ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『歌占』。。運命が描かれる能(その28)

2008-06-30 15:00:24 | 能楽
今年に入ってはじめて3日間の休暇をとって茨城県・鹿島市に来ています。今回はネット環境がない(!)ので、なんとかインターネットカフェを見つけて、そこから書き込みをしている、というお粗末さです。。


観世十郎元雅の作として現在認められているのはわずかに『隅田川』『弱法師』『盛久』そして『歌占』の4曲で、これからして元雅の人物像というか、その作品世界の全貌を推し量ろうとするのは非常に難しいでしょう。また元雅には有名な多武峰様の実馬・実甲冑の演能の記録もあり、現代人の感覚から簡単には当時の演能の実態に迫るのもまた至難と言わざるを得ません。

ところが、ぬえは元雅が30代なかばで亡くなった事実を知ってから、ぐっと彼に興味を持ちはじめました。そうなると。。『隅田川』や『弱法師』のような深い人生への洞察をきわめたような曲は、彼が20代に書いた可能性さえあるわけで。いったい、どんな人生を歩んできた人なんでしょう。

元雅の父・世阿弥は、若い頃に足利義満に認められてからもそれにあぐらをかくことなく研鑽を怠らないで、経験に裏打ちされてついに世界でも最も古く、それでいて高度な演劇論を構築した、その偉業は ぬえも意義を差し挟むようなものではありません。必ずしも幸福だったとは言えない人生だったとしても、当時としては長寿だった世阿弥が生涯ロマンチストであり続けた(と思う)ことを、その作品は物語っているように思います。しかし ぬえは、元雅が残した作品のその深さに惹かれるのです。この世には抗えないものも存在していて、人間は否応なくその力に巻き込まれて苦しむ。。『弱法師』も『盛久』も最後はハッピーエンドに作られているのだけれども、それだけではない深いテーマは、もっと作品の内部に潜んでいると思います。そう考えたとき ぬえは『歌占』に、やっぱり人間が抗えない神の存在というものが描き出されているように感じて、ああ、やっぱり元雅の作品らしい。。と気がついたのでした。

昔の人はみんな神の存在を心から信じて畏怖や敬意の念を持っていました。それが、世阿弥の作品の中の神は、たとえば『高砂』にしろ『弓八幡』にしろ、人間を祝福するために、それを目的として登場する(ワキ・紀貫之の馬を倒して彼に神罰を与えるかのような『蟻通』にしても、シテの蟻通明神は最後には馬を蘇生させ、貫之の和歌の才能に感激したために現れたのだ、と述べていますし)。。いささか西洋的?な描かれ方なのに対して、元雅の描く神仏はずいぶん様子が違いますね。

『歌占』ではシテ渡会に神が与えた神罰は、三日間の地獄体験、というすさまじいものでした。そしてこの曲では、神から授かった特殊能力であろう歌占いによって自らの運命が左右されるという数奇な体験が描かれています。刑死の直前に奇跡を起こして信心深いシテの命を救う清水観音が描かれる『盛久』にしても、父に捨てられた悲しみから盲目となりながら、信仰のために日参した天王寺で偶然にも父に巡り会う『弱法師』にしても、どこか神仏は威厳を持って、人の手の届かないところから人の運命を左右する存在です。そしてその力はときには心から人が願う望みを叶えてくれないことだってある。。『隅田川』はそう言っているようです。

神仏の気まぐれによって人間はその生死さえ左右されてしまう。なんだか現代人が困ったときに神頼みをするときに、やはりどこか半信半疑であるのと同じ気持ちのような。信じる者は必ずしも救われるわけではなく、どうしても動かすことのできない「運命」からは逃れられない。そのときに人はどう対処するのか、という事が元雅の一連の作品の中で描かれているような気がします。

なんだか、こういう能を書く人は幸せだったのかなあ。。? もちろん元雅が悲運の大夫だったのは有名なのですが、現在にまで残されたこういう曲は、まだ座の活動が活発だった時期に書かれたのだろうと思いますし、そう考えると、自分の運命を予感していたかのような作品を残した彼って。。やっぱりスゴイ。。というか、不思議な人だなあ。。

『歌占』。。運命が描かれる能(その27)

2008-06-28 03:08:44 | 能楽

『歌占』の上演からもう1週間以上経っているのですね~。ここのところ忙しい日々を送っていてあまり書き込みができません~。そのうえ『歌占』の事を考察するのは いまさら、という感がしないわけでもないですが、ちょっと考えたことやご紹介したい事もあるので、書き継いでみることにしました。

まずは作者・観世十郎元雅のこと。ぬえは以前から『歌占』という曲は、どうも元雅「らしくない」能だと思っていたのですが(読者の方々の中にも同じ思いを持つ方は多いと思いますが。。)、さりとて世阿弥の伝書の記述ぶりを見るに、作者が元雅であることは疑いないようです。世阿弥伝書の記述をいま列挙すると。。

「歌占 元雅曲 是ハイセノ国二見ノ浦ノミコニテ候」(『五音』)
「地獄曲舞 南阿曲付 是ハ哀傷ノ声懸也。作書山本 百万能之内」(『五音』)
「序をば序と舞、責めつ含めつすること、定まれる也。剣樹共に解すとかや、石割地獄の と云所をば、きつと低く成りて、小足に拾う所也。さやうに責めては延べ責めては延べ、火燥足裏を焼く など云所にては、はや手も尽き、いかん共せられぬ所にては、後などへ理もなく踏んで退り、きりゝきりゝと廻り手などして、飢へては鉄丸を呑み などいふ所を待受けて、喜ふで扇を左へ取りて、打つ開きて、押して廻りなどする。かやうに道を守り得て、すべき時節時節有を、たゞ面白し斗見て、いまだ手も尽きぬにくるりと廻り廻りなどする、あさましき事也。(『申楽談儀』)

ちょっと判りにくい点もあるかと思いますが、現代の能楽研究の成果によれば、『歌占』は次のような経緯で成立したと推測されます。このことは昨年末に『山姥』を勤めたときにもこのブログで少し触れましたですね。なんだか機縁のある曲を連続して上演できて、不思議な感覚。

古作の能『嵯峨物狂』は作者は特定できないものの観阿弥が得意としていた曲で、一方当時、山本某作詞・海老名南阿弥作曲になる「地獄の曲舞」という、能とは別の芸能の曲舞(くせまい)があった。観阿弥は女曲舞の百万の流れを汲む賀歌女の乙鶴に曲舞を学び、おそらく彼が「地獄の曲舞」を能の『嵯峨物狂』に取り入れた。ところが「地獄の曲舞」は女曲舞がシテの『嵯峨物狂』には似合わなかったためか、おそらく世阿弥の手によって廃棄され、代わりに新作の曲舞が挿入され、これが現行の能『百万』となった。一方、捨て去られた「地獄の曲舞」は観世十郎元雅によって再利用され、現行曲『歌占』が新作された。

なんと親子三代に渡って取捨選択・廃棄再利用が図られて、1番の能(と1曲の曲舞)から2番の現行曲が作られたのです。

それにしても元雅の作品とされるほかの能『弱法師』『隅田川』『盛久』と比べても、『歌占』はかなり異質。というか、むしろ能の中でも、臨死体験をし、若い身ながら総白髪という特異な風貌の主人公が登場する曲は『歌占』以外には『蝉丸』ぐらいしかないでしょう(人間の役、として。『鵺』や『殺生石』のような怪物は除外して考えた場合、です)。そんなシテの設定の特異性からか、ぬえは『歌占』を元雅らしくない曲だと考えていました。

ところが、今回 研能会での上演のためにこの曲の稽古を続けているうちに、なんとなく、ですが、やはり観世十郎元雅の作品なのかもしれない。。と考えるようになってきました。。それが、このブログの記事につけた「運命が描かれる能」という副題のような思いなのです。

千葉県・野田市にて「能を楽しむ会」(7月5日)

2008-06-26 01:20:05 | 能楽

久しぶりのワークショップを千葉県・野田市で行うことになりました。

ぬえの能楽講座といえば体験型であるのみならず、能楽を通して広く日本文化そのものの奥深さを再発見して頂くことを毎回主眼としています。茶道や華道、はたまた武道であっても、その技術論や方法論の根っこは能楽と同じ。能楽という「特別の世界」を知るのではなくて、それが自分たちの先祖が築き上げてきた文化のうえにあって、現代の我々とも繋がっているんだ、という事がわかって頂きたいです。そうすると見えてくる、日本の文化の奥深さ。これを忘れてしまいがちな現代だからこそ ぬえは日本人の文化を誇りをもって再発見して頂きたいのです。何度も言うようですが、日本の文化は世界一だからねえ。。

会場は「野田市市民会館」です。「市民会館」という、お約束の名称ながら、ここは純然たる日本家屋です(!)。千葉県野田市といえばキッコーマンで有名なお醤油の街で、そのキッコーマンの代々の社長さん・「茂木家」の戦前からのお住まいを野田市に寄贈したのが、この市民会館。広大な邸宅は純和風でありながら、広―い浴室にはすでにシャワーが取り付けられていたり、大正モダンの雰囲気があふれる、それはそれは趣のある建築で、主客室のあたりはちょっとした雁行のような造り。ここで日本庭園を目の前に見ながらの能楽講座はさぞや「和の講座」にふさわしいです。

もう日が迫ってきておりますが、予約は不要ですので、お誘い合わせのうえご来場くださいまし~

【期日】 平成20年7月5日(土)午後1時~3時(予定)
【会場】 野田市市民会館(旧・茂木佐平治邸)野田市野田370-8
     (野田市駅より徒歩15分。まめバス・茨急バス「仲町」下車徒歩5分)
【受講料】2,000円(教材費含む)



△▼△▼〈同時開講〉▼△▼△

  「和のおけいこ講座 『高砂』を謡ってみよう」
※ まずは背筋を伸ばして腹式呼吸をすることから。
かつて結婚式で必ず謡われた「高砂」を謡ってみましょう。
     扇や教材は用意しますので手ぶらでご参加ください
【期日】 平成20年7月23日(水)午前10時~12時
【会場】 野田市市民会館
【受講料】1,000円(「能を楽しむ会」に参加された方は無料で受講できます)

装束を着付けてみた

2008-06-22 23:58:26 | 能楽
『歌占』を勤めて2日後には再び伊豆の国市の「狩野川薪能」の稽古でした。

いや! この日は! みんなジャンプアップして上手になった日でしたね~。まあ何と言っても彼ら小学生にとっては初めて能に触れる体験なので、それも「子ども創作能」という、とんでもなくふだんの生活とは異なった環境に飛び込む稽古ですから、少しずつ、少しずつ上達してくる。教えていての手応えも、だんだんと感じてくる。例年稽古はそういう感じで進んでゆきます。そうやって少しずつ みんなの自覚も出来てくるんだけれど、今年は不思議な稽古の進度でしたね~。

なんせスタートダッシュがものすごく速くて、「これは今年の薪能に出演する小学生はイケる!」と思ったものでした。これには稽古のために彼らに渡した資料が良かったのかなあ? なんて思っていました。もう伊豆の国市へ出かけての稽古はこれで9年目になるけれど、当初はカセットテープを渡していたのが、その後MDに代わり(これは再生機器がない、と不評でしたが。。)、今年はとうとうCDに焼いて渡すことができるようになりました。プリントとして渡す資料もだんだんと年を追って充実してきて、初めて能に触れる小学生にも、あんまり戸惑いを与えないように懇切丁寧に作っているつもりなので、その成果が出たのかなあ、と自負していました。

初めこそそうだったんだけれど、その後は。。本当のことを言えば稽古は頭打ち状態でした。いつまでも同じ所を直されてる。どうしても謡や型を覚えてこない。いくら模範に謡ってみせてもぜんぜん声が前に出てこない。。例年よりも むしろ稽古の進度は遅れがちで、ぬえにはちょっと危機感も出てきていたのでした。前々回の稽古ではちょっと厳しいこともみんなに言ったし。

で、前回の稽古ですが、このブログでは控えめに書いたのですが、じつは「ほとんど完璧に覚えてきた!」と胸を張って現れた子が、実際に稽古をしてみたら、これが まだまだで。要するに気構えの問題なんですよね。

そして迎えたこの日の稽古では、みんな それぞれの自覚がちゃあんと芽生えていて、能の中で自分がどのような役割を果たすべきか、そうすれば全体がどういう出来映えになるか、が意識されている。そういう稽古でした。まだまだ演技は荒削りではあるけれども、それぞれが自分の役割を全うして、それを持ち寄ることで一つの舞台を作り上げるんだ、という意識だけは確実に感じることができました。

こうなりゃ、稽古はぐっとラクになります。 ←弱音か? (;^_^A

次回からはそれぞれの役の個別稽古ではなくて、全体の通し稽古を行ったあとに、各役の演技に修正を加える、という作業になるでしょう。そうなれば みんなにも創作能の全体像が見えてくるわけで、ますます自分の役割についての自覚が進むはず。この日の稽古は ぬえ、彼らに拍手喝采、100点満点をつけてあげました。ちょっと甘いか? (^_^;) この日はみんなが着る浴衣や袴の衣裳合わせもして、充実した稽古となりました。

で、綸子ちゃん。

この日は ぬえ、雨の中 稽古用の装束を持参しまして、はじめて略式ながら装束を着てもらって稽古をしました。はじめて袖を返す綸子ちゃん。ををっ! ちゃんと返るではありませんか。時折、装束を邪魔そうにしていましたが、これは当たり前で、でもこれに慣れてもらわないと、本番の舞台で着る装束ではもっと大変だからね~。



この日も綸子ちゃんはちょこっと型を間違えていましたが、ん~、まだまだ稽古は必要かな。実際のところ、散々稽古して「もう『嵐山』は飽きちゃった。。」と思えるぐらいがちょうど良いんです。そこまで到達できれば型は間違えないし、余裕も生まれるから とっさの事故や、万が一型を間違えてもすぐに修正できます。そしてお客さまの前に立ち、真剣に謡い、囃す能楽師に交じっての本番の舞台では、決して「また『嵐山』。飽きちゃって つまんない」とは思うはずがないのですから。


『歌占』。。終わりました

2008-06-21 02:29:47 | 能楽
一昨日に、もうなりますか。研能会6月公演にて『歌占』を勤めて参りました。出来ばえを自分で評価するのは難しいですが、ん~、まあまあ。。でしょうか。あとでビデオを見ましたが、やり過ぎで嫌味なところもあるし、考えていたタイミングを外してしまったところもあるけれど。。よく終演後に襲ってくる、あのたまらない「ダメだ~~っ」っていう後悔までは起こらなかったので、まずは先を見て進もう。

子方を勤めた チビぬえは、声は稽古通り出ていたと思うけれど、座っているときの姿勢や、微動だにしない身体の安定という面ではちょっと後退したかも。稽古でも散々注意されたのだけれど、本人もどうすることもできないらしく、成長の過程で仕方のない事なのかなあ。このへん、ぬえは経験がないのでわからないのですが。。

で、みなさん期待の「まばたき」ですが。(^◇^;)

自分では見事、止められた! と思っていたのですが、録画を見たら。。あら? 登場して橋掛りで謡い出したとたんにパチクリとまばたきしてる。。しかも2回も。それからクセの中で1回、思わずまばたきしていますね。。

まあ、ホントの事を言えば、自分で実際に直面で能を勤めるときに、あらかじめ まばたきの事を話題には出したくなかったのです。そこを注目してご覧になるお客さまが絶対に見所の中にいらっしゃるはずですからね。そしてまた終演後は報告もしなきゃならない。まあ、生理的な、本能的に起きる行為なので、ある程度仕方はないのですが、集中力で、これまた「ある程度」抑えることができる、それは訓練によるものではないから、場面は違えど、集中力があれば誰でもそういう身体的な欲求を抑えることはできる、という事は、直面の曲を勤めるこういう機会だからこそお知らせしたかったのです。

結局は今回はまばたきを連続して止められたのは30分ぐらいになるでしょうか。曲を勤めたその成果とはぜ~~んぜん無関係な話題なんですが、それでも父子がお互いにそれと分かって子方に手を掛けたそのとき、ツツ~~っと涙が頬を伝いました。(;^_^A  チビぬえはそれを見てびっくりしたようです。いやいや、違うよ? 親子の邂逅のシーンに感情移入して自然に涙がこぼれたんではないよ? ドライアイを恐れて本能が自然に対抗したのです。申合では涙は出なかったから、やっぱり能楽堂の空調やらのコンディションは演技に不利な条件ではあったようですが。。

研能会の翌日は、同門の後輩と一緒に、今月末に催される先輩の催しで ぬえが勤める仕舞『三笑』の稽古をしていました。そして今日は伊豆の国市の「狩野川薪能」のお稽古。これからまだまだ大役が続きます。あんまり落ち込まないで次の舞台を目指してゆきたいと存じます。ご来場頂きました方々には、改めまして厚く御礼申し上げます~。m(__)m

ところでその研能会に出勤するのに、はじめて開業間もない東京メトロ「副都心線」というのに乗ってみました。車内は、まあ午後の時間でもあったためかガラガラで。そうして ぬえの自宅からは乗り換えもなく渋谷に到着することができました。こりゃ便利だ。

。。ところが。渋谷の駅地下は、いまこんなになっているのね~。いや、迷った迷った。出口に振られた番号を頼りにあっちへ行ったりこっちへ行ったり。。あれ? なんで行き止まりなの。。? う~~む、この地下で火災が起こったら。。ぬえは逃げ出すことができるだろうか。。そんな事を考えていたら、突然、何やらこの路線のシンボルらしい、え~と、何これ? 虫? の前に出ました。



恐る恐る様子を窺うと。。これはここから下の階に降りるエスカレーターの屋根、なんですね。いまその地下世界。。すなわち南瞻部州の地下にある八大地獄の近所からようやく地上に近づいて、半ベソかきながら日光を求めて彷徨していた ぬえは、今さらまた地下に降りてゆくエスカレーターは、まさに「地獄の釜のフタが開いた」という光景に見えました。。くわばら くわばら。

『歌占』。。運命が描かれる能(その26)

2008-06-18 17:45:34 | 能楽
シテ「あら悲しや唯今参りて候に。これ程はなどやお責めあるぞ。あら悲しやあら悲しや。

「立廻リ」の終わりに一之松にて正面を向いたシテは、大小鼓が打ち続ける中でいきなり謡い出す「謡カケ」と呼ばれる方法で謡い出します。きちんとしたトメの手を待たずに囃子の流れをいきなり分断する手法で、シテの苦悩が腹の底からわき上がって来て、思わず声を出した、という演出でしょう。シテ方の流儀によってはこの「立廻リ」が「翔」であるそうですが、「翔」は囃子の緩急が非常に著しいので、シテの心情や立場の混沌とした様が表せるとは思いますが、一方「翔」は様式的な舞なので、「立廻リ」の茫洋とした印象も、これはこれで似合うと思っています。

ツレ「不思議やな又彼の人の神気とて。面色変りさも現なきその有様。
シテ「五体さながら苦しめて。
ツレ「白髪は乱れ逆髪の。
シテ「雪を散らせる如くにて。
ツレ「天に叫び。
シテ「地に倒れて。

シテの豹変ぶりに驚いたツレが声を掛け、シテは謡いながら舞台に戻り(この辺りの掛け合いは問答ではなくて、ツレから見たシテの有様を描いたものですね)、正先から中まで下がると安座して、それからキリ(終曲)に向かって演技が畳み込むように続きます。

地謡「神風の一もみ揉んで。神風の一もみ揉んで(六ツ拍子と七ツ拍子踏返シ)。時しも卯の花朽たしの(サシて角へ行き右へ廻り)五月雨も降るやとばかり(扇を上げて右上を見、正へ面切り)。面には。白汗を流して(常座へ廻り)袂には(斜に出ながら左袖を出し)。露の繁玉(扇を袖の下に入れて中まで行き)。時ならぬ霰玉散る(正へサシ廻し)。足踏はとうとうと(七ツ拍子)。手の舞笏拍子(正へユウケン扇二つ)。打つ音は窓の雨の(右へウケ扇にて二つ打合、四ツ拍子)。震ひ戦き(正へサシツメ)立っつ居つ(中に下がりグワッシ)肝胆を砕き(正へ安座)神の怠り申し上ぐると見えつるが(正へ出トメ)。神は上らせ給ひぬとて(下がり下居、扇を上げ、倒し)。茫々と狂ひさめて(立ち上がり)。いざや我が子ようち連れて(子方に向き胸ザシにて出、子方を立たせ)。思ふ伊勢路の古里に(左へ外してサシ、脇座にて右へトリ=子方は橋掛りへ向かい、そのまま先に幕へ入る)又も帰りなば二見の浦。又も帰らば二見の(常座へノリ込拍子)。浦千鳥友よびて伊勢の国へぞ帰りける(正へヒラキ)伊勢の国へぞ帰りける(右ウケ左袖を返し、トメ拍子)。

キリの型には一カ所だけ工夫を加えましたが、効果が出るかどうか。。トメ拍子のあと扇をたたんで右へトリ、幕へ引きます。ツレはトメ拍子のあたりに立ち上がり、シテのあとに付き同幕にて幕へ引きます。

ようやく邂逅した子方はシテより先に幕に入り、一方父子とは違う目的地、白山の自宅に帰るツレはシテと一緒に幕に入る。。なんだかおかしいようですが、シテが最後に自分の喜びを表現する(と言っても常座でのサシ込ヒラキ程度で、曲によりここにユウケン扇を加えたりすることもあります)場面で子方がシテのそばに控えるわけにもいかず(それはかえってシテの演技の邪魔になるでしょう)、ひと足お先に故郷を目指して歩み出し、シテはあくまでそうれに同道する心のままでトメ拍子を踏むのです。そうなると子方とシテは一緒に幕に入るのは物理的に不可能で、あくまで「同道の心」で子方の後を追って幕に入るのです。

ところがここで問題になるのはツレの処理で、理屈で考えれば子方とシテは同じ伊勢国二見浦の故郷に帰り、ツレはそれとは別の、この能の事件の現場である加賀国白山麓の近所の自宅に帰るのですから、ツレはシテとは別のタイミングに幕に入るべきなのでしょう。ところがそうしてしまうと、結局三人だけしかいない登場人物がすべて別々のタイミングで幕に入る、つまり幕が三回揚げられることになってしまうのです。おそらくこれが舞台進行上やや煩わしいと考えられて、ツレが助演する観世流ではツレはシテと同幕にて幕に入るのでしょう。この里人の役をワキとする下掛りでは、おそらく他の曲の例から見て、おワキはシテとは別幕で引く~つまり三回幕が揚げられる~ことになるのだと思います。これはおワキという職掌の特徴から来ている演技の主張で、おそらくシテを尊重してくださっておられるのでしょうね。

。。そんなわけで明日が『歌占』の上演当日になりました。なんだか相変わらず、というか、上演の舞台の進行の説明だけで終始してしまいました。。作者の観世十郎元雅のこととか、この曲の上演の歴史の変遷とか、ぬえ以外の演者がこの曲について言った言葉など、書きたかったことはまだあるのですが。。上演終了後に、また日を改めてそれに触れる機会もあろうかと思います。

また明日ご来場くださる方々には、この場にて厚く御礼申し上げます。当日が良き日になりますように。

『歌占』。。運命が描かれる能(その25)

2008-06-17 23:41:30 | 能楽
今日『歌占』の申合が終わり、あとは本番を待つだけとなりました。面については、う~~んと、う~~んと、う~~~~~んと考えた末、面は使わずに直面で勤める事と致しました。まあ、稽古能の機会に自分の演技をビデオに撮って見たら、やはり前半部分は面を使うと自分の演じ方と齟齬が大きいかな、とも思いましたし、なんせ稽古のはじめから直面で勤めるつもりで組み立ててきたので、もう面を掛けて勤めるようには改造が追いつかないかもしれませんですし。

しかし、今日の申合で、もっとも良くできたかなあ、と自画自賛できるのは、上演中ほとんど瞬きをしないで勤めることができた事でしょうか。惜しむらくは、クセの終わりのあたりで髪が目に入っちゃって(←長すぎ。。)、そこで一瞬まばたきをしてしまっただけで、その場面まで40分間まばたきを止められたのは自己新記録ですじゃ。(^_^;) これまでの最高記録は薪能の、『熊坂』の前シテの20分。でもこの時は野外という悪条件だったので涙がボロボロ出てきて困りました。

おそらく、これを読まれた読者の方は40分間まばたきを止める、という事に驚かれるかも知れませんが、これは稽古で培ったものではありません。集中力があれば自然に出来てくることだと ぬえは思います。これはたとえば身体を全く動かさない場面では、曲によっては呼吸をしている事を悟られてもならない場面もあるのと同じで、動かない演技をしているときには まばたきだって自分の意志とは異なって「演技」に見えてしまう事があるから、そのへんが分かってくると「あ、ここで目を動かしてもいけないんだな」と稽古の中で考えるようになる。。そうすると自然にまばたきも抑えられるようになってきます。

また違う例では、たとえば仕舞の中でサシ込ヒラキをする。そのときにパチクリまばたきをすると、なんだか違うエッセンスを演技に加えてしまうと言うか、サシ込の緊張感がそがれてしまう、と気づくと、まばたきが出来なくなってしまうんです。仕舞の時は動きがあるので、後ろを向いた時にまばたきをすれば良いのですしね。もっとも、仕舞程度の長さの演技の最中にまばたきをする能楽師はいないと思いますけれども。。

で、まばたきを止める事が別に驚異的でもない、と ぬえが思うのは、たとえば ぬえの体験で、米国で学生に2週間仕舞を教えているとき、こんな事がありました。

2週間の稽古の中で、その第1一日目から学生には、最終日に予定している発表会で、もっとも良く稽古が進んだ学生を一人選んで、その学生には みんなの前で一人で演じてもらう、と申し渡しておきます。みんなその栄誉をつかみ取ろうと必死に稽古を積んでくれますが、当然脱落する子も多数出てきて、最後には「君に決めたから明日までにしっかりと仕上げてきなさい」と一人を指名します。さて発表会の当日。。仕舞の出来もさることながら、彼は仕舞の最中に自然とまばたきを止めていますね。「やっぱりそうか」と思って、出来映えを誉めてあげてから尋ねてみると、案の定 彼は自分がまばたきを止めていた事に気づいていません。それは彼の集中力が、まばたきさえも演技にキズをつけることを悟って、本能的にそれを自制したのです。

あ、これを読まれたアナタ! だからと言って、当日の ぬえをご覧になって、何分間まばたきを止めているか虎視眈々と様子を窺っちゃダメですよ~。 当日の能楽堂の空調による気流の具合とか、体調によっても簡単に まばたきはしちゃいます。別にまばたきをしないで演じる事を目標にしているワケではないし、ダメな時はダメ。ダメだと思えば、そこは簡単に捨てます。たとえば日頃慣れている正座だって、本当にダメなときは5分だって痛くてたまらない事だってあります。そんなもんです。

ともあれ、今日は大体お囃子方や地謡の具合もわかりましたし、装束も自分で考えていた通りに決定できました。あとはこれを「そのまんま」舞台に掛ける事がないよう、本番には新たなテンションを持ち込めるよう、安心しないで当日に備えるだけとなりました。まだブログでは曲の最後まで行き着いていないので、こちらを早足で進めなければなりませんですね。すみません、曲の考察まではうまくたどり着けないかも知れませんが、がんばって書き進めますので、いましばらくお付き合いくださいまし~~

『歌占』。。運命が描かれる能(その24)

2008-06-16 23:16:21 | 能楽
ところでこの「地獄の曲舞」には「斬鎚地獄」「剣樹地獄」「石割地獄」「火盆地獄」「焦熱(地獄)」「大焦熱(地獄)」「紅蓮(地獄)」「大紅蓮(地獄)」など多くの地獄の種類が描かれますが、じつはこれらの地獄の数々の大部分は経文などには見えない、とても独自性の強いものなのだそうです。それについて、ある僧が残した消息(手紙)の内容との酷似が指摘されているのですが、まあ、手紙が「地獄の曲舞」の本説であるはずはなく、現在には伝わらない、地獄の案内書か絵巻のような共通の原拠があって、そこから消息と「地獄の曲舞」の両方が誕生したのでしょう。今となってはもうわからない事ですが、その多様な地獄の有様、そのリアルな表現が当時としては目新しく、それが作者がこのクセを書いた大きな動機だったのかもしれません。

また一方、この「地獄の曲舞」はかつて能『嵯峨物狂』の中にあったものが、そこから取り外されて、その代わりに世阿弥が新しくクセを創作して作られたのが現行の『百万』となり、取り外された「地獄の曲舞」を基にして世阿弥の子の観世十郎元雅が『歌占』を新作したのは有名な話です。いうなれば一つの『嵯峨物狂』という曲から現行曲二つが誕生したわけで、これも能の成立過程としては興味深い曲だといえますね。そのうえ、『歌占』は「地獄の曲舞」の方が先行して成立していて、そこに肉付けをして親子の不思議な邂逅譚として一番の能に仕立て上げたのですから、観世十郎元雅という人はやっぱり非凡な才能の持ち主だと思います。

シテ「後の世の。闇をば何と。照すらん。地謡「胸の鏡よ心濁すな。

クセが終わるとシテは一セイを上げながら常座へ行き、正面にヒラキをしたところで大小打上を聞いて「胸の鏡よ」と三ツ拍子を踏み、中左右、打込、ヒラキをして地謡の文句いっぱいに左足拍子を踏んで「立廻リ」となります。

このところ、なんだか不思議な場面です。謡の感じでは舞にかかる直前のようでもあり、型としてはどちらかというと舞の終わり。。それも男舞が終わったあとのキリに向かってゆく場面のようでもあり。替エの型で中左右はせずに拍子を二つ踏んで正へ出、右にノッてまた拍子二つ踏み、常座に下がって「立廻リ」となる、というものもあるようですが、これは狂女能などで「翔」になる直前の型ですね。いずれにせよ、この「立廻リ」があまりハッキリした意味を持っていない、という意味なのだと思います。

そもそも「立廻リ」という舞? そのものが能の中では割と曖昧模糊とした所作だと言えると思います。囃子の手付を見ても、同じ曲なのに「立廻リ」と書いてあったり「イロエ」と書いてあったり、どうも判然としない部分が多い。先日、といっても半年前になりますが ぬえが勤めた『山姥』にも「立廻リ」がありますが、これも「山廻り」のさまを具体的に表したとはちょっと思えないものです。強いて言えば山姥が山を廻り、それがそのまま輪廻の輪の中から脱する事のできない、彼女の煩悩に対する悩みを描いているとか、型のディテールではなくて、もっと大きく捉えないといけない所作だと思うのです。

また「立廻リ」は曲によって大きく所作が異なっているのも特徴で、『歌占』の場合は 角に出、正へ直さずに左へ廻り、橋掛り二之松まで行き足を止め、それより左に取って一之松に立ち戻り、正面に向いて「あら悲しや。。」と謡いカケることになっています。よく言われるのは地獄の獄卒に追い立てられて、行き所をなくして彷徨する姿、とされているのですが、追い立てられる、という速度では歩みません。もう少し静かに、さりとて位としてはサラサラと、そんなあたりの歩み方なのだと思います。

そうなると「立廻リ」のあとにシテが言う文句「あら悲しや唯今参りて候に。これ程はなどやお責めあるぞ」を見てもやはり獄卒に追われている姿、というのは本当としても、これまた現実に追い立てられている所作と言うよりも、もっと大きく捉えるべきで、どちらに向いても、どこを見ても地獄の中で、その中で居所を定めることができずに虚ろな目をして漂流する、渡会の魂の表現、と捉えた方がよいのでしょうね。

狩野川薪能、昨日のお稽古

2008-06-15 23:58:48 | 能楽
昨日は狩野川薪能(8月23日開催)のお稽古に伊豆の国市へ伺ってきました。

前回、ちょっと厳しい事も言った ぬえ。昨日の稽古ではみんなだいぶ上達してきたようでした。予習復習の習慣ができて、また一緒に参加する出演者とお互いに演技について話し合ってくれればもっと良いものが出来るはず。昨日はそのアドバイスを中心にお稽古をしましたが、だんだんと みんなの目も本気モードに近づいてきたかな~?

今年の子ども創作能では武士役の5年生の子どもたちが なかなか良くがんばっています。自主性が出てきた、というのか、責任感のしっかりした子が目に付きますね。それに今年の5年生には男の子が多い。ずうっと狩野川薪能では女の子ばかりが優勢でしたので、来年、主役級の役を演じる5年生に男子が多いのは、いまから来年の薪能が楽しみです。

さて昨日の綸子ちゃん。(^_^;)

『嵐山』の子方に抜擢されて、めきめきと上達を果たしてきた綸子ちゃんと、子ども創作能『江間の小四郎』の主役・小四郎役の千早ちゃん、さらに千早ちゃんのお兄ちゃんたちは、じつは昨日の稽古の日の午前中に静岡市近辺で剣道の試合に出場していました。それで薪能の稽古には遅刻する旨をあらかじめ ぬえは知らされていましたので、昨日は「試合、どうなったかな~?」と思いながら、伊豆に向かう高速バスの中からお母さんにメールを出して様子を聞いてみました。

「もうすぐ試合です」ふうん、そうか~。がんばって欲しいね~。「負けました」ありゃ?(^◇^;) 「秒殺でした」ありゃりゃ??(;^_^A  高速バスの車内で爆笑しちゃいました。ゴメンゴメン。ま、『嵐山』のお稽古で順調に勝ち進んでいるんだから気にすることはないわな。ちなみに小四郎役の千早ちゃんは引き分けに持ち込んだそうです。さすがのちの北條義時の役を射止めただけのことはある。ついでに写メ送ってください、とお願いしたら、みんなでピース! の笑顔の画像が送られてきました。

で、稽古。昨日の綸子ちゃんは、前回の稽古で出来たところをちょっと忘れてしまっていたところもありましたが、まあ細かいところですし、今日は剣道の試合のあとだから仕方ない点もあるでしょう。なにより、もう全体的にはすでに完成の直前まで来てしまっているのは確認済みなので、心配もしていません、ぬえ。

あ、そうだ、綸子ちゃん宛に励ましのメールを頂いておりますが、ちゃあんと印字して渡しておきました。喜んでいましたよ~。あとで送信者の方には画像を添付してメールにてお礼のお返事を差し上げますので、しばしお待ち下さい~ m(__)m



  千早(小四郎役) 綸子(嵐山子方) 綸子ママ

ところで、綸子ちゃん、惜しむらくは髪がちょっと短いんです。『嵐山』の勝手明神の役は黒垂を着けて天冠を頭に載せるのですが、子方の場合は自分の髪の毛をたばねてしまう方が似合う場合が多いので、そうしたいところなんですが。。

今考えているのは「付け髪」を髪に結びつけて足すことなんですが、子ども能の用具の中に「付け髪」があったので、これを例しに着けてみました。「痛い~」「重い~」と綸子ちゃんには不評でしたが、これは「付け髪」がかなり大きいものだったからで、もう少し小さい「付け髪」をご両親に探して頂くことにしました。

で、「長い髪だとよかったんだけどな~」と ぬえが言ったところ、綸子ちゃんは「だって、剣道の面を着けるときに、これより長いと邪魔なんだもん」とのお答え。なるほど ぬえも剣道を長く習っていたのでその気持ちもわかるな~。

と、そこにお母さんが口を挟みました。「でも。。秒殺じゃ。。」

こらこらっ! (^◇^;)

『歌占』。。運命が描かれる能(その23)

2008-06-14 00:58:49 | 能楽
今日は稽古能で『歌占』を舞う機会があり、例の ぬえ所蔵の「邯鄲男」を使ってみました。じつは数日前にすでに師匠の稽古を受けていまして、そのときは直面で勤めたのです。直面の場合と「邯鄲男」を掛けた場合と。。効果の差はどうかなあ。感触としてはそれほど違いは起こらないようにも思いますが(それはまた不思議なことではありますが)、ずっと稽古は直面を想定して組み立ててきたので、面を掛けるとそれとはちょっとタイミングが狂ってきますね。当たり前ですが。やっぱり面を掛けると直面の場合よりも微妙に型が遅れます。これで装束が着くと、またちょっと型が遅れるのです。さてどうしたものか。。

シテ「三界無安猶如火宅(上扇)。
地謡「天仙尚し死苦の身なり(大左右)。況んや下劣。貧賎の報においてをや。などか其罪軽からん(正先へ打込ヒラキ)死に苦を受け重ね(身ヲカヘ)業に悲しみ猶添ふる(ヒラキ)。斬鎚地獄の苦しみは(右へ廻り)。臼中にて身を斬る事截断して(常座にてヒラキ)。血狼藉たり(左足拍子)。一日の其のうちに(行掛り)。万死万生たり(サシ廻ヒラキ)。剣樹地獄の苦しみは(正へ出)。手に剣の樹をよどれば(下がりながら扇を左手に取る)。百節零落す(角へ行き右に小さく廻り)。足に刀山踏むときは(ノリ込拍子)。剣樹共に解すとかや(正へ直し)。石割地獄の苦しみは(左へ廻り脇座より大小前へ至り)。両崖の大石もろもろの(小廻り、角の方へ出)。罪人を砕く(中へ下がりながら両手を打合せ)次の火盆地獄は(ツレの方へ扇を出し)。頭に火焔を戴けば(正へヒラキながら扇を頭の上に上げ)。百節の骨頭より(右へ廻り大小前より正へ行掛り)。焔々たる火を出す(ユウケン扇しながらヒラキ)。ある時は(サシ)。焦熱大焦熱の(角へ行き右へ小さく廻り)。焔に咽び(巻込扇にて顔に当て)ある時は紅蓮大紅蓮の(左へ廻り中にてもう一つ廻り)氷に閉ぢられ(正へズンと下居)。鉄杖頭を砕き(扇を頭の上まで上げ倒し)。火燥足裏を焼く(立ち上がり、左右、打込)。
シテ「飢ゑては。鉄丸を呑み。(ヒラキ)
地謡「渇しては(大左右)。銅汁を飲むとかや。地獄の苦は無量なり(正先へヒラキ)餓鬼の。苦しみも無辺なり(右へ廻り常座へ行き)。畜生修羅の悲しみも(ツレへ行掛り、胸ザシにて出)。我らにいかで優るべき(ヒラキ)。身より出せる科なれば(正へサシ)。心の鬼の身を責めて(角にてカザシ扇)。かように苦をば受くるなり(左へ廻り大小前へ行き)。月の夕べの浮雲は(抱え込み扇にて右上を見上げ)。後の世の迷ひなるべし(左右、ツレへ向き)。

クセでは「地獄の曲舞」の名の通り、さまざまな責め苦が罪人に加えられる様子が描かれます。難解な語句としては「手に剣の樹をよどれば。百節零落す」(剣の樹にすがって登ろうとすれば節々から身体が裂けてあたりに散る)、「足に刀山踏むときは。剣樹共に解すとかや」(刀の山を超えようとすれば剣の樹木に触れたとたんに身体はバラバラに裂ける)。。といったあたりでしょうか。

ところでこのクセの最後の文章「月の夕べの浮雲は。後の世の迷ひなるべし」は、クリの直前の地次第の文句と一致します。このように地次第とクセの終末部が同じで、クセも「二段グセ」(上羽が二カ所ある)なのが曲舞の作詞としては本式の作法なのです。「本式」と言っても、実際には能の中でこの作法に則っている曲は『山姥』や『杜若』などのほんの少しの曲だけで、その上これらの曲は、ほかの曲と比べて特長的に「本式」の曲として崇められる曲とは言い切れないのが実情ですけれども。。

二度目の上羽(二ノ上羽)は定型として、直前に打込の型をしておいて、ここでは謡いながら左足拍子を踏むのですけれども、この曲には替エの型がありまして、それによればヒラキながら扇を両手で顔の前で持ち上げて「飲む型」をします。これは臨場感がある良い型で、今回は ぬえもこちらの型で勤めてみようと思っています。

『歌占』。。運命が描かれる能(その22)

2008-06-13 01:44:21 | 能楽
クセとなってもはじめはシテにほとんど型はなく、正面を向いて床几に掛かったままです。わずかに「暫く目を塞いで。往事を思へば」のあたりで心持ちをする(型附に記載はないのですが)のと、「指を折つて。故人を数ふれば」と左手を出して指を折って数える型がある程度。最初の上羽の直前にようやくシテは立って、すぐに扇を拡げます。

地謡(クセ)「須臾に生滅し。刹那に離散す恨めしきかなや。釈迦大士の慇懃の教を忘れ。悲しきかなや。閻魔法王の。呵責の詞を聞く。名利身を扶くれども。未だ。北邙の煙を免れず。恩愛心を悩ませども。誰か黄泉の責に随はざる。これがために馳走す。所得いくばくの利ぞやこれに依つて追求す。所作多罪なり。暫く目を塞いで。往事を思へば。旧遊皆亡ず。指を折つて。故人を数ふれば。親疎多くかくれぬ。時移り事去つて。今なんぞ。渺茫たらんや人留まりわれ往く。誰か又常ならん。

このあたりはとくに語釈の必要もないと思いますが、「名利身を扶くれども」~「これに依つて追求す。所作多罪なり」は少し分かりづらいかも。ここは「名声や利益といったものは現世でこそ我が身を助けるけれども、誰もいつかは北邙(中国の火葬地)の煙となることを免れ得ない。恩や愛に縛られて起こる妄執は我らの心を惑わせるけれども、誰かあって死に至る苦しみに遭わない者とてない。それなのにこれら(現世での名声や利益)のために人は奔走している。それによって得た所得など、どれほどのものになろうか。また人はこれ(恩や愛)に執着して相手を追い求める。その所行は自ら多くの罪を作っていることになるのだ」。。という意味になります。ん~~、なんてクールな。

子が親に感じる恩は、シテ自身さきほどのツレへの歌占いで「こゝにまた父の恩の高き事。高山千丈の雲も及び難し。されば父は山」とまで言及しておきながら、ここでは「でも、そんなものに執着するのは“多罪”」なんて言ってます。だからこの曲では離ればなれになった親を子方の方が探しているのに、シテは自分では子どもや家族の事追い求めるどころか、その心配さえな~んにもしていませんね。結局シテは子方と巡り逢う、つまり再び恩愛の妄執の世界に戻ってしまうわけだけれども、しかし、じつは彼は、自分で家族への恩愛に縛られて、それを追求した結果として再会を果たしたわけではないんです。我が子の幸菊丸の方が自分を探し当てたから再会したので、しかもシテはその再会を「神の御引き合はせ」と判断して、はるばる伊勢から加賀まで自分を尋ねて旅をしてきた我が子の苦労や努力をほめたり、労ったりする事さえしていないですね。

「神の御引き合はせ」であるならば、それは神の意志。恩愛の追求の結果ではない親子の再会であるから、シテはそれを受け入れ、我が子を抱きしめる事ができました。ん~、こんな父じゃ家に帰ってからもいろいろ大変だろうなあ。。子どもが一人で父を尋ねているのに母がそれに付き添っていないのも、あながちその辺が理由だったりして。

でも、シテは神子であって、神と人間の中間に位置するシャーマンです。ストイックなその生き方には ぬえはどこか共感を持ちますね。そうだ、能楽師を含む芸能者も、もとは神子に近い存在と考えられてきていました。だから平気で神にも鬼にも変身することが違和感なく行えるのです。舞台という空間、面という憑代、扇という神具が揃い、沐浴潔斎精進する気持ちがいつも備わっているのが条件ではありましょうが。

これよりシテは立ち上がって、定型のサシ込、ヒラキ、左右をして正面へ打込(左右は略しても可)、扇を拡げて上羽を謡い出します。

『歌占』。。運命が描かれる能(その21)

2008-06-12 11:32:23 | 能楽
クセを舞うのに両肩を下ろすのは師家の能を見慣れた ぬえにしてみれば至極普通ですし、やはりクセは舞を見せる一種の芸能ですので、袖を翻して舞うのが似合うと思います。でもねえ。。実際のところ、せっかく広袖の狩衣の姿となったのに、『歌占』の中では一カ所も袖を返す型がないのです。厳密に言えば一回だけ袖を返すんですが。。それは終曲部でトメ拍子を踏むときで、これは広袖の装束を着ている場合の定型の型ですから、舞の中で袖を翻す効果は皆無なんですよね。。

とは言っても、正直に言わせてもらえば、狩衣を着ていて、その肩を上げている姿、というのはあまり美しくないですね。狩衣を着ていれば、そしてそれが単狩衣であれば、その役者は必ず烏帽子をかぶっています。そして下半身には必ず大口か指貫を穿いている。そうすると、頭頂部と下半身の装束のボリュームが大きい割に肩を上げた狩衣の上半身の姿がどうも貧弱に見えてしまうのです。先人もそう思ったのか、単狩衣の肩を上げて出る役というのは、ほとんどの場合途中で肩を下ろすか、あるいは物着をして違う扮装に替えてしまいますね。『歌占』の場合は地次第ぐらいしか、目で見た印象が変わるほどに装束の着付け方を替えることができる場面がないので、そこで肩を下ろすことをしない場合は、時間的な余裕がない場面での後見の作業を、あえて危険を冒してまではやらない、という選択だったのかもしれません。

シテ(クリ)「昨日もいたづらに過ぎ。今日も空しく暮れなんとす。
地謡「無常の虎の声肝に銘じ。雪山の鳥啼いて。思を傷ましむ。
シテ(サシ)「一生は唯夢の如し。誰か百年の齢を期せん。
地謡「万事は皆空し。何れか常住の思をなさん。
シテ「命は水上の泡。
地謡「風に従つてへ廻るが如し。
シテ「魂は籠中の鳥の。
地謡「開くを待ちて去るに同じ。消ゆるものは二たび見えず。去るものは。重ねて来らず。

地次第で肩を下ろし、中啓(神扇)を持ったシテは正面に向いてクリの部分の冒頭を謡い、やがて左へ向いて大小前へ至り、正面に向いて正中のあたりで床几にかかります。サシの終わり、「去るものは。重ねて来らず」のところでシテは子方と向き合いますが、型附にはツレと向き合ってもよい、と書かれています。このあと、クセの中でも何度か子方と向き合う型があるのですが、これらもすべてツレと向き合うことに変更することができ、その選択はシテの裁量に任されているのです。

ここは当然ながら、ぬえは迷わずツレと向き合う事を選びます。だってこのクセは「面々名残の一曲に」奏される舞なのです。シテは、子方とは積もる話があるにしても、臨死体験についてはこれから長い時間同居する中で親子で自然に話されれば良いわけで。一方シテにとってツレは我が子をこの場所に導いてくれた恩人でもあって、そのツレからの所望によって「地獄の曲舞」を見せるのです。この地獄の曲舞は多分に道徳訓のような内容ですから、これを年端も行かない子方に対して説教してしまうのはどうでしょうか。。

これよりクセとなります。クセは俗に「三難クセ」と呼ばれるうちの1曲で、残りの2曲は『白鬚』と『花筐』なのですが、たしかにこの3曲のクセは拍子当たりが非常に難しく、ぬえが習った幸流小鼓では『歌占』はクセの部分だけ「習物」という扱いになっていますね。ただ『歌占』と『花筐』はよく上演される曲なので、能楽師はみ~んなもう謡うのに慣れてしまっているのではないかと思います。『白鬚』はやっぱり大変ですけれども。。しかし「三難クセ」の中に入っていなくても、じつは能楽師にとっては別な曲の方が難しいクセがあるのではないかと思ったりします。『東岸居士』がそれで、『歌占』ばりに拍子当たりが難しいのです。たしかこの曲のクセも幸流では習物ではなかったかと思います。ただ『東岸居士』のクセは短いですから、『歌占』を最初に覚えるときのような苦労。。これは書生時代にみんなが苦しみます。。ほどではないのですが。

『歌占』。。運命が描かれる能(その20)

2008-06-11 01:08:09 | 能楽
ところで、ぬえの師家の型附では、このところで狩衣の両肩を下ろすのに、地次第「月の夕の浮雲は。月の夕の浮雲は。後の世の迷なるべし」でシテ柱にクツロギ、後見が両肩を下ろすことになっています。普通、物着であれ、肩を下ろす作業であれ、装束を改めてシテの姿を変える場合にはシテは下居(座ること)するのですが。。この曲では立ったままですね。おそらく地次第の文句が短いため、シテが下居すると、狩衣の肩を下ろして再び立ち上がり、正面を向いてクリを謡い出すのが遅れる、と考えられた上でつけられた型でしょう。

しかし、やはりシテが立ったままで。。ということは後見も立ったままでシテの肩を下ろすのは、やっぱり不作法なのではないか、と ぬえは思います。で、稽古の際に『歌占』の録音を掛けながらやってみました。うん、どうやら後見と手順をよく打ち合わせておけば下居してもなんとか後の型は間に合いそうです。

そもそも型附では、地次第の直前に子方を立たせて、地次第で子方は脇座に戻って着座、シテはシテ柱にクツロいで肩を下ろすことになっているのですが、これも言葉そのままに勤めてしまうと、たったいま再会したばかりの子方と、まるで左右に袂を分かって別れて行くように見えてしまうでしょう。やはりここは子方が脇座に向かって歩むその背中を、せめて2~3歩だけでも見送るべきで、そうすればシテが名残の曲舞を舞う間だけ、子方は「とりあえず」控えて見ている、という感じに映るのです。

もちろん、地次第となってから子方をしばらく見送れば、その分だけシテはシテ柱にクツログのが遅れるわけで、それからシテ柱で下居して肩を下ろすと、いよいよ立ち上がって正面に向いて謡い出すのに間に合わない、という危険性は増すのですが。。

それじゃ、逆に地次第になる前に子方を脇座に帰してしまう、という方法も考えたのですが、演技の手順としてはラクになっても、それは出来ない事です。地次第の直前の文句はシテが謡う「面々名残の一曲に。現なき有様見せ申さん」という言葉なので、その文意を考えれば、この言葉はツレをはじめ、その場に居合わせた人々に向けて発せられているものであることは明瞭です。これから自分が同道して故郷へ連れ帰る子方に向けて発せられている言葉ではないのかもしれませんが、これほど決意に満ちた言葉を発している間には、シテのほかに動いている人物があってはならない。舞台効果が半減してしまいますし、そもそもこういう言葉が目前で発せられていては、子方もシテに背を向けることはできないはずだと思うのです。

型附は演技の規範であるので固守すべきものであるのは間違いないことなのですが、また一面、先人の工夫の積み重ねが形をなしたもの、という考え方もあります。時代々々や家によって、いろいろな型の記録が残されているのも事実で、演者の中には「型附はメモに過ぎない」と言い切る方もあります。ぬえはそれは極論だと思うけれども、要するに固守すべきなのは型附に書かれている歩数や型のタイミングなのではなくて、先人の心であろうと思います。もとより演技は書き付けだけで表現しきれる性質のものではないのですから、これを汲み取ることができないと、その文句が来たからその型をする、というだけの無味乾燥な演技になってしまうでしょうし。。先人が後輩のために残してくださった型附は、その心を汲んだうえで演者が肉づけをしてゆくもの、と ぬえは師匠から教えられてきたのだと思います。

ちょっと話が飛躍しましたが、おそらく師家の型附でも「地次第となるや否やすぐにシテと子方は脇座とシテ柱に別れる」という意味で書いてあるわけではないと思いましたので、ここは子方をしばし見送り、それからシテ柱にクツログことにしました。また肩を下ろすところを立ったままで行うのも、これも「本来は下居して肩を下ろすところ、この曲では次の型を余裕を持って行うために、見栄えは悪いけれども立ったままで行うことを許容する」という意味に捉えるべきだと思いました(家により肩を下ろさない型があるのも、作業が大変忙しいという同じ理由から、あるいは立ったままで物着をするような不作法をするよりも、いっそ肩を上げたままにしておく、という選択だったのかもしれませんね)。

結局、稽古をしてみた感じでは、地謡や後見とよく打合せが出来るのであれば下居でも決して不可能な作業ではないように思うので、今回はあえて下居の型でやってみたいと思います。

『歌占』。。運命が描かれる能(その19)

2008-06-10 02:41:40 | 能楽
ぬえの師家の型では地次第「月の夕の浮雲は。月の夕の浮雲は。後の世の迷なるべし」の間シテ柱にクツロギ(後ろ向きに居ること)、後見が出てシテの狩衣の両肩を下ろすことになっています。観世流の大成版謡本の挿絵を見ると、この曲では狩衣の肩は終曲まで上げたままなのですが。

両肩を上げる、とは、主に狩衣や長絹などの広袖の装束で、また小袖であっても水衣では行われる着付法で、袖の裄を半分にするように肩に引っ張り上げて留める方法です。これは演技上は作業をする立場の者、という意味で、つまり「腕まくり」ですね。逆に言えば、有職故実の十二単とか束帯姿というのは手を使って作業をするには甚だ不利な衣裳で、これは「作業は自分ではやらないよ~ん」という意思表示で、この姿でいる事が、そのままその人物の身分を表す事にもなります。

狩衣という装束は往古には貴族の普段着で、次第に扱いが変わってきたとはいえ、江戸時代には武家の礼服とさえなり、庶民の着る服ではありませんでした。ですから狩衣の「袖まくり」という事はあり得ないのです。でも能の中には肩を上げた狩衣姿がよく見られますね。そこにはやはり意味があります。『通小町』では深草少将が小野小町に会いたさに百夜通いをするために一人きりで深夜暗い道を歩むその姿であり、『小督』では近衛兵たる源仲国が、帝の命に馬を駆って嵯峨野を訪れて小督局の家を探す、という扮装で、どちらも平穏な貴族生活から、ある事件に突然引き込まれて、身を粉にして奮闘する、いわば異常な姿なのです。

(注:中世頃の絵巻物などに狩衣姿によく似た衣裳を着る庶民の姿がよく見られますが、これは狩衣ではなく水干です。狩衣と水干はよく似ていますが、最大の特徴は、狩衣は両方の前身頃を右肩のあたりで「トンボ」と呼ばれるフックで留めるのに対して、水干は首の後ろあたりから出した緒と、上前から出した緒とを結んで着付けるのです。。そう。能で狩衣を着る役はたくさんありますが、あの、右肩の前で紐を結んで着付けられた姿は。。それはじつは狩衣の着付け方ではなく、水干のそれなのです。。)

現代では狩衣を着るのは神官だけだと思われますが、この『歌占』のシテも神官ですね。神官は神に仕える者として、つまり神に奉仕する者として、作業も日々の日課としてあり、おそらくその意味で肩を上げるのには違和感が少ないのかもれません。そもそも神官が狩衣を着るのは、彼が神と人との橋渡しをする、という特別な身分だからでしょう。高貴でもあり、しもべでもある、神官とはそんな特別な身分なのでしょう。

この曲の中でシテが行う歌占いは、ある種の作業であるわけで、それで肩を上げた姿なのです。ところが歌占いが終わって親子の邂逅があり、さて名残に舞うクセの部分は、これは神への奉仕ではありませんですね。

この曲のシテが曲舞を作ってそれを舞って見せる理由はよくわかりませんが、神への非礼から頓死という臨死体験を経た彼にとってみれば、その時に体験した地獄の有様は神からの直接的な教訓であったはずです。そう考えてみれば、神と人との橋渡しをする、という神官としての根元的な仕事にとって、これほどインパクトのある体験もなかったはず。自分の占いが当たる、というような次元とは一線を画しています。神官としての彼が、これを「布教」。。とまでは言わないまでも、自分が実体験した神の言葉を民衆に伝えるべき、と考えたのは自明でしょう。ところが彼は、そんな恐ろしい体験をしていながら、しかもそれが自分が犯した神罰が原因と思い当たっていながら、まだ諸国を巡ることを止めていません。

そしてまた『歌占』という曲の特徴でもあるのですが、親子が離ればなれになっていながら、親たるシテは我が子を探そうともしていません。彼が我が子と邂逅できたのは、子どもの方が父を追い求め、ついにはよく当たると評判の辻占い師のもとに参じて自分の運命を問うたからにほかならないのです。それほどシテを動かした諸国遍歴への欲求が何から生じているのか。それはこの曲には書かれていませんけれども。。

あるいは「地獄の曲舞」というのは、彼が自分の欲求。。自分が奉仕する神への非礼をも省みず、突き動かされてしまった衝動を追求するために諸国を巡る、その生活費を得るための方便なのかもしれません。歌占いも、そう考えれば同じ意味であるでしょう。

占いも曲舞も、どちらもシテにとって自分の欲求のために売る「芸」であるとしたなら。。そうであるならば、占いは弓を扱う作業のために「袖まくり」をすることを必要とし、また曲舞は袖を翻して舞う必要があります。ぬえは師家の型附で、曲舞を舞うために肩を下ろすシテの姿に、そんな彼の「生活臭」を感じます。

『歌占』。。運命が描かれる能(その18)

2008-06-07 01:29:42 | 能楽

面装束を見せる機会がありまして、押入のなか(←ぬえ家の装束蔵 (;^_^A アセアセ…)から装束や面を出していたら。。あれ~~?? こんな面を ぬえ、持っていたっけ。。さっき急いで撮影したばかりなのでピンぼけで申し訳ありませんが、普通とは違って青白い相貌の「邯鄲男」です。この青白さが。。『歌占』には似合うな。。臨死体験をした白髪の若者。。常の「邯鄲男」が浅黒い健康的な顔色なので、どうもこの曲には似合わないのですが、これだけ青白くてハッキリした表情だと、まさに『歌占』の男神子の相貌に思えてきました。。今回は直面で勤めるつもりだったのだけれど。。う~~、にわかに迷ってきました~。(;.;)

さて地謡による上歌が終わると、親子の再会ぼドラマを目撃したツレが声を掛けます。

ツレ「かゝる不思議なる事こそ候はね。さては御子息にて候か。

ここでシテは正面に直す、と型附には書いてあるのですが。。う~ん、それではせっかく親子が再会する場面を描いてきた、その意味が死んじゃうような。。どうせその直後にはツレに対して返答するためにツレの方を向くのだから、せめてそれまでの間は子方に向いたまま、その顔を見入っている、という選択もあるかも。。

シテ「さん候疑もなき我が子にて候。これも神の御引き合はせと存じ候程に。やがて伴ひ帰国せうずるにて候。
ツレ「近頃めでたき御事にて候ものかな。又人の申され候は。地獄の有様を曲舞に作りて御謡ひある由承り及びて候。とてもの事に謡うて御聞かせ候へ。
シテ「易き御事にて候へども。此の一曲を狂言すれば。神気が添うて現なくなり候へども。よしよし帰国の事なれば。面面名残の一曲に。現なき有様見せ申さん。

問答の最後にシテは子方を立たせ、地謡の「次第」の謡の間に子方は元の座へ戻って下居します。

さて ここでおもむろにツレが所望する「地獄の曲舞」ですが、『歌占』という曲の中心をなす場面です。それにしても、前述したように、観世流ではシテは登場した場面で自分の境涯を語るとき、「我一見のために国々を巡る。ある時俄に頓死す。また三日と申すに蘇る。これも神の御咎めと存じ候ほどに」と臨死体験の原因がなぜ「神の御咎め」であるのかはなはだ不分明で、そのためこの地獄の曲舞の部分も、まるでシテの創作の産物であるかのように聞こえてしまいますね。

この点、下掛りではシテは冒頭で「われは伊勢の国二見の浦の神子にて候が、廻国の望みあるにより神に御暇も申さで、諸国を廻り候ひしその神罪にや頓死し、三日と申すによみがへる。その間の地獄の苦しみにかやうに白髪となりて候」と言っていて、臨死体験の原因は神への非礼であった事がはっきり表れています。そのうえシテは臨死体験のうちに地獄に行き、そのときの苦しい体験を曲舞に仕立てたこともよくわかります。

さればこそ「此の一曲を狂言すれば。神気が添うて現なくな」るのであって、それはシテにとって地獄の曲舞を舞うことは、臨死体験を再び追経験することに他ならないのです。結局、このシテは天寿を全うした後には地獄行きが待ちかまえているのね。。世の中には知らない方がよかった、という事だってありますものねえ。。

地謡「月の夕の浮雲は。月の夕の浮雲は。後の世の迷なるべし。

この間にシテはシテ柱へ行き正面へ向きます。。が、これまた前述したように、ぬえの師家の型では、ここでたくし上げていた狩衣の袖を下ろすことになっています。