ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

気仙沼・石巻支援公演、行って参りました(その7=能面師・木村健人さんの個展@銀座)

2012-02-29 02:22:00 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ちょっと目先を変えて、今日は東京・銀座で行われている能面展のご紹介です。

「木村健人 飾り面展」
2012年2月27日(月)~3月3日(土)11:00~18:30(最終日16:00まで)
於:銀座 ギャラリーあづま
(中央区銀座5-9-14 銀座ニューセントラルビル1F)
(地下鉄 銀座線・日比谷線「銀座駅」A3出口より徒歩2分)




この木村健人さんと、ぬえは石巻で出会いました。
まだブログではその日のご紹介にまでたどりついておりませんが、2月13日に石巻市の「立町復興ふれあい商店街」という、ここは仮設商店街なのですけれども、ここで上演をした際に終演後 ぬえに話しかけてこられたのでした。「オレ、般若面ばっかり、20年も打っているのさあ」。。まあ、ここまではよくある話。ところがその後のお言葉を聞いた ぬえは絶句してしまいました。

「震災で。。娘も孫3人も亡くしてしまってなあ。。それからはあの子たちに見せてやるつもりで打っているのさあ。オレ、となりの東松島から来たの。今日ここで能があるって聞いてさあ。石巻にはいっぺえ慰問も来るけど、東松島にはだあれも来ねえんだよぉ? こういうの、東松島にも来てくんねえかなあ」

壮絶な話にも驚いたけれど、東松島という地名が ぬえの心を揺さぶりました。ここもまた6月からずっと見ている地で、松島の島々が天然の防波堤になって大きな被害が出なかった松島町や塩釜市と比べると、その津波被害の深刻さは際だっていました。わけても野蒜(のびる)地区は壊滅的で、これまた目を覆う惨状でした。ここにもまた ぬえたちは訪れて能楽をご覧にいれたい、とずっと願っていた土地のひとつです。それだけに、今回の公演に際しても石巻の関係者には何度も「東松島で受け入れをしてくださる方があればご紹介ください」とお願いしていたのですが、これには反応はありませんでした。

まさかこんな形で東松島の方と知り合いになるとは。。ぬえがずっと東松島を見守っていることを話すと木村氏は「野蒜。。ああ、あのへんは全滅だったな。。」とのお答え。。

ぬえは楽屋として宛われた仮設商店街の空き店舗に木村氏を招き入れ、今回 仮設住宅での公演のために展示用に持参していた多くの面をお目に掛けました。氏は独学で般若面ばかりを打っておられるそうで、ぬえの持参した般若やそのほかの面を見て「初めて本物を見た。。良いなあ。。これからはこういう面を打つがら」と感慨深げでした。そのうえ氏は、この直後の2月末に東京で個展を開かれるとのこと。あまりにも偶然の時期でした。これは拝見に伺わねばなるまい。

お断りしておきますが、前述の通り 氏は独学で面を打っておられるアマチュアの面作家です。そのため個展も「能面展」ではなく「飾り面展」と謙遜して名付けておられます。銀座で拝見した、恐ろしく膨大な数の般若面の数々は、ちょっと化け物に傾きすぎていたり、難も多いのですがこれは仕方のないところ。それでも氏の「絵心」はハッキリ ぬえに伝わってきましたし、中には良い作もありました。そして何よりも、最近の作の中に、般若ではとても重要な「悲しみ」が見えることが ぬえの心を打ちます。

氏のお嬢さんのご一家は、揃って東京に引っ越しをすることが決まっておられたそうです。その引っ越しの直前に起こった震災は、ご一家がお住まいの大曲地区をずたずたに引き裂いてしまいました。大曲といえば石巻港をはさんで石巻の門脇や南浜に並んで海に面した地区。。そのまた隣りにあった自衛隊の基地も含めて壊滅的な被害を受けた地域ですね。。

いま氏と ぬえは協力して、来月に東松島で公演をする予定を立てつつあります。ぬえらの公演と、氏の面の展示を共催にして行い、市民にご自身の活動をお話しして頂く。。なんと素晴らしい企画ではあるまいか。ぬえも当地の市民と一緒になって活動するのはこれが初めての経験です。いま市役所の部署にも話をして、大変喜んで頂き、東松島の仮設住宅などの上演受け入れ場所の選定に取りかかってくださっています。

このような、あまりにも偶然の出会いに感謝しております。氏は勉強家でありますので、面打ちについて ぬえもアドバイスもして腕を磨いて頂き、将来は氏の打たれた面を掛けて東松島で能を舞いたいという希望を持っております。

お一人でも多くの方にこの展覧会をご覧頂き、東松島の方々と思いをひとつにして頂ければ幸甚です。。

銀座・ギャラリーあづま

気仙沼・石巻支援公演、行って参りました(その6=石巻へ)

2012-02-28 04:03:15 | 能楽の心と癒しプロジェクト
2月11日(土)、気仙沼・大谷地区と波路上地区の公演を終えて石巻に向かいました。前にも書きましたが、星空の美しかったこと。。そういえば震災のあと石巻で「明かりが消えたら、こんなに夜空が美しかったことに気づいた」というような言葉を聞いたことがあります。気仙沼では港の広大な地区。。激甚被災地ですが、ここは埋め立て地なのだそうで、本来は山が急に海に落ち込んでいる地形なのだそう。ここでも「津波。。自然の力によって元の地形に戻ったんですよね」という言葉を耳にしました。地震と津波と、大きな自然の力の前に人間は無力なのだと思い知らされた、とはよく言われることなのではありますが、奪うものもあれば残るものも。。なんだか不思議なノスタルジーを感じてしまうのは不謹慎なのかしら。。

石巻に到着して、まずはスーパー銭湯「元気の湯」へ。公演の汗を流して、それから今日からお世話になる「明友館」に向かいました。明友館はこちらでも何度もご紹介していますが、石巻駅から見ると北上川の対岸、湊小よりも少し北側に位置する不動町の、石巻市民会館の隣にある「勤労者余暇活用センター」です。でもそれは「入れ物」の話で、震災の時にここに避難してきた住民さんが団結して、市の指定避難所でなかったために援助が受けられない中、困難を克服して窮地を切り抜けたこと、そのときのリーダーだった千葉恵弘さんの厚い人脈によって全国から支援物資が届けられ、被災者へ届けられる中継基地となったこと、その後も現在まで継続して被災者支援活動を続けておられることから、明友館はいつのまにかボランティア団体となっていったのでした。

ぬえが最初に石巻でコンタクトを取ったのも明友館の千葉さんでした。何か支援をしたい、と思いながら何をしてよいかわからず野菜を車に積んで突然訪れた ぬえに親身に話を聞いてくださり、また石巻の現状や今後の見通しまで懇切丁寧に話してくださって、あげくに湊小避難所でのお手伝いを勧めてくださった千葉さんとの邂逅なくしては、今の ぬえの活動もありません。年末に「元気の湯」でいきなり ぬえに話しかけてきた大学生。。やはり何をしてよいかわからずに三人で車中泊を続けながら、大切に使い捨てカイロを持参した彼ら。その気持ちが痛いほどわかった ぬえは、自分にあてがわれた宿舎に(現地紹介者には事後承諾で。。)に彼らを泊まらせ、翌日には明友館を訪ねるように言ったのでした。

その明友館も10月に石巻市が避難所を一斉に解消したときに活動拠点の建物を災害ボランティアセンターに譲ることになりました。このボランティアセンターがまた、ぬえにとっては活動のたびに高速道路の料金が免除になる「災害支援等派遣車両」の認定を受けているおなじみの機関でしたので、なんだか不思議な感じ。千葉さんら明友館スタッフは、いま湊小の目の前にある総合福祉会館「みなと荘」に拠点を移して活動を続けておられます。ぬえも今回はこの「みなと荘」の明友館の事務所に転がり込んで泊めて頂くことになったのでした。

千葉さんと現在のスタッフ 斉藤良太郎さんのお二人はいつもながら元気~。今回は千葉さんのご紹介で仮設住宅にての公演をすることになっていましたので、これまたいつもながらお世話になりっぱなしです。深夜までいろいろとお話させて頂きましたが、それでもこの夜は気仙沼での2カ所の公演を終え、石巻までの長い移動もあったので、珍しく ぬえもバッタリと先に眠らせて頂きました。

トップ画像は「みなと荘」の前。これはもう翌朝ですね。。あいかわらず睡眠障害の ぬえは翌日も陽がのぼる前からごそごそと活動開始。この歩道橋の向かいが湊小です。夜になると淡雪が降って、車も道路も真っ白になります。陽が昇るとすっかり消えてしまうんですけどね。

2月12日(日)。この日は朝に石巻市内の仮設住宅での上演と、夕方からは今回の活動のメインの公演である 大崎市のプラネタリウムでの公演があるのですが、朝早く起きた ぬえはそのまま女川に行ってみることにしました。

気仙沼・石巻支援公演、行って参りました(その5=陸前階上・地福寺)<承前>

2012-02-27 01:33:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
急遽Tさんと相談して、居囃子『江口』…厳密には謡と笛だけですから「独謡一管」という演式にならしいですが、これをお手向けさせて頂く事と致しました。ご住職に津波が波路上地区に到達した時刻に合わせて法要かなにかをなさるのか伺ってみたところ、それより少し前の時刻にお経を上げられるほかは特に予定はない、とのこと。それでは、というので津波の到達時刻に合わせて『江口』をお手向けさせて頂きました。

30分後には装束を着けて『菊慈童』を勤める予定だというのに紋付に着替えて、さて津波が当地に到着した時刻に合わせて仏前で『江口』を…心を込めてお勤めさせて頂きましたが、やはり良い曲ですね。。美しい詞章に、このうえない微妙な節付け。法悦というものを感じます。。しかも地福寺は臨済宗のお寺でした。『江口』に現れる普賢菩薩は釈迦如来の脇侍。まさに似合った場面での謡となりました。公演をご覧になりに少しずつお客さまもお見えになり。。あ、忙しく立ち働いておられたご住職さまもいつのまにか目をおつむりになってお聴きになっていらっしゃいます。

さて仏前に一礼して急いで公演準備。事前に装束には仕掛けを施しておいたので、ほぼ定刻通りに開演することができました。

今回も例によって『菊慈童』の上演、Tさんによるお笛の説明と体験、そしてこの間に装束を片づけた ぬえが再登場して扇や装束の説明と体験。。いや、ここではかなり盛り上がりましたね~。ご質問も次々に寄せられ、装束の着付け体験では記念撮影にご住職も満面の笑みで加わられ。。予定時刻を大幅にオーバーしてようやく終了しました。










さてさてこの日じゅうに石巻に到着しなければならない予定なので、車に装束を積み込んで、さてご住職にご挨拶をしようと思ったら。。奥様方から「お茶っこしていってくださいな、さ、さ」と重ねてお誘いを受けまして、まあ断り切れずに、それでもすぐにおいとまするつもりでエンジンは掛けたままで、再び庫裏へお邪魔しました。

ところが、ご住職さまは ぬえたちのためにわざわざお寿司を買ってご用意してくださっていたのでした(!)。ええっ、マジですかっ!?(゜_゜;) しかしお寿司にとどまらず、自家製のちらしやら漬け物がわんさと廻されてきまして、これがまたとっても美味しいんだがらっ。ここでも ぬえは遠慮なしにガツガツ頂戴致しました~。話題は自然に三陸のおいしいものの話になって、ご住職のお話では今はワカメや昆布など海草類。ワカメのしゃぶしゃぶは絶品なんですって。で、もう少しすっとウニが出て、そっからアワビでしょう。。? そ、そったら高級食材ばかりこのへんの人たちは普通に食べていなさるのけ?

今回は展示物も多く、それぞれにいわくがある品ばかりで、そこに日本の伝統文化のものすごさを見いだして頂こうと思った、その ぬえの話もご住職に響いていたのだと思います。…というのも、話題が昨日の気仙沼での中学生対象のワークショップの話題になり、ぬえが 今の中学生は敵討ちといっても「曽我物語」はおろか…なんと「忠臣蔵」までわからなくなってしまっているのを知って驚いた、という話をしましたところ、ご住職も小学生に講話をすることがあって、という話になって。そのときご住職は、小学生に向かってまずこういう質問をするのですって。「この中でお釈迦様を知っている人は?」

。。すると、パラパラとほんのひと握りの児童が手を上げるんですって。これは ぬえも衝撃を受けました。「忠臣蔵」どころか「お釈迦様」さえ ほんの少しの子しか知らないとは。。ぬえは日本文化は、少なくともその深さにおいて世界一だと思いますが(断言)、日本ほど自分の国の文化を捨ててしまった国もほかにはない。この国の文化はいま、死にかかっているのですね。。

話題は気仙沼の復興の道すじについての事、ジャズの事。。いやまあ、あらゆる話題が繰り広げられました。震災1周年の日には地福寺でも大掛かりな集会が行われるそうですが、ぬえは石巻だし、こちらの集会もスケジュールが一杯。でも、ご住職とは本当に意気投合したのでこちらとは長いお付き合いができそうな予感です。

えらい長居をしてしまいました。車のエンジンは掛けっぱなしでした。。みなさん玄関でいつまでも手を振って ぬえたちを見送ってくださいました。ぬえも車の窓から手を延ばして、いつまでもいつまでも手を振って。。走り出してみるとあまりにも美しい、涙が出そうなほど美しい星空。石巻の市街地の明かりによってそれがかき消されるまで、ぬえは飽きずにずうっと夜空を眺めていました。

あ、そうそう、地福寺にお邪魔する直前に、このすぐ先にある景勝地・岩井崎に行ってきました。ここはもう何度も訪れているのですが、辰年を迎えた年始に「竜の姿に似た松の枯れ木がある」と話題になった場所でもあります。あれ~?そんな木があるとは気がつかなかったな。。と思いながら岩井崎に行ってみると、塩害で枯れた松の木のほとんどが切り倒された中で、ああ、これか! と思うほどその木は1本だけ目立って残っていました。トップ画像はその松の木。わあ、ホントにリアルに竜に見えますね~~!

気仙沼・石巻支援公演、行って参りました(その4=陸前階上・地福寺)

2012-02-23 00:52:58 | 能楽の心と癒しプロジェクト
2月11日(土)。この日の2つめの公演は、陸前階上(はしかみ)駅が最寄りの景勝地・岩井崎がある波路上(はじかみ)地区に建つ臨済宗のお寺、地福寺さんが会場です。

気仙沼の「うを座」さんから最初にここでの上演の話をメールで伺ったときは ぬえ、我が目を疑いました。なんせ6月からここは訪れていまして、津波被害の甚大さは目を覆うほどでした。気仙沼港、奥松島とここ波路上地区は壊滅状態で、市街地に近い気仙沼港以外は瓦礫の撤去もほとんど手つかずの状態(と言っても程度の差、でしかありませんでしたが。。)でした。正直、この地区でお寺が残っているとは にわかに信じがたいほど、それはめちゃくちゃで、まさに惨状と呼ぶべき状態だったのです。このときはその恐ろしい光景に写真を撮ることさえ忘れていました。。

ところが地福寺さんでの公演が決まってから調べてみると、ご住職の片山秀光さんは驚くことにものすごく多彩な活動をされているのですね。鎮魂のためのコンサートや大法要。そして弟さんであるプロのジャズ・ドラマーである(!)パイソン片山氏を作曲に迎えた被災地応援歌「あいことば」の作詞をしたり。ご自身も震災から命からがら生き延びて避難所で生活され、そこで大書して貼りだした言葉「めげない にげない くじけない」はこの応援歌のサビになっていますし、ご本人の活動の基盤となっておられる精神であるようです。

それでも地図を見て、どうしてもそこに活動や生活ができるほど傷の浅い建物があるとは思えない地区なんですよね。何度も現地を実見している ぬえには信じることはできませんでした。

で仮設住宅での公演のあと、それこそ 恐る恐る波路上地区に行くと。。なんとあれほど瓦礫の撤去が手つかずだったこの地区は、すっかり平地になっていました。



そうして、平地となった低地からほんの少し上がったところに地福寺は堂々と建っておりました。いまだ修復中とはいえ、まさに被害の程度は紙一重。そして冠水に限っていえばこのお寺でも1階のかなり高いところまで水に浸かり、多くの備品が流されてしまったのだそうです。



ご住職の片山秀光さんにお目にかかると、「ああ、本日はありがとうございます」とご丁寧に迎えてくださいました。が、「ええと、うを座の方は。。誰も? スタッフは何時に。。いない?? 二人だけですか??」と驚かれてしまいました。(^◇^;) ああ、やっぱり ぬえたちって慰問ボランティアとしては かなり異質なのね。

ご住職も「いったいコイツら、何をやるんだろう?」と、さぞや初対面でたった二人で現れた能楽師をいぶかしんでおられたと想像しますが、実際にはまだまだ修復中のお寺の中をあちこち工夫されて控室をご用意頂いたり、舞台と客席の配置、展示品(今回は面をたくさん持参して展示に供しておりました)の置き場所など、ご家族ともどもご一緒に立ち働いてお手伝い頂きました。ぬえとTさんもご本尊にご挨拶させて頂いたり、このへんからご住職も ぬえたちのことを理解してくださったように思います。

ご本尊のおわします内陣の隣の小部屋には遺影と位牌がぎっしり。。そうして参拝に訪れる方も何人かおいでになりました。と、お寺の方とご遺族のお話が自然に耳に入って参ります。「まあまあ、今日は月命日ですもんねえ。こうして毎月欠かさずにお出でになって。。」

「!!」

今度で5回目になる ぬえの被災地訪問。しかし、このときまで気がついていなかった事を白状しなければなりません。この日は震災のちょうど11ヶ月目のその日だったのです。これまでの訪問では11日という日に現地に滞在していることはありませんでした。たまたまその日にここにいた ぬえが、まさかお寺にいるとは。。そうしてこの波路上地区に津波が押し寄せた午後3時26分は、能の上演の30分前に当たるのでした。

急遽 Tさんと相談して、その時刻に合わせて ぬえたちもお手向けのために何かをしよう、ということになりました。

地福寺サイト

気仙沼・石巻支援公演、行って参りました(その3=気仙沼、大谷仮設住宅)

2012-02-21 02:21:58 | 能楽の心と癒しプロジェクト
2月10日、この日気仙沼「うを座」のお計らいによって、子どもたちへのワークショップのあとは仮設商店街でお寿司をご馳走になり、そのうえ駅前のビジネスホテルに泊めて頂くことになりました。こんな贅沢しちゃっていいの?

そういえば東北支援に来て、ホテルなんて泊まったのはいつ以来だろう。。そうそう、最初に一人で来た6月、それからまだプロジェクトとしては発足していなかったけれど仲間の能楽師と来た8月。それだけでしたね。あとはずうっと、避難所に雑魚寝をしたり、ボランティア団体の事務所に転がり込んだり。いや、待てよ、そうじゃない。年末にやって来たとき、第1泊目だけは横浜の「海をつくる会」のお計らいで釜石の旅館「宝来館」に泊めて頂いたのだった。あのときも第1泊目だけが豪華な宿泊に豪華な食事でした~。今回も第1泊目がお寿司とホテル泊。ああ、いつもそうなんだ。2泊目からは雑魚寝にコンビニ弁当。そんなもんです。最初の晩だけは味わって夕食を頂きました~。

ああ、そして泊まったホテルは、以前に学校公演で気仙沼を訪れた際に宿泊した同じホテルでした。当時と今と。こんなに違う気持ちで当地を訪れているなんて。

翌2月11日(土)。早起きして笛のTさんと二人で気仙沼の被災地区に行きました。つい1ヶ月半前にも来た場所。。ところが、とてもきれいに片づいていました。それはもう、もう見違えるほど。もうそろそろ震災当時の惨状は伝わって来なくなりつつあります。最初に ぬえがここに来たときにすぐ思った。。あの得体の知れない悪い者が棲みついている影。。これは見事に消え去っていました。言い表す言葉は難しいですが、これは良いことなんだけれども、一方で気仙沼の被災地区の状態を見た誰もが、今回の津波の被害に対する援助を心に固く誓う、そういうキッカケになった場所でもあった、その支援の気持ちが時と共に薄らいでゆくような、そんな危機感も同時に覚えた ぬえでありました。





さてこの日は今回「うを座」さんにお願いしてコーディネートして頂いた気仙沼市の仮設住宅での上演です。行った先は大谷(おおや)地区の仮設住宅。ここは大谷小学校・大谷中学校というふたつの学校の校庭にずらっと仮設住宅が並んでいますが、集会所はナシ。そのはずで、目の前に大谷公民館があるからです。



大谷といえば海岸沿いに道の駅もある大谷海岸が迫っていますが、これらは津波で甚大な被害を受け、その惨状は ぬえも6月からずっと見守っています。その海岸線を走る国道からすぐ入ったところ。。それでも結構な高台に小中学校はあるのですが、そこに向かう途中にあるJAの建物が壊滅的な状態にあるのを見て、これは高台の学校や公民館は大丈夫なのだろうか、と心配になりました。

行ってみると公民館は無事、学校の校庭に並ぶ仮設住宅を見て、やはり高台は被害がなかったのかと思いました。ところが仮設住宅の「会長さん」…仮設住宅には自治組織のようなものがあって、「親睦会」の会長さんのようなリーダーがおられます。自治組織ではあっても行政としてはあくまで仮設なので「町会長」のような名称にならないらしい…にお会いしたところでは、校庭にも50cmの冠水があったそうです。仮設住宅というものは、同じような震災被害が再び起こることを想定して冠水など被害があった場所には建てないのが原則なのですが、平地が少ない土地柄であれば、比較的軽微な被害の場所に建てられることもあるのだそう。そうしてこの仮設は6月には入居が始まったのだそうで、これは仮設住宅への移行としては早い時期にあたるのではないかしら。

さて公演は能『菊慈童』のダイジェスト版です。年末にはじめて石巻の仮設住宅で公演を行って、仮設住宅では上演よりもむしろその後の住民さんとのふれあいの方が大切だな、と感じた ぬえは、着付け体験用の装束とか展示用の面や扇を今回はたくさん用意しました。これは結果的に成功だったと思います。

ところがまた、こういうふれあいの時間はまた今回は次の公演地への移動から開演までの準備の時間を圧迫するわけで。。とくにこの日は大谷仮設のあと近所のお寺での上演、さらに石巻への移動までスケジュールが立て込んでいましたから、ちょっと心配しました。かと言ってふれあいの時間をぞんざいに短縮するわけにもいかないし。。

そこで応急措置として、能の上演後はTさんに笛のワークショップをして頂き、その間に ぬえは装束をたたんで洋服に着替えることにしました。着替えた ぬえはTさんとバトンタッチして面を見せたり着付けの体験をしたり、シテ方としてのワークショップに繋げます。その間に今度はTさんが着替えて。。苦し紛れの解決策でしたが、意外にうまくいきました。唐織を着た、ちょっとふくよかなおねえさんを中心に記念撮影もパチリ。会長さんは「参加者が少なくて申し訳ないねえ」なんて言っておられましたが、なんのなんの、能の上演にあまり大入り満員は期待していませんでしたが、大勢の住民さんに集まって頂き、楽しんで頂けたと思います。

おみやげに頂いたのがこれ!



なんでもアクリルたわし なんだそうで。ふむふむ、これは「あんでねっと」というボランティア団体による仮設住宅支援のプロジェクトなんですね。

Facebookにもアカウントがあるようですが、そこから活動内容についての説明を転載しますと。。

復興のアクリルたわし

「あんでねっと」では、東日本大震災で被災された方々のコミュニティ、ネットワーク支援を目的としています。仮設住宅内で生活されている皆さんが定期的でも時間がある時でも集まって、名前の如くワイワイとあみものをしましょう、という「場」を提供させていただくのがこの「あんでねっと」のプロジェクトです。
 当初は、避難所から仮設住宅に移られる方にアクリルたわしをプレゼントしようということから始まりましたが、これからはアクリルたわしを作って売って集会所の活動資金にしようということになりました。売上金はすべて集会所での光熱費や備品、集会所の運営、活動資金に充てます。
 現在、岩手県山田町「山田南小学校仮設住宅・あんでねっと@山田町」と宮城県気仙沼市「大谷小学校仮設住宅・あんでねっと@大谷」でプロジェクト進行中です。
 山田町では「山田のホタテ」、大谷では「大谷のマンボウ」と、アクリルたわしがご当地名物のかわいいキャラクターとなって販売中です。是非ご協力をお願いします


…とのことです。こういうの、いいですねっ

あんてねっと 復興のアクリルたわし


伊豆の国市・子ども創作能 おおひと梅まつり公演

2012-02-20 01:27:45 | 能楽
昨日は伊豆の国市の「子ども創作能」の公演がありました。
会場となっている大仁神社では秋祭りの際にも出演させて頂いていますが、冬にはこの梅まつりに参加させて頂いております、そういえば去年は雪が降って大変でした。今年はおかげさまで晴天に恵まれ、しかも暖かかった! 例年にない厳しい寒さの今年にしては大変恵まれた条件での公演となりました。

で、今回の目玉は なんと「子ども創作能」始まって以来、準主役の山木兼隆(平家の伊豆目代で、頼朝挙兵の際に最初の標的となった人物)役を 小学1年生のたけちゃんが勤めたことでした。

元来「子ども創作能」では5~6年生が立ち方を勤め、主役の頼朝、準主役の兼隆など主要な登場人物は6年生が勤めることになっています。ところが近年、やや出演者が少ない年が続いていることと、去年は正式なものだけで5回も公演があったことで、段々みんなもお役に慣れてきたし、また数多い公演ならば1回ぐらいはあまり学年にこだわらずに大抜擢の配役もあっていいかな、なんて思っていました。

そんな事を実際に子どもたちに言ったのは去年の夏過ぎぐらいだったかなあ、そしたらすぐに たけちゃんが「ボク、兼隆やりたい~」と言い出したのでした。ええ~~、学年にこだわらない、と言ってもよりによって1年生の たけちゃんかいっ …でもまあ、この子は1年生の中でも利発な子だし、こういう ちびっこにはありがちな、舞台当日にお客さまを見て突然怖じ気づいて「やりたくない」と言い出したり、失敗したら泣き出しちゃって、あとは何もできなくなる、というような「事故」も起こさないのでは、とこれまでの稽古の経験から考えたので、もう、どうなることかとは思ったけれど、たけちゃんにお役をお願いすることにしました。

いや、稽古は順調でしたね。もう、こういう大抜擢の公演なので、多少の間違いがあっても目をつぶって叱ったりしない。年に1回くらい、成果よりも出演者が楽しむ催しがあってもいいじゃないか。…そう思って稽古を始めたのです。ところが、段々と たけちゃんは めきめきと上達してきて。元よりパパ譲りで運動神経は抜群で、身長がちっこいところを除いてはほとんど上級生と遜色ない成果を見せました。

そうなってくると、セリフが少し たどたどしかったり、上級生ほどじっと動かないでいる事など年齢的に難しい点も、かえって魅力に見えてくるから不思議。あとは記憶力の柔軟さかなあ。なんせ学校では「花」とか「山」とか、そんな漢字を習っているレベルの子が古典の文語のセリフを覚えて謡うんだから。本人にとってはほとんど呪文みたいなものでしょう。ところが当日は楽屋で頼朝や地謡の文句まで口ずさんでる。。おかげで当日の本番ではいきなり「これは先の兵衛佐源の。。」と言い出して、あやうく歴史を変えてしまうところでしたが (^◇^;)、ま、これはご愛敬。すぐに本来の自分のセリフに戻りました。でもまあ、その記憶力は驚くべきことだよなあ。

すんません、当日は ぬえも出演していたんで画像は前日の申合のときのもの。
まずは源氏のみなさん。右から頼朝のユイぴ、北条政子のカホちん、時政のみーちゃん。



平家は兼隆のたけちゃんと郎党・堤信遠のサラ。



カホvs平家武士のサキべ。サキべはやっぱり1年生ですが立派に勤めていました。



さて上演も無事に終わりましたが、そのほかこの「おおひと梅まつり」は、冷静に考えるとおよそ考えられないくらい豪華なお祭りなんですよね。「子ども創作能」だけでなく、なんと雅楽まで上演されるのです。これは大仁神社の神主さまが雅楽に熱心で「大仁雅楽会」としてこの「梅まつり」で上演されるからです。そればかりか、子どもたちも雅楽に参加させていて、今回は「浦安の舞」と「迦陵頻」の舞姫として小中学生が出演しました。そしてなんと、「浦安」の舞姫は「子ども創作能」にも出演しているリサべなんですよね~。



こっちでは楽屋でカホちんが雅楽会の方から笙の吹き方を教えて頂いていました!



リサべが出演する「浦安」、去年はビデオを撮りそこなったので、今回はリベンジ! 無事に扇舞と鈴舞の両方の舞をビデオに収めることができました~



子ども能も雅楽も終わったところで子どもたちは梅の花を写生に行きました。みんながんばったね~。今回は東北旅行と師家の催しでのお役があったので ぬえから子どもたちへの「ごほうび」を買う余裕がなかったですが、次回の稽古日までには用意しなきゃ~~

公演が終わって すぐに東京に帰る…ところですが、まだまだ動き足りない (__;) 子どもたちに連れられて「リバーサイドパーク」という巨大公園へ。





「缶蹴りやろうよ~」「先生、鬼ね!」「どろけいやろうよ~」「先生、泥棒ね!」…いい加減にせんかい、おまえら!!(-_-メ)


気仙沼・石巻支援公演、行って参りました(その2=気仙沼「うを座」の子どもたち)

2012-02-18 01:37:25 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼。石巻と並び学校公演で ぬえが訪れた地。ずっと来たかった町。

昨年、ふとした縁からお稽古をすることになった演劇倶楽部「座」の座長・壌晴彦さんが偶然にも気仙沼の児童ミュージカル劇団「うを座」の指導をしていたことから、ついに年末に当地を訪れることができました。

いや、そうではありませんね。ぬえは震災後に一人で初めて東北を訪れた6月にも、それから能楽師の仲間が一緒に石巻での公演を手伝ってくれた8月にも、気仙沼を訪れているのです。でも、そのときは気仙沼には誰も ぬえが知っている人はいませんでした。学校公演だって、師匠家の催しの団員のひとりとして地謡の末席を汚していただけでしたから。。だから、毎回気仙沼の惨状を見て、心を痛めて帰ってくるだけの日々が続いておりました。

それだけに昨年の暮れに「うを座」のみなさんのご厚意によって市内で公演と団員さん(小中学生)へのワークショップが実現したときは、やっとこの町にたどり着いた、という感慨がありました。また、このときのワークショップが、ワキ方のNくんの貢献によって大変面白いものとなったのです。ぬえもワキ方のワークショップというものを見たことがなかったですが、じゃ、一緒にやろうか、という話にこの日なって、では。。というわけで『葵上』などを想定した「祈リ」の稽古になったのですが。。こんなに面白いものができるとは思ってもみなかったです。

能の演技って、実際のところ型は数百年に渡ってそぎ落とされているので、それだけを短時間で教えることが現代人にとって印象に残るものになるのは難しいのです。サシ込・ヒラキだけを教えたって何になるでしょう? そこに地謡が描く深い言葉があり、囃子が奏でる深遠な状況描写があり、そうしてその上でシテがどう感情を込めるか、が問われてはじめて重大な意味を成す。ワークショップの時間的な制約のゆえにパーツとしての型の説明だけをしても、どうしても片手落ちになってしまうのです。そりゃ、能が持つ美の表面づらだけを利用して「みんなで序之舞を一緒に舞ってみましょう~」なんて企画をしたこともありますが、「序之舞」に「憧れ」を持っていない世代。。「うを座」の小中学生にこのやり方は通用しないです。ましてやこの子たちは劇団員ですからね。

ところがNくんと一緒に行った「祈リ」のワークショップは素晴らしい成果を生みました。シテとワキ、それぞれの「気」がぶつかり合う、という、能として最も重要な「気」の部分が、まさに面装束もない素っ裸のままで、手を伸ばせば触れるほどの場所で見せることができるのですから。能の中でクライマックスの場面では沈黙を守ることが多いワキ方はややもすると軽視される傾向がありますが、ぬえは亡くなった村瀬純師にお相手を願って、シテの演技に対してのワキの意味がいかに重要であるか実演の舞台でものすごく勉強させて頂きました。時の感動が、あの年末には遺憾なく再現できたのではないかと思います。

今回は笛のTさんと ぬえの二人だけのワークショップでした。かなり不利な状況ではありましたが、そして時間の制約があったのでしたが、まずまずの成果かなあ。稽古としては伊豆の子ども能を参考にして斬り組みをやったのですが、装束の着付け体験ができなかったのが残念。



がしかし、今回の参加者の中には、かなり鋭い感性を持った子がいましたよ! いや、これも面白いもので、たとえば今の中学生って、「忠臣蔵」さえ知らないのね。(>_<)ヽ  これを知ったときは ちょっとした衝撃を受けました。文化が死んでゆくのを目前に見るようで。ところが斬り組みの体験では、もう切れ味鋭い演技を見せる子がいる! 冒頭に ぬえが舞囃子の『高砂』を見せ、そこで瞬きをしていないことを言い、年末にワークショップを受講した子と一緒に「祈リ」の実演をしてみたのですが。。これだけを見て「気」を感じ取り、実際に体現できる子がいるのです。こうなると「忠臣蔵」なんて知らなくても大丈夫だね。

そうか。。文化って形を変えてゆくけれど、芯が伝わっているのなら本説なんて意味をなさないのかも。気持ちが通じていればその体験の基が『ワン・ピース』だって問題はないわけで。そうだよなあ。時代に即して人気がある新しい作品を無視して千年前の『平家物語』ばかりを未来永劫追い続けているのでもまた片手落ちでしょう。
ま、そういう大人の感慨とは別に、この笑顔を見てください! 喜んでもらって良かった。(↑トップ画像)

気仙沼で甚大な被害を受けた湾岸地区は、じつは埋め立て地なんですって。そうしてすぐ海に迫り、地震にも津波にも耐えた山は岩盤地層なのだそう。地元の方は「結局自然は、もとの地形に揺り直した、ってことかも」と。

翌朝、気仙沼の被災地帯を視察しましたが、すっかり空き地になり、もうあの被害は感じ取れないようになりつつあります。市はこの地域を5mの盛り土でかさ上げをする予定で、話した地元の方も「まず工業地帯を復興しなければ町の再生はない」とおっしゃっていました。ぬえはこれに対して言う言葉はありませんが、これと反対の意見も翌日に伺うことになりました。

気仙沼・石巻支援公演、行って参りました(その1=プラネタリウム公演の準備)

2012-02-17 05:03:59 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「能楽の心と癒しプロジェクト」、2月の厳冬期にまたまた東北訪問公演に行って参りました。ぬえにとっては通算5度目の訪問旅行です。あ~あの優しいおばあちゃんたちにまた会えるのね~♪

今回は稽古能の翌日に出発、帰宅翌朝が申合、そして昨日が東京で本番の公演日。『高砂』のツレと『千手』の主後見という大役を頂いている中での3泊4日間の訪問でしたが、どれも大過なく勤めることが出来まして、ようやく安堵しております。さすがに昨日は疲れを感じたけど、舞台に粗相はなかったので、ようやくひと仕事終えた実感を持ちました~。

また今回の訪問では被災地ではない場所…現実には震災の被害がなかったわけではないけれど、津波による激甚被害はなかった大崎市で、なんとプラネタリウムでのチャリティ公演をしたのが、何といっても印象的でした。ここでは初めて「地吹雪」というものを体験したし。。 また初めて気仙沼市の仮設住宅での公演を行い、石巻でも仮設商店街での公演がありました。そうして3/11を超えて、次の段階に進もうとしている被災地の現状も いろいろ教えて頂いて帰って参りました。前回と比べれば短い滞在日数ではありましたが、それでも新しい友人も増えて、大変実りのある滞在だったと考えております。

それではご報告のはじまり~

2月10日(金)

朝7時に笛のT氏と待ち合わせて一路 東北へ。今回も石巻のVC(ボランティア・センター)から災害派遣従事車両の認定を頂くことができました。これがない時は高速道路の深夜割引を使って夜中に走ったものですが。。しかし厳冬期の今は深夜の運転は事故と隣り合わせだから、昼間に走れるようになったのはありがたいことです。

それにしても東北も遠いかと思っていたが、今では走り慣れた道になっちゃって、距離に苦痛を感じることはなくなりました。…がしかし、宮城県よりも むしろ福島県の方が雪深いのですね~。殴りつけるように雪が降る中を走るような感じ。去年の冬に高速道で多くの車が立ち往生してしてしまって、ガソリンが切れて暖房が止まると大変、ということで自衛隊がしゅつどうする騒ぎになったのも、磐越道の猪苗代付近ですし、会津若松は雪のために陸の孤島になることがあるそう。東北道ではさすがにそこまでの雪はないようですが。。

まずは2日後に行うプラネタリウム公演の準備のために大崎市の「パレットおおさき」へ正午頃に到着。この年末にも打合せで訪れているのですが、今回は笛のT氏が自前で(!)照明器具やらピンマイクやらを持ち込んでのセッティングです。

もともとプラネタリウムには照明施設なんてあるわけないのですが、といって照明がないと能を演じてもさっぱり見えない。。当初は能の上演時には星の投影はやめて、薄暗がりの中で上演するつもりだったのですが、年末の打合せで、投影するプラネタリウムのドームがあまりに巨大で、下の方で能を舞ってもポツンと寂しく見えてしまうことがわかりました。そこで星の投影はしている中で舞うことにしたのですが、今回の準備で照明を点けると、あらら今度は星がまったく見えなくなってしまいました。

まあねえ。。闇の中で星を見るプラネタリウムと、装束や面の表情を照明で見せたい能とは二律背反。。矛盾。水と油。犬猿の仲。月とすっぽん。ぼくはクマ、車じゃないよ。我泣き濡れてカニと戯る。

でもプラネタリウムの技術者の方がいろいろと工夫をなさって、ついに星空の星座を指し示す矢印のようなポインターを映し出す小さなライトを、空にではなく下に向けることによって微妙な明るさで舞台を照らすことが可能になりました。これなら行けそう。

それからサウンドチェックを行い、なんとか公演のメドがついたのが午後3時。この日は気仙沼でワークショップを行う予定なのでホントは大崎での準備は1時間で終わらせる予定でしたが、大幅に遅れました。それでも上演の成果に手応えは感じることができたので、これはこれで良かったと思います。さてさて急いで気仙沼へと出発しました。

ト.。トイレ貸してくださいっ (×_×;)

2012-02-15 00:59:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
仮設トイレ、3基ゲットだそうです。

下記にお願い致しました仮設トイレの提供のお願いですが、「チーム神戸」より連絡があり、3基を無償で提供頂いたそうです! 無償とは!

提供してくださったのは石巻で事業展開されている神戸の業者さんだそうで、ははあ、やはり震災の実体験があるから親身になってくださるのですね。素晴らしいことです。。というか ぬえのようなシロートが出る幕じゃなかったかなあ。ぬえが今日まで探した範囲では、ものすごい高額のレンタルしか見つかりませんでした。

とはいえ、3基という数は必要最低限のものでしょう。引き続きご支援をお願い申し上げます。無償の提供がありましたのでちょっとハードルは高くなりましたが、善意をお寄せ頂ければ幸甚でございます。

今回は多くの方から情報を寄せて頂きました。お声掛けをしてくださった方々には厚く御礼申し上げます。今後とも変わらぬご支援をお願い申し上げます。

                              ぬえ



東北支援活動から帰って参りました~。そんで今日は申合、そのあとお弟子さんのお稽古。。長い1日でした。

さて活動のご報告もありますが、まずはこちらからっ

3/11。。あの日から1周年を迎える日、石巻市の元避難所・湊小学校では追悼のための式典が催されます。
ぬえもそれは以前から知っていましたし、当初から式典に参加する予定でした。この小学校では ぬえも何度となく能を舞い、いろいろな経験をしました。能楽師としての ぬえの、ある種のターニングポイントとなった思い出深い場所です。

しかし今回は「追悼集会」。もとより ぬえが能を舞うような場面ではないと考え、おごそかに参列者の1員として式典を見守るつもりでした。ところが今回の宮城県訪問の最終日にこの式典の打合せに参加したのですが、意外や ぬえも能や謡で、またプロジェクトメンバーのTさんも笛で、式典に出演することになりそうです。

ところが肝心の式典会場である湊小学校に大問題が発生していることがわかりました。。トイレが使えない

詳しくはチーム神戸の無尽洋平くんがfacebookで呼びかけをしていますが、アカウントをお持ちでない方のために情報をコピペしておきます。

◆◇◆◇  ◆◇◆◇  ◆◇◆◇  ◆◇◆◇

『石巻3.11市民追悼の会開催のお知らせとトイレ提供のお願い』
※是非ご一読お願いします。

自分は6月1日に被災地、石巻に入り、最初は湊小学校という指定避難所...の運営を行い、避難所解消後の10月11日からは、「ふれあいサロン」を湊町に構え、地域に根付いて地域支援活動を行なってきました。

そして震災から1年が経つ3月11日に、地元石巻市民が実行委員会を作って、湊小学校で追悼の会を行おうということが決定しました。

石巻に関わった方、湊小学校にボランティアできた方、どなたでもご参加ください。

当日は、同窓会のように、静かに、そして熱く集まって、震災から1年という区切りを感じることができれば、と考えています。

そしてそれに際してのお願いがあります。

先日湊小学校の教頭先生と共に数ヶ月ぶりに小学校に立ち入る機会がございました。
何ヶ月ぶりに小学校に入った結果、わかったことは水道管が凍結のため破損しており、トイレが使用できないということです。

更なる問題は、昨日判明したことなのですが、湊小学校では3月9日に児童による慰霊祭あり、17日には卒業式が開催され、その際に児童もトイレを利用することができないということです。

県内の仮設トイレ事情が、現在建築業者の利用増により飽和していることもあり、もし皆さんの間で仮設トイレを扱う人や業者をご存知の方がいたらつないでいただけないでしょうか。
Facebook上、もしくはy.mujin.11@gmail.com、090-1782-7854まで直接連絡ください。
費用等に関してはご相談させていただきます。

よろしくお願いします。

◆◇◆◇  ◆◇◆◇  ◆◇◆◇  ◆◇◆◇

これは大変。建築業者が仮設トイレを多く利用している、ということもあるでしょうが、宮城県内ではこの日は各地で追悼集会が行われるでしょうから、トイレに限らずテントや暖房器具などイベントの用品は大量に必要なはず。残された時間はわずかしかありません。

どうか読者諸氏の中で仮設トイレ(設置、撤去も)を紹介くださる方を求めます。上記 無尽くんでも結構ですが、ぬえ宛にメールなどで情報をお知らせ頂ければ幸甚です。

湊小の児童や、この周辺で悲しい思いをした「住民さん」が当日は安心して、心静かに、心安らかにこの日を迎えられますよう、どうか助けてあげてください。

どうぞ ぬえからもよろしくお願い申し上げます。。

東北支援公演、行って参ります

2012-02-10 01:03:04 | 能楽の心と癒しプロジェクト
やっと年末年始の東北支援公演の活動報告・決算報告も終わったところですが、え~と、明日から…もう今日から、ですね、またまた東北支援に行って参ります!

ぬえにとってはこれが5回目の支援公演。今回は4日間の滞在で、訪問地は宮城県 気仙沼市・大崎市・石巻市の3カ所。全部で6回の公演が決まっております。

【2/10】(金)
◎気仙沼うを座ワークショップ(ぬえ・T氏) 19:00~21:00 南町「カドッコ」気仙沼市南町2-1-25
前回からお世話になった児童ミュージカル劇団の団員へのワークショップ。あ、今回は一般の参加も呼び掛けていて、昨日の地元新聞に宣伝も載ったそうです。ご来場歓迎!

【2/11】(土)
◎気仙沼公演「能楽の心と癒しをあなたに」(ぬえ・T氏)能『菊慈童』(部分上演)
 10:00~12:00 本吉町大谷公民館(大谷地区仮設住民さん対象)気仙沼市本吉町三島34−1
◎気仙沼公演「能楽の心と癒しをあなたに」(ぬえ・T氏)能『菊慈童』
 16:00~18:00 地福寺(階上地区) 気仙沼市波路上牧44

【2/12】(日)
◎石巻・仮設住宅公演「能楽の心と癒しをあなたに」(ぬえ・T氏)能『菊慈童』
 10:30~12:30 大橋仮設団地 集会所1 石巻市大橋1―1―2
◎大崎市チャリティ公演「星と能楽の夕べ スペシャルゲスト山本実樹子 pf」
 狂言『神鳴』能『羽衣』(ぬえ・T氏・O氏・K氏)
 17:00 パレットおおさきプラネタリウム 大崎市古川穂波4-20

【2/13】(月)
◎石巻・仮設商店街公演「能楽の心と癒しをあなたに」(ぬえ・T氏)能『菊慈童』
 12:00~13:00 立町復興ふれあい商店街 石巻市立町二丁目157番1;

今回の公演の白眉は大崎市のプラネタリウムでのチャリティ公演ですね!
星空の下での能楽。。このお話は幽玄堂さんから頂いたのですが、ぬえはこんな素晴らしいシチュエーションで舞った事がありません。そのうえ先日石巻でもご一緒したピアニストの山本実樹子さんをお誘いして、能も見る、狂言も見る、そうして星空の下でピアノの生演奏も聴ける、というゴージャスな企画となりました。す・ば・ら・し・い。

それから、年末に初めて活動を開始した気仙沼市では、再び児童劇団の子どもたちに会えるのも楽しみですが、気仙沼で初めて仮設住宅の住民さん対象の公演、さらに激甚災害地区の階上地区のお寺で公演できることになりました!

…しかしこの階上地区、ぬえが6月に初めて見たときは、あまりの惨状に目を覆うほどでしたが。。今回会場として提供された地福寺は、まさにそのど真ん中。ここ。。あの状態から復興したんですか??

石巻では2つの公演しか持てませんでしたが、これが両方とも初めて参上する場所でして。ひとつは仮設住宅、もうひとつは仮設商店街です。さらには山形県からボランティアでお越しになっている曹洞宗庄内青年会のみなさんと、はじめて仮設商店街でのコラボ活動も!

ああ~楽しみ! 楽しみ! o(^-^)o

決算報告書

2012-02-09 00:05:07 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト
岩手県・宮城県訪問活動(2011年12月24日~2012年1月1日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金(ボラ扱い) 10,338円
     前回活動繰越金          10,338円
     募金(ボラ=活動支援)      19,2000円
     募金(ギエ=義援金)         5,000円        収入計  217,676円
                          内訳:ボラ 202,338円 ギエ 15,338円

 【支出の部】
  〈活動費〉
    ◎交通費   68,001円
     (ガソリン代             66,201円)
     (駐車代                1,800円)

    ◎雑 費   16,808円
     (宿舎燃料費=灯油実費)      4,428円)
     (DVDディスク等             7,100円)
     (プログラム印刷費            5,280円)     活動費計  84,809円
  〈雑費〉
    ◎銀行引出手数料           105円        雑費計    105円

                                     支出計   84,919円

 【収支差引残額】                          残額    132,762円
                          内訳:ボラ 117,424円 ギエ 15,338円
※注※
・宿泊はすべて現地関係者ご厚意により提供されたため支出なし。
・食費については旅行がなくても掛かる費用であること、遊興との誤解を招くこと、酒食の区別がつきにくい
 ことから経費として支出しなかった。
・収支差額(132,762円)は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・ギエ(15,338円)については金額がまとまってから、もしくは活動の区切りを見て現地支援団体に寄付する。

                                           以上
  平成24年2月5日


                    「能楽の心と癒しプロジェクト」

                               代表   八田 達弥
                               (住所)(電話)
                                 E-mail: QYJ13065@nifty.com






活動報告書

2012-02-08 02:34:07 | 能楽の心と癒しプロジェクト
そういえば元日の午後に地震がありましたね。このとき ぬえは流留のイオンでの公演を終え、渡波地区を視察して、昼食も食べたし、あとはもう東京に帰るだけ、という時でした。しかし連日の公演で疲れも出ていましたし、東京までの長い道のりを思って、笛のTさんと一緒にしばらく宿舎で休憩することにしたのです。

いや~寝てしまいました。ぐっすりと。もとより睡眠障害があって、ふだんから3時間くらいしか眠らない ぬえなのですけれども、このときばかりは泥のように眠ってしまって。

…ところが、あの突然の揺れに飛び起きました。場所が石巻だけに、瞬間的ではあったけれども、恐怖を感じました。…考えてみれば6月に震災後初めて東北地方を訪れた際は、余震はもう毎日ありました。この時も仙台に到着してはじめて感じた地震には恐ろしさを覚えたけれども、その後は余震もだんだんと減ってゆき、なによりも ぬえも慣れてしまって、あまり感情が動くこともなかったですが。。それだけに久しぶりの震度4を石巻で体験すると、恐ろしさを感じます。聞けば震源は鳥島近海…って東京よりもずっと南!? 日本はどうなってしまったんでしょう。

ちなみに石巻では支援団体やボランティア団体は「あの強さの地震がもう1回来る」と想定して活動しています。ぬえもこの宿舎を紹介されたときに、「もしも津波が来たら、この建物は震災でも1階しか浸水しなかったから、あわてて逃げずに2階で様子を見てください」と言われました。もう1度、あれが。。

前置きが長くなりました。この年末年始に行ったプロジェクトの活動の報告書をまとめました。今回はプロジェクトの活動に対して多数の募金を頂戴いたしました。心よりの御礼を申し上げ、頂いた募金により我々プロジェクトがそのような活動をすることができたのか、をご報告させて頂きます。


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能楽の心と癒しプロジェクト
岩手県・宮城県訪問活動(2011年12月24日~2012年1月1日)

 〔活動報告書〕

【趣旨】
 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒しプロジェクト」(注1)の4名(※注2)は、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、すでに8月15日、9月26日~30日の2度に渡り宮城県石巻市および気仙沼市にて能楽を披露する活動を行って参りましたが、このたびゲスト出演の能楽師1名、記録写真撮影のための写真家1名(※注3)とともに去る12月下旬に岩手県および宮城県を訪問、3都市の計12カ所にて13回の能楽の上演およびワークショップを行いました(※注4)。

※注1 団体名は前回9月の活動をふまえ、旧「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」から「能楽の心と癒しプロジェクト」と改称致しました。
※注2 プロジェクトメンバーは八田達弥(シテ方・観世流)、寺井宏明(笛方・森田流)、大蔵千太郎(狂言方・大蔵流)、小梶直人(同)の4名。
※注3 今回の訪問では野口能弘氏(ワキ方・宝生流)がゲスト参加してくれましたが、今後はスケジュールの都合がつく際はプロジェクトメンバーとして活動してくれることになりました。、写真家はY氏(匿名を希望しております)。ともに無報酬での同行です。
※注4 今回の上演場所は①釜石市・鵜住神社②釜石市・宝来館(被災した旅館)③釜石市・鵜!はまなす仮設商店街④気仙沼市・駅前コミュニティセンター⑤気仙沼市・南町紫市場(仮設商店街)内「カドッコ」⑥石巻市・市役所1階無料休憩所⑦石巻市・イオンモール石巻⑧石巻市・ロマン海遊21(石巻駅市観光物産情報センター)⑨石巻市・チーム神戸事務所「ふれあいサロン」⑩仮設開成第11団地集会所⑪石巻市・住吉大島神社⑫石巻市・イオンスーパーセンター石巻東店。このほか12月24日に東京・朝日小ホールで開催された「東日本大震災チャリティフォトトークショー今を伝える」に八田が出演し、プロジェクトの活動を報告しました。

【活動記録】
 12月24日(土)
  東京・朝日小ホールで開催された「東日本大震災チャリティフォトトークショー今を伝える」に八田が出演し、プロジェクトの活動を報告。その後東北地方へ向かい古川に宿泊。
 12月25日(日)
先発隊として東北地方入りしていた寺井と八田が合流、宮城県・大崎市にて翌年2月に公演予定のある「パレットおおさき」にて打合せ。終了後岩手県・釜石市へ移動、宝来館に宿泊
 12月26日(月)
朝、八田・寺井は市内鵜住神社にて舞囃子『高砂』を奉納。
その後大槌町・釜石市鵜住居地区の被災状況を視察、夕方大蔵・野口・Y氏宝来館に到着。
津波で被災した宝来館のプレ・オープニングイベントとして狂言舞囃子『三番三』、能『羽衣』の一部を上演。宝来館の女将さんを『羽衣』の後見として起用。なおこの公演は海底や湖底の清掃活動を行うダイバーの団体「海をつくる会」の企画として開催された。
 12月27日(火)
早朝に小梶到着。釜石市の仮設商店街「鵜(う~の)!はまなす商店街」にて袴狂言『痿痺』、能『菊慈童』の一部を上演。
終演後、大船渡市、陸前高田市の被災状況を視察しつつ宮城県・気仙沼市へ移動。
夕方、気仙沼駅前コミュニティセンターにて狂言『柿山伏』、能『羽衣』の一部を上演。
公演終了後町内会施設「太田二区自治会館」に宿泊。
 12月28日(水)
朝、仮設商店街「南町紫市場」内の児童施設「カドッコ」にて気仙沼市内の児童ミュージカル劇団「うを座」の団員児童を対象に能楽ワークショップを開催。非常に有意義な催し。
終演後、劇団の座長さんの経営するラーメン店で昼食をごちそうになり石巻へ向けて移動。途中、陸前小泉駅、南三陸町歌津・志津川を視察
夕方、石巻市役所1階無料休憩所にて袴狂言『仏師』、能『羽衣』の一部を上演。
これにて大蔵・小梶・Y氏は帰京。八田・寺井・野口は元・門脇中学校避難所リーダーのF氏斡旋により日本緊急援助隊事務所併設の「石巻まちカフェ」に宿泊。
 12月29日(木)
イオンモール石巻「緑の広場」にて能『松風』の一部を上演。
その後石巻市内の門脇地区など被災地区を視察、夕方にロマン海遊21(石巻駅市観光物産情報センター)にて能『菊慈童』の一部を上演。ここにある石巻市観光協会の方々と再会、歓迎を受け、これ以後の活動の協力を頂くことになる。
夜になって石巻での公演の大多数を斡旋してくださったF氏とA氏と懇親。石巻の現状と今後の課題などを詳しく教えて頂く。
 12月30日(金)
避難所閉鎖以後チーム神戸の新拠点となっている「ふれあいサロン」へ。開所祝いとして居囃子『高砂』を勤め、その後 能『菊慈童』を上演。お客さまは近所の住民さん多数。
前回もご一緒させて頂いた曹洞宗庄内青年会の渡辺祥広さんもご一緒に活動を行われ、お客さまに茶菓などのサービスをされる。上演後もお客さまに装束の着付け体験を行うなど楽しいひと時。このときチーム神戸のお計らいでお客さまより寄せ書きを頂く。プロジェクトとして初めての勲章。
終演後「明友館」の新拠点「みなと荘」にて開所祝いの居囃子『高砂』を勤める。
夕方、仮設開成第11団地北集会所にて能『羽衣』の一部を上演。おそらく能楽界として東日本大震災による仮設住宅での初めての上演。終演後は装束の着付け体験を行う。
これにて野口氏は帰京。
 12月31日(土)
仮設開成第11団地北集会所にて年越しイベント。午後に寺井氏による笛のワークショップ、能『菊慈童』の一部を上演。
終演後子どもたちとしばし一緒に遊び、またホストの山本実樹子さん(ピアニスト)、宮澤等氏(チェリスト)の鍋パーティーのお手伝い。
深夜チーム神戸の年越しに合流、近所の松巌寺にて除夜の鐘を撞く。
 1月1日(日)
早朝、石巻市内の住吉大島神社にて舞囃子『高砂』を上演。
昼、流留のイオンスーパーセンター石巻東店にて能『菊慈童』の一部を上演。
終演後渡波地区の被災状況を視察、夕方に石巻を出発して帰京。

【収入・支出】
 今回の活動資金は、ほぼ全額をプロジェクトとして呼び掛けた募金によりまかないました。募金は新たに開いたプロジェクトの銀行口座に振込して頂くことをお願いし、その際に被災地への直接支援としての義援金としての協力の場合は「ギエ」、プロジェクトの活動資金協力の場合は「ボラ」と振込人名の前につけて頂くことにしました(無記入の場合は「ボラ」と判断)。募金の内訳につきましては別紙「決算報告書」にて改めてその内訳を明示致しますが、1月30日現在で「ボラ」192,000円、「ギエ」5,000円の総額197,000円を頂戴しております。関係者各位に対し、厚く御礼申し上げます。
 また前回の活動の余剰金(20,676円)につきましては、これも募金およびチャリティイベントの収益ですが、当時はまだ募金者に対して「ボラ」「ギエ」の意思を確認せずに単なる支援協力金としてお預かりしております。これについてプロジェクトメンバーと協議した結果、総額を等分に分け、「ボラ」「ギエ」それぞれ10,338円ずつとして取り扱うことになりました。これにより収入はボラ 202,338円、ギエ 15,338円となります。
 これに対してプロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。現在被災地支援対策として白河以北の高速道路について無料化措置が取られていますが、さらに引き続き石巻市災害ボランティアセンターから発給される「災害派遣等従事車両証明書」の認定を受けることで東京~白河間の高速道路料金も免除されております。
 宿泊につきましても今回は関係者のご厚意により釜石市では上演会場である旅館「宝来館」に、気仙沼では町会施設に、石巻ではボランティア団体の拠点に、それぞれ無償で宿泊させて頂きました。また参加者のすべての食費はそれぞれ個人的に支出する方針を堅持しております。
 これにより支出の内容は公演プログラムの印刷費、記録用ビデオテープや関係者に後日配布したDVD、また宿泊した施設で使用したストーブの燃料実費などの事務雑費のほかはもっぱらガソリン代、駐車料金の交通費に限られることとなりました。活動費の支出合計は84,809円となりました。また活動とは直接関係ありませんが、銀行の支払い手数料として 105円の雑費が発生しております。
 これらの結果、収支差額として132,762円の預金残金(うち「ボラ」117,424円、「ギエ」15,338円)が出ました。収支差額のうち「ボラ」は次回の訪問の活動資金として活用させて頂きます。現状では来る3月10日をもってボランティアセンターから発給されていた「災害派遣等従事車両証明書」の廃止が宣言されており、今後の活動には資金的に困難な状況が予測されます。引き続きまして活動支援をお願い申し上げる次第です。
 「ギエ」につきましては、金額がまとまってから、もしくは活動の区切りを見ながら現地で活動されている支援団体に寄付致します。

【成果と感想・今後の展望】
 プロジェクトとして3回目となる今回の支援活動では、これまでの石巻市にとどまらず、岩手県・釜石市、宮城県・気仙沼市に活動の場を拡げ、9日間に13公演(ワークショップ含む)を行う、これまでにない大規模な活動となりました。しかしそれは単に滞在日数や公演回数の面だけでなく、いろいろな場面での上演が実現できたこと、新しい人々との多くの出会いがあったこと、またマスコミに活動が取り上げられたことなどが大きな成果であったと考えております。
 釜石市ではプロジェクトメンバーの寺井宏明の仲介により、「海をつくる会」が支援してきた被災した旅館「宝来館」の復興再建のオープニングイベントとして能楽公演を企画して頂きました。この旅館と女将さんは、津波が襲った瞬間の映像がYoutubeなどで紹介されたことからマスコミの注目を集め、みのもんた氏が司会を務めるテレビ番組「朝ズバッ!」で継続取材がなされており、プロジェクトの公演も1月5日の同番組で放映されました。それのみならず同旅館での公演の様子は読賣新聞全国版において12月27日にカラー写真入りで報道されました。プロジェクトの活動が報道されたのはこれが初めてです。
 気仙沼では、たまたま一昨年から指導をすることになった東京の劇団「演劇倶楽部・座」の座長である壌晴彦さんの斡旋により、当地の児童劇団「うを座」のご協力を賜り、市民対象の公演と劇団員の児童対象のワークショップが実現しました。気仙沼は八田・野口にとって学校公演の経験を持つ町で、ここへは何としても上演したいという希望を持っておりましたが、ようやく実現することになりました。ワークショップの会場となった南町は気仙沼市内でもとくに激甚災害地だったところですが、すでに仮設商店街が開かれ、その併設施設として設置された被災商店を改装した児童施設が会場となりました。集まった子どもたちの笑顔はその復興の証しとして我々の活動に大きな励みをもたらしてくれました。
 また今回は釜石市と石巻市において神社での奉納と、釜石・気仙沼で仮設商店街での上演が実現しました。これもプロジェクトとして初めての経験です。地元を守護する神の御前で祈祷を受け、奉納することは能楽を演じる立場として必要でありながら、これまで実現する事が叶いませんでした。また仮設商店街の振興活動への協力は、震災から9ヶ月を超えて、これから前へ進んで行く被災地への支援として、これまでにない新しい視点を我々にもたらしてくれました。どちらも地元の方々との信頼関係が生まれたからこそ実現できた事と感謝しております。
 そして石巻市で行った仮設住宅での上演。すでにプロジェクトでは湊小学校避難所や門脇中学校避難所でこれまでに2度に渡り上演活動を行いましたが、10月11日に石巻市が避難所を全面閉鎖するまで、おそらく避難所で能楽を上演したのは我々プロジェクトだけではなかったかと思います。この避難所で出会った支援者や避難所のリーダーとの話し合いから、今回の仮設住宅での上演が実現しました。こちらも仮設住宅での能楽の上演は初めての試みだったと思います。仮設住宅での催しは、上演することだけでなく、その後の住民さんとのふれあいの時間がとても大切だということを感じましたが、とくに今回は大晦日の上演があり、住民さんとともに過ごす時間は非常に示唆に富んだものになりました。わけても初めて知った子どもたちの心のキズの大きさ。。これは取りも直さず住民さん方の心の傷が子どもたちだからこそ率直に現れたものでありましょう。これからも息の長い活動を続けて、心の癒しを図っていく事が必要だと痛感しました。
 6月以来ずっとお世話になっている石巻の支援団体「チーム神戸」「明友館」には今回もお世話になりました。分けてもチーム神戸のリーダー金田真須美さんは我々の活動を応援してくださり、公演の終了時にはお客さまからの寄せ書きをプレゼントしてくださいました。これはプロジェクトが初めて手にした住民さんからの感謝の形。感謝を目的としている活動ではないのだけれど、これは我々にとっての勲章です。いまその寄せ書きは額に入れて八田の部屋を飾っております。チーム神戸のブログでは我々を「常連ボランティア」と呼んでくださり、これもまた我々を勇気づけてくれました。チーム神戸とは大晦日に一緒に鍋をつつき除夜の鐘を撞きに行き。。いろいろな事を学ばせて頂いております。
 この寄せ書きを頂いたときに気づいたのですが、最初こそ「被災地支援」のような格好のよい理由をつけて活動を始めたのですが、いつの間にかそれが段々と形を変えてきています。いまは、避難所で会った、あの石巻の住民さんの優しさに触れたくて、あの おばあちゃんたちに会いたくて石巻に通っているのだと思います。寄せ書きを頂いたときに金田さんにそれをそっと言ったら、金田さんも「それでいいんやで。私たちもどちらが元気をもらっているのかわからんな」と。濃い時間が、ここにはあります。
 また湊小学校避難所でチーム神戸からの斡旋で知り合った山形県の曹洞宗庄内青年会の渡辺祥広さん。こちらはそのあまりに献身的な活動に感銘を受けて当方から活動への協力を願い出たのですが、さすがに年末とてお寺のスケジュールもあって困難のところ、お一人でわざわざ駆けつけてくださいました。チーム神戸「ふれあいサロン」での茶菓のふるまいは、一人で参加と思えないほどの物量で、しかもお客さまに大好評でした。渡辺さんとは次回もご一緒に活動を続ける予定です。
 石巻では今回は何を措いても元避難所リーダーのF氏の全面的な協力なしには活動はできませんでした。F氏は震災前はあまり外出もしない生活だったようですが、避難所でその隠れた才能が開花。いまでは仮設住宅に住みながら、支援活動の最先端に立って活動しておられます。石巻での今回のプロジェクトの活動の半数以上はすべてF氏がまとめてくれたもの。石巻の現状や展望など、いろいろな教示も頂きました。
 そのほか石巻観光協会の佐藤さんやローカル局「ラジオ石巻」など、以前に飛び込みのように協力をお願いし、いまではプロジェクトの活動を歓迎して協力してくださる方も多くいらっしゃいます。さらにプロジェクトの活動に賛同して献身的な協力をしてくださった能楽師の野口能弘さん、写真家のYさん。これらの方々の協力なしには活動を抜きにしてはこの成功はあり得ませんでした。

 前回、9月の訪問では事前にほとんど催しらしい催しが決まらず、苦しいスタートではありましたが、実際に活動を重ねてきた今回はそういう危惧はまったく感じませんでした。段々と活動が当地で受け入れられてきたのだと実感を持っています。

 しかしながら、当地の現状は必ずしも楽観を許しません。避難所が閉鎖となり住民さんの生活の場が仮設住宅に移ったことにより、食料支援や住民さん一人ひとりへの支援は難しくなっています。さらに抽選による仮設住宅の割り振りによる高齢者の引きこもりの問題、延長されてきた雇用保険が打切になる事実、そのうえ3月11日。。震災の1周年を境にしてボランティア団体の大量撤退が起き、それに伴って高速道路の通行料無料化措置などボランティアへの支援体勢も大幅に削減される可能性があること。。それに反比例するかのように世間の被災地への関心が薄れてゆく予想。むしろ事態は悪化の一途と言ってもよいのかもしれません。いま「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」では2月中旬と、3月11日の追悼集会への参加を計画しております。これらの大きな転回点を迎える予感のある被災地で、次に何をすることができるのか。課題も山積ながら、息の長い支援が続けられるよう意気込みを新たにしております。どうぞ今後も変わらぬお力添えを賜りますよう伏してお願い申し上げます。


平成24年2月5日


   「能楽の心と癒しプロジェクト」


      代表   八田 達弥
          (住所)(電話)
           E-mail: QYJ13065@nifty.com


東北支援の旅、スタートしました!(その22=渡波~旅のおわり)

2012-02-06 19:27:39 | 能楽の心と癒しプロジェクト
流留のイオン公演を終えて、これにて今回の訪問のすべての予定を完了しました。
12月24日に浜離宮の朝日小ホールで行われた震災のチャリティ・フォトトークショーから数えて2012年の元日まで、2県3都市にまたがる9日間、14公演を無事に、そして成功裡に終えて ようやく安心。

翌1月2日は師家の「謡初め」があるのでこの日のうちに急いで東京に帰らなければならないのですが、まあ、石巻~東京間は通い慣れて様子のわかっている道でもあり、ずっと滞在していたので名残惜しさもあり、流留からはほど近い渡波(わたのは)に立ち寄ってみることにしました。

それというのも、30日の仮設開成団地で出会った子どもたち…津波ごっこを ぬえが目撃したその子どもたちに、「君たちはどこの子?」 と聞いたところ、「渡波~」という返事が返ってきたので、それが気になって、いまだ足を踏み入れたことがない渡波地区の様子を見ておこうと思ったのでした。

渡波は石巻から女川へ向かう途中にある地区で、牡鹿半島の付け根にあたるところ、万石浦(まんごくうら)という大きな湖の近くにあります。湖といっても万石浦は石巻湾とつながっている汽水湖で、渡波はこの石巻湾と、それから湖を結ぶ細い水路にも面している割と広い地区で、津波の甚大な被害を受けた、ということは早くから ぬえも伝え聞いてはおりました。

まずはJR石巻線の渡波駅へ。流留から渡波駅前に通じる国道には異常はなかったのですが、渡波駅は休業中のままでした。石巻線は女川の被害が甚大だったために、石巻~女川間はいまだに不通なのです。しかし駅舎などに被害の痕跡は感じられず、このあたりは冠水程度の被害で済んだようでした。



駅のすぐそばには「渡波小学校」が。…これは開成団地で会ったあの子たちが通っていた学校かな? こちらも湊小学校のような大きな被害は見受けられず安心した…のですが、よく見ると1階の昇降口のガラスは割れてベニヤ板で塞いだままでした。瓦礫が片づけられてようやくこの様子になったのですね。。渡波から開成団地までは直線距離にして数kmも離れているでしょうか。あの子たちはめぐり巡ってこんな遠いところから仮設住宅に住むことになったのか。。



国道を越えて海側に行くと、状況はどんどん悪くなっていました。こちらは渡波港周辺の水産加工工場が集まっているあたり。傾いた電柱がそのまま放置されているのは、夏頃から後は見かけなくなったものでしたが。。



こちらは傾いてしまった釣り具屋さん。すぐ向かいの堤防が破壊されてしまったために、満潮時には浸水してしまうようです。



港にあった、おそらく漁船に氷など供給するための施設。こちらも破壊されて水没したままになっています。



周囲を見ればかなり片づけられたものと思われますが、やはり大きな被害を受けた家屋のいくつかは放置されたままになっています。



震災からこの時点で9ヶ月半。どこを見てもそうなのですが、駅や繁華街、国道などの周辺と比べると、そこから離れた地域は震災直後からあまり状況は変わっていないように見えます。湊地区しかり、不動町しかり。。順番に復旧が進んでいくので仕方のないことではありますが、あまりにその違いが鮮明で、不思議な違和感も感じてしまう。。

渡波を後にして、今回の活動でお世話になった方々にご挨拶をして。仙台方面に向けて車を走らせる頃には、もう日が暮れかかっていました。最後に石巻港に立ち寄って夕暮れの港を眺めて感慨にふけって。。またすぐに来るんですけどね。(^_^;

こうして ぬえにとっては4度目の東北地方支援活動は終わりました。東京への帰路も順調に走って、T氏をお宅までお届けし、日付が変わった直後には ぬえも自宅に到着しました。

この度の訪問ではこれまでで最長の滞在と多くの活動ができました。また多くの人とも知り合いになることができました。ぬえたちの訪問を受け入れ、便宜を図ってくださった関係各位、また募金などの面で ぬえたちを支えてくださった多くの方々には、この場で失礼ではありますが、心より御礼を申し上げたいと存じます。

ぬえが出会った様々な人々。みな ぬえには明るく接してくださいましたが、正直な感想を申し述べさせて頂ければ、状況はどんどん悪くなっているように感じます。苦しみを乗り越えて来られた方々が、安心して生活できるように。。ぬえなぞには到底お力になれるわけもないのですが、せめても、能の持っているパワーで心に平安が訪れる、その一助に、今後ともなっていきたいと願っております。。

【この項 了】

東北支援の旅、スタートしました!(その21=石巻のご来光)

2012-02-05 01:05:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ああ、このブログも やっと年が明けました。(^◇^;)

年始は早起きして宿舎からほど近い住吉大島神社へ。ここで奉納の舞囃子をすることになっています。

考えてみれば今回の訪問では最初に訪れた釜石市・鵜住居で鵜住神社さんに舞囃子を奉納したのが活動のはじめで、活動の終わりの日…元旦に石巻で再び神前で奉納できたのはとっても幸いなことでした。

そのうえ、もう半年間も石巻に来ているのに、これまで一度も地元の神様の前でご挨拶もしていなかったので、これは ぬえにとっても大変ありがたかったのです。この神社での奉納のお話は開成仮設団地にお住まいのFさんから頂いたのですが、ぬえはもちろん飛びついて出演できるようお願いし、ほかの公演スケジュールから考えても元日のこの日の奉納しかなかった。これが結果として一番良いタイミングでの上演になりました。地元の町内会のみなさんも本当に喜んでくださって、全面的なご協力を頂きました。

この住吉神社、じつは石巻を象徴するところにあるのです。石巻駅からもほど近い距離にあり、北上川にすぐ面したところに鎮座する住吉神社ですが、その目の前の川に 四角い石がちょっと水面から顔を出していて、流れる川の水がそこで小さな渦を巻く…この石を「巻き石」と呼んでいるのですが…そう、石巻の名称の由来なのですね。





ところが…震災による地盤沈下で、この巻き石は水の下に沈んでしまったのだそうです。

そうして巻き石のすぐそばまで川岸からせり出していた小さな洲…公園のように整備されていましたが、ここも津波で壊滅。いまは立ち入り禁止の札があってロープが張られている無惨な状態でした。。

さて神社に到着すると、Fさんが待っていてくれ、まずは神社の小さな裏山に登りました。をを~、ちょうどご来光が上ってくるところに遭遇! Fさんとは、町の建て直しのために練られている計画…数mの高さの堤防を造ることなど…を伺い、その是非が論じられていることを聞きました。町を見下ろすこうした高台から眺めていると、石巻がどこへ向かおうとしているのか…いつまでもいつまでも、逡巡から抜け出せない もがきのようなものが感じられます。生活の根底を突然覆された、その苦しみは ぬえのような部外者には到底分かるはずもないでしょう。。

このあと町内会のみなさんも集まってくださり、ご一緒に拝殿の中へ。これは ぬえの方からお願いしていたことで、市内の羽黒神社と兼任でお忙しい宮司さまもわざわざお出まし頂き、笛のTさんと一緒にお祓いを受けてから、舞囃子『高砂』を奉納しました。上演場所がなかったもので、境内の砂利の上が舞台です。最近砂利の上で舞う機会が多いな~。

終わってみると足袋の裏は真っ黒け。社務所で着替えさせて頂きましたが、町会長さんは珍しそうに ぬえの真っ黒な足袋を撮影されていました。

じつは公演はこれが最後ではありませんで、このあと流留(ながる)という万石浦のそばにある地にあるイオンショッピングセンターでも公演がありました。川を渡って不動町のあたりから牧山(まぎやま)トンネルを越えて流留へ。

このへんも震災の被害があったのですが、市の中心部からは離れていて、こちらのショッピングセンターは周辺の雇用の中心となっているところ、ということで、これはFさんの方から公演の依頼がありました。会場はフードコートの中、ということでしたが、むしろゲームセンターの前、と言った方が正しいかな。最初は騒音に驚いたのですが。。じつは今回の訪問の中ではもっとも広い上演スペースで、周囲の環境はともかく、ぬえの本音を言わせて頂ければ、ここで舞うのが一番楽しかったのです。広々としたスペースで「走り回りながら」楽を舞いました。

※トップ画像は「絆ブログ」から拝借しました。

東北支援の旅、スタートしました!(その20=松巌寺の除夜の鐘)

2012-02-02 22:54:37 | 能楽の心と癒しプロジェクト
まだ大晦日。(^◇^;)

そうこうしているうちに夜も更けてきまして。「チーム神戸」の金田さんから「さあ、ここに来たからはもうひと仕事してもらうでえ」と ひと言。この夜中に何の仕事かと思ったら、近所の松巌寺さんに除夜の鐘を撞きに行くんですって!

厚着をして外に出て、そぞろ歩いて行くと、いつもはしっかり見ないでいた湊町の街並みは、ものすごい被害の有様でした。あまりにも美しい星空の下で、壊れた家並みがどこまでも続いている光景。。途中で遠藤さんが1軒の大きな家の前で「ここ、おれの仕事の社長のうち。おれ、津波のときはここに来たところだったんだ。ここに入れてもらえたから助かったんだよな」と。

歩いて5分程度で松巌寺さんに到着しました。近づいてすぐにわかるほど境内はライトが煌々と灯されていました。境内に入ってみると、大きな松の木から吊り下げられているように見える鐘は。。クレーン車で吊られているのでした。聞けば松巌寺さんでは元々鐘がないそうで、しかしご住職さまはこの未曾有の震災の年の暮れには鎮魂の意味も込めて、また新しい年を無事に迎えるためにも除夜の鐘をみんなで撞くことを思われ、そうしてわざわざ秋田県から? 鐘を借りてきたのだそうです。

やがて住職さまからご挨拶があり、最初の鐘が撞かれました。大きな大きな事件が起きたこの年ももう終わり。また新しい1歩を明日から進み始めるのですね。それぞれが万感の思いを込めて、順番に鐘を撞いてゆきました。

ちなみにこの時の様子は後日「サンデー・モーニング」で放映されました。ほかにも、どうも「ふれあいサロン」でも見知らぬ顔が多いな、と思ったら、これは神戸から金田さんの活動を取材に来たテレビ局の方でした。年が明けてから、1月17日の阪神淡路大震災の日には、金田さんはバスを仕立てて石巻の人々を連れて神戸に行ったのです。同じ震災被害を受けた街がどのように復興を果たしたのか、それを市民のみなさんにひとつの参考としてもらうべく。ボランティア団体もいつかは石巻を去る日が来る。最後には市民が自分たちの手で復興の作業を押し進めていかなければならないのです。。こうした啓蒙にも力を入れる金田さんの活動には頭が下がります。さればこそ取材も来ていたのですね。

ぬえも鐘を撞いて。。そうして金田さんにご挨拶をしました。「明けましておめでとうございます」
…即座に金田さんはそれを制して言いました。「ここではね。おめでとう、じゃないのよ」
…そうでした。この街では本当に多くの、多くの人が「喪中」なのです。うかつでした。。

もう2月になったから白状してよいでしょう。ぬえはこの正月に東京でも「おめでとう」を言わずに過ごしていました。これは意外に難しかった。。目上の方には「新年のごあいさつを申し上げます」と言ったり、同輩には「あけまして。。こんにちは~」(*^。^*) と笑い話のように挨拶したり。。でも ぬえの心は石巻のみなさんと一緒に「喪中」のままなのでした。

…とは言え、松巌寺ではあちこちに笑い声も響き、明るい年が明けた予感。

こちらでは住民さんたちに混じって緑ちゃんと無尽くんがふざけています。



金田さんは…ああ、やっぱり取材中でした。



ぬえらは翌日…元日の朝からさらに2つの公演の予定があったので、深夜1時頃に松巌寺を辞して宿舎に戻りました。