ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ぬえのサイト。。まだまだ実験中。。

2006-06-30 12:51:17 | 能楽
このところ忙しくてブログを更新していませんが。。じつは忙しいのではなくて、ぬえのサイトを作るのに没頭していたのでした。

考えてみると、もうずいぶん以前になりますがニフティの「パソコン通信」ってのが終わりまして、そこを発信の拠点にしていた ぬえには大打撃でした。どうも今年でニフティへ入会してから10年になるそうですが、いまから思い返せば、画像も貼ることができないテキストのみのパソコン通信、それもダイヤルアップ接続で、通信時間を気にしながらの書き込みでしたが、それでも当時は画期的でした。

ニフティの「会議室」。。いまの「ミクシイ」のようなものの中に能の専門の会議室を発見してすぐに参加した ぬえは、この当時にたまたま勤めて、意外にうまく出来た『鵺』からハンドルを決めました。ハンドルの由来はごくごく単純なものでしたね。でも、当時のパソコン通信で得られたものは ぬえにとっては莫大なものでした。ぬえの舞台を応援してくれる常連さん(当時は「アクティブ」と呼ばれていた)の中には、相当に能を深く見ている人もいて、このような通信の世界(まだ「ネット」とは言っていなかった)ではプロであろうとアマチュアであろうと同等が原則だったので、うまく出来ない能があれば容赦なく叩かれたし、逆にちょっと良いところがあると、このような公開の場でありながら賛辞を送って下さったり。

ぬえも会議室の中で能に関する質問や疑問には積極的に答えるようにして(でも知識をひけらかすような発言に見えないように気を配りながら)いましたし、会議室はかなり盛況でもありました。何度か「アクティブ」の人たちと能楽堂を借りてセミナーを開催したこともあります。

そうこうしているうちに時代はやがてインターネットが全盛となり、当時のアクティブの人たちも独自にサイトを運営したりしていましたが、ぬえはどうもそういうのが不得手で。。雑談のようにものを書くのは好きなんだけれど、コンテンツをしっかり作らなければならないサイトは、デザイン能力も含めて難しい。。あ、考えてみればこのブログも、そういう意味じゃテキストが主体の「パソコン通信」ノリじゃね。。

当時の友人たちの中にはまだ ぬえが親交を持っている人たちもいて、その人らに相談したり教えて頂きながら、少しずつサイトを作っています。あ~~~もう作り始めて2年ぐらい経っているのだけれど。。

なんとかこの夏にはサイトを立ち上げたい!

「ぬえ」というハンドルや、パソコン通信時代に ぬえが得たものについては、まだまだたくさん話題はあるのですが。。また機会をみてお話してみたいと思います。


キミは覚えているか。あの秋の日を

2006-06-27 11:19:07 | 能楽

キミは。。大相撲の土俵に、かつては能舞台と同じやうに四本の柱が建つてゐたことをご存じだらうか。そしてキミは。。答へられるだらうか。それが廃されて四つの房に取って代わられたのが何時の事であつたのか。。

ぬへは答えられる。。否、忘れるわけには往かぬ。あの大屋根が、力士たちが死力を尽して争ふを、慈母のやうに暖かく包み込んでをつたあの大屋根が、つひに天空に向かつて飛翔したその日のことを。その時の事を ぬへはまざまざと思ひ出す。。未だ生まれてなかつたけど。。

それは。。昭和27年9月21日。東京・蔵前の国技館でおこなはれた秋場所からの事だ。

無論、大相撲の土俵に掛る大屋根は往古より空中にあつた訳ではない。かのニウトン博士が提したやうに、万物は互に惹かれ合ふ。林檎は大地に惹かれ、人は人に惹かれ。。そして国技館の大屋根は土俵に惹かれていたのだ。かの四本柱はそれを。。二つの惹かれ合ふ魂を繋ぐ鵲の橋であつた。それなのに人は自らの欲望のために、土俵が見えない、という理由で鴛鴦の仲を裂き、四色の房に換たのだ。忌むべき哉 長月下旬のあの秋の日を。。

否、さうではあるまひ。あの日を境に大屋根は鳳凰のやうに、或は迦陵頻伽の如き優艶なる姿もて天空を翔る自由を得たのだ。それは力士が四本柱に衝突して怪我をする憂ひを取り除き得たのみならず、大屋根はあたかも慈母の如くに観客の善男善女をも暖かく包み込んだ記念すべき日であつたのだ。そして今や、国技館の大屋根が祝福してをるのは狭く日本の力士ばかりではなひ。蒙古の、そして勃牙利の力士(←チョツト古い?)をも大なる慈愛を以つて全地球の民をも慰撫し、鼓舞してをるのだ。嗚呼、偉大なる哉大相撲。

何故に ぬへはこの記念するべき日を知り得たのか。。それは全くの偶然であつた。数年前に ぬへは骨董屋で一面の「若女」と出逢ふた。入江美法氏の作になるその面は新面ではあつたが、ぬへはその「若女」を忽ちにして求めた。柔きその面差に惹かれたものであらう。ニウトン博士に対して ぬへは感謝の念に耐えぬ。さうして家に帰り、共箱を開たその刹那。ぬへの眼に飛び込で来た者こそは。。この昭和27年9月20日の読売新聞の夕刊であつたのだ。その新聞紙は面袋を包み込むクツシヨンのために、その箱の底に居た。数十年の星霜を経て ぬへに遭ふためにずつとそこで待つていたかのやうに。

この画像を見給へ!

新聞紙は、おそらく只、面を傷から保護すべきために桐箱の底に敷かれた者であらう。去乍、そこに認められた記事は、能舞台と同じく大相撲の土俵を四隅にて区切りおきし四本柱が、この翌日からの秋場所を以つて失はれた、と云ふ過去の事実を ぬへに知しめたのであつた。吃驚したなあもう。がちょをん。(←この部分、時代考証に責任持てません)

参照されたし→ 大相撲情報局



。。骨董市つながり、と云ふ事で。 (^◇^;)

骨董市にて

2006-06-26 01:38:01 | 能楽
昨日は骨董市に行きました。

ぬえは知る人ぞ知る骨董屋キラーで、どこに行っても骨董屋を訪ねては能に使える道具やらを収集しています。もう20年は続いていますね。とんでもない収穫もあったし、そして品を「見る目」も自分で育て、またそれが曇らないようにいつも注意してきたつもりでもあります。

そんな経験を、能楽師同士で飲んだときなどに時々は話す事があるのですが、その中で若手の能楽師Dくん が ぬえと同じように古い物、流出してしまったものを骨董市に出かけては物色していると知りました。それ以来なんとなく連絡を取り合ううちに、このたび ぬえが骨董市に出かけると聞いた彼から「ぜひお供させてください」と言ってきて。。「お供?」。。そんな身分ではないのだが。。

ともあれ昨日は一緒に骨董市を見ながら、ぬえもこれまで学んできたいろいろな道具についての「善し悪し」を見極めるポイントとか、価格の相場とか、流出してしまった名家の所蔵品についての話とか、思うことをたくさん語りました。でも結局今回は掘り出し物はなく、ぬえは伊豆の子どもたち用に女性用の安い着物を一枚買っただけで、彼の方は収穫ナシでしたが。しかしそのあと会場の休憩所では、彼が持参した「自慢の掘り出し物」を見せてもらい、ぬえも自分のそれまでの戦利品を見せあい、それぞれについて思うことを話し合い。。とっても有意義な時間でしたね。

この「戦利品の品定め」はあらかじめ約束してあったので、会場でお店を見て回ってたいた時にも、彼がなにかの品物に目を留めて「これなんか、良いんじゃないですか?」と聞いて、ぬえは「うん。姿は良いけど。。でもここを見なきゃ。これはあんまり良い品じゃないんじゃないかなあ」と答えたりで、次第に彼も「ぬえさんにボクの宝物を見せるの、怖くなってきたなあ」なんて言っていたけれど、いざ実際に休憩所で見せてもらうときには彼も「これを見てくださいよ!」と自信満々。

それは鞘に鮫皮が張られている面白い脇差しで、何と言っても鍔が良い品でした。某名家の子息であるDくんはとくに小刀や刀装具にとても関心が高いようでしたが、その自慢になるだけのことはあります。その鍔の図柄は、旅の僧が富士山を遠くに眺めながらひと休み。これを鉄地の短刀鍔に見事に一刀彫りしてある。素材を考えればすばらしい技術です。また鉄地に彫った銘の字体のよいこと。

でも。ふっふっふ。ぬえのかつての戦利品はそんなものじゃなかった。細かい梨子地の鞘に鉄色の柄巻き。やはり脇差しなのですが柄頭も鍔も舞楽文様の金象眼で、姿の品の良さが自慢なのさ。しかも彼が買った脇差しと比べて1/10の値段で求めました。これには彼も「ええっ。。」と絶句。(^^)v

もしもその会場に居た方がこのブログを読んでおられたら。。休憩所の窓際のテーブルで刀やら能面やらを出してずっと語り合っていたのは。。ぬえたちです。。うるさかったかも。。ゴメンなさい。。(; ;)

帰りの車の中では、古いものから知る事とか、師弟関係の話とか、ともかく話題は尽きませんでしたね。とっても良い日だったと思います。

しかし。。彼はまだ20歳台の若手で、しかも狂言の名家のご子息で。。まあ、ひと昔前ならば ぬえなど直接お話もできないお家柄なのですが、性格も素直で研究熱心。時代も移り変わったいま、彼も自分の立場にあぐらをかくこともなく、一生懸命に道具を集めたり、その善し悪しを見極める眼を養おうとしている。家柄に生まれた子の中では ぬえはちょっと今まで出会った事がないくらい、貪欲に「知ろう」としている姿はとても心強いものでした。

そして。帰り道の別れ際、ぬえは笑顔で手を振りながら、それでもこう思いました。

「コイツには絶対に負けるわけにはいかない」

。。いや、仲間として彼を信頼も尊敬もできるのです。素直で良い子だし、彼が中学生の頃には地方公演の空き時間に ぬえが車で水族館に連れて行った事もある。そんな子どもだった彼も、いま ぬえがうかうかしてると彼には簡単に追い越されちゃう。それほど秘めた力を感じて、嫉妬さえ覚えました。こんなに育っていたんだ。。

Dくん、もしこれを読んでいたなら。。勝手な事を書いてゴメンね。でも ぬえはあなたに負けるわけにはいかないの。一緒にがんばって、良い舞台を作り上げよう!

「狩野川薪能」の稽古(その2)

2006-06-24 23:36:52 | 能楽
昨日は伊豆の国市で「狩野川薪能」の出演者の子どもたちによる「中間発表会」が、県立韮山高校で行われました。会場は高校の大講堂だったのですが、観客は地元・伊豆の国市の小学生高学年およそ1000名(!)。地元の子どもたちによる<子ども創作能>の稽古の成果を、薪能の本番の前にひと足早く、お友達の前で発表する、という企画です。

ぬえたち指導する能楽師から考えれば、未来にこの子ども能を継承するための人材の発掘につながるありがたい催しだし、子どもたちにとっては初めて観客の前で上演するという、ハラハラドキドキの度胸試しの一日だったでしょう。そして実行委員会としても薪能の内容を宣伝することができるし、なんと言っても子どもたちを日本文化に触れさせるまたとない機会。そんなわけでこの催しは実行委員会としては小学生のための「古典芸能鑑賞教室」という位置づけだったのですが、ぬえや出演のこどもたちにとっては「中間発表会」の機会だったのでした。

昨日は金曜日で、学校は平常の授業がある日なのですが、実行委員会の努力によって全市の小学校高学年の児童が、午前中で授業を終えて韮山高校に集結しました。やー、1000人という人数は壮観ですね~~

まず実行委員会より会長さんらのご挨拶から「中間発表会」。。もとい「古典芸能教室」は始まりました。続いて「能」というものをビジュアルで感じさせるために、K君(ぬえらとともに子どもの指導に当たっている観世流シテ方)に天女風に装束を着けて囃子方の「中之舞」の演奏に合わせて舞の実演。初めて見る能装束の姿には子どもたちはビックリしていたようでしたね。

その後、総合プロデュースをしてくださっている大倉正之助氏を中心に、囃子の実演を見せ、それから子どもたちに囃子演奏を体験させました。これは大ウケでしたね~~。いつも思うのだが、こういう小学生を相手にしたような能の体験の企画では、われわれシテ方というのはなんとなく影が薄くなっちゃう。(^^;) やはりお囃子の力はすごいものです。見たこともない楽器から不思議な音が出てくる。それを、およそ音楽の授業では習わないような「掛け声」をかけながら、なんとか打ってみる。。「パスン」。。鳴らない。それでも講師の先生からコツを教えて頂いて、また挑戦。。「ポン!」。。見ていた子どもたちは大歓声。この時間には ぬえらシテ方は、次の演目である<子ども創作能>『江間の小四郎』の装束(?)の着付けに楽屋で大わらわでしたが、この歓声が聞こえてくると、なんとなく ぬえ、いつも羨ましく思ったりします。

続いて『江間の小四郎』の上演に移り、1000人の小学生は再び観客となります。ところが、囃子方の演奏に合わせてそこに登場してきたのは、自分たちと同じ小学生の出演者で。小学生のお客さまは、これまた大歓声になりました。しかも赤頭をつけた大蛇役の子と武士役の子どもたちが舞台せましと(舞台は実際に少し狭かったもので、武士役の子の最後尾は、舞台に立ち並んだときにお笛の先生の座席まで浸食していました。。お笛方は黙って少し座位置を下げてくださいましたが。。すみません~~)大暴れして、しかも ぬえは今回、この悪役の大蛇が退治される場面で、能ではかなり珍しい型だけれども、武士の大将・江間の小四郎が舞台上で本当に矢を射る型を作りました。これも小学生の目には面白く映ったでしょう。

で、最後に薪能でも上演する玄人能『船弁慶・前後之替』を袴能の半能の形式で上演しました。義経役の子方はやはり地元の小学生。後シテの役は ぬえの担当なので、紋付のまま長刀を持って勤めました。この時の子方の目が良かったね。稽古のときは、期待したよりもあまり成果が上がらなくて心配したのですが、やはり観客の前で演じるのが大変な事だ、と舞台の上で身をもって知ることになったのでしょう。あの目なら。大丈夫。

終演後、子方を演じた子は出演した子どもたちからも「カッコよかった~~」と祝福されていました。本人は疲労困憊のご様子でしたが、なに、本番はこの3倍の長さだってば。(^◇^;)

『江間の小四郎』に出演した子どもたちも口々に「怖かった」という感想が出ていました。ね?人前に出て演じる、ってのは大変な事でしょう? こういう経験がかれらに責任感を持たせて、薪能の本番に向かって彼らが意識を高めてゆく役にも立つし、それだけに薪能が成功したら、彼らは達成感も自信も持つことができるでしょう。昨日の催しを企画してくださった実行委員会には、みんなが感謝しなくてはね。

なお、当日の模様が「静岡新聞」のサイトに紹介されています。会員制(無料)のサイトなので、登録しなければ見ることはできないのですが。。

静岡新聞サイト→ 伝統芸能迫力にうっとり 伊豆の国 小学生が能鑑賞

薪能についてはこちら→ PR/第七回 狩野川薪能


【本日のお題】
  表紙画像は韮山に残る「蛭が小島」の跡地です。平治の乱で伊豆に流された頼朝の流刑地で、いまでは田んぼの中に小さな公園となっていますが、かつては狩野川の中州だったと考えられています。頼朝が北条政子と出会ったのがこの地で、公園には「蛭ヶ島の夫婦」という像が建てられていました。ううむ、朝長が青墓で最期を迎えたとき、13歳という幼さで義朝一行からはぐれた少年は、これほど成長しました。。



すみません「古典芸能教室」の画像は。。忙しくてとても撮影などできませんでした。。

狩野川薪能→ 次の記事

『朝長』について(その36=懺法について その6)

2006-06-23 22:52:19 | 能楽
『朝長・懺法』が終了してから行われるもう一つの習い。。「後ノチのお調べ」。
一番の能が終演を迎えてから、さらにお客さまにご覧に入れる何物かが存在する、というのはほかに例がないでしょう。上演を終えて囃子方がいつもの通り橋掛りを歩んで引く際に、太鼓方だけは再び橋掛りの幕際(三之松)のあたりに正面向いて着座して、太鼓を打って見せるのですが、このときにすでに、先ほどまで「デーン」と重い調子だった太鼓は、本来の軽快な「テン」という音色に戻されています。これは「懺法」の特殊な調子を出していたのが、なにか特別な仕掛けが施されたものではなく、普通の道具(楽器=太鼓)であった事を証明し、またこの特別な調子を秘すために、普段は能の開演の前に必ず囃子方が行う「お調べ」に参加しなかった太鼓が、演能後にはじめて「お調べ」を行う、という意味があります。

では「懺法の出端」を打ち終えた太鼓方が「後のお調べ」までに何をしておられるのでしょうか。

まず、「出端」を打ち終えた太鼓方はすぐにクツロいで(横を向いて)後見に「懺法太鼓」を渡します。ここで観世流太鼓の場合は後見がすぐに「懺法太鼓」を再び「見せ皮」と取り替えて、「懺法太鼓」は切戸に持ち去られます。「懺法太鼓」は太鼓の後見によって「太鼓の間」で常の調子まで締め上げられ、能が終わり本役が鏡の間へ戻って来るのを待ちます。さて能が終わって太鼓の本役が幕の中に入ると、後見はすぐに本役に締め上げた「懺法太鼓」を手渡し、本役は幕の中で見所の正面の方向に向いて着座します。ここでシテ方の後見の手によって幕が本幕で上げられると、幕を上げさせたまま、幕の中で「後のお調べ」を打つのです(橋掛りが長い場合は本幕にて三之松まで出て、そこで「後のお調べ」を打ってもよい事になっているそうで、現在はほぼ必ずこちらのやり方で行われているようです)。これが終わると本役は太鼓を横に引き、正面に一礼して引きます。ここまでが済んで、はじめて『朝長・懺法』の能が終演するのです。
太鼓の観世流ではこの「後のお調べ」を「青響ノ調ベ」とも称するそう。。大変美しい名前ですね。

金春流の太鼓の場合は、上記とほぼ同様のやり方もあるそうですが、そのほかに太鼓を舞台から持ち去らずに、舞台上で後見が締め上げるやり方があるようで、最近拝見したお舞台ではこの方法でした。この場合はクリとなって太鼓の後見が舞台上で太鼓を締め上げ、能が終わると太鼓の本役は太鼓を台に掛けたまま橋掛りを歩み、三之松まで到ったところで止まって正面に向いて着座し、そこで「後のお調べ」をし、一礼して本幕で引きます。

これは後見は責任重大です。なんせお客さまが注目しておられる中で太鼓を締め上げるのですから。。
本役が舞台を勤めるのを補佐する立場の後見が、本役が「後のお調べ」を打つための調子を作って差し上げるのですから、万が一にも失敗は許されない。しかも舞台は後シテの演技が進行中だから、締め上げる動作にさえ気を配らなければなりません。指先で革をはじいて調子を確かめるなどとても不可能な状況で、すべては勘だけを頼りに締め上げるのです。往古はこれに失敗すると後見は切腹して責任を取ったのだとか。。

ところが先日 ぬえが拝見した『朝長・懺法』では、まだ若い太鼓方が本役の先生のために一生懸命に勤め上げて、見事! 舞台上で張りのある調子に締め上げました。これには ぬえも驚いた。前述のように、舞台当日を迎えるまでにかなり酷使されてきた「懺法太鼓」の革ですから、この「後のお調べ」のためにさらに締め上げられる事は、すでに革にとっても限界に近いはず。また、普段先生のお舞台に付き従って楽屋で太鼓を締めている若手とはいえ、「懺法太鼓」の革に常に親しんでいるはずもないでしょう。そのうえ彼の先生の一世一代の重要なお舞台の中での失敗が許されない一役。。とんでもないプレッシャーだったと思いますが、彼は本当によくやり遂げたと思いますし、ぬえにとっても発奮させられました。うん、とっても良いものを見せて頂きましたね。彼には感謝したいと思います(もっともこの催しの翌日に ぬえは彼に電話を掛けて労をねぎらってあげました)。

懴法は、当日の催しに『翁』が演じられなければ勤めないのが本来なのだそうです。別な記事で「当時は神歌にても可」というのも見かけましたが、ぬえが拝見した限り、現在では『翁』や『神歌』と『朝長・懺法』が同時に上演されたお舞台を実見した事がありません。『翁』とともに、というのは おそらく、お囃子方や地謡が長裃ではなく素袍を着て上演する、それほど威儀を正して勤めるものだ、という教えでしょう。時代が変わって次第に移り変わってくるものは能に限らず世の中には多いでしょうが、せめてこの「心」だけは大切にして守ってゆきたいものですね。

    ~~~“『朝長』について”の稿はこれにて了とさせて頂きます。
        ご愛読に感謝申し上げます。~~~

【おことわり】
この稿のポリシーについては→ 『朝長』について(その31=懺法について その1)をご参照ください。



『朝長』について(その35=懺法について その5)

2006-06-22 02:12:54 | 能楽
懺法の出端については口伝も多く、あまり説明するべきでもないのでしょうが、鑑賞の参考までに、実演している内容が比較的公開されている金春流の太鼓をもとにして簡単に説明すれば。。

1)懺法の出端の太鼓のうち大きく間をとる箇所(頭カシラとも称する)は、太鼓の「手」を心の中で打ちながら(陰カゲの間とも称する)定められた粒だけを打つ。
2)太鼓打ち出して、定められた箇所にてシテは半幕にて姿(下半身のみ)を見せ、幕を下ろし、ワキは元の座へ戻り間狂言は切戸に引く。
3)大小鼓も加わり、太鼓は「刻ミ」を打ち、笛もアシライを吹き出すと、幕を上げシテは三之松に出、正面に向いて止まる。太鼓の「刻ミ」も止まる(ここまでを「上貫ジョオカン」と称す)。
4)再び太鼓だけが打つ「頭」となり、やがて大小が加わり、笛が吹き出す「刻ミ」となってシテは歩み出し一之松に止まり「刻ミ」も止まる(ここまでを「中貫チュウカン」と称す)。
5)太鼓のみの「頭」があり、「刻ミ」となってシテは歩み出し、囃子は速まって(このとき太鼓の後見は本役の太鼓をずらしながら正面に向ける)シテは常座にて止まり謡い出す(ここまでを「下貫ゲカン」と称す)。

この後シテの登場は、よく『清経』のやはり笛方の重い習いの小書「恋之音取」と比較されますが、登場の演出そのものは通底している部分が多い事は首肯できると思います。もちろん「恋之音取」が、清経が冥土から遙かに夢の中の通い路を愛妻のもとに歩んで来るのに対して、「懺法」はワキ僧が手向ける観音懺法の音に誘われて成道を願う朝長の霊が姿を現すのですから、おのずと演じる心は違うのでしょうが。

シテが常座に立ち謡い出して以後は、囃子方は常の『朝長』と替わりませんが、シテは地謡の「感応肝に銘ずる折から」のあと、常は「あら尊の弔ひやな」と謡うところ、「あら尊の懺法やな」と謡います。後シテが登場してすぐに「あらありがたの懺法やな」と謡っているので、「懺法」の小書のときは「懺法やな」という文句が二度続くことになります。なお、この「あら尊の懺法やな」のところでワキもシテへ向き、合掌の型をされるそうです。そのほかにも型がやや少なくなるなど、後シテには常と替わる箇所がいくつかありますが、囃子方にとってはこれにて常の『朝長』に戻るのです。

なお、これは ぬえの手元にある資料なのですが、「懺法の出端」について、古くはこういうやり方もあったようです。これらの演出による上演はおそらく現在では行われていないと思いますが。。

◆待謡が済み、笛のアシライはなく、太鼓は何も打たない「習いの間」を心に取り、それより「頭」を打ち出す。
◆シテが常座に止まって「あらありがたの懺法やな」と謡い出すと太鼓は打ち止め大小鼓だけにて打ち続け、その間に太鼓は(後見により?)締め木をかけて調子を上げ、シテ「楊枝浄水唯願薩埵と」のところで再び頭を打って地謡「心耳を澄ませる。玉文の瑞諷」以下を打つ。

さてシテ「あら有難の懺法やな」と太鼓は打ち止め、以下は大小鼓のみが囃し続けます。ここから太鼓方は終演後に行われるもう一つの習い「後のお調べ」のための準備に入ってゆきます。

【おことわり】
この稿のポリシーについては→ 『朝長』について(その31=懺法について その1)をご参照ください。


『朝長』について(その34=懺法について その4)

2006-06-20 01:38:10 | 能楽
さてこの中入の間狂言の「語リ」、またおワキの「大崩ノ語」の間は、本来であれば囃子方は床几から下りて横向きに正座していますが、「懺法」に限ってお囃子方は横向きにクツログことをせず、床几に腰掛けたままでいるそうです(ぬえは不注意にしてそこに気がつきませんで、残念ながら舞台上でそれを注視した記憶がないのですが、ぬえが所持する「懺法」の囃子の手付けにもその旨が記載されてありました)。間狂言が「居語リ」をする曲でお囃子方がクツロがないのはほかに例がないそうです。またおワキの「大崩ノ語」が終わると待謡となりますが、おワキの「語リ」を聞いていた間狂言は「語リ」が済むと膝行したまま笛座前に下がります。これも他の曲に例はないか、少ないでしょう。これは先日の「懺法」のお舞台でも ぬえも拝見しました。

一方、中入の間に(太鼓の流儀により中入前の地謡「三世十方」のところで)太鼓方の後見は「懺法太鼓」を袱紗に包んで舞台に持ち出し、太鼓の本役の脇にある「見せ皮」と取り替えます。「太鼓の間」の中で後見によって最終的な調整を受け、袱紗に包まれて封をされた懺法太鼓。太鼓の本役は舞台の上でこれを受け取ってみずから封を切ります。流儀によってはここで本役は太鼓の調べ緒を「音がするように」締めて本当に最後の調子の仕上げをするのだそうです。いよいよ「懺法の出端」が打ち出される準備が整うわけで、次第に舞台上にも見所にも緊張感が高まってきます。

そして待謡は、まずおワキが脇座の前へ出て正面に向いて経巻を開き、観音懺法を読み、そのまま待謡となります。ワキツレはワキの左右に少し下がって控え、合掌。待謡は常よりもシッカリとした位になり、待謡の最後はワキツレは謡わずワキの独吟となります。

この待謡は常はツヨ吟であるのを「懺法」に限ってヨワ吟に替える、とも記述を発見したのですが、それに続いての記事が少々混乱していまして。。下掛リ宝生流の場合の記事ですが「宝生流では常にヨワ吟」という記述と、「懺法に限ってヨワ吟に替える」という二通りの記述を発見しました。ぬえ上演の『朝長』(小書ナシ)ではおワキのお流儀は下掛リ宝生流でしたが、そのときの待謡はヨワ吟でしたので、おそらく後者の記述が間違っているか、演出に変化が生じたのかもしれません。ほかにも待謡について口伝とおぼしき記述も発見しましたが、今回は割愛させて頂きます。

【注】この稿の ぬえの書き込みは、すべて書籍・雑誌等で公開された情報に基づいていて、公開された情報の正否については必ずしも確認を取っていません。間違った情報をそのまま書き込んでいる可能性もある事をご承知置きください。

そしていよいよ「懺法の出端」となります。

待謡の間に太鼓方はシテ柱の方へウケて向き(流儀の違いがあるかも)、待謡が済むと、まず笛が低い調子でアシライを吹き、それに続けて太鼓が「デーン」と頭を打ちます。この小書の場合、この太鼓の最初の粒ひとつを聞くために前シテのあいだから見所の緊張感は高まっていて、この調子ひとつを聞いて、みなさん「!」と感慨を持ちます。ここまでの緊張感は『道成寺』に匹敵するのではないでしょうか。ぬえ、以前に「懺法」を披いた太鼓方とその当夜に飲んだ事があるのですが、本人は自分の出来に納得できなかったようで気落ちしていたけれど、ぬえにとっては本当に『道成寺』の披キを見ているようだった、と讃えて差し上げた。このとき『道成寺』の披キ、という言葉が自然に出てきたけれど、見所で拝見していた ぬえにとってはまさにそういう、手に汗握る「間」でしたね。シテ方と囃子方と、職種はちょっと違っても、舞台生命を賭けた舞台というものは伝わるし、そういう機会を ぬえはできる限り見逃さずに立ち会うように努めています。

さて太鼓が最初のひと粒を打ち出して、それから訪れる静寂。。流儀にもよりますが、次の音をお客さまが聞くまでに30秒掛かり、その間の緊張感を「気」だけで持続させる。。これをはたして「登場音楽」と呼べるかしら。。「打たない」事を極限まで追求した、と言葉で言うのは容易いけれど、それをアンサンブルである囃子方や、その長大な間の中で登場しなければならないシテと、完全に合意したうえで追求するのは簡単なことではないでしょう。しかも舞台芸術である以上、それを「待つ」観客を無視して自己満足的に舞台を追求する事は絶対に不可能であるはず。下世話な事を言えば、その「観客」というのは当時、演者の生命さえも左右する権力者であったはずなのに。。「緊張感」によって観客が得るカタルシスを目的にしているにせよ、ここまでのものを許容するなんて。。ぬえはこういうものに接するとき、「日本」という土壌が培った文化に、何というか、恐ろしさ、まで感じます。。

【おことわり】
この稿のポリシーについては→ 『朝長』について(その31=懺法について その1)をご参照ください。


「狩野川薪能」の稽古(その1)

2006-06-19 23:27:38 | 能楽
昨日は「狩野川薪能」に出演する子どもたちの稽古のために伊豆の国市へ行ってまいりました。

この催しについて、前回のご案内では少し説明不足でしたので再度ご案内をば。。(;_:)

「狩野川薪能」は、大鼓方の大倉正之助氏が「総合プロデュース」として始められたもので、今年で第七回を数えるようになりました。ぬえはその第一回目から関わっておりまして、その当時は旧・大仁町の催しでした。この薪能の最大の特長は、「地元の民話を題材にした新作能<子ども創作能>を、地元の子どもたちで演じる」という事なのです。おそらく七年前の当時は日本初の試みではなかったかと思います。

第一回目の薪能のとき、ぬえはその準備段階から関わりましたが、それでも ぬえが参加したときにはすでに大倉氏とワキ方の安田登氏の二人によって<子ども創作能>の台本は出来上がっていまして、ぬえは大倉氏から「節付け」と薪能までの間の子どもたちの指導の依頼を頂戴したところから薪能への関わりが始まりました。まだまだ重要なお役で舞台に立つ機会も少なかった ぬえにとってこの頃は、はじめて海外にひとりで赴いて学生の指導をしたり、またこの薪能のように、通常の舞台とは違った面で自分を試すような大きなチャンスが次々に訪れた時期でした。

この第一回「狩野川薪能」の当時は、<子ども創作能>は台本は出来上がっていても、まだ曲名も付けられておらず、そのうち『城山の大蛇』(じょうやまのだいじゃ)という曲名は決まったのですが、結局<創作能>とは名ばかりで、第一回は子どもたちは舞台に居並んで台本を謡い、囃子方(玄人)がそれを囃す、という「居囃子」の形式でした。まあ、それでもせっかく出来上がった『城山の大蛇』は能の上演にも耐える台本でもあったし、ぬえも強く推して、翌年からすぐに能の形式で上演する事となりました。

『城山の大蛇』はその後「第五改作」まで進化を遂げ、一昨年まで毎年の「狩野川薪能」でバージョンアップを続けながら上演を繰り返しました。じつは ぬえはこの<創作能>以外にも師家の新作能・復曲能の台本の作成にはかなり深く関わってきたのですが、『城山の大蛇』は ぬえの名前ではじめて作った曲でもありますから、多少の自負やいろいろな思いがあります。これについてはまた機会を見てお話ししてみたいと思いますが。。

さて昨年、全国規模で「市町村合併」が行われ、伊豆の大仁町も伊豆長岡町、韮山町と一緒に「伊豆の国市」として新生を果たしました。その機会に「狩野川薪能」も大仁町の催しから伊豆の国市全体の催しへと変わることになり、また新市誕生のよき機会に<子ども創作能>も新たな作品を作ることになりました。



こうして昨年出来上がったのが、今回も上演する<子ども創作能>『江間の小四郎』です。この作品は台本の作詞・節付けは安田登氏、ぬえ、同じく観世流の能楽師のKくんの三人の分担、囃子作調は大倉氏と太鼓の三島卓氏の手になります。

曲名でもある「江間の小四郎」とは平安末期~鎌倉初期の武士・北条義時のこと。義時は鎌倉幕府の初代執権・北条時政の次男であり北条政子の弟にもあたり、第二代執権となってのちは、後鳥羽上皇の倒幕軍を破った承久の乱で上皇らを流罪にし、京都に六波羅探題を置いて鎌倉幕府を不動の地位に導いた功績を持つ、おっかない人でもありますね。。

伊豆長岡の「江間」には義時が「小四郎」と名乗ってこの土地に住んでいた頃の伝承が数多く民話として語り継がれています。ぬえが拠った原拠は「伊豆の民話」というような一般的な児童向けの書籍に載っていた「江間の大蛇」というお話で、あらすじは「小四郎の子、安千代丸は江間にあった北条の邸から毎日山を越えて千葉寺へ学問を修めに通っていた。あるとき寺からの帰り道に江間の大池を通りかかると、突然大蛇が現れて安千代丸を襲い、そのまま水底へ消えてしまった。急の報を聞いた小四郎は馬に乗り郎等を引き連れて大池に駆けつけたが大蛇の姿はすでにない。数日そこで我が子の敵を狙った小四郎は、ある日ついに水中に光るものを認め、それを矢で射るとはたして大蛇の左目を射止め、大蛇は退治された」というもの。

。。なんとも勧善懲悪というか因果応報というか、単純とも言えるお話ですが、子どもたちが舞台で暴れ回るには都合がよい題材で、ぬえはこの民話を典拠にする事に決めました。



ぬえは、この<子ども創作能>というのは、「子どもが演じる能」という解釈をしていませんで、ぬえのスタンスは、誤解を恐れずに言えば、むしろ「子どもたちが学芸会で発表するような舞台に、日本の文化のエッセンスとして能の方法論を取り入れている」と考えています。短期間の稽古で無理に大人の、能楽師のマネをして形ばかりの能を演じるのではなくて、むしろ彼らが発散できて楽しい舞台を作ることを心がけていて、その中に能の形式を取り入れているのです。ですから稽古の始まりと終わりには必ず端座して挨拶をする事は厳しく要求するけれども、稽古自体は楽しめなくちゃいけない。能面などは子どもたちには絶対に使わせないけれど、保護者の方が縫ってくださった装束(と赤頭など少数の道具)を使う程度は許し、むしろ構エ・運ビ・居ずまい・挙動や舞台態度といった事を徹底して教えています。それでも彼らにとっては「私、能を舞ったことがあるのよ!」となるし、それで良いのです。そうして自分の努力によって勝ち得た舞台はいつか彼らの自信になるし、ここで学んだことは彼らにとって、多少なりとも日本文化を身近なものにする事でしょう。

いま「マナーの低下」「自分勝手」「キレる」。。など、我々を取り巻く社会は、なんだか殺伐としてしまって。。一方 ぬえは、能の世界に飛び込んで20年を経たいま、日本人に生まれてきて本当に良かった。。と心から思っています。日本文化を再発見することが、この子どもたちの将来にどのような力になるのか、それはわかりませんが、少なくとも ぬえは能を知って、というか、それを通して日本の文化のすごさを知って、本当に幸せに思っています。ぬえごときには、その一端でも、子どもたちに感じてもらう事しかできないが、何というか、彼らにとってアイデンティティの源になる事もあるのではないか、彼らが育ってゆく自信になるんじゃないか、なんて、ちょっと大それた希望を持って稽古に通っています。

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『朝長』について(その33=懺法について その3)

2006-06-18 09:03:38 | 能楽
結局、このように前シテは持ち物などのほかには通常の『朝長』とは演出に大きな違いはありません。しかし地謡には大切な心得があって、中入する前に地謡の上歌「悲しきかなや」の中で「答ふる者もさらになし」と謡ったあとに大小鼓がひとクサリ(1小節)だけ特殊な手を打ち、地謡はそれを聞いてからあらためて「三世十方の」と謡い出すところがあります。「三世十方ノ出」として独立した小書として挙げられている演出ですが、実際には「懺法」のときに自動的に付随して演じられているようで、「懺法」のときにはわざわざ「三世十方ノ出」と明記していなくても、現在では必ずこの演出で演じられています。

こうして前シテが中入して、通常の能ではここで間狂言の「語リ」となるのですが、「懺法」の際にはしばしばワキが「大崩ノ語」を語ります。おワキの流儀により内容には異同があるでしょうが、ぬえが拝聴した経験では、義朝の挙兵から都六波羅での奮戦、朝長の負傷、源家一族の敗走、朝長の最期、そして野間での義朝の最期までが語られるようで、ワキの「語リ」としてはかなり長大なものではないでしょうか。

中入の通例では間狂言が登場してワキと対面し、ワキの方から前シテから聞いた物語についての解説を間狂言に頼み、それを受けて間狂言が語る、というのが常套の演出ですが、このようにおワキが語る場合は、間狂言は「語リ」をせずに、逆に間狂言からワキヘ「語リ」の所望をしておワキがそれを受ける、という形になります。

ところで、ぬえはこれまで拝見した「懺法」のお舞台で必ずこの「大崩ノ語」を拝聴していると思うのですが、最近「懺法の時には間狂言の語リとワキの語リのふたつが演じられる」という解説を読みました。「語リ」がふたつ。。 どうも記憶違いか、ぬえにはそういう「懺法」の上演に接した覚えがなかったのですが。。そうしたらやはり最近、間狂言とワキのそれぞれが「語リ」を演じるお舞台に接する機会がありました。

この時は、間狂言(前シテ女長者に仕える者)が「長者に命じられて僧の世話をしよう」とワキの前へ出ると、その僧が、さきほど朝長の墓のありかを尋ねられた僧だと知って驚き、やがてワキから朝長の最期の有様を語るよう所望されて「語リ」となります。ついで間狂言から「都での大崩の次第」を語るようワキに所望があって、おワキの「大崩ノ語」となりました。中入だけで30分近くを要したのではないでしょうか。重厚なこの小書の一端をこの二つの「語リ」が担っている、と強く印象を持ちました。

なお、このワキの「大崩ノ語」は下掛宝生流では単に「語」と称し、番組に明記しない、という解説も見たことがあります。たしかに「大崩ノ語」ではなく「語」とする番組もあるので、それはお流儀の主張に従ったのでしょうでしょうが、「明記しない」わけではありませんでした。これはお客さまに親切になるように、おワキと相談のうえ、そう定められたのかもしれません。

ちなみに「小書」として謡本にも明記されていながら、実際には番組に書き出さないで演じたり、ある小書で演じるときに、それに付随して必ず別の小書も演じられ、その小書は番組に明記しない、という例はほかにもたくさんあります。

上記のように「懺法」には必ず「三世十方ノ出」は付属して演じられますが、これはほとんど番組には記される事がありません。また、たとえばお笛の重い習いとして『清経』の「恋之音取」がありますが、これは必ず番組に明記されて上演されるのに、同じくお笛の習いである『景清』の「松門之会釈」は番組に書かれたり書かれなかったり。ですからお客さまにとっても『景清』の上演に接するときには「今日は「松門之会釈」はあるのだろうか。。」という期待があります。

「恋之音取」はシテ方の演技と密接に関係して、シテもその譜についての充分な理解と知識を持った事前の稽古が欠かせないのに対して「松門之会釈」は「恋之音取」とくらべるとずっと短い譜で、しかもシテが作物の中で「松門ひとり閉ぢて。。」と謡い出す前にひとしきり吹かれ、シテはその譜が終わるのを作物の中で待って、それから謡い出すので、シテの演技とは直接の関連がありません。シテは笛の譜について、極端には自分の謡い出すキッカケさえわかっていれば上演に支障は来さないのです。それが番組への明記の有無の直接の理由ではないでしょうが。。

ところが、あるとき笛方とこの「松門之会釈」について話していたとき、面白い話も聞きました。やはりこのような笛の一管による演奏というのは、笛方にとってもかなり神経を遣う演奏なのだそうで、本当の事を言えば「松門之会釈」は番組に明記せず、演能の当日に吹くかどうかを決めさせてもらえるとありがたいのだそうです。これは一管という演奏には自分の体調の善し悪しまでもが直接影響をおよぼしてしまうからで、さすがに「恋之音取」のようにシテの演技や能の演出全体に影響がある小書の場合はそうもいかないが、シテの登場前に舞台に彩りを添える「松門之会釈」のような場合は笛方に上演の裁量を任せてほしいのだそうです。これはこれで見識のある意見だと思って ぬえは大変感心しました。

【おことわり】
この稿のポリシーについては→ 『朝長』について(その31=懺法について その1)をご参照ください。

『朝長』について(その32=懺法について その2)

2006-06-16 01:56:40 | 能楽
では「懺法」の催し当日の進行を順を追ってご紹介すると。。

当日、楽屋の鏡の間に屏風を引き回し立てて「太鼓の間」を作り、太鼓方は用意の全てを秘します。

「鏡の間」というのは見所から見れば橋掛りの最も奥にある五色の幕の内側のスペースで、巨大な姿見が備え付けられていることからそう呼ばれています。「装束の間」で装束を着けたシテは舞台に登場する前の最後の時間をこの「鏡の間」で、床几に掛かり鏡に向かって過ごします。シテと鏡の間に小さな机を置いてそこに面を据え、シテは面と対話してお役を勤める心を作り上げ、やがて面を掛けるのです。およそ15分間ほどでしょうか、シテが面と対峙して過ごしていると、お囃子方、おワキが鏡の間に集まってきて、互いにご挨拶を交わし、お囃子方は「お調べ」を始めます。こうして一番の能は開演を迎えます。このようにシテにとって面と対話する大切な場所ですから、鏡の間は楽屋の中でもっとも神聖な場所とされていて、シテが面を掛ける、囃子方が「お調べ」を演奏する、という以外にこの「鏡の間」が使われる事はありません。ほんの少しの例外を除いては。。

それが『翁』の際に「鏡の間」に祭壇を設ける「翁飾り」と、この「懺法」の「太鼓の間」なのです。ぬえが考える限り「例外」はこの二つだけだと思います。見落としがなければ。。

さてこの「太鼓の間」の中では太鼓の本役と主後見のふたりで太鼓の最後の調整を行います。やがておシテが装束を着けて準備が整い、おワキやお囃子方が参集して「お調べ」が始まりますが、この時太鼓は「お調べ」を演奏しません。あくまで調子を秘するための措置ですが、舞台に出る前のお囃子方が「お調べ」に参加しない。。これもこの「懺法」の小書だけに見られる例外中の例外でしょう。

やがてお囃子方は片幕を揚げて舞台に登場し、地謡も着座します。ところがここで太鼓方が橋掛りを歩む際に持って出ている太鼓は「懺法太鼓」ではないのです。本物の「懺法太鼓」はいまだ「太鼓の間」の中にあって主後見が番をして守っていて、太鼓方が舞台上でその傍らに置いている太鼓は、最後までついに打たれる事がなく、「懺法太鼓」が楽屋に控えている間に舞台上に出してお客さまに見せるために用意された道具=「見せ皮」=なのです。。

さてお囃子方と地謡が舞台に登場すると、ワキが「真ノ名乗」で登場します(常は「行」あるいは「草」。またワキの流儀によっては「懺法」の時も「真ノ名乗」で登場はするが心は行の名宣にて致すべし、という教えもある由)(このへんうろ覚えなのですが、たしか囃子方のお流儀では「名宣リ笛」の前に「修羅置鼓」という、『朝長』の「懺法」だけに奏される置鼓があったような気がします。。)。

ついでシテ・ツレ・トモの三人が、これは常の通り「次第」の囃子で登場します。前シテは通常は右手に数珠を持ち、左手に木の葉、あるいは水桶を持って出るのですが、「懺法」の場合は左手には何も持たず、数珠だけになる、との事。ぬえが先日拝見した「懺法」はまさにこれでしたが、記憶に拠れば水桶を持った「懺法」も拝見した記憶はあるように思います。。シテの工夫による事もあるでしょうし、これは真偽はなかなかわかりにくいでしょう。「懺法」の場合、総じて前場は演出上とくに大きな変化はありませんが、以前にもお話したように、型は減る傾向にあるようです。総じて地味に、沈鬱に演じるように図られているのかもしれませんね。これまた ぬえには真偽は不明なのですが。。

【おことわり】
この稿のポリシーについては→ 『朝長』について(その31=懺法について その1)をご参照ください。


『朝長』について(その31=懺法について その1)

2006-06-15 00:33:03 | 能楽
【おことわり】
この稿では『朝長』の重い習いの小書「懺法」について触れ、秘事の類についても触れている箇所がありますが、それらは書籍・能楽雑誌等で演者によりすでに公開されている情報だけを掲載しております。


『朝長』について語るとき、どうしても避けて通れない小書「懺法」。ぬえのような立場では一生勤めることもありませんが、この小書について少し触れておきたいと思います。

能『朝長』の中で、前シテが中入して、間狂言(女長者に仕える者)がワキと応対し、朝長の最期を語ります。先日の ぬえの『朝長』でこの間狂言を勤められた山本家では、かなり忠実に『平治物語』に書かれてある内容そのままを語られますね。もちろん能の脚本に合わせて、朝長は自害して果てた事に変更は加えられていますが。そして語り終えた間狂言は、ワキに夜もすがら朝長の供養を勧めます。

この時ワキは「生前の朝長が好んでいた」という理由で「観音懺法」をもって朝長を弔う事を宣言し、さらに間狂言に近在にもその由を触れるよう頼みます。すなわち、仏道に志のある人々は供養に臨席して経文を聴聞するよう勧めてほしい、というわけで、間狂言はこの由を承り、常座に立って人々に触れます。

これよりワキの待謡となり、通常の演出では太鼓が打ち出して登場音楽の「出端」の演奏となり、やがて後シテが登場するのですが、この後シテもやはり登場した第一声に「あら有難の懺法やな」と謡っています。

小書「懺法」はこの「出端」を極端に特殊にしたもので、諸役にとって重い習いであるのはもちろんですが、わけても太鼓方にとっては老女物につぐ重い習いとされています。ことに太鼓の観世家では「自分の主催する会でなければ勤めない」とされているようで、現・宗家の元信師が対談でそう語られています。ときにシテ方の観世宗家が勤められる時には太鼓の観世家もご出勤されていますが、この場合は太鼓の観世家では「本家のご所望であるので、分家としてお引き受けする」というお立場なのだそうです。この小書がいかに大切に扱われているかがうかがい知れるお言葉ですね。

さてその「懺法の出端」なのですが、シテの登場に30分近くを費やす、という大変なものです。そしてまず注目されるのが太鼓の調子(音程)。いつもの乾いた「テン!テン!」という音ではなく、ぐっと滅った(めった=抑えた)調子で「デーン、デーン」と響く音です。もちろんこれは太鼓の調べ(太鼓を締め上げている朱色の麻紐)をグズグズに緩めてあの調子を出しているのではなく、きちんと締め上げて、それでもあの調子になるよう、太鼓の本役の方は催しのずっと以前からお道具(楽器)と向き合って調子を作り上げておられるのです。

すなわち、催しのずっと以前からご自宅で太鼓を締め上げておいて、革がのびてきて自然に緩んでくる(調子が下がる)と再びそれを増し締めするのだそうです。これを繰り返していって、最終的にあの調子にもっていくのだそうです。簡単に言えばそういう事なのですが、なんせシテ方の門外漢の ぬえにはその程度しかわからない。。(--;) それでも太鼓方の目に見えないご苦労はご理解頂けるかと存じます。

しかし、このように催しの前からずうっと張りっぱなしであったその革はどうなっているのでしょうか。。じつは、普通の革ならば、すでに張力に耐えきれずに、締め上げている課程で破れてしまうのです。だから「懺法」に使える革は基本的には厚い革でなければならないそうです。しかしながら、何度も増し締めを繰り返される過酷な作業に耐え抜いた革であっても、そのすべてが「懺法」に使えるか、というと、そうはいかないのだそう。すなわち、「デーン」という調子になったとしても、公演が終わってみると。。たいがいの革は、もうベロベロに伸びきってしまって、使用不可となってしまう、つまり寿命を終えてしまうのです。「懺法」専用の革というものが太鼓の古いお家には伝わっていまして、増し締めにも耐え、なおかつ公演後には時間を掛けて次第に伸びきった革が収縮して、もとの状態に戻る。。こういった革が発見されると、その革は銘を付けられて、それぞれの家で大切に扱われるようになります。このような「懺法」の革としては観世家に伝わる「大菊」という銘の革などが有名ですね。

この太鼓の「調子」は太鼓方の秘事でして、舞台で「懺法の出端」が打たれるまで、楽屋でも誰一人その調子を耳にする事ができません。「懺法」の場合は太鼓の本役のほかに主・副ふたりの太鼓の後見が出勤して本役の(というより太鼓の、ですね)お世話をし、その人以外には楽屋内であっても調子を秘す。これほど厳重・厳格に管理されて、あの小書は演奏されることになります。

『朝長』おわりました(その6)

2006-06-14 02:53:20 | 能楽
さてクリからあとは、ずっと床几に掛かって型をします。床几で型をする事は『田村』『屋島』だって同じなのだけれど、『朝長』では、やはり型を減らす作者の目的が感じられます。一方クセの終わりに「朝長が後生をも御心安く思し召せ」とワキと向き合うところ、ここは気持ちが良い場面ですね。「癒し」というテーマをこの曲に発見したとき、この型は大きな意味を持ってきます。このシテの言葉によってワキも、そして翌朝にはこのワキによってこの言葉が伝えられるであろう前シテの女長者も、朝長自身と一緒に救われるのですから。。ワキと向き合う、なんてシテとしては日常のようにする型なんだけれども、このように考えてくるとひとしお感慨も出てくるもので。。

ロンギの中、後シテの眼目の一つである型どころの一つ、「大崩にて朝長が膝の口を箕深に射させて」と左袖を巻き上げて扇の要を左膝(型として“膝”は無理なので実際にはももの辺り)に突き立てる型になります。このところ、稽古をしてわかったのですが、じつはコツがいる場面で、しかもそのコツは装束を着けて稽古しないと気がつかない。自分が装束を着ている、とシミュレートしながらの稽古では分からない事もあるんです。で、これを知らないで舞台に出てしまうと、巻き上げた袖そのものが邪魔をして扇をうまく持つことさえ出来なくなる。。ということは扇を膝に突き立てる事も難しくなって。。あな恐ろしや。

それに続いて「馬はしきりに跳ね上がれば」と右下を見て拍子を踏み、それから「鐙を越して下り立たんと」となるのですが、ここは床几を馬の背に見立てているので、通常は立ち上がろうとして果たせず「すれども難儀の手なれば」と途方に暮れる心で床几に居る、という型です。ところが。。ぬえの師家ではここで立ち上がって左足を一足、ハッキリと正面に出すのです。これはちょっと他では見たことがない。

膝を貫通した矢は、そのまま馬の腹に突き立っているのだから、これでは理屈には合わないのだけれど、稽古してみるとこれは良い型で、つまり自分も負傷しているのに、馬を乗り捨てて徒歩になって、なおも戦おうとした、という心の強さを表しているのですね。実際には巻き上げた左袖を膝の上に突き立て、その姿勢のまま床几から立ち上がると、この袖がかなり不安定になって、やり方によっては左膝の上で袖がグチャグチャにほどけてしまう事にもなるのですが、これも稽古でコツをつかむことが出来ました。

その後「乗替えに掻き乗せられて」と床几を放れ、常座へ行き正へ出て安座してクライマックスの切腹の場面になります。。ぬえ、こういう「瞬間」で見せる型は得意かも。。ほかにも『藤戸』の「刺し通し、刺し通さるれば」とか『葵上』の「打ち乗せ隠れ行こうよ」とか、ほんの瞬間だけで効果の是非が分かれるような型はあるものなのですが、ぬえは有難いことにあまりこういう場面の稽古で苦労はしないで済んだりします。。むしろ ぬえが弱いのは「動かない」事かも。。それではいけないんだけど。。

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大曲を勤め終えて、いまは次の舞台「狩野川薪能」の『船弁慶・前後之替』の後シテの稽古にようやく集中できるようになりました。ご来場頂きました皆様、また長らくの ぬえの『朝長』の研究の連載にご愛読頂きましてありがとうございます。とりあえず ぬえの『朝長』のご報告はこれで一段落とさせて頂きますー。m(__)m

。。でもまだ『朝長』の連載はもう少しだけ続くのであった。
お約束しました通り、次回は『朝長』の重い小書「懺法」について、この機会に少しご紹介してみたいと思っております。


『朝長』おわりました(その5)

2006-06-13 01:19:42 | 能楽
【後シテについて】

『朝長』の前シテの年齢(精神的なものも含めて、ですね)がいろいろと問題になりましたが、そういえば後シテについても、彼は若いのだ、16歳だ、と言われているけれども、なんだか舞台づらではそれほど若い印象は受けないような…。なんというか、たしかに若い姿なのだけれど『敦盛』や『経正』のような溌剌とした若さではなくて、心の中はもう達観しちゃっているような、老成しているような、少なくとも『経正』のような「幼さ」ではなくて、凛々しい青年像に描かれているような気がします。

もちろん修理太夫平経盛の子の『敦盛』『経正』は、ともに公達として育てられておよそ武名とは縁遠く、むしろ管弦に優れていた芸術家だったので、単純には『朝長』とくらべる事はできないでしょうけれども、やはりワキに向かって「我が跡弔ひて賜び賜へ」と回向を頼む人物と、「朝長が後生をも御心安く思し召せ」と成仏を報告する人物とはおのずと違いがあるでしょう。以前にも書きましたが、この後シテは演者にとってはあちらこちら、どうも一つずつ型が少ない印象です。ぬえはその理由を、この後シテが、僧ワキに回向してもらう存在という、能には常套の構造に則って描かれていながら、同時に、逆にワキや前シテの女長者が彼の死によって受けた傷を「癒す」存在だからなのではないかと考えました。

救済される側でありながら、同時に救済する立場でもある、という。。おそらく他の能では類を見ない構造がこの曲には隠されているように感じますし、もしもそうであるならば「動かない」という事がこのシテの立場を表現しているのだ、と ぬえには感じられます。

それにしても。。およそこの『朝長』は演技の重心が前シテに置かれていて、これはほかの能では『道成寺』など少数の例外を除いてはほとんど見られない事でしょう。『道成寺』にもよく言われる事なのですが、前シテの稽古に神経を注ぎすぎるあまり、後シテが、どうも未完成のままになってしまう。稽古の時点ですでにバランスを失ってしまっていて、その結果「前シテはよかったが後シテは。。」と言われる事にもなる。ぬえは自分が『道成寺』を上演した際にも、ここだけは気を付けて、バランスを考えながら稽古をしましたが、今回の『朝長』も(『道成寺』とは意味はずいぶん違うかもしれないけれども)、この点はかなり意識して、稽古では前後のバランス。。この場合はコントラストかも知れないけれど。。には神経を使いました。

でも、上歌「あれはとも」以下の後シテの型の一部について「型の順番を追っているだけに見えた」という感想も ぬえに届いていまして。。ううむ、本来あるはずの型が一つずつ少ないこの曲で、ではその分ゆっくり動けば良いか、というと、もちろんそんな単純なものではないはずで。。ぬえ自身は気は配ったつもりでも、結果的にはそうは見えていないという事は。。つまり ぬえはまだ「動きたがっている」のね。。(/_;) こういう気分はすぐにお客さまに見えてしまいますね。まだ老成できていない ぬえ。。今後の反省材料にさせて頂きます~~。(/_;)

『朝長』おわりました(その4)

2006-06-11 23:21:37 | 能楽
申すも憚られますが、この前シテを稽古で作っていく課程では、かなりいろいろな工夫をしました。ともかく謡がダメではとても見られない能なので、登場の場面ではツレ・トモと一緒に謡う稽古を何度か重ね、特に「語リ」については一句ずつ計算をしながら、ときには録音して自分の謡を聞き直しながら調整して。。謡の調子、抑揚、ツメ開き、呼吸の間。。ああ、考えるとキリがない。

そこにもってきて先輩から「もう少し歳を取った方が。。」とアドバイスをもらったので、段々と考えすぎてしまったかもしれません。申合で師匠から言われたひと言が。。「暗いよ」(~~;)

「暗い」事が身上のような前シテだとは思うのですが、そう言われて申合の録画を見てみたところ、なるほど「暗い」というのが最も適切な表現で、「殻に閉じこもっている」どころか、言うなれば自己完結してしまっていて、ワキとの問答が会話しているように聞こえない。。

う~ん、これではやはりダメなんで、前シテの女長者は朝長の子守り役だった僧と邂逅して、そこで自ら命を絶った薄倖の若者の思い出を共有するからこそ、その所望に応えて朝長の最期を語る事になり、それが彼女に自分の人生を変えてしまった事件を、思い出したくもない事件を追体験させる事になる。そこがこの前場の人生ドラマの核心だとすれば、僧ワキとのはかない出会いがなければなぁんにもならないんですよね。。

こうして公演の2日前の申合のあと、謡はもう一度作り直すはめになりました。まあ、公演前日は1日中謡っていました。 (;_:)

ところで申合では前シテが正先に置いた水桶を、後見がどのタイミングで引くか、について大問題になってしまいました。こういう事は型付け(振り付けを書いた台本)には指定がないので、舞台の進行の上で具合良く区切りがあればそこで取り入れるし、ちょうど良い区切りがなければ、おワキが謡っている最中に片づける事になっています。ですから、よく上演される曲であれば後見はおのずとどのタイミングで作業を行うかは決まってくるのですが、『朝長』はそれほど頻繁に上演されるわけではないので、そういった「決まり」のような事があまりハッキリしていないのです。

ぬえが拝見した舞台では、昨年暮れにはシテとワキとの問答の中で、ワキが謡っている場面で後見が出てきて水桶を片づけておられましたし、今年の春のあるお舞台では、そもそもシテが何も持たずに登場されたので、これは参考になりません。もっとも最近拝見したお舞台では、前シテが中入するまで水桶は正先に置かれたままでした。

ぬえは昨年末に拝見したお舞台と同じく、早めに水桶を引いてほしかったのです。それはつまらない理由からで、もしも正しく正先の真ん中に水桶を置くことができずに左右どちらかに偏って置いてしまった場合、お客さまにとっては見ていてとっても不安定で気持ちが悪いものなのです。置き場所を失敗した場合の予防策とは ぬえも情けない話ですが、そんな事で舞台の成否にキズがつくのも、これまた怖いことですから。。

ところが申合でこれをご覧になった師匠からは、「シテとワキとが会話をしている中での後見の動作が邪魔に見える。やはり会話をしている二人の間を遮るようにして後見が正先まで行くのは良くないだろう」というご意見を頂き、それに従って会話の部分を大切にして、お後見には水桶を中入で取り込んで頂く事にしました。正先にキチンと水桶を置けるか。。これまた公演前日に何度もシミュレーションを重ねて、万が一も失敗がないように努めたのですが、当日はちょっと目測を誤ったけれども水桶は間違いなく正先の真ん中に置くことが出来て、ホッと安心しました。。

『朝長』おわりました(その3)

2006-06-09 14:02:12 | 能楽
【前シテの造形】

『朝長』の前シテ、青墓の女長者の人物像について、ぬえは漠然と「若者の死を目の前にして悲しみにくれる女性」という程度の認識しかなかったのですが、正直に言って ぬえの稽古を見た先輩からの「もう少し歳を取ったらどうだ?」という言葉から混乱が始まりました。このブログでその事を話したところ、この前シテが「年輩の女性」という印象は、程度の差こそあれお客さまの中にもあるのだということがわかって、そういう印象を持っていなかった ぬえには、じつのところ驚愕でした。

その後、いろんな事を考えましたが、『朝長』を演じるような演者は能楽師としてはベテランばかりである事にも気がついて、それが前シテに「老い」を現実的に与えている原因のひとつかも知れない、とも単純に考えました。ベテランが演じるべき曲。。これまたプレッシャーのタネではありましたが、どうあがいても ぬえには60歳や70歳の声は出ないので、結局自分の信じる前シテ像を追求していく事にしたのですが、そうしたら意外な発見もありました。

『朝長』の前シテが、お弔いのために墓に詣でるのに、なぜ女ツレや太刀持ちまで従えて仰々しく登場するのか。以前にも申しましたが、作者は前シテに「現実性」を持たせたかったのだと ぬえは考えています。下掛リの各お流儀のように前シテがひとりきりで登場するのは、哀傷の心情を吐露する前シテの登場の謡=次第~サシ~下歌~上歌をしんみりと聞かせるには有利で、これはこれで良い演出だと思いますが、上掛リのようにツレ、トモを従えて登場する演出は、この前シテが後シテの化身のように見えてしまう可能性を排除します。仰々しくはあっても、この前シテはあくまで朝長の最期を看取った、そしてそれによって傷ついた現実の人間だ、という事がこの登場の形式によって提示されているのでしょう。

この前シテの登場は、死の呪縛によって永遠に~彼女に死が訪れるまで~朝長の墓への回向を続ける運命に呪縛された彼女が、まるで自分の運命の「殻に閉じこもってしまった」ように、夢遊病者のように現れた姿でしょう。その運命が観客に見えなければならない。この人間の姿…これをもって先輩や、またお客さまの中にも前シテが「老いている」という印象が持たれていた事につながっているのかもしれません。

そして、こう考えてくるとはじめて「語リ」も、中入の演出も、ある効果を考えた演出なのではないか、という事に気がつきました。これも以前の稿で書いたと思いますが、前シテの女長者は朝長という若者の死を看取ってしまった事で、大きな心の傷を受け、それによっていわば死の影によってその後の人生を呪縛されてしまった人間だと ぬえは考えています。朝長の跡を弔い、その墓を守ることが生涯の目的になってしまった女性。。それが同じく幼少の朝長の子守り役だった僧ワキと出会って、その所望によって朝長の死を語ることで、彼女ははからずも、自分が見た「地獄」を追体験しなければならなくなる…

本曲で最も至難とされる「語リ」は、ぬえの拝見した先輩の舞台では多くの場合では、淡々と、静かに、語られるものが多かったのですが、ある演者が大変気持ちを盛り上げて、ほとんど最後は謡として破綻しかける寸前までに語るのを聞いて、非常に深い印象を受けました。内弟子当時に師匠からこの謡を習った際にも、平板ではなく、次第に気持ちが激昂してくるのだ、とも師伝があったので、今回の ぬえの「語リ」はこのへんをベースにしています。これだけのカタストロフをどうやって中入につなげるのか。実在する生身の人間の役であるからこそ、この前シテは「かき消すように失せにけり」と地謡の中で姿を消すことはできないのです。

この「語リ」の後、地謡が静かに「悲しきかなや。。」と謡い、昂揚したシテの気持ちは次第に落ち着きを取り戻してゆき、そして僧を自宅に招き入れると、前シテは僧の世話を使用人に申しつけて、彼女の現実の生活に戻ってゆく。『朝長』の中入の場面の構造はこのようになっています。前シテは現実の人間であるからこそ、現実的に姿を消さなければならない。こう考えてくると、中入でシテがワキに向かって言うこの言葉「御僧に申し候。見苦しく候へども。暫くこれにご逗留候ひて。朝長の御跡 御心静かに弔ひ参らせられ候へ」の処理は大変重要になってくるでしょう。一見俗っぽいように聞こえるこの言葉が、じつはあれほどの「語リ」を終えたあとの、そして彼女が舞台の上で発する最後の言葉だからです。この言葉は、再び自分の「殻に閉じこもった」、彼女がその運命に再び引き戻された事を印象づけなければならないのではなかろうか。ぬえはこう考えました。

再び、登場したときと全く同じ、沈鬱で無感動な、運命に束縛された人物として中入する。。悲しいお話ですが、それだからこそ彼女ははかなく、美しい。。

この前シテが独り言のように言う、という設定になっている初同(最初に地謡が謡う場面)も大変印象的ですね。ぬえはこの上歌には心惹かれます。。

「死」という言葉によくも合う地名のこの青墓。その跡のしるしであろうか、名前ばかりは青野が原であるのに枯葉ばかりの春草が茂る有様はさながら秋の浅茅の原のよう。荻を焼く焼け原のその跡も、弔いの煙が立つ夕景そのまま。その煙もやがてひとひらの雲となり消えてゆく。もう空には色も形も残ってはいない哀れさ…

うう…かわいそう。。(/_;)