ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

無色の能…『六浦』(その3)

2016-10-30 09:46:32 | 能楽
「鎌倉の中納言為相の卿」とは鎌倉時代の公卿・藤原為相(冷泉為相 1263-1328)のことで、為相は定家の孫で冷泉家の祖、また『十六夜日記』の作者として有名な阿仏尼(1222?-1283)の子です。『十六夜日記』は所領紛争のための訴訟を起こすために鎌倉へ下った作者の紀行日記ですが、全体は短いものながら多くの歌を収めていて、日記というよりは私歌集と言ってよいほど。そしてこの『十六夜日記』で描かれた鎌倉旅行の目的である幕府への訴訟こそが我が子為相のために行われたものでした。

阿仏尼は僧籍にありながら俗世との交わりを続け、為相の父・藤原為家の側室となりました。為家の没後、その所領の相続について正妻の子・為氏(御子左家の当主1222-1286)と争いになり、阿仏尼は我が子・為相のために鎌倉幕府に訴えるために、50歳代にして鎌倉への旅行を決意したのでした。当時為相は10歳代で、訴訟相手の為氏は為相よりもずっと年上。。阿仏尼と同年代の人ですから、未熟な為相の助力をするために老齢にむち打って鎌倉訴訟を決意したのでしょう。

為相も母を訪ねてしばしば鎌倉を訪れていて、歌人として阿仏尼とともに鎌倉歌壇で重要な役割を持っていたようです。鎌倉での訴訟は為相側の勝訴に終わりましたが、母・阿仏尼の晩年はよくわからず、勝訴を見届けないまま没したのだとか。ちなみにこの相続争いが元になって御子左家は分裂し、嫡流の二条家・京極家・冷泉家に分かれることになりました。為相は現在に続く冷泉家の祖となりましたが、この為相は晩年は鎌倉に住してそこで没しています。もっとも能『六浦』で為相は「鎌倉の中納言」と呼ばれてはいますが、彼が中納言になったのはこの鎌倉訴訟よりずっと後のことです。

能『六浦』の中心をなす歌「いかにしてこの一本にしぐれけん。山に先だつ庭のもみぢ葉」は為相の私家集『藤谷集』に納められていて、この歌集は為相が鎌倉・藤谷(ふじがやつ=「やつ」は「谷」の鎌倉での独特の呼び方)に住んだことから名付けられたもの。鎌倉在住時代の為相が詠んだ歌であれば、なるほど鎌倉からほど近い金沢の六浦へ紅葉狩に出かけた為相が称名寺に立ち寄って詠んだという可能性は高そうですが、実際には『藤谷集』にはそのような詞書きはないそうで、称名寺の楓を詠んだ歌かどうかはわからないようです。

ではなぜ能『六浦』の舞台が称名寺とされているのかが問題になります。結論から言ってしまえばその理由はわからない、という事になってしまうのですが、称名寺を実際に訪れた ぬえは、いろいろ思うところはあります。

称名寺は住宅街の中に忽然と現れた、という印象がぴったりの大伽藍で、まさかこんなところに、と思わせる広大な境内を持ち、その中心をなすのはこれまた大きな池でした。

称名寺という山号といい、浄土庭園をすぐに想起させる池を中心にした伽藍配置といい、やはり浄土宗の寺院かと思えば、なんとこの寺は真言律宗でした。この寺を創建した北條実時(御成敗式目で有名な三代執権の北條泰時の甥1224-1276)の時代からそうだったようで、鎌倉で起こった新仏教と源平争乱での荒廃から復興の道を歩んできた南都仏教との勢力関係をよく知りませんが、真言律といえば忍性が鎌倉に開いた極楽寺がありますから、忍性の影響によって最初から真言律の寺として建立されたのでしょう。

すいません ぬえも不勉強で、浄土系の寺でなくても「称名寺」と称することは普通なのか、あるいは「称名」という言葉は必ずしも阿弥陀仏を唱えることに限らないのか、よくわからないのです。さらには称名寺の庭園に浄土庭園の印象を持つ ぬえが間違っているのか、いや、むしろ ぬえは称名寺の庭園に、寝殿造りの邸宅を寺に改装したのか、とさえ思ったのですが、鎌倉時代に? 鎌倉の地に寝殿造り? それはあり得ないですね。。 そうして能『六浦』では、こんな称名寺に日蓮宗を思わせる僧が訪れる。。じつは『六浦』は、ナゾだらけの能なのです。

ともあれ、舞台に話を戻して、シテは「山々の紅葉未だなりしに。この木一本に限り紅葉色深く類ひなかりしかば。為相の卿。。(中略)。。と詠じ給ひしより。今に紅葉をとゞめて候。」と説明していて、これが能『六浦』の異色なテーマとなっています。

このあとがまた異色で、

ワキ「面白の御詠歌やな。われ数ならぬ身なれども。手向のために斯くばかり。古り果つるこの一本の跡を見て。袖の時雨ぞ山に先だつ。
シテ「あらありがたの御手向やな。いよいよこの木の面目にてこそ候へ。
とシテは舞台に入りワキへ向き
ワキ「さてさて前に為相の卿の御詠歌より。今に紅葉をとゞめたる。謂はれは如何なる事やらん。


このワキは自分のことは「さん候これは都より始めてこの所一見の者にて候が」とシテに自己紹介していますが、シテの素性を尋ねませんね。他にも例があるとは思いますが、初対面同士のシテとワキであってみれば、ワキが「御身は如何なる人にて候ぞ」とシテに尋ね、シテも「これはこの辺りに住まひする者にて候が。。」などと自分の身分を(実際には化身である本性は隠して)名乗ることが多いと思うのです。能『六浦』ではそのやりとりが省かれているばかりか、ワキはシテから聞いた為相の歌に興味を示して、みずからもこの不思議な楓に対して歌を手向ける、という異色の構成になっています。

これについて、ぬえは観世流大成版謡本の前付けにも紹介されている尭恵(1430-?)の『北国紀行』にある

同じ比六浦金澤をみるに。亂山かさなりて嶋となり。靑嶂そばだちて海をかくす。神靈絶妙の勝地なり。金澤にいたりて稱名寺といへる律の寺あり。むかし爲相卿。「いかにして此一もとに時雨けむ山に先たつ庭の紅葉葉」と侍りしより後は。此木靑はかは玄冬まで侍るよし聞ゆる楓樹くち殘て佛殿の軒に侍り。
  さきたゝは此一もとも殘らしとかたみの時雨靑葉にそふる


との関連を連想します。文明18年(1486)2月の記で、その時代は為相より200年後の室町時代のことではありますが、このように為相が称名寺の楓を歌に詠んだことはこの頃には人口に膾炙していたわけで、成立の過程も作者ももうひとつはっきりしない能『六浦』ではありますが、この能の作者が青葉の楓への興味を抱いてこの能の成立に到ったとき、ワキ僧から楓に対して改めて自作の歌を手向ける、という趣向と『北国紀行』との関連は一考する余地はあるのではないかと思います。

無色の能…『六浦』(その2)

2016-10-29 00:46:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
相模国六浦に到着したワキ一行は、この能の舞台となる称名寺に出かけることになります。

「着きぜりふ」などと呼ばれている部分で、「道行」である地点に到着したワキが、そのことを見所に宣言し、この地で休らうとか、何か不審な物を見つけて確かめようとするとか、次のアクションを起こし、多くはそれがキッカケとなってシテが登場する場面に繋がるところです。

能『六浦』ではこのところ、ワキのお流儀により大きく演出が異なるところです。このブログでは便宜的に ぬえが属する観世流の謡本に載る詞章を掲載していますが、これは かつて観世座の座付き流儀であった福王流の詞章に ほぼ依っているようです(小異はあることがありますが)。

この詞章によれば

ワキ「千里の行も一歩より起るとかや。遥々と思ひ候へども。日を重ねて急ぎ候程に。これははや相模の国六浦の里に着きて候。この渡りをして安房の清澄へ参らうずるにて候。又あれに由ありげなる寺の候を人に問へば。六浦の称名寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候。とワキは舞台中央に行き、ワキツレは地謡の前に着座して
ワキ「なうなう御覧候へ。山々の紅葉今を盛りと見えて。さながら錦を晒せる如くにて候。都にもかやうの紅葉の候べきか。又これなる本堂の庭に楓の候が。木立余の木に勝れ。ただ夏木立の如くにて一葉も紅葉せず候。いかさま謂はれのなき事は候まじ。人来りて候はゞ尋ねばやと思ひ候。

となっています。ところがこの部分、東京では最も勢力のある下掛宝生流ワキ方の詞章では次のようになっています。

ワキ「急ぎ候ほどに。これははや相模の国。六浦の称名寺とかや申し候。山々の紅葉今を盛りと見えて候に。これなる庭の楓ひと葉も紅葉せず。ただ夏木立の如くに候。謂われのなきことは候まじ。人に尋ねばやと思い候。
ワキツレ「尤もにて候。


いずれの場合も このあとワキは(下掛宝生流ではワキツレも)脇座の方へ歩み行き、その頃シテも幕を上げてワキを呼び止めることになります。「呼び掛け」と呼ばれるシテの登場の典型のひとつです。

この詞章を読み比べてみると、下掛宝生流の詞章はやや あっさりしているのに対して、やはり全体の詞章も長く、ワキが一人で舞台の中央に立って青葉のままの楓を発見する福王流の演出の方が少しく情趣という面では優れているかもしれませんね。

ところで、ぬえはじつは、この『六浦』という能の詞章には たくさんの不審を持っているのですが、この「着きぜりふ」にもそれを思います。これは福王流の詞章の場合だけですが、これによればワキは「これははや相模の国六浦の里に着きて候。この渡りをして安房の清澄へ参らうずるにて候。」と述べていて、どうもこれは日蓮本人か、日蓮宗の僧であることがイメージされているように思います。

話は脱線しますが、能には『鵜飼』『現在七面』などワキが日蓮であることが想定されている曲があります。「想定」と ぬえが言うのは、それらの能の中でワキが「自分は日蓮である」と名乗る曲がなぜかひとつもないからなのです。これが不思議なところで、これらの曲ではワキは「安房の清澄より出でたる僧にて候」などと名乗っていて、清澄とは日蓮が出家し、また日蓮宗を興した「清澄寺」であることは明白。そしてこの「清澄より出でたる僧」が登場する能は法華経を賛美する趣向で作られており、『現在七面』の話は身延山における日蓮の有名な事績がそのまま題材になっています。

能『六浦』のワキの役柄が日蓮だというのには証拠が乏しいとはいえ、福王流の詞章ではワキが すくなくとも日蓮宗の僧であると想定されていると考えるべきでしょう。

となると、このワキが「又あれに由ありげなる寺の候を人に問へば。六浦の称名寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候。」と言うのがやや不審ではあります。「称名」寺という以上、この寺が浄土宗であることが想定されるからで、日蓮宗と浄土宗は往時には対立関係にありましたから(これについては実際に ぬえが称名寺に参詣したときに、さらに新たな発見がありました。これについては後日ご紹介したいと思っています)

さて話題を再び能『六浦』に戻して、シテがワキを呼び止めます。

シテ「なうなう御僧は何事を仰せ候ぞ。

「呼び掛け」の定型の型で、シテは幕を上げるとワキの方へ向いて、脇座に行きかかるワキを呼び止めます。能ではシテの登場場面でよく用いられる「呼び掛け」なので、ぬえも何度もこのブログで説明していると思いますが、まことに能舞台の構造を活かした素晴らしい演出であると思います。

見所に突き出た本舞台にいるワキ一行に対して、これを呼び止めるシテははるか左後方の幕の中から声を掛けます。細長く楽屋に伸びる橋掛リをうまく活かして、ワキとシテとの距離感を。。遠くの方から ふと呼び止める感じがまずよろしいです。そうしてシテの姿がこの場面では見所に見えていないというのが また良いですね。ただシテの声だけが先に登場して、その姿はまだ見えない。そのうえ「呼び掛け」で登場するシテは、しばしば幽霊や神仏の化身であって、生身の人間ではないのですよね。そこで演者はあるいは神秘的に、または不気味に、おどろおどろしく、などシテのキャラクターを見所に想像させるように工夫を凝らして発声しています。この一句が能の成否を大きく左右する、と言っても誇張ではないと思います。

シテに呼び止められたワキは足を止め、シテの方へ振り返って応答します。

ワキ「さん候これは都より始めてこの所一見の者にて候が。山々の紅葉今を盛りと見えて候に。これなる楓の一葉も紅葉せず候程に。不審をなし候。
シテ「げによく御覧じとがめて候。いにしへ鎌倉の中納言為相の卿と申しゝ人。紅葉を見んとてこの所に来り給ひし時。山々の紅葉未だなりしに。この木一本に限り紅葉色深く類ひなかりしかば。為相の卿とりあへず。いかにしてこの一本にしぐれけん。山に先だつ庭のもみぢ葉と詠じ給ひしより。今に紅葉をとゞめて候。

無色の能…『六浦』(その1)

2016-10-26 10:19:31 | 能楽
さて毎度 ぬえがシテを勤めさせて頂く際に行っております上演曲についての考察ですが、今回もちょっとスタートが遅れてしまいましたが、例によって舞台の進行を見ながら進めてゆきたいと考えております。しばしのお付き合いを~

お囃子方の「お調べ」が済み、お囃子方と地謡が舞台に登場、所定の位置に着座すると、すぐに大小鼓は床几に腰を掛け、「次第」の演奏が始まります。「次第」は「名宣笛」と並ぶ、ワキの登場の際に奏せられる代表的な登場音楽で、「名宣笛」がワキの登場に限って用いられる登場音楽であるのに対して、「次第」はシテやツレの登場場面にも広く用いられます。同じく登場音楽の一つである「一声」と並んで、能の冒頭場面で最も多く聞く機会がある登場音楽ですね。

同じく多用される登場音楽としては「出端」がありますが、「名宣笛」が笛の独奏、「次第」「一声」が笛と大小鼓によって奏されるのと比べて、「出端」は太鼓が入るのが大きな特徴です。ご存じの通り、能の曲には太鼓が参加する曲と、太鼓は参加せず笛・大小鼓だけで上演される曲とがありまして、当然ながら「出端」は太鼓が入る曲でのみ演奏されます。また太鼓は、それが参加する曲であっても、能の中で演奏する場面は限定されています。笛や大小鼓が能の中で比較的多くの場面で演奏されるのと違って、太鼓は ここぞという場面で演奏に参加する、という感じです。

太鼓という楽器の能の中での役割を考えてみると、大ざっぱに、乱暴に言えば「勇壮」「荘重」な場面、また「軽快」「神性」などを表現するために用いられるように思います。これの対極。。つまり太鼓が参加しない曲には「閑寂」「静謐」の情感が込められている場合が多いように思います。

さらに言えば太鼓の有無はシテのキャラクターにも大きく影響されています。神仏や草木の精の役がシテの曲にはほとんど太鼓が入り、シテが直面で登場する、武士など現実の人間の役である場合などはほとんど太鼓が入りません。もちろん例外はたくさんあって、草木の精が主人公である『芭蕉』には太鼓が入りませんし、静謐な能である『姨捨』には太鼓が入ります。

こうして能『六浦』を見てみると、シテが楓の精である能の通例の通り太鼓が参加します。が、太鼓が演奏されるのは後シテ。。つまり草木の精たるシテがその本性を現してからなのであり、しかもその後シテの登場には太鼓が入る「出端」ではなく、大小鼓による「一声」が演奏されます。こういうところにシテの演者は作者の意図を感じるわけです。すなわち『六浦』では後シテの登場ではまだ三番目物能らしい情趣があるべきなのであり、クセのあと太鼓が入って奏される「序之舞」からは草木の精としての軽やかさが現れるのでしょうし、そうした演出の意図を、音楽面だけではなく、これが若い女性ではなく落ちついた中年女性の姿とどうマッチングさせるのか、というところを演者が工夫して作り上げてゆくものだと思います。


さて話はワキの登場に戻って、早速 詞章を見てゆきましょう。

「次第」の演奏にのって登場した僧(ワキ)とそれに付き従う僧(ワキツレ=通常2名)は、舞台に入ると向き合って謡い出します。

ワキ/ワキツレ「思ひやるさへ遥かなる。思ひやるさへ遥かなる。東の旅に出でうよ。

この謡の部分も小段として「次第」と呼んでいますが、この「次第」が謡われる場合の通例として、「地取り」と言って、地謡が同じ文句を低音で復唱します。この「地取り」の間にワキは正面に向き直り名乗ります。

ワキ「これは洛陽の辺より出でたる僧にて候。我いまだ東国を見ず候程に。この秋思ひ立ち陸奥の果までも修行せばやと思ひ候。

「名宣リ」の終わりにワキは両手を胸の前で合わせる型。。「掻キ合セ」とも「立拝」とも呼ばれる型をし、続いてワキとワキツレは再び向き合い、「道行」と呼ばれる紀行文を謡います。

ワキ/ワキツレ「逢坂の。関の杉村過ぎがてに。関の杉村過ぎがてに。行方も遠き湖の。舟路を渡り山を越え。幾夜な夜なの草枕。明け行く空も星月夜。鎌倉山を越え過ぎて。六浦の里に着きにけり。六浦の里に着きにけり。

「道行」の途中でワキは正面に向き直り、数歩前へ出て またもとの位置に立ち返ります。この数歩でワキが旅行したことを表す能の特徴的な技法で、『六浦』では京都から遥々相模国の三浦半島まで移動したことになります。


梅若研能会11月公演

2016-10-25 07:50:54 | 能楽
来月…11月17日、師家の月例会「梅若研能会11月公演」にて ぬえは能『六浦(むつら)』を勤めさせて頂きます。上演頻度が少ない、ちょっと珍しい能の部類に入る曲だと思いますが、不思議な魅力がある曲で、ぬえも地謡では3~4回出演したことがあります。

都の近くから陸奥行脚を志した僧(ワキ)が相模国六浦の里・称名寺を訪れると、頃しも紅葉の盛りであるのに、本堂の庭にただ一本、夏のままのように青葉を保つ楓の木を見つけます。そこに訪れた女(前シテ)に事情を聞くと、かつて「鎌倉の中納言」と呼ばれた藤原為相卿が紅葉を見るためこの寺に来たとき、山々の紅葉が色づくにはまだ早い時期であったのに、逆にこの楓の木だけが他の木に先立って見事な紅葉を見せていたのを見て感動し、「如何にしてこの一本に時雨けん 山に先立つ庭のもみじ葉」という歌を詠んだところ、それ以来この木は紅葉することがなくなったのだ、と語ります。僧は為相の歌を面白く感じて、自分も歌を詠じ、さらにこの木が紅葉しなくなった謂われを尋ねます。女は続けて、為相がこの歌を詠んだとき、この木は「自分が山の紅葉に先立って紅葉したためにこのような歌に詠まれることになったのだ」と思い、「功成り名遂げて身退くはこれ天の道なり」という古いことわざに従って、それ以来みずから紅葉することを止めたのだ、と語ります。僧は紅葉の木の心を自分の事のように語る女に不審をすると、女はみずからがこの楓の木の精であると明かし、僧が夜もすがら読経すれば重ねて姿を見せようと言って姿を消します。

その夜、月影が澄み渡る寺の庭に楓の精(後シテ)が現れ、四季折々の花の美景を挙げて、為相の歌が発端となって僧と言葉を交わし、縁を持てたことを喜び、重ねての弔いを願って舞を見せます。やがて空も明け方になり、鳥の声、鐘の音が聞こえる中、六浦の浦風に散る紅葉が庭を埋め尽くし、楓の精も僧に暇を乞うと山路に分け入ると見えて、おぼろに姿を消すのでした。

。。美しい紅葉の中、ただ一本青葉のままの楓の精。これを能では若葉とはせず中年の女性と位置づけます。この発想がまず面白いですね。そういう設定ですから逆に舞台面は渋く、美しく色づくはずの楓の精でありながら侘びさびた雰囲気に包まれます。しかし秋のもの悲しさを狙うでもなく、僧の回向に対する報謝の舞を見せるシテには喜びもあるわけで、これがこの能の不思議な魅力になっていると思います。

能『六浦』のもう一つの特長は、能では珍しく関東が舞台になっていることでしょうか。能の舞台設定は圧倒的に都を中心とした関西圏に設定されているため、能の能の舞台になった旧跡というのはなかなか東京在住の能楽師には探訪しづらい事が多いですが、能『六浦』の舞台である称名寺は神奈川県にあります。そこで ぬえも折を見て称名寺に参詣に訪れることができました。能で描かれる舞台設定とは大きく印象が違うお寺で、これまた興味をかき立てられましたが。。

平日の昼間の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 11月公演

【日時】 2016年11月17日(木・午後2時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 仕舞 龍  田 キリ  梅若万佐晴

能  経 正(つねまさ)替之型
     シ テ(平経正)  梅若泰志
     ワ キ(僧都行慶) 森常太郎
     笛 熊本俊太郎/小鼓 森貴史/大鼓 佃良太郎
後見 梅若万三郎ほか/地謡 梅若万佐晴ほか

   ~~~休憩 15分~~~

狂言 千鳥(ちどり)
     シテ(太郎冠者) 大蔵吉次郎
     アド(主人)   榎本 元
     アド(酒屋)   宮本 昇

能  六 浦(むつら)
前シテ(女)/後シテ(楓の精) ぬ え
ワキ(旅僧)野口琢弘/間狂言(里人)大蔵教義
笛 一噌隆之/小鼓 鵜澤洋太郎/大鼓 原岡一之/太鼓 梶谷英樹
後見 梅若万佐晴ほか/地謡 加藤眞悟ほか

                     (終演予定午後4時55分頃)

【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

伊豆・子ども創作能 明日は本番!

2016-10-08 17:44:38 | 能楽
静岡県 伊豆の国市に来ています。明日は当地の守山八幡宮の祭礼で子ども創作能を上演します。

守山八幡宮はここに流罪になった源頼朝が崇敬し、平家打倒の戦勝祈願をした由緒ある神社で、子どもたちも その平家に対して当地で挙兵した史実を脚色した『伊豆の頼朝』という創作能を演じるのです。

今日は翌日の成功を祈願して、守山八幡宮のお隣にあるお寺・願成就院さまに子どもたちが参詣し、『伊豆の頼朝』の謡を奉納させて頂きました。

願成就院さまは頼朝が鎌倉に幕府を開いたのち、頼朝の奥州討伐の戦勝祈願のために北条時政が建立した、これまた由緒正しいお寺で、ご本尊の阿弥陀如来座像など運慶作の仏像5体が過日 国宝に指定された、まさに伊豆にとどまらず静岡県や中部地方をも代表する名刹です。

ぬえは以前から願成就院の小崎住職さまとは懇意にさせて頂いておりまして、子ども創作能のメンバーの制服であるTシャツ(通称「能T」)の背中に大きく書かれた「能」の字をご住職に揮毫頂いたり、昨年からは白砂の庭園で観月会を催させて頂いたり。それどころか たまたま ぬえ家の宗派と願成就院さまが同じだったところから、両親が他界した際も東京での葬儀にはご住職にお無理をお願いして、わざわざ伊豆からご足労をお願い致しました。

この日願成就院さまに子どもたちを参詣させたのは、ひとつには翌日の舞台の成功祈願のためでもありますが、もうひとつの理由は、なぜ伊豆に住む彼らが頼朝の挙兵を題材にした創作能を演じるのか、彼らの古里で起こった歴史を学ばせるためでもあります。



毎年奉納に伺っておりますが、今日の子どもたちは例年より行儀よく、ご住職のお言葉に耳を傾けていて、とても良い奉納になりました。

また当地を見守る仏さまにご挨拶をしてお舞台を勤める心も大切にしてほしいと願っています。この日は明日の祭礼を挙行する寺家(じけ)地区の区長さまにも参列頂き、子どもたちに激励のお言葉を頂き、また子どもたちにも謝意を表してもらいました。

さらには明日の舞台である守山八幡宮にも参詣して、神さまにご挨拶をしました。

明日は神さまにお尻を向けて舞殿で上演することになるため、ぬえも非礼をお詫びして、子どもたちが立派に上演できるよう、神さまにお願い致しました。



朝から雨が降ったりやんだり、あいにくのお天気で、明日も予報は芳しくないようですが。。子どもたちの熱演はもう秋寒い気候を吹き飛ばしてくれることでしょう。