞かな。是も只不義の致す所、業報の果す故なり」と申し合いました。

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保元・平治の乱の経緯を追って『保元物語』『平治物語』を読んできましたが、能ではおなじみの治承・寿永の6年間に渡る源平の合戦の伏線として二つの戦を見るとき、その規模の小ささ、戦の発端が利権争いだった事など、意外な面が見えてきます。結局、青墓で自害した(と、能『朝長』では描かれているが、足手まといになる事を恐れてみずから父・義朝の手に掛かった、というのが真相らしい)や、一ノ谷で哀れにも落命した敦盛・経正・忠度ら、さらに平家の行く末に失望して九州で入水自殺した清経らの公達は、朝廷を舞台にした醜い権力争いの巻き添えとなって若い命を散らした、と言えそう。いつの世も戦争ってのは残酷なものですねー。。

また『保元』『平治』を読んで気がつくのは、『平家物語』とくらべて源平の要人の人となりの描かれ方がすいぶん違う事です。清盛は『平家』ではときに激情をもって果敢に政治判断を下し、先見の明が利く、まさしく平家を統率するにふさわしい大人物、として描かれますが、『平治』では彼が信頼・義朝が帝・上皇を確保して反乱に及んだ事を熊野参詣の途次に聞いた清盛は「急ぎ(都へ)下向すべきか。是まで参つて参詣を遂げざらんも無念なり。如何すべき」などと優柔不断な事を言ったり、義朝勢が六波羅に押し寄せると聞いて甲冑をおっ取ったまでは良かったのですが、あわてて兜の前後を間違えて着けてしまって重盛に呆れられたりしています。重盛が『平家』と同じように、平家の惣領として冷静沈着、武勇にも優れた人物として描かれているのとくらべて、どうしたことか清盛の描かれ方はかなり印象が悪いように思います。

また鎌倉幕府を開いた頼朝から「日本国第一の大天狗」と評された後白河法皇も、ここでは時どきの権力者に追従する小心者としての印象が強く描かれているように思います。保元の乱の後しばらくは政権の強化・安定に力を注いだものの、すでに政治の実権は武家の手に移っていて、平治の乱では藤原信頼と源義朝に監禁され、清盛の計略によって脱出してからは清盛に信頼・義朝の追討の宣旨を出す事になり、これ以後事実上武士の支配下に置かれて、朝令暮改のような有様を呈する事となります。

後白河は平治の乱以後は勢力を伸ばした清盛ら平家に逆らうことができず、俊寛・藤原成経・平康頼らによって平家打倒が画策された鹿ヶ谷の密謀に密かに加わったりする有様。さらに平重盛が没するとその所領を召し上げてみるものの、たちまち清盛によって鳥羽院に幽閉されます。木曽義仲が平家打倒のために挙兵するとこれを支援。義仲が迫り平家が都落ちを決めると法皇は比叡山に隠れて、上洛した義仲に平家追討の院宣を出しますが、義仲の軍勢が都で狼藉におよぶと、今度は頼朝に義仲追討の院宣を出します。頼朝に命じられた義経が義仲を討つと、法皇は義経に平家追討の院宣を出す事に。。

平家滅亡後に頼朝と軋轢が生じると、後白河は義経に頼朝追討を命じ、しかしそれが敗れて頼朝から抗議を受けると、今度は頼朝に義経追討の院宣を出します。義経が奥州で討たれると頼朝はさらに奥州藤原の追討の院宣を乞い、これは拒否したものの、頼朝が藤原を滅ぼすと、事後承諾のように追討の院宣を出します。頼朝が征夷大将軍を願い出ると、せめてもの抵抗かこれを頑なに拒否。結局頼朝は後白河法皇の死を待って征夷大将軍に就任しました。武士に利用されながら政権と生命の維持のために最良の道を模索しながら生きながらえた後白河の生き様には悲壮なものが。案外こちらの後白河の姿が本当だったかもしれませんが。

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『朝長』について(その9=平治の乱終結)

2006-04-17 01:18:35 | 能楽
昨日はツレ・トモ・地頭とともに、初めてひとりきりでの自習ではない 本格的な稽古を致しました。型や謡について打合せを始め、また ぬえの要望も出して、これから少しずつ骨格を作っていく作業に進んでいきます。

また師匠にも今月から稽古を見て頂く事をお願いし、下旬にはじめて稽古をつけて頂ける事になりました。

普段 ぬえや、ぬえと同じような段階の門下の場合には、自分で稽古をしておいて、公演の1~2週間前に一度だけ師匠に稽古をつけて頂く、というのが普通です。さらに稽古能で再度師匠に見て頂く事もあり、最終的には申合で最後のご注意を頂いて当日に臨む、というパターン。

今回は『朝長』という大曲なので、1ヶ月以上前の今から師匠に稽古をはじめて頂くようお願いしました。申合よりずっと以前に、複数回の稽古をお願いしたのは『乱』や『望月』『石橋』、そして『道成寺』以来の事になります。

さて、『平治物語』。なんせ時代背景が複雑な物語で。
はやく稽古状況を書き込みしたいよう。(^^;)


平治2年正月7日、長田忠致・景致父子が野間より上洛、前左馬頭・源義朝とその郎等・鎌田兵衛正清の首を持って上洛しました。早速 検非違使によって首実検が行われ、9日その首は都を渡されて獄門に掛けられました。

翌10日、改元となって永暦元年となります。23日、除目が行われ、長田忠致は壱岐の守に、その子景致は兵衛尉に任じられました。ところが長田父子はこれを不服として播磨国を賜るか、または本国である美濃・尾張を望みました。これを聞いて平家方でも「長年仕えた主君と実の婿を害したうえに過分な望みとは、あやつの手足の20本の指を20日に分けて切り落とし、首を鋸で引き切りたいものだ」という声が上がります。清盛は当面、その声をなだめますが、清盛・重盛も内心 長田を憎んでいると内々に聞こえると、長田父子は急いで尾張に逃げ帰りました。

【義平の最期】

25日、石山寺に潜んでいて捕らえられた義朝の嫡子・悪源太義平が都の六波羅に引き出されました。義平は青墓で父・義朝の命を受け飛騨に下りましたが、そこで軍勢を集めるのもままならず、そのうえ義朝が討たれたと聞こえましたので、せめて清盛父子なりとも討って果てようと都に上っていたのです。ところが六波羅の様子を窺う義平の姿が露見して、去る18日にはいったんは平家の寄せ手に囲まれたのを、からくも脱出して石山寺に潜んでいたのでした。同日義平は難波三郎経房に仰せて六条河原にて誅されました。

朝長の首、頼朝の身柄、都に渡される】

2月9日、生け捕りにされた頼朝の身柄と朝長の首が同じく六波羅に渡されました。平頼盛の家人、弥平兵衛・宗清が本国尾張より上洛する途中、不破の関のあたりで物陰に隠れようとした者を捕らえて見れば、これがまさしき頼朝だったのです。さらに都へ向けて進むほどに宗清は青墓に到着しました。聞き及ぶところがあって裏庭に出てみると、新しく築いた塚があります。これを掘らせてみると若者の首と骸があわせて葬られてありました。問いつめられた大炊は力及ばず朝長の骸であることを告げ、宗清は喜んで朝長の首を都に運ばせました。

その後青墓では義朝と延寿の娘・夜叉御前が、父と三人の兄弟が誅されまた捕らえられたのを悲しんで2月11日に川に身を投げてしまいました。11歳の幼い命でした。延寿もこれを嘆き同じ流れに沈もうとするのを大炊が引き留め、彼女は尼となって夫と姫君の菩提を弔いました。

【頼朝・常盤の子たちの処遇】

頼朝は彼を捕らえた弥平兵衛・宗清のもとに預けられていましたが、今日明日にも誅せられるという噂が聞こえてきて、宗清は頼朝に向かって「御命助からんとは思召し候はずや」と問えば、頼朝は「僧法師にも成りて父祖の後世を弔はばやとと思へば命は惜しきぞ」と答えます。宗清も哀れに思って、主君頼盛の母で清盛には継母にあたる池禅尼に相談すると、池禅尼も亡き我が子・家盛に頼朝が似ていると聞いて同情し、平重盛を呼んで清盛に頼朝の助命を願い出ます。頼朝が禅尼の涙ながらの説得はついに清盛の心を動かし、頼朝は伊豆へ遠流と定められました。

常盤は乙若・今若・牛若の三人の幼子を連れて奈良の伯父のもとを頼ってひそかに下向します。ところが平家はなおも義朝の子どもたちを追求していました。常盤の行方が知れないと見るや、その母を召して散々に問い詰めます。奈良でこれを聞いた常盤は子どもたちを連れて急ぎ都に帰ります。まず常盤が雑仕女として仕えた八条院の御所へ参ると、人々は彼女に同情して厚くもてなし、以前のように着飾らせて清げな車に載せて六波羅へ遣わしました。

子どもを連れてけなげにも参上して、涙ながらに母を助けるよう願う常盤の有様、またその美貌にも心動かされた清盛によって子どもたちはいずれも死罪を免れました。乙若は醍醐寺に上って出家し、今若は八条院に仕える坊官法師となり、牛若は鞍馬寺の禅林坊阿闇梨・覚日に預けられて遮那王と申します。

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『朝長』について(その8=朝長の最期)

2006-04-13 15:39:19 | 能楽
朝長の最期】

青墓の宿に戻った朝長を見た義朝は「されば頼朝は稚くとも斯くはあらじ」と怒りましたが、朝長は「これに候はば定めて敵に生け捕られ候ひなん。御手に懸けさせ給ひて心安く思し召し候へ」と覚悟のうえの帰着だと申します。義朝も「汝は不覚の者と思ひたれど、誠に義朝が子なりけり。念仏申せ」とすでに太刀を抜きます。延寿と大炊は驚き、義朝の太刀にすがりついて涙ながらに止めると、義朝は「あまりに臆したれば勇むるなり」と太刀を納め、朝長も寝所へ入れば、女たちもそれぞれ帰りました。

その夜も更けた頃、義朝が「太夫は如何に」と言えば、朝長も「待ち申し候」とて掌を合わせて念仏し、義朝朝長の胸元を三刀刺して首を掻き、寝姿になして衣を掛けて置きました。義朝は都に残した娘を鎌田に命じて害させ、頼朝は行方知れずとなり、今また朝長を自らの手に懸けて失い、その心中は如何ばかりでしょう。

義朝はいつまでも青墓に留まるわけにもいかないので出立を定めます。大炊は年末なのでせめて年を明かしてから出発する事を勧めますが、義朝朝長をよく看てやってほしい、と言ってすでに出発しようとします。
そこに平家の命を受けた宿の役人2~300人が義朝の事を聞きつけて押し寄せました。これとひと戦してから一行は夜になって青墓を出発しました。

大炊は夜が明けても朝長が起きてこないので寝所を見てみると、果たして朝長の骸に小袖が引き掛けてありました。大炊はようやく義朝の意を悟り、泣く泣く骸をうしろの竹原の中に納めました。

義朝の最期】

青墓を出た義朝は、鎌田正清と金王丸の二人だけを連れて尾張の野間に向かい、長田忠致(おさだただむね)の元に向かいます。鎌田の妻は長田の娘で、長田は鎌田にとって舅に当たるのです。陸路は危険であるため鎌田の計らいで大炊の弟、鷲の栖の玄光法師というこの辺に隠れなき強盗を頼み、その小舟に乗って漕ぎ出しました。こうして玄光を含めて主従四人が12月29日に尾張・野間の長田邸に着きました。鎌田は長田に東国へ向かうための馬の用意を言いつけますが、長田はせめて正月三が日の祝いまで逗留する事を乞い、一行は力なくそこに留まります。

さて長田は息子の景致(かげむね)と相談し、義朝を暗殺して平家に対しての功名とする企てを定めます。かくして正月三日に忠致は義朝の御前へ参り、「都の御合戦道すがらの御辛労に、御湯召され候へ」と言い、義朝は湯殿へ入りました。金王丸が太刀を持ったまま義朝の体を洗いに参りましたが、やがて帷子(かたびら)を取りに金王丸が出てきた隙に三人の武者が湯殿へ飛び込み、あえなく義朝を刺し殺しました。

そこへ戻った金王丸は即座に三人を斬り捨てます。そのとき鎌田は忠致に向かって酒を飲んでいましたが、これを聞きつけてつっと立ち上がります。そこに酌をしていた男が刀を抜いて飛びかかります。これをかわして鎌田は反対にこの男を刺し殺しますが、後ろより景致が鎌田の首を打ち落としました。享年38歳、義朝と同年にて失せました。

金王丸と玄光法師はわき目もふらずに斬って廻りましたが、忠致・景致親子を討つ事はできず、厩から馬を引き出してこれに乗って野間を駆け出ました。玄光法師は鷲の栖へ帰り、金王丸は都へ上りました。

長田忠致の娘(鎌田の妻)はこの事件を聞いて長田邸を訪れ、夫の遺骸に取り付いてしばし泣いていましたが、夫の刀を抜いて自分の胸元に刺して自害しました。忠致は勲功と引き替えに最愛の娘を失う事となり、景致が義朝鎌田の首を取って死骸を一つの穴に埋めました。

【頼朝、青墓に到着】

12月28日の夜、父義朝にも兄義平・朝長にも追い遅れた頼朝は雪の中をさまよっていましたが、浅井で老尼に助けられ、その家で正月を明かしました。ようやく雪も消えたので出立しましたが、人目を忍んで谷川をたどるところにある鵜飼の者と行き会いました。これが情けのある者で、事情を聞くと頼朝を女の姿にやつして供のように装い、青墓に連れて行ってくれるのでした。

青墓の大炊はたいそう喜び、延寿や夜叉御前もさまざまに頼朝を労りましたが、やがて頼朝は東国に向けて下りました。

金王丸、常盤を訪れる】

明けて平治二年、正月五日に金王丸は都の常盤のもとにたどり着きました。長田の奸計によって義朝が討たれた事を聞いた常盤と三人の子どもたちは嘆き悲しみます。まもなく金王丸は出家して、生涯義朝の後世を弔いました。

金王丸について〉

『平治物語』に義朝の郎等として登場し、能『朝長』にもその名が見える金王丸は、坂東平氏の渋谷氏の出身と言われています。平家の血筋に繋がる者ながら幼い時より義朝に仕え、その最期まで付き従って、常盤に義朝の最期の様子を伝えた後に出家、諸国を巡って義朝の菩提を弔った、と伝えられます。

この渋谷氏の拠点は現在の東京・渋谷のあたりで、渋谷駅のそばに建つ金王八幡神社が渋谷氏の居館の跡とされています。また神社に隣接した坂道に金王坂という地名を残しています。金王丸は忠勤の士としての誉れが高く、江戸時代には金王丸を題材に、多くの文芸作品も生まれました。また金王八幡神社には江戸時代、春日局によって社殿と門が寄進されました。

なお『平家物語』には、金王丸が出家して土佐坊昌俊と名のり、平家滅亡ののち、頼朝に派遣されて義経を襲撃した、と書かれています(能『正尊』のおはなし)が、異論があって、どうも金王丸と土佐坊昌俊は別人と考えた方がよさそうです。

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『朝長』について(その7=青墓到着)

2006-04-12 01:23:20 | 能楽
かくて平治元年(1159)12月下旬、能『朝長』に通じる義朝一行の敗走が始まり、朝長も死期が迫っています。朝長は能では自害した事になっていますが、『平治物語』によれば、膝の傷のために足手まといになることを恐れ、自ら望んで父・義朝の手に掛かる事になっています。

ところで考えてみたら『朝長』は「落武者」の物語の能で、これは武勇を誉れとする武家社会の中では珍しい演目なのかしらん、と思ったのですが、それでもよく考えてみると『七騎落』とか『大仏供養』とか、多くの「落武者」の能があるのだった。ちょっと意味は違うかもしれないけれど『景清』も似た立場だし、「負け戦」まで範疇を拡げると、こりゃ修羅能のほとんどがその範囲に収まっちゃう。やはり日本人は悲劇が好きな民族なのかなあ。

さて義朝は都を落ち、清盛には信頼義朝追討の宣旨が下されます。敗走途中の義朝は、金王丸を常盤のもとに遣わして、いつか迎えに向かうまで母子ともども身を隠して待つよう言づてを託し、また一方鎌田を召して、彼に預けた娘を殺すよう命じ、鎌田は六条堀川の源氏邸に帰ると泣く泣く義朝の娘を刺し殺す、という悲劇も起こっています。常盤は九条院の雑仕女で、義朝との間に今若(7歳)乙若(5歳)、および今年生まれた牛若の三人の子がありました。

一行は途中比叡山の僧兵の落人狩りに遭う(この時は斎藤別当実盛が奮戦して撃退しています)などの難儀を経ながら敗走しますが、八瀬の松原を通り過ぎようとする時、偶然にも平家が押し寄せた時にすぐに逃げ去っていた信頼と出会いました。信頼は「若し軍に負けて東国へ落ちん時は、信頼をも連れて下らんと聞こえしが、心替りかや」と申すと、義朝はあまりの憎さに腹を据えかねて「日本一の不覚人、斯かる大事を思ひ立ちて、ひと軍だにせずして、我が身も滅び人をも失ふにこそ、面つれなう物をば宣ふものかな」と言うと、持っていた鞭で信頼の左の頬をしたたかに打ちました。

信頼は返事もできずに怯えた様子で頬を撫でながら都へ引き返しましたが、信頼に付き従ってきた侍たちも信頼に愛想を尽かして散り散りになりました。その後信頼は落人狩りの山法師に出会って命乞いをし、肌着一枚にてようように仁和寺へたどり着きました。仁和寺にはすでに源師仲、越後中将・藤原成親なども落ちのびていましたが、やがて平頼盛、教盛らの軍勢が駆けつけて彼らを召し捕らえ、信頼は六条河原にて斬首されました。

さて、またしても延暦寺の横川の法師が源氏敗走の噂を聞きつけて落人狩りを企て、義朝一行を大原の竜華越(りゅうげごえ)というところで待ち受けます。ここで源氏30数騎は山法師と戦い、ついにこれを撃退、手傷を負った法師どもは谷々に逃げ帰りますが、この戦いで義朝の叔父・陸奥六郎義隆は戦死、源朝長は左膝を矢でしたたかに射られてしまいます。

琵琶湖畔に着いた義朝は義隆の首を琵琶湖に沈め、大勢での敗走の危険を思って付き従う武士に暇を出し、斎藤実盛・熊谷直実・岡部六弥太ら20騎は力無く、東国での再会を約して思い思いに落ちて行きました。このとき義朝と一緒に落ちたのは嫡子・悪源太義平、次男朝長、三男頼朝、鎌田正清、金王丸などわずかに8騎でした。

【頼朝、一行からはぐれる】

頼朝は当年13歳、終始武具を身につけて戦った疲れから馬に乗ったまま眠りこみ、草津のあたりから義朝一行に遅れはじめました。篠原の堤にて義朝はそれに気づき、鎌田がすぐに取って返しましたが頼朝の姿は見あたりません。一方頼朝も遅れに気づき、驚いてあたりを見回しますが人の姿はありません。ただ一騎夜更けに守山宿にたどり着きましたが、宿場の者は頼朝の姿を見て落人と見てこれを捕らえようとします。頼朝は馬上より二人を斬り捨てて宿を駆け抜けて、野洲の河原で鎌田と巡り会い、無事に義朝一行に追いつくことができました。

鏡山を過ぎると不破の関を敵が固めていると聞こえ、一行は山道に掛かりました。次第に雪が深くなりもはや馬は通れず、鎧も脱ぎ捨てて一同は徒歩で山越えをします。しかし頼朝は徒歩ではさすがに一行から遅れがちになり、またしてもはぐれてしまいました。

義朝、青墓に到着】

義朝一行はそうこうするうちに美濃国・青墓の宿に到着しました。この宿の長者は大炊(おおい)といい、その娘・延寿(えんじゅ)は義朝と契り、夜叉御前という今年10歳になる娘もおりました。義朝は歓待され、ようやく一行はひと心地つくことができました。

ここで義朝は我が子と一時別れる事を決断します。すなわち義平には飛騨を攻めて都に上る事を命じ、朝長には信濃に下り甲斐・信濃の源氏を集めて上洛するよう言い、自分は海道を攻める、という三方に別れる作戦を図ったのです。義平は飛騨を目指して落ちて行き、朝長も信濃を目指しましたが、伊吹の裾野の雪を分け進むうちに竜華越えで負った矢傷がひどくなり、信濃へ赴くことを諦めて青墓に戻りました。

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今日のお題「筑波山頂から見た関東平野」
 筑波山は富士山のような単独峰なので見晴らしはすこぶる雄大。
 やっぱり日本って広い。。

 磯部神社参詣の記事と申すは 桜川磯部神社

『朝長』について(その6=源氏敗走)

2006-04-10 02:26:43 | 能楽
一応クーデターの形はとった保元の乱と比べても、いかにも大義のない権力争いから起こされた平治の乱ですが、ともあれ上皇と天皇が清盛に確保された現在、平家は官軍、義朝をはじめ源氏一統は賊軍となってしまいました。

なんでこんなになっちゃったの? 義朝は保元の乱で思わずも父・為義や為朝はじめ弟たちと対峙する事になり、戦後、彼らはもちろん、幼子の弟たち四人もことごとく斬首する憂き目を見ました。史実かどうかはともかく『保元物語』では清盛が同じく叔父・忠正と四人の子を討ちながら、実はそうする事によって義朝にも同じく謀反人たる実父・為義を斬らせるように仕向けた策謀として描かれています(清盛と忠正は不仲だった、とも書かれている)。義朝は戦後の恩賞でも清盛に差をつけられて後白河上皇を恨み、清盛の策謀に気づいてこれをも恨むようになったとか。それでは平治の乱での義朝の立場はまさしく逆上で、こんなたわいもない理由から都を再び戦場とするなんて。。庶民の生活なんて本当に彼らの眼には映っていないのねー。。

さて義朝とその三人の子は、六波羅の平家が押し寄せてくるのを御所にて待ち受けます。当時 嫡男・悪源太義平は十九歳、次男・中宮太夫進朝長は十六歳、そして後に征夷大将軍となって鎌倉幕府を開く事になる三男・右兵衛佐頼朝はわずか十三歳という若さでした(頼朝はこの時、父義朝に向かって「平家や早向ひ候らん。人に先をせられんより、先づ六波羅へ寄せ候はん」と進言しています)。

一方仮の御所となった六波羅の清盛邸では詮議が行われ、清盛は帝を守護するために六波羅に留まり、嫡男・重盛、三河守頼盛、淡路守教盛ら3千余騎が内裏へ向かいました。

内裏で平家の鬨の声を聞いた信頼はにわかに膝が震えだして階段も下りられません。人並みに馬に乗ろうとしますがそれも叶わず、見かねた侍が馬の上に押し上げたところ、今度は勢い余って馬の反対側に落ち、顔には砂がつき鼻血を出して見苦しい有様。義朝もそれを見てようやく信頼の本性を悟り「あの信頼と云ふ不覚人は臆したりな」と言って別の守備陣に移ります。

その信頼が固める内裏の門を重盛の軍勢5百騎が攻めると信頼はたちまち退却して、重盛はやすやすと門の中に討ち入りました。義朝に命じられて悪源太義平は信頼が破られた門の敵を追い返すために馳せ向かい、これに鎌田正清、長井の別当実盛、岡部六弥太、熊谷次郎直実ら十七騎も続きます。かくて内裏紫宸殿の前庭にて源平の御曹司二人の一騎打ちが繰り広げられます(『平治物語』ではここが一番の見どころとされているんだとか)。

義平以下十八騎は重盛の首を狙い左近の桜、右近の橘の間を7、8度まで追い回し、その勢いに平家の5百騎は引き退きました。重盛は新手の5百騎を率いて戦い、義平は再び十八騎でそれに対抗しました。するとついに平家は門外に引き退き、義平はそれを追って門外に出ます。

義平は堀川で重盛を追いつめ、鎌田が弓を射て重盛は落馬しますが重盛は組み付こうとする鎌田を弓で打ち据え、その郎等も命をかけて重盛をかばい、重盛は六波羅まで落ちのびました。

三河守頼盛は別の門にて義朝以下の軍勢と遭遇。朝長や頼朝と合戦に及びますが、義朝も「何と云へども若者共の軍するは疎に見ゆるぞ。義朝駆けて見せん」と先頭に立って戦い、一進一退の攻防の中、重盛を討ち損じた義平も加勢します。

ところが平家方では策略をめぐらし、主立った軍勢はみな六波羅まで引き退き、源氏がそれを追うのを幸いと、内裏を奪うことに成功します。ここに信頼は卑怯にも六波羅は目指さずに一目散に落ち行きました。義朝側でも頼政が心変わりして平家方に付き、源氏の敗北は明らかになってきました。

それでも義平は精兵を率いて六波羅になだれ込み、清盛と相対します。これを阻もうとする平家の軍勢との戦いが続きますが、義平はついに破れて逃げ落ち、これを見た義朝も敗走します。

かくて落ち武者となった義朝一行は東国へ向かい、青墓での朝長の最期につながって行きます。

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今日のお題「筑波山全景」
  ちゃあんと上りましたよ~ケーブルカーで。。

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黄砂。。そういうものだったのか

2006-04-09 23:33:40 | 雑談
昨日は茨城県、今日は静岡県で催しがあって、なかなか忙しい週末でした。

また、今日はホール能で後見をさせて頂いたので、人手不足もあっておシテとおワキの装束の両方の着付けをしちゃったい。まあまあうまく着付けられてホッとしました。

さて、ぬえが茨城県での催しのお手伝いに行っていた昨日、ぬえの師匠は別行動でして、兵庫県でお能を舞っておられました。そのときの模様を今日伺ったのですが。。

昨日は関東では不可思議な天気に振り回されて、ぬえがお手伝いに伺った催しも、薪能のはずが結局 雨天会場のホールに会場を移しての上演となりました。

兵庫県の方はどうだったか、というと、雨は降る心配はない空模様でしたが、かなりの強風で、そして。。黄砂がひどかったのだそうです。

黄砂。。話には聞いたことがあるけれど、正直に言って東京に住んでいる ぬえには「これが黄砂か!」という体験がありません。

ところが昨日の 兵庫県の催しの会場(野外舞台)では、近くの山は中腹までしか見えないほど霞んでしまって、ひどい時は目も開けていられないほどだったのだそう。もうおシテの装束も砂まみれ。「目も開けていられない」。。おシテは大丈夫だったのかしらん、と思って聞いてみたら、さすがに面の目の穴から砂が入り込んで上演できない、という事はなかったけれど、のどが痛くて仕方がなかったのだとか。。ひょぇぇ~

黄砂の原因となる砂漠の砂が飛んでくる中国からみると東京を含む関東は日本の反対側に当たるし、高い山脈があって黄砂が降り注ぐのを防いでいるんだろうか。。そういえば冬に上越新幹線や関越自動車道を通って群馬県から新潟県に入ると、本当に「国境の長いトンネルを越えると雪国だった」という表現が誇張ではなかったと実感するほど気候や景色がガラッと変わります。

すると。。日本海側とか中国地方、北九州などの地域では毎年、ホントにこのような黄砂を体験しているの。。?

なんだか、今日聞いたばかりの話で ぬえの実体験ではないので、いまだに ぬえには信じられないんですが。。

今日のお題「桜川はちいさな小川だった」
      それでもかつては川に沿って桜並木はあったのが、今は切り倒されて
      しまったのだとか。。

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『朝長』について(その5=平治の乱勃発。。朝長登場!)

2006-04-08 00:01:49 | 能楽
ようやく源朝長が登場する『平治物語』に話題が移ります。やっとです。。すみません。。

さて保元の乱に勝利した後白河天皇は天皇の権威を高める新制を次々に発布したが、それらは側近の少納言入道・藤原信西が立案、推進したものでした。また後白河は保元三年(1158)、実子の二条天皇に譲位して、みずからは上皇として院政を開始します。ところが院の目論見とは違って二条帝は若いながら聡明で臣下の評価が高く、上皇派と天皇派の内部分裂の様相となってきます。

また一方、後白河院は中納言右衛門督・藤原信頼という者を非常に寵愛し、信西信頼は互いにライバルとして反目しあうようになります。改元があった平治元年(1159)あるとき信頼は上皇に右近衛大将の官職を望みます。ところが上皇の相談を受けた信西はこれを一蹴。これを伝え聞いた信頼信西を憎み、宮廷に出仕せずに武芸の稽古に励み、また源義朝を語らって味方に付け、さらに二条天皇派の新大納言・藤原経宗、越後中納言・藤原成親、別当・藤原惟方を味方につけました。保元の乱の二の舞で、再び上皇と天皇、藤原家内部の抗争が起こった、という。。

信西の様子を窺っていた信頼は、自分になびかず天皇に付き従った平清盛が嫡子・重盛を連れて熊野に参詣するという情報を得ます。信頼義朝の勧めによって源頼政をはじめ源氏の一族を味方につけ、清盛が出立した直後の12月9日、ついに義朝をはじめ500余騎にて三条殿に押し寄せて二条天皇を、ついで後白河上皇を確保、三条殿は火を掛けられて上皇は宮中・一本御書所(書庫)に幽閉されました。ついで信西の宿所・姉小路西洞院にも火が掛けられ、信西の5人の子は官職を解かれ、代わって源氏一族が官位を独占する除目が勝手に行われました。信頼は二条天皇・後白河上皇を押し込め、みずからは天皇の冠を着し帝の御座所に住むという狼藉ぶり。

天変を見て不測の事態を予感し、奈良へ向かっていた信西は都で起こった事件を聞いて自害を図りますが信頼の追っ手によって首を取られ、都で獄門にさらされました。また信西の子どもたち12人は公卿詮議のうえ罪一等を減じて遠流と定められました。

さて熊野参詣の途上の清盛のもとにも都での異変の報がもたらされました。清盛は急ぎ都にとって返し、また清盛に従う兵もそれに合流して一同は12月17日に六波羅の平家の邸に到着しました。

内裏の信頼義朝らは平家が今日にも押し寄せて来るのではないか、と戦々恐々でしたが、一向にその気配がありません。じつは清盛信頼側の大納言・藤原経宗、検非違使別当・藤原惟方を籠絡して味方につけていたのです。26日の深夜、経宗・と惟方は二条天皇と後白河上皇を御所より脱出させました。帝は御歳17歳にて見目美しく、女房の御衣を召して脱出すると六波羅へ迎えられ、院は殿上人になりすまして仁和寺に入りました。

清盛は早速「帝は六波羅を御所と定められた。朝敵になりたくなければ急ぎ六波羅へはせ参ぜよ」と触れを流しますと、公卿や殿上人、それに武士の多くも六波羅に移りました。

27日の暁にようやく天皇・上皇のお姿が御所に見えない事に気づいた信頼はあわてふためいて悔しがり、義朝は御所に残る源氏の軍勢の点呼を行いました。このとき義朝についていたのは義朝の嫡男の悪源太・義平、次男中宮太夫進・朝長(やっと出てきた。。)、三男兵衛佐・頼朝、義朝の叔父・義隆、弟の義盛など、郎等には鎌田鎌田兵衛正清、佐々木源三、熱田大宮司の郎等、武蔵の斉藤別当実盛、岡部六弥太忠澄、熊谷次郎直実など総勢2千余騎でした。

このときの源氏の出で立ちが、軍記物語らしく『平治物語』にはいかめしく、凛々しく描かれています。

武士の大将左馬頭義朝は、赤地の錦の直垂に、黒糸威の鎧に、鍬形打つたる五枚冑の緒を締め、怒物作の太刀を帯き、黒羽の矢負ひ、節巻の弓持ちて、黒桃花毛なる馬に黒鞍置かせて、日華門にぞ引立てける。年三十七、眼ざし頬魂、自余の人には替りたり。

嫡子悪源太義平は生年十九歳、練色の魚綾の直垂に、八龍とて胸板に龍を八つ打て付けたる鎧を着て、高角の冑の緒を締め、石切と云ふ太刀を帯き、石打の矢負ひ、重籐の弓持ちて、鹿毛なる馬の逸切つたるに鏡鞍置かせて、父の馬と同じ頭に引立てたり。

次男中宮太夫進朝長は十六歳、朽葉の直垂に、澤潟とて澤潟威にしたる重代の鎧に、白星の冑を着、薄緑と云ふ太刀を帯き、白篦に白鳥の羽にて作ぎたる矢負ひ、二所籐の弓持ちて、葦毛なる馬に白覆輪の鞍置いて、兄の馬に引添てこそ立たりけれ。

三男右兵衛佐頼朝は十三(←若い!)、紺の直垂に、源太が産衣と云ふ鎧を着、白星の冑の緒を締め、鬚切と云ふ太刀を帯き、十二差いたる染羽の矢負ひ、重籐の弓持ちて、栗毛なる馬に柏梟摺りたる鞍置きて、是も一所に引立てたり。

→次の記事 『朝長』について(その6=源氏敗走)
→前の記事 『朝長』について(その4=保元の乱の終結)

今日のお題「桜川磯部神社の境内にあったタラヨウの木の葉」
   木の枝などで文字を書くと数分でクッキリと浮かび出てきます。
   「葉書」ってのはこのことじゃね。
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『朝長』について(その4=保元の乱の終結)

2006-04-05 01:25:08 | 能楽
保元の乱はわずか4時間で大勢が決し、またその4時間後には源義朝・平清盛が打ち揃って後白河天皇に戦勝を奏聞しました。この戦乱は小規模ではあっても、それまでの平安時代の平穏な貴族政治が危機管理に甘いことを露呈して、軍事部門(武士)が政治に発言力を持った初め、でもあり、また京都が戦乱の舞台となった事で貴族から庶民まで武士の力を認識する事となった大きな時代の変換点でもあります。この事件から平治の乱を経て源平合戦、ついには鎌倉幕府の創設まで続いていくのですねー。。

さてこの乱の勝敗が決した後は、敗者の目を覆うばかりの悲惨な末路と、勝者の間に起こる政治的な熾烈な駆け引きが展開されるのです。なんか、千年前の話とはとても思えないんですけど。。(;_:)

まず、負け戦となった崇徳上皇側の末路は悲惨を極めました。

敗走の途中に首を射られる重傷を負った藤原頼長は、何とか車を調達してようやく嵯峨に向かい、さらに柴を積んだ小舟に隠れて奈良に住む父を頼りますが拒絶され、悔しさからか舌を噛み切って、ついに最期を迎えます。後日その首を検分するために送られた勅使によって墓はあばかれ、死骸はそのまま捨て置かれる、という憂き目に。。

崇徳上皇は東山の如意ヶ岳に落ちのびましたが、馬は上れぬ難所で、慣れぬ徒歩の登山をする事に。ついには足から血を流して一歩も歩むこと叶わず、付き従ってきた武士を解散させ、自分は「もし兵どもが参っても手を合わせて許しを乞えば命ばかりは助かるだろう」と、とても上皇とは思えない諦めの境地に至ってしまいました。出家の望みはあっても近くに寺さえもなく、解散に従わず残った武士に昼は柴をかぶせてもらって人目を逃れ、夜は慣れぬ彼らに輿をかついでもらって密かに都に入り知己を訪ねますが、それも果たせず、怪しい僧坊で出家して門跡寺院の仁和寺に無理に投宿。しかし仁和寺からの通報でついに「保護」され、讃岐に流されてそこで憤死しました。

崇徳上皇に付き従った武士たちは散り散りになりましたが、藤原信西は彼らの流刑先を流言させ、さては死罪は免れるかと安心して出家したうえ自首した彼らをことごとく召し捕りました。彼らの処遇について宮廷でも「すでに死刑は廃絶されて久しく、しかも今は鳥羽院の喪中である。罪一等を減じるべき」という意見もありましたが信西はこの意見を排して347年ぶりに死刑を復活させ、ことごとくこれを斬首。

義朝の父・為義と清盛の伯父・忠正は崇徳上皇から暇を仰せつけられて三井寺へ落ち(この二人が連れ立ってとは。。まさに「昔は源平左右にして、朝家を守護し奉り」の、最後の残照かしらん。。)ましたが、それぞれ出家して我が子の義朝と甥の清盛の情けを頼んで降伏しました。

しかし後白河天皇はこれを許さず、清盛に命じて忠正とその子四人を斬首させ、続いて義朝にも命が下り、鎌田正清に命じてついに父・為義を斬首しました。義朝には重ねて弟らの追補の宣旨が下り、これもことごとく斬首されました。為朝だけは身を隠していたのがついに捕らえられましたが、武勇を惜しまれて助命され、自慢の弓を使えぬよう腕の筋を抜かれたうえ伊豆大島に流刑になりました。が。のちに腕の傷が癒えると伊豆諸島を従えて(鬼ヶ島討伐の逸話はこの時のもの)国司に反抗、ついに伊豆介に追討され八丈島で自害しました。

一方勝者の後白河天皇側では、戦乱が収まったその日のうちに崇徳上皇の御所・頼長の邸をはじめ謀反人の宿所20カ所を焼き討ちし、忠通は藤原家の長者に復し、武士には顕彰が行われました。安芸守・清盛は播磨守に任じ、義朝は左馬権頭に任じられたのですが、しかし義朝はこの恩賞に大いに不満を持ち、この遺恨が再び起こる戦乱の要因のひとつとなります。


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今日のお題 「桜川磯部神社の糸桜」
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桜川磯部神社

2006-04-04 14:16:29 | 雑談
昨日、茨城県の桜川磯部稲村神社へ参拝し、お祓いを受けてきました。
この神社は言うまでもなく能『桜川』の舞台となった場所で、ぬえはちょっとこの神社に縁があるので花の季節に参拝を思い立ちました。

昨年の町村合併で新市になった、その名も「桜川市」。土浦から筑波山をぐるっと反対側にまで回りこんで、車でざっと一時間。東京よりも花見の時期は少し遅れて、まだソメイヨシノも三分咲きで、山桜はつぼみ状態でしたが、糸桜(しだれ桜)が満開で、境内には立派な糸桜の大木が。

東京では公園などに人工的に植えられた桜が多くて、ほとんどがソメイヨシノなので、桜は一斉に咲いてぱっと散る、という印象が強いですが、本来桜はいろいろな品種が次々に咲いていくもので、たとえば糸桜の見頃には山桜は見ることができないのです。じゃ、いろいろな品種が植えられている地域ではいつまでもお花見が楽しめるか、というとそうでもなくて、宮司さんに聞いたところでは、それでもすべての花が見られるのはせいぜい十日間なのだそうです。

さて神社に話を戻して、能『桜川』では子方が修行しているのは「磯部寺」。神社ではありません。ところが神社の境内には寺の跡地は残っていて、かつて神仏混淆の時代には神社と寺が共存していたのです。明治の廃仏毀釈の中で、すでに衰退していたらしい寺の方は取り壊され、神社だけが残って今日に至るのだそうです。ちなみに神社のすぐそばを桜川(本当に小さな小川です)が流れていますが、こちらにも現在は川沿いに桜並木はなく、代わりに神社に隣接して、種々の桜が植えられた広大な「桜川公園」があります。

またこの神社は鹿島神宮と縁が深く、境内には小さな要石があります。鹿島神宮にも要石があって、それは関東の地震の震源となる「大ナマズ」の頭を押さえていると言われているのですが、磯部神社の宮司さんに聞いたところでは、言い伝えではこの神社の要石はその「大ナマズ」の尻尾を押さえているんだとか。ぬえは2年前にこの神社でお祓いを受けている最中に新潟地震を体験して、それはそれは驚きましたが、ははあ、要石でも押さえられなかった「大ナマズ」の大暴れで、ぬえは尻尾の真上にいたんか。。

鹿島神宮との縁、について、能『桜川』の子方がどうしてここに来たのか、というお話を宮司さんはしてくださいました。能ではワキ僧は子方について「いずくとも知らず愚僧を頼む由仰せ候ほどに。師弟の契約をなし申して候」とあっさりと説明していますが、実際には『隅田川』のように人商人に誘拐されたのだろう、との事。そういう人商人は奥州に帰る途中に鹿島神宮に参拝するのだそうです。やはり悪事を重ねているから神仏の罰を恐れるのでしょう。そこで運良く鹿島の神職などに助けられた子どもが、縁のある摂社などに預けられて神職や僧侶として育てられる事もあったのだろう、とのお説でした。

宮司さんは ぬえのために念入りにお祓いをしてくださり、お札やお守り、能『桜川』の舞台が描かれた絵馬、それに神酒まで頂戴してしまって。。ありがたい限りです。この神社には、やはり全国から謡曲の愛好家が参拝されたり、奉納の謡会なども催されるそうで、さすがにこの花の時期には今年も多くの奉納の催しがあるのだそうです。能は能楽堂で能楽師によって演じられるものばかりでなく、こういった愛好家の方々がとっても積極的に活動してくださっているから支えられているんですよね。

参拝を終えた帰途、近くの雨引観音に行き(浮気になっちゃうから参拝はせずに拝見だけ。。(^^;) 境内にクジャクがいました!)、それから筑波山神社にも寄って(こちらは磯部神社とご祭神が同じなので参拝しました)、さらにケーブルカーで山頂まで上って、雄大な景観を楽しんで帰りました。やー、なんだかんだ言ってもやっぱり日本って広いなあ。

本日のお題はこちら↓
 磯部神社拝殿。社殿は小さいけれど趣あり(ただし社域は広大)。本殿は大正頃
 のものかな。精緻な細工が施されていて見応えがあります。このほかの画像は
 次からの記事にも順次掲載しますのでお楽しみにーm(__)m

桜川磯部稲村神社のHPはこちら→ 桜川磯部稲村神社
 『桜川』グッズの絵馬も掲載されています。いや、さすがにネット通販などはあり
 ませんが。。近隣で見られる桜の一覧のページもあります。
 優しくて親切な宮司さんなので、一度ご参拝されてみてはいかがでしょうか。

『朝長』について(その3=保元の乱の推移)

2006-04-03 22:42:21 | 能楽
えー、だいぶ話題がずれてしまったので保元の乱に話を戻して。。(^^;)
崇徳上皇の謀反が発覚して後白河天皇との対立が深まり、双方が武士を集めました。。の続き。

保元元年(1156)7月5日、後白河天皇は少納言・藤原信西をもって都と御所、関の警備を厳重にする旨武士・検非違使に命じ、その夜には謀反の輩はみな流罪に処す、との宣下が出されました。そんな中で義朝らによって藤原家の本邸である東三条殿(ひがしさんじょうでん=上皇側の藤原頼長の邸)の捜索が行われ、彼が加担して崇徳上皇が謀反を起こす計画がある事は疑いなくなり、邸は没収されました。

東三条、と言えば能『鵺』でも怪物は「東三条の森の方より」わき出た黒雲に乗って現れますが、案外近衛天皇の命ばかりか藤原家の滅亡も狙ったのかしらん。

8日、天皇側の関白・藤原忠道らは御所に参集し頼長清盛の伯父・忠正と源頼憲を戦の大将軍にしようとしている旨も聞こえ、崇徳院を推して謀反を起こした首謀者 左大臣・藤原頼長を流罪にする旨を定めました。だからー、頼長は忠道の弟だって言うのに。。
この日天下の争乱を予告するように ほうき星が都の東空に現れ、首都鎮守の将軍塚の鳴動が起こりました。

10日、崇徳院は鳥羽の御所を出て左京の白河殿北院に移りました。兵の勢力としては天皇側に劣っていた崇徳院は源為義(義朝の父)を語らい、為義は為朝をはじめその子6名とともに白河殿に参内しました。崇徳院の喜びはなのめならず、為義に所領と重代の太刀を下されました。やがて頼長も白河殿に入り、崇徳院側の兵の総勢は1千余騎となり、白河殿の四方の門の守備にあたりました。

一方 後白河天皇も内裏は手狭であるとして、三種の神器とともに すでに没収してあった元・頼長の邸・東三条殿に移り、義朝を召して少納言・藤原信西を通じて戦略を問うと、義朝は夜討ちを奏上してすぐに認可され、その夜のうちに東国からの軍勢も集結して大軍勢となります。

ちなみに藤原信西はのちの平治の乱で義朝に討たれる運命にあり、その娘(実在したかは不明)はのちに「阿波内侍」と呼ばれ、壇之浦で建礼門院(清盛の娘=徳子)とともに入水して、やはりともに生きながらえ、大原の庵へ隠棲するときにもこれに付き従って彼女の生涯を看取った人。ついでながら阿波内侍とともに大原で建礼門院に仕えた大納言佐(大納言局)は平重衡の北の方です。

このとき東国から上った軍勢には鎌田次郎正清(能『朝長』にもその名が見える義朝の最期まで付き従った郎等)、長井の斉藤別当実盛、岡部六弥太(のちに忠度を討つことになる武将)などのほか義朝の舅の熱田神宮の宮司が差し向けた家子郎等300余騎、また内裏の警護に当たっていた清盛の軍勢には弟の頼盛、教盛、経盛(経正、敦盛の父)、嫡子重盛、次男基盛らと郎等600余騎、さらに源頼政の軍勢200余騎ら総勢1700余騎であったとのこと。

崇徳上皇側でも頼長が為朝に戦略を問い、義朝と同じように夜襲作戦をもって後白河天皇を奪取するよう奏上しますが頼長は体面に執着して夜討ちの案を退け、為朝は苦々しい思いをしています。

かくて義朝は上皇方の本拠に向けて保元元年7月11日未明に出陣しました。鳥羽法皇の崩御からわずか9日後のことです。面白いのはこの時 清盛義朝に遅れて出陣したのですが、東に向かって行軍するのは11日が「東塞がり」の忌みの日に当たる事と、このままでは朝日に向かって弓を引く事になる、と言っていったん鴨川を渡って北に進路を取ったりしています。

白河殿に天皇側の軍勢が迫り、それに気づいた為朝は奇襲の先手を取られた事を悔しがりました。崇徳院は彼をなだめようと突然の除目が行われましたが、為朝はきっぱりとこれを辞退。『保元物語』では以下、為朝の活躍が描かれていて、その強弓のために清盛は為朝が守備する門への攻撃をあきらめ、代わって義朝の軍勢から鎌田正清が挑みますがこれも敗退。ついに義朝が我が弟 為朝と向かい合う戦況に。ところがさすが為朝も兄に矢を射掛ける事を慎み、戦は一進一退の乱戦状態となります。

ここで義朝は勅許を得て白河殿の西隣の藤原家成邸に火を掛け、白河殿が炎に包まれると、崇徳上皇と頼長は馬に乗り、少数の武士とともに密かに御所を脱出しました。これにて戦の大勢は決し、白河殿から逃亡する頼長は流れ矢に当たって重傷を負います。

7月11日に起こった「保元の乱」の開戦は寅ノ刻(午前4時)、辰ノ刻(午前8時)には白河殿が破られたので、「乱」という言葉に私たちが持つ印象よりはずっと短期間(というか短時間)で終結した合戦でした。やっぱ、これはクーデター未遂事件、というものでしょうね。

→次の記事 『朝長』について(その4=保元の乱の終結)
→前の記事 『朝長』について(その2=さっそく脱線)

Rev: 『朝長』懺法(観世左近十七回忌追善能)

2006-04-02 02:31:39 | 能楽
今日は観世会の先代ご宗家のお追善能で、関根祥六師による秘曲『朝長』懺法を拝見してきました。

後シテはなんと観世宗家秘蔵の足利義政公拝領の「懺法」専用の「竹屋町単法被」。しかしそれが紺地(に見えるが濃萌黄とのこと)であるのに今回はやや薄い印象の萌黄地。「懺法法被」の「写し」でしょうか。いずれにしても贅沢なもので、祥六師の意気込みも伝わって、すばらしい舞台でした。

今回の「懺法」では、太鼓の金春国和師が大役の任を果たされましたが、特筆すべきは「後のお調べ」でした。「懺法」はどのお役にとっても大変な小書ですが、わけても太鼓方にとっては最高の秘事で、楽屋でも舞台でもたいへん厳しい決まり事があります。

(以下は本来秘事で、公開されない原則なのですが、過去に演者自身によって雑誌・書籍などですでに開陳されたものに限って、その要約を記します。このような秘伝の類は、楽屋などで聞き知った事を勝手に公開する事は許されないので、ぬえはいつも上記のスタンスで書き込んでいることをご承知おきください)

・「懺法」の時は当日鏡の間に屏風立て太鼓の間を作り用意の全てを秘す。また
 「後のお調べ」がある故、舞台に出る前には調べをせず。
・太鼓方舞台に出る時は実際には打たない替えの太鼓を持って出、これを「見せ
 皮」と呼称す。
・ワキ真の名宣となる。前シテ木の葉持たず数珠のみとなる。
・ワキ宝生は真の名宣となるも、心は行の名宣にて致すべし、と言う。
・「懺法」のときは「三世十方ノ出」と言って、地謡の中に囃子の特殊な手組が
 入る。
・中入に太鼓後見、懴法太鼓を袱紗に包み持ち出、「見せ皮」と替える。アイ語
 のあとワキ「大崩之語」となる。但し下宝生にては「語」と称し、番組に明記
 せず。この語りの時、囃子方は正面に向く(ほかに例なし)。
・待謡は、ワキ正先(やや脇座寄り)へ出、経巻開き観音懴法読み、そのまま
 待謡となる(終わりは独吟となる)。ワキツレ二人はワキの左右少し下がって
 合掌し居る。
・待謡はツヨ吟をヨワ吟に替えるという。下宝生は常にヨワ吟。
・後シテの謡「あら尊の弔ひやな」を「あら尊の懴法やな」と替え、ワキは下に
 居て合掌する。
 ※今回は「あら尊の懺法やな」とワキは経巻を開き、シテは下居て合掌し、
  それを拝する型。

・懴法、金春太鼓はシテ柱を受けて打つ。<手組などの詳細は割愛>シテは半幕
 にて姿を見せ、ワキ・ワキツレ座に戻る。間は切戸より引く。大小鼓も加わり
 半幕を下ろす。太鼓刻・笛吹き出してシテ出、三之松にて正面ウケ見込み、
 刻止まる。再び太鼓・大小打ち出し、刻となりて歩み、一之松にて止まる。
 再び打ち出し太鼓後見 太鼓をずらしながら正面に向ける。囃子速まりて舞台
 へ入り謡い出す。以下替わらず。
・クリサシに太鼓後見 太鼓を締める。留め拍子済みて囃子方引くとき、太鼓
 のみ三之松にて止まり正面ウケて座し「後のお調べ」(六つ打つ)をする。
 あと太鼓方本幕にて引く。
・懴法太鼓は太鼓の間にて袱紗に包み封印して副後見 番をする。中入に本後見
 持ち出で本役に渡し、本役舞台上で封印を切る。昔は打ち終わって再び「見せ
 皮」と替え、懴法太鼓は太鼓の間にて本後見が締め上げ、本役は見せ皮を
 持って幕に入り、太鼓を持ち替え三之松に再び出て調べたとのこと。

今回も舞台上の進行はほぼ上記の通りでした。
また上記は今回上演された金春流の太鼓の場合で、観世流の太鼓はまた少し違う点もありますが今回は触れません。

とにかく大変な小書で、今回は太鼓の本役・金春国和師をサポートする本後見を金春惣右衛門師、副後見を若手の梶谷英樹くんが勤められました。

梶谷くんは副後見として、後シテの上歌「あれはとも」以下のところで、「後のお調べ」のために懺法を打った太鼓をさらに舞台上で締め上げていましたが、これは大変な心労のお役だったでしょう。なんせ舞台上ではシテをはじめみなさんが上演中。その邪魔にならないように締め上げなければならないし、ましてや締め上がりの具合を確かめる術もない。上演中ですから試し打ちをしてみる、なんてことは不可能なわけで、すべて師匠の後見として楽屋で太鼓を締めている、その長い経験からくる勘だけで締め上げることになるのです。

結果、上演が終わり三之松で振り返って正面に向いて座した国和師が「後のお調べ」を打たれると。。「テン!」と、張りのある調子が! ぬえがこれまで拝見した「懺法」の中でももっとも張りのある調子に締め上がっていたのではなかろうか。陰の大任を立派に果たした梶谷くんにも拍手を送りたいと思います。