ぬえの能楽通信blog

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三位一体の舞…『杜若』(その5)

2024-05-20 00:28:14 | 能楽
「玉雲集」によればかつての恋人がじつは人間ではなく杜若の精だった、ということになるわけですが、ぬえは杜若が恋の仲立ちとなったのをきっかけにかつての恋人と同調していった姿とも考えられるのではないかと思います。能「杜若」で「女【が】杜若になる」ということも、ぬえは杜若は杜若であると同時に、業平に歌に詠まれた恋の相手、すなわち藤原高子でもある、と捉えています。

このような奇跡のようなお話は「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現」というシテの言葉によって補強されます。仏の神通力によって人間の姿に変わり、高子とも同化する、というのは現代人の目からするとご都合主義のようにも思えますが、それだけではなくて能「杜若」に描かれるシテの姿は業平すなわち菩薩の力によって人間も草花も悉皆成仏を達成する、という高度な世界を描く、というのが作者の目的なのではないかと考えています。

ともあれ現代人の感覚とすれば「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現」というシテの言葉が投げかけられた瞬間に、自分たちとまったく違う業平像や「伊勢物語」の理解に戸惑ってしまうのは仕方のないところですね。この齟齬をどうやって現代の観客に見せるのかが現代の舞台に立つ役者として求められるところでしょう。

ところでこの機会に、中世の人々が「伊勢物語」を読んでいたのか、注釈書に書かれた記事のいくつかをご紹介しましょう。

業平が「歌舞の菩薩」であるという点についてはこんな感じ。

「そもそもこの物語を大事して書き集めたる事は何の詮ずる所ぞといへば、この人は極楽世界の歌舞の菩薩馬頭観音なり。今の世の中の衆生の有様をご覧ずるに、いざなぎいざなみの尊天の浮橋の下にて女神となり給ひしより以来、生きとし生ける者いづれか男女の中らひを離れたる。しかあれば人の心花になり紅葉になりて、色にふけり匂ひに愛づといへども、道の広く分かれ遠く隔たれる程を知らざる事を悲しみて、たはれをと現れてまづ我が心を和らげて、人の心を慰むる術を以って得脱の縁を結ばしめんとて(略)その心を慰むること三千七百三十三人なり」

三千。。恋人の数ですか。そうですか。はあ。
「3733」という数には仏教的に何らかの意味があるのでしょうが今回は未調査。しかし昔も今もプレイボーイの代名詞と思われていた業平は、じつは「得脱の縁を結ばしめん」ために女性と契ったのだ、というのが当時の理解でした。もちろんすべての人の理解ではないでしょうが、「伊勢物語」を読むことができる身分階級がそもそも限られているわけですから、その中で実際に「伊勢物語」に関心を寄せる いわゆる知識階級は同時にこのような注釈書にも興味を広げた可能性は高いでしょう。

さらには和歌が「五・七・五・七・七」の五句・三十一文字であることについてこんな記述も。

「この歌を言ふに、三十一字と定めたるは如来の三十二相に象れり。如来三十二相と言へども顕れては三十一相なり。無間頂相はさらに現れず。故に顕れたる相好になぞらへて三十一字とするなるべし。」「次に歌に五句あり。(略)これ即ち地・水・火・風・空の五輪なり」

これまた現代人から見れば荒唐無稽なこじつけに見えますが、鎌倉時代~室町時代頃までの日本人にとっては「末法思想」が死生観に相当深刻な影響を与えていて、衆生を救済するという仏の教えにこれほどまでに人々が拠り所を求めたというひとつの形でありましょう。

かくして能「杜若」もこのような末法思想の下に読まれた「伊勢物語」やその注釈書に基づいて作られているわけで、そこを無視してこの能を理解することはできません。

しかしながら現代の観客としてこの「杜若」を鑑賞するためにそんな知識が必要なのかといえば、それはまったく不必要。舞台鑑賞と「杜若」という曲の理解や作者の意図を知るのはまったく別の問題でありましょう。むろん演者としてはシテを舞う以上、曲を理解しておく責任があるのだけれども、舞台で演じるのはそうした作者の意向そのものではありません。むしろこうした現代人の感覚からやや距離が隔たってしまった作品を、どうやって現代のお客さまに楽しんでご覧頂けるかを ぬえも考えながら稽古を進めております。

従ってこのブログは演者として自分が能「杜若」を理解するために謡本を読み進めている経過を記しているわけで、決して観客に「このように舞台を見てください」と言っているわけではありません。役者は舞台のみで成果を示すものなので、観客に言葉で説明を加えてはならない。このブログはこれから上演に向かう自分の備忘録のように書いていますので、もしお客さまがこのブログをお読みになって能の鑑賞に先入観を与えてしまうのを恐れます。。

さて気を取り直して。。

さらに脱線を続けてしまいますが、末法思想というのは本当に日本人の死生観を大きく変えてしまったものだと思います。釈迦は生没年さえ不明で入滅の年も紀元前3世紀から紀元前10世紀までかなり幅広い説があるのですが、日本ではその教えが廃れて世の中が乱れるとされる「末法」の時代は永承7年(1052)と具体的に信じられていて、大河ドラマに出演中の藤原道長の長男・頼通が宇治の平等院に鳳凰堂を建立したのもこの年を目指していました(完成は1年遅れた)。偶然にも平安時代末期は武士が台頭し社寺は僧兵が武装して強訴をしたり、といった世情不安の時代と重なりました。そしてとどめはその100年後に起こった源平の争乱と、それに続いて政治が貴族の手から武家に変わったこと。。まさに激動の時代だったのです。末法の世が本当に到来したのだと当時の人々は驚愕したことでしょう。人々はこぞって来世での仏の救済を志望し、それに応えて浄土宗の法然や真宗の親鸞、法華宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元など、現在にまで繋がる鎌倉仏教の諸宗が生まれたのもこういう時代背景があります。本来曹洞宗であるはずの観阿弥・世阿弥が時宗の同朋衆となって「阿弥陀号」を名乗ったのも、遠因としてはこの末法思想の影響と ぬえは考えています。

まだまだ書きたいことはあるのですが脱線はこおで止めてようやく「杜若」に戻って。

ワキ「これは不思議の御事かな。正しき非情の草木に。言葉を交はす法の声。
シテ「仏事をなすや業平の。昔男の舞の姿。
ワキ「これぞ即ち歌舞の菩薩の。
シテ「仮に衆生と業平の。
ワキ「本地寂光の都を出でて。
シテ「普く済度。ワキ「利生の。シテ「道に。
地謡「遥々来ぬる唐衣。/\。着つゝや舞を奏づらん。


ワキは草花の精と言葉を交わす奇跡を喜び、シテもそれを業平、すなわち菩薩のお力なのだと語ります。「本地」は化身ではない仏本来の姿、「寂光の都」は寂光浄土で仏が住む清浄な世界。菩薩はそこから腰を上げて衆生を救済するために業平の姿となって遥々と現世にやってきた、というわけです。

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