「鎌倉の中納言為相の卿」とは鎌倉時代の公卿・藤原為相(冷泉為相 1263-1328)のことで、為相は定家の孫で冷泉家の祖、また『十六夜日記』の作者として有名な阿仏尼(1222?-1283)の子です。『十六夜日記』は所領紛争のための訴訟を起こすために鎌倉へ下った作者の紀行日記ですが、全体は短いものながら多くの歌を収めていて、日記というよりは私歌集と言ってよいほど。そしてこの『十六夜日記』で描かれた鎌倉旅行の目的である幕府への訴訟こそが我が子為相のために行われたものでした。
阿仏尼は僧籍にありながら俗世との交わりを続け、為相の父・藤原為家の側室となりました。為家の没後、その所領の相続について正妻の子・為氏(御子左家の当主1222-1286)と争いになり、阿仏尼は我が子・為相のために鎌倉幕府に訴えるために、50歳代にして鎌倉への旅行を決意したのでした。当時為相は10歳代で、訴訟相手の為氏は為相よりもずっと年上。。阿仏尼と同年代の人ですから、未熟な為相の助力をするために老齢にむち打って鎌倉訴訟を決意したのでしょう。
為相も母を訪ねてしばしば鎌倉を訪れていて、歌人として阿仏尼とともに鎌倉歌壇で重要な役割を持っていたようです。鎌倉での訴訟は為相側の勝訴に終わりましたが、母・阿仏尼の晩年はよくわからず、勝訴を見届けないまま没したのだとか。ちなみにこの相続争いが元になって御子左家は分裂し、嫡流の二条家・京極家・冷泉家に分かれることになりました。為相は現在に続く冷泉家の祖となりましたが、この為相は晩年は鎌倉に住してそこで没しています。もっとも能『六浦』で為相は「鎌倉の中納言」と呼ばれてはいますが、彼が中納言になったのはこの鎌倉訴訟よりずっと後のことです。
能『六浦』の中心をなす歌「いかにしてこの一本にしぐれけん。山に先だつ庭のもみぢ葉」は為相の私家集『藤谷集』に納められていて、この歌集は為相が鎌倉・藤谷(ふじがやつ=「やつ」は「谷」の鎌倉での独特の呼び方)に住んだことから名付けられたもの。鎌倉在住時代の為相が詠んだ歌であれば、なるほど鎌倉からほど近い金沢の六浦へ紅葉狩に出かけた為相が称名寺に立ち寄って詠んだという可能性は高そうですが、実際には『藤谷集』にはそのような詞書きはないそうで、称名寺の楓を詠んだ歌かどうかはわからないようです。
ではなぜ能『六浦』の舞台が称名寺とされているのかが問題になります。結論から言ってしまえばその理由はわからない、という事になってしまうのですが、称名寺を実際に訪れた ぬえは、いろいろ思うところはあります。
称名寺は住宅街の中に忽然と現れた、という印象がぴったりの大伽藍で、まさかこんなところに、と思わせる広大な境内を持ち、その中心をなすのはこれまた大きな池でした。
称名寺という山号といい、浄土庭園をすぐに想起させる池を中心にした伽藍配置といい、やはり浄土宗の寺院かと思えば、なんとこの寺は真言律宗でした。この寺を創建した北條実時(御成敗式目で有名な三代執権の北條泰時の甥1224-1276)の時代からそうだったようで、鎌倉で起こった新仏教と源平争乱での荒廃から復興の道を歩んできた南都仏教との勢力関係をよく知りませんが、真言律といえば忍性が鎌倉に開いた極楽寺がありますから、忍性の影響によって最初から真言律の寺として建立されたのでしょう。
すいません ぬえも不勉強で、浄土系の寺でなくても「称名寺」と称することは普通なのか、あるいは「称名」という言葉は必ずしも阿弥陀仏を唱えることに限らないのか、よくわからないのです。さらには称名寺の庭園に浄土庭園の印象を持つ ぬえが間違っているのか、いや、むしろ ぬえは称名寺の庭園に、寝殿造りの邸宅を寺に改装したのか、とさえ思ったのですが、鎌倉時代に? 鎌倉の地に寝殿造り? それはあり得ないですね。。 そうして能『六浦』では、こんな称名寺に日蓮宗を思わせる僧が訪れる。。じつは『六浦』は、ナゾだらけの能なのです。
ともあれ、舞台に話を戻して、シテは「山々の紅葉未だなりしに。この木一本に限り紅葉色深く類ひなかりしかば。為相の卿。。(中略)。。と詠じ給ひしより。今に紅葉をとゞめて候。」と説明していて、これが能『六浦』の異色なテーマとなっています。
このあとがまた異色で、
ワキ「面白の御詠歌やな。われ数ならぬ身なれども。手向のために斯くばかり。古り果つるこの一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山に先だつ。
シテ「あらありがたの御手向やな。いよいよこの木の面目にてこそ候へ。とシテは舞台に入りワキへ向き
ワキ「さてさて前に為相の卿の御詠歌より。今に紅葉をとゞめたる。謂はれは如何なる事やらん。
このワキは自分のことは「さん候これは都より始めてこの所一見の者にて候が」とシテに自己紹介していますが、シテの素性を尋ねませんね。他にも例があるとは思いますが、初対面同士のシテとワキであってみれば、ワキが「御身は如何なる人にて候ぞ」とシテに尋ね、シテも「これはこの辺りに住まひする者にて候が。。」などと自分の身分を(実際には化身である本性は隠して)名乗ることが多いと思うのです。能『六浦』ではそのやりとりが省かれているばかりか、ワキはシテから聞いた為相の歌に興味を示して、みずからもこの不思議な楓に対して歌を手向ける、という異色の構成になっています。
これについて、ぬえは観世流大成版謡本の前付けにも紹介されている尭恵(1430-?)の『北国紀行』にある
同じ比六浦金澤をみるに。亂山かさなりて嶋となり。靑嶂そばだちて海をかくす。神靈絶妙の勝地なり。金澤にいたりて稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿。「いかにして此一もとに時雨けむ山に先たつ庭の紅葉葉」と侍りしより後は。此木靑はかは玄冬まで侍るよし聞ゆる楓樹くち殘て佛殿の軒に侍り。
さきたゝは此一もとも殘らしとかたみの時雨靑葉にそふる
との関連を連想します。文明18年(1486)2月の記で、その時代は為相より200年後の室町時代のことではありますが、このように為相が称名寺の楓を歌に詠んだことはこの頃には人口に膾炙していたわけで、成立の過程も作者ももうひとつはっきりしない能『六浦』ではありますが、この能の作者が青葉の楓への興味を抱いてこの能の成立に到ったとき、ワキ僧から楓に対して改めて自作の歌を手向ける、という趣向と『北国紀行』との関連は一考する余地はあるのではないかと思います。
阿仏尼は僧籍にありながら俗世との交わりを続け、為相の父・藤原為家の側室となりました。為家の没後、その所領の相続について正妻の子・為氏(御子左家の当主1222-1286)と争いになり、阿仏尼は我が子・為相のために鎌倉幕府に訴えるために、50歳代にして鎌倉への旅行を決意したのでした。当時為相は10歳代で、訴訟相手の為氏は為相よりもずっと年上。。阿仏尼と同年代の人ですから、未熟な為相の助力をするために老齢にむち打って鎌倉訴訟を決意したのでしょう。
為相も母を訪ねてしばしば鎌倉を訪れていて、歌人として阿仏尼とともに鎌倉歌壇で重要な役割を持っていたようです。鎌倉での訴訟は為相側の勝訴に終わりましたが、母・阿仏尼の晩年はよくわからず、勝訴を見届けないまま没したのだとか。ちなみにこの相続争いが元になって御子左家は分裂し、嫡流の二条家・京極家・冷泉家に分かれることになりました。為相は現在に続く冷泉家の祖となりましたが、この為相は晩年は鎌倉に住してそこで没しています。もっとも能『六浦』で為相は「鎌倉の中納言」と呼ばれてはいますが、彼が中納言になったのはこの鎌倉訴訟よりずっと後のことです。
能『六浦』の中心をなす歌「いかにしてこの一本にしぐれけん。山に先だつ庭のもみぢ葉」は為相の私家集『藤谷集』に納められていて、この歌集は為相が鎌倉・藤谷(ふじがやつ=「やつ」は「谷」の鎌倉での独特の呼び方)に住んだことから名付けられたもの。鎌倉在住時代の為相が詠んだ歌であれば、なるほど鎌倉からほど近い金沢の六浦へ紅葉狩に出かけた為相が称名寺に立ち寄って詠んだという可能性は高そうですが、実際には『藤谷集』にはそのような詞書きはないそうで、称名寺の楓を詠んだ歌かどうかはわからないようです。
ではなぜ能『六浦』の舞台が称名寺とされているのかが問題になります。結論から言ってしまえばその理由はわからない、という事になってしまうのですが、称名寺を実際に訪れた ぬえは、いろいろ思うところはあります。
称名寺は住宅街の中に忽然と現れた、という印象がぴったりの大伽藍で、まさかこんなところに、と思わせる広大な境内を持ち、その中心をなすのはこれまた大きな池でした。
称名寺という山号といい、浄土庭園をすぐに想起させる池を中心にした伽藍配置といい、やはり浄土宗の寺院かと思えば、なんとこの寺は真言律宗でした。この寺を創建した北條実時(御成敗式目で有名な三代執権の北條泰時の甥1224-1276)の時代からそうだったようで、鎌倉で起こった新仏教と源平争乱での荒廃から復興の道を歩んできた南都仏教との勢力関係をよく知りませんが、真言律といえば忍性が鎌倉に開いた極楽寺がありますから、忍性の影響によって最初から真言律の寺として建立されたのでしょう。
すいません ぬえも不勉強で、浄土系の寺でなくても「称名寺」と称することは普通なのか、あるいは「称名」という言葉は必ずしも阿弥陀仏を唱えることに限らないのか、よくわからないのです。さらには称名寺の庭園に浄土庭園の印象を持つ ぬえが間違っているのか、いや、むしろ ぬえは称名寺の庭園に、寝殿造りの邸宅を寺に改装したのか、とさえ思ったのですが、鎌倉時代に? 鎌倉の地に寝殿造り? それはあり得ないですね。。 そうして能『六浦』では、こんな称名寺に日蓮宗を思わせる僧が訪れる。。じつは『六浦』は、ナゾだらけの能なのです。
ともあれ、舞台に話を戻して、シテは「山々の紅葉未だなりしに。この木一本に限り紅葉色深く類ひなかりしかば。為相の卿。。(中略)。。と詠じ給ひしより。今に紅葉をとゞめて候。」と説明していて、これが能『六浦』の異色なテーマとなっています。
このあとがまた異色で、
ワキ「面白の御詠歌やな。われ数ならぬ身なれども。手向のために斯くばかり。古り果つるこの一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山に先だつ。
シテ「あらありがたの御手向やな。いよいよこの木の面目にてこそ候へ。とシテは舞台に入りワキへ向き
ワキ「さてさて前に為相の卿の御詠歌より。今に紅葉をとゞめたる。謂はれは如何なる事やらん。
このワキは自分のことは「さん候これは都より始めてこの所一見の者にて候が」とシテに自己紹介していますが、シテの素性を尋ねませんね。他にも例があるとは思いますが、初対面同士のシテとワキであってみれば、ワキが「御身は如何なる人にて候ぞ」とシテに尋ね、シテも「これはこの辺りに住まひする者にて候が。。」などと自分の身分を(実際には化身である本性は隠して)名乗ることが多いと思うのです。能『六浦』ではそのやりとりが省かれているばかりか、ワキはシテから聞いた為相の歌に興味を示して、みずからもこの不思議な楓に対して歌を手向ける、という異色の構成になっています。
これについて、ぬえは観世流大成版謡本の前付けにも紹介されている尭恵(1430-?)の『北国紀行』にある
同じ比六浦金澤をみるに。亂山かさなりて嶋となり。靑嶂そばだちて海をかくす。神靈絶妙の勝地なり。金澤にいたりて稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿。「いかにして此一もとに時雨けむ山に先たつ庭の紅葉葉」と侍りしより後は。此木靑はかは玄冬まで侍るよし聞ゆる楓樹くち殘て佛殿の軒に侍り。
さきたゝは此一もとも殘らしとかたみの時雨靑葉にそふる
との関連を連想します。文明18年(1486)2月の記で、その時代は為相より200年後の室町時代のことではありますが、このように為相が称名寺の楓を歌に詠んだことはこの頃には人口に膾炙していたわけで、成立の過程も作者ももうひとつはっきりしない能『六浦』ではありますが、この能の作者が青葉の楓への興味を抱いてこの能の成立に到ったとき、ワキ僧から楓に対して改めて自作の歌を手向ける、という趣向と『北国紀行』との関連は一考する余地はあるのではないかと思います。