ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

三位一体の舞…『杜若』(その12)

2024-06-08 12:31:03 | 能楽
さてこれまで長々と能「杜若」を読み解いて参りましたけれども、やはり業平が菩薩の分身であり、「伊勢物語」はその菩薩が衆生済度のため仏縁を結ぶ物語であり、この能はその菩薩がいまや成仏を遂げた杜若の精となり高子ともなり、この三者が再び舞台の上に降臨して観客=衆生に寿福を授ける能だ、という解釈は、この能が作られた中世では成り立つけれども現代においてはこれを観客に訴えかけるのは少々難しいのではないかと思います。いわばこのブログでの考察は作者の意図や当時の享受について考えてきたに留まるわけで、業平が菩薩だ、という主張が率直には受け入れがたい現代人の感覚からすればこれは荒唐無稽と感じられることでしょう。

そのうえ我々舞台人というものは主張があってもそれはすべて舞台で完結していなければいけないのです。舞台を離れてこのような作者の意図やこの能が作られた時代背景を説明してしまうことは、「そのように私の舞台を見てほしい」と観客に鑑賞の方法を強要することであり、それは舞台人として決してあってはならないことです。

とすればこのブログは矛盾に満ちているわけですが、ぬえの思いは別のところにあります。ぬえは能「杜若」限らずに能を演じるにあたり、演者の責任として作者の意図や時代背景を調査しておく必要があると考えていまして、いわばこのブログは自分のための作品の読み込みの手段です。これらを行ったうえで、さて、それでは今回はどのように演じるべきか、を考えることになります。

ですからこのブログの読者の方々にも、こういう背景がこの能にあるんだ、とご理解頂く程度にとどめて頂き、さてそれではこのブログを読んでいない(おそらく大多数の)観客に納得させるように、どのように ぬえ君は舞うつもりなのかな? とご期待頂きたいと思います。

結論を先に言えば、何度も言いますように作者の意図はどうであれ、この能を菩薩の衆生済度の物語、とお客さまが感じるのは現代では不可能でしょう。だとすれば別の切り口でこの能に対峙するべきで、今回 ぬえは、この哲学的な能は、現代においてはメルヘンに帰するべきだと考えています。

。。ずいぶん安っぽくなったように感じられるかもしれませんが、やはりこの能は、哲学的な命題が根底にあるとはいえ、現代では歌に詠まれたことで業平に恋をしたお花の精の物語である方が受け入れやすいのだと思います。能の最後で杜若の精は成仏を果たすと謡われ、シテもユウケンの型でこれを表現しています。花の精の純粋な恋の心が昇華してついに悟りの境地に至ったのだ、と考えれば、純白の世界に生まれ変わるシテの神々しい姿も納得できると思われますし、「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現なれば」というシテの文句に疑問を持ってしまったお客さまも、この最後の場面でのシテが昇華する姿と重ね合わせるとき、中世的な空気を感じながらひとつの解決を見ることができるかもしれません。

じつは ぬえには同じように作者の意図が現代ではなかなか理解できない能に遭遇したことがありまして、今回の「杜若」ではその経験が大変役に立ちました。その能とは「源氏供養」でして、いま大河ドラマで放映している紫式部がシテなのです。ところが「源氏供養」ではその主人公の紫式部は死後地獄に落ちていまして。。それでワキの僧に救いを求めて現れる、というのがその物語です。なぜ紫式部が地獄に堕ちているのか、も問題ですが、それより大きな問題は、後シテ。。すなわち紫式部の霊が烏帽子をかぶって登場することなのです。

これには ぬえも大いに悩みまして、当時いろいろ調べてみたところ、やはり今回の「杜若」と同様に末法思想が大きくこの能に影を落とし、また一方、そんな地獄で苦しむ紫式部に能「源氏供養」の作者は大きな共感を持っているのだと考え至りました。この能は紫式部へのオマージュとして作られ、おそらく彼女に捧げる気持ちも作者にあったのではないかと ぬえは考えています。長くなるので詳細は割愛しますが、「源氏供養」のシテが烏帽子をかぶる理由はこのような作者の思いからだと考え至りました。が。。これをお客さまに理解頂くのは長い説明を必要とする。。それは前述のようにお客さまに能の見方を強要することになる。。このときも こう考えて、作者の意図はどうあれ、烏帽子を着たシテを見たお客さまの違和感をどうやって払拭できるか、と考えたのでした。

「源氏供養」はメルヘンにはならないけれども、「杜若」はお花の精の恋物語であって、純粋な恋の心が彼女を純白の清浄な世界に生まれ変わらせる、という見方ができそうです。

(この項 了)

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