松風と村雨…ぬえの考えでは松風ひとりだけ、ですが…は、千年もの間、恋人の帰りを待ちわびているのですね~。
生活のために汐汲みの仕事に戻った松風ですが、その重労働に気を紛らしながら、いつとも分からない、再び恋人との幸福な生活が戻ってくる日を待ち続けたのでしょう。そうしてついに命を落としてしまって、それでも彼女は汐汲みを止めないで、生きていた頃と同じように、永久に汐を汲みながら待ち続けているのでしょう。
ところが、前回書いたような理由で、ぬえには彼女の姿は浦人には見えていない、と思えてならないのです。その苦悩も、恋人を想う狂おしい気持ちも押し殺すように、毎夜汐を汲む彼女の存在は誰にも気づかれない。
…でも、と ぬえはまた思います。それだからこそ彼女は待ち続けることができるのでしょう。つまり、彼女の許へ行平が帰ってくるあてもないまま、半ば絶望しながら、それでも行平を忘れることができない彼女の心の平安は、ただ、誰にも邪魔されずに汐汲みの作業に没頭することによってのみ、維持されているように思えてならないのです。本当に行平が帰ってくるのか…その疑念を思い浮かべたならば、たちまち彼女は苦悩に苛まれてしまうことでしょう。それを考えないこと…ただ「待つ」こと。それが哀れな松風が心の均衡を保ち続ける唯一の方法なのではないか…? 当地の浦人にさえその存在を知られない、もうすでに幻のようになってしまった亡霊…
ところが、能『松風』では、登場したワキ僧が彼女に宿を借りてしまいます。つまり霊験あらたかな修行者には、彼女が「見えて」しまったのですね。そうして、ワキはさきほど浦人に聞いた松風の悲恋物語をつい口にし、それを聞いて涙する彼女に不審を感じて、名を名乗る事を求めます。
…これはいけない。千年の間、汐汲みを続けることで、帰らない恋人の事を考えずに心の均衡を保ってきたのに、それをワキ僧がかき乱してしまったのです。そうして彼女は「妹」とともに一糸乱れぬ口調で昔物語をし…同一人物の二つの「心」なんですからこれも当然でしょうが、そのうちに彼女の心は行平への狂おしい思慕に没入していくのです。形見の装束を、何度捨てようと思ったか。そうして行平を忘れようと思ったことか。そういう思いを吐露しながら、ついには形見の装束を身にまとって、行平と一体になろうとし、さらに海辺に立つ松を見て「あの人が帰ってきた…私を招いている」と駆け寄ろうとする。…ここで彼女のもう一つの心…帰らない行平のことはもう忘れなければいけない、と考える気持ちが「妹」として「姉」を制止しようとします。
…結局、この曲には「救い」がないですね。そうして、彼女の心をかき乱してしまったのは、じつは彼女の姿が「見えてしまった」ワキ僧であったのだと、ぬえは考えています。朝になり、「夢」が覚めた僧は、昨夜の出来事が現実だったのか訝しみながらも再び修行の旅に出ることでしょう。そうして松風は…心の落ち着きを取り戻して、再び汐汲みの作業に没頭してゆくのでしょうね。なんともやりきれない曲ではあります。
…こういう解釈を ぬえは『松風』に持っているわけですが、今回の ぬえ一人での略式上演の機会に、その感触は確かめられたように思います。これは はからずもの発見ではありました。関係各位に感謝です。
…『松風』は、それでも演者にとっては演りがいのある曲だと思います。初演のときの稽古では、クセの中で形見の装束を扱う型に、何気ない型なのですが、とんでもない突っ込んだ表現が企図されているのを感じました。左手で烏帽子を持って、それを顔の近くまで上げて、手首を廻してしげしげと見入る…これ…キスではないですか! そうして、クセの後半では装束をかき抱いてクルリと右の後ろに廻る型があって…これは、恋人と一緒にダンスをしているよう。
…もちろん日本の文化にはキスも、男女が身体を密着させてのダンスの習慣もないことは十分に承知していますが、恋人と一体になりたい、という気持ちには洋の東西は関係ないわけで、そういう肉感的な気持ちの発露だと考えれば、これを現代で言えば「キス」「ダンス」と捉えることは無理とも言い切れないのではないかと思いますし、実際に ぬえは「キス」「ダンス」のつもりで初演を勤めました。
なんとも…スゴイ曲だと思います。
生活のために汐汲みの仕事に戻った松風ですが、その重労働に気を紛らしながら、いつとも分からない、再び恋人との幸福な生活が戻ってくる日を待ち続けたのでしょう。そうしてついに命を落としてしまって、それでも彼女は汐汲みを止めないで、生きていた頃と同じように、永久に汐を汲みながら待ち続けているのでしょう。
ところが、前回書いたような理由で、ぬえには彼女の姿は浦人には見えていない、と思えてならないのです。その苦悩も、恋人を想う狂おしい気持ちも押し殺すように、毎夜汐を汲む彼女の存在は誰にも気づかれない。
…でも、と ぬえはまた思います。それだからこそ彼女は待ち続けることができるのでしょう。つまり、彼女の許へ行平が帰ってくるあてもないまま、半ば絶望しながら、それでも行平を忘れることができない彼女の心の平安は、ただ、誰にも邪魔されずに汐汲みの作業に没頭することによってのみ、維持されているように思えてならないのです。本当に行平が帰ってくるのか…その疑念を思い浮かべたならば、たちまち彼女は苦悩に苛まれてしまうことでしょう。それを考えないこと…ただ「待つ」こと。それが哀れな松風が心の均衡を保ち続ける唯一の方法なのではないか…? 当地の浦人にさえその存在を知られない、もうすでに幻のようになってしまった亡霊…
ところが、能『松風』では、登場したワキ僧が彼女に宿を借りてしまいます。つまり霊験あらたかな修行者には、彼女が「見えて」しまったのですね。そうして、ワキはさきほど浦人に聞いた松風の悲恋物語をつい口にし、それを聞いて涙する彼女に不審を感じて、名を名乗る事を求めます。
…これはいけない。千年の間、汐汲みを続けることで、帰らない恋人の事を考えずに心の均衡を保ってきたのに、それをワキ僧がかき乱してしまったのです。そうして彼女は「妹」とともに一糸乱れぬ口調で昔物語をし…同一人物の二つの「心」なんですからこれも当然でしょうが、そのうちに彼女の心は行平への狂おしい思慕に没入していくのです。形見の装束を、何度捨てようと思ったか。そうして行平を忘れようと思ったことか。そういう思いを吐露しながら、ついには形見の装束を身にまとって、行平と一体になろうとし、さらに海辺に立つ松を見て「あの人が帰ってきた…私を招いている」と駆け寄ろうとする。…ここで彼女のもう一つの心…帰らない行平のことはもう忘れなければいけない、と考える気持ちが「妹」として「姉」を制止しようとします。
…結局、この曲には「救い」がないですね。そうして、彼女の心をかき乱してしまったのは、じつは彼女の姿が「見えてしまった」ワキ僧であったのだと、ぬえは考えています。朝になり、「夢」が覚めた僧は、昨夜の出来事が現実だったのか訝しみながらも再び修行の旅に出ることでしょう。そうして松風は…心の落ち着きを取り戻して、再び汐汲みの作業に没頭してゆくのでしょうね。なんともやりきれない曲ではあります。
…こういう解釈を ぬえは『松風』に持っているわけですが、今回の ぬえ一人での略式上演の機会に、その感触は確かめられたように思います。これは はからずもの発見ではありました。関係各位に感謝です。
…『松風』は、それでも演者にとっては演りがいのある曲だと思います。初演のときの稽古では、クセの中で形見の装束を扱う型に、何気ない型なのですが、とんでもない突っ込んだ表現が企図されているのを感じました。左手で烏帽子を持って、それを顔の近くまで上げて、手首を廻してしげしげと見入る…これ…キスではないですか! そうして、クセの後半では装束をかき抱いてクルリと右の後ろに廻る型があって…これは、恋人と一緒にダンスをしているよう。
…もちろん日本の文化にはキスも、男女が身体を密着させてのダンスの習慣もないことは十分に承知していますが、恋人と一体になりたい、という気持ちには洋の東西は関係ないわけで、そういう肉感的な気持ちの発露だと考えれば、これを現代で言えば「キス」「ダンス」と捉えることは無理とも言い切れないのではないかと思いますし、実際に ぬえは「キス」「ダンス」のつもりで初演を勤めました。
なんとも…スゴイ曲だと思います。