ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

映画の撮影に。。

2009-08-31 10:51:25 | 能楽
昨日 伊豆から帰ったばかりの ぬえですが、今日から3日間の予定で映画の撮影のために信州方面へ出かけて参りまする。。

なんでも「隠し剣 鬼の爪」の続編の映画ということで、やはり東北地方の小藩の下級武士が直面する過酷な現実、というお話のようです。

ぬえらはもちろん能楽師の役で出演するのですが、おシテは師家ご長男の梅若紀長師で上演される曲目は『殺生石・白頭』。まさしく 先日 ぬえが勤めた曲だったりします。(^◇^;) で、今回は ぬえは地謡のはじっこに ちょんまげヅラを着けてちょこんと座っておりまする。(^_^;)

ところがこの能舞台シーン、映画の中では前半部分のクライマックスのシーンらしいです。詳しくはネタばれになりますので書きませんが、あらすじを読むかぎり、とっても面白そうな映画です!

先日師家の舞台で 音録りだけが行われまして、今回は野外に組まれた? 能舞台のセットでの撮影ということになるのだそうです。セットの条件上、録音は室内で別に行われたのですね。しかし。。録音された音を聴きながら、それに合わせながら舞台で上演するなんて可能なのか?? まあ、シテや地謡はなんとか合わせることができても、囃子方は鼓の革から手を放して、そうして打つタイミングが事前の録音通りにいくのかなあ。。 そこはそれ、撮影される方もプロですんで、難しければ現地でもう一度録音をする可能性もあるのだそうです。野外での撮影には雑音がつきものでしょうから、なかなか苦渋の選択をすることになるかも、ですね。

それから3日間の撮影ということなのですが、それは天候によって撮影が出来ない場合の予備日を含んだ日程なのです。撮影の条件がそろえば1日で撮影は完了し、また悪天候の場合はその日はお休みになって翌日の天候回復を待つ。。と。

ちょうど。。台風が来ていますよね~(×_×;)
でも撮影日の明日は天候回復との予報が!
運を天に任す、とはまさにこのこと。晴れになりますように~(*^。^*)


狩野川能、大成功で終わりました~~

2009-08-31 00:45:55 | 能楽

やや~、狩野川能は半年の稽古の成果をみごとに発揮して、小中学生の演目は大成功を納めました! あ~~よかった~ ぬえは幸せです~ (^^)V

今回の狩野川能での子どもたちが出演した番組は次の通りです。
連調(小鼓と大鼓の合奏)『高砂』=小2~4年
仕舞『吉野天人』『小督キリ』=中1・2年
連管(笛の合奏)『破之舞』=小5~中2年

そうして子ども創作能『伊豆の頼朝』。恒例の子ども創作能ではありますが、今年は新作の初演です。台本は ぬえをはじめ何人かの能楽師の共作なのですが、頼朝の蜂起という史実を脚色するため、ぬえが『吾妻鏡』やら『平家物語』などから本文を引っ張ってきちゃったものだから、文章は難解を極めることに。。台本を作った ぬえさえも完璧には覚えきれないほどで、これで舞台上でお役の子どもに絶句されちゃったらどうしよう、と内心びくびくしながら地謡の後見を勤めていましたが。。

ところが ぬえのそんな心配はよそに、み~んな大きな声で謡って、物怖じなく演じきることができました! なかでも最後に戦って敗れる平家の伊豆目代・平(山木)兼隆の、その戦いの場面では ちょっと面白い演出を考えたのですが、ここはお客さまからも「おおっ!!??」と どよめきが起き、その後万雷の拍手を頂きました! これは子ども創作能でも初めて感じるリアクションでした。まあ役者にも恵まれたし、彼らのチームワークも抜群だし、彼らの力によって勝ち得た称賛でありましょう。

動作の派手さよりも貫禄と気品を期待した 源頼朝役の伊藤瞭くんですが、これも狩衣・風折烏帽子姿も凛々しく、言葉も明瞭なのに立ち居振る舞いは物静か。まさに適任のお役だったと思います。どうしても小学生にはチャンバラをやるお役の方が人気が偏るのですが、中にはこういう「風情」が必要な役に応えられる人材もあります。その意味では前述の平兼隆役の鈴木礼智くんも、稽古のはじめこそ戦いの場面に興味を示していましたが、やがて平家の当地の頭領のお役の自覚が出てきたのか、歩き方や姿勢まで堂々としてきました。

それから今回 特筆すべきは地謡の充実でしょう。毎年 お役も地謡も含めて、子どもたちの稽古のときには毎度毎度口をすっぱくして「大きな声を出して!」と、ぬえの方が怒鳴っている感じで、やがて彼らが責任感を感じてくるに従って、ようやく声も出てくるものです。ところが今年に限っては地謡が最初から完成されちゃっていました。地謡は小学校の低学年の子に担当してもらうのですが、まあ~物怖じせずに最初から大きな声で謡ってくれる子が何人もいて、ぐいぐい みんなを引っ張って行っちゃいます。ついでに ぬえまで引っ張って行かれちゃいました。(^◇^;)

立ち方のお役については、今年は男の子がたくさんいたために、このような難しい台本でもビジュアルとしてちゃあんと成立させることができました。来年はどうなるのかな~~ 今年と同じ、いや より良い舞台になることを期待します!

トップ画像は ぬえが勤めた玄人能『望月』です。こちらもほぼ間違いもなく勤めることができたと思います。『現在七面』『望月』と、ぬえには難しい能が あまりにも近い時期に重なっておりましたが、まずは大過なく勤められました事をありがたく思います。ご来場頂きましたお客さまには心より御礼申し上げます~

伊豆へ!狩野川能へ!

2009-08-28 02:13:22 | 能楽
いよいよ土曜日に「狩野川能」が開催されます!

前日の28日。。もう今日ですね、に ぬえは伊豆に入って、子どもたちの最終稽古をします。『現在七面』があったため、さすがに今年の「狩野川能」は当初の予定より1週間後へずらして頂いたのですが、おかげで子どもたちは夏休みが終わった直後に催しに出演することになってしまいました。

ちょうど夏休みの宿題を追い込みでやっつけた直後だろうから。。まさかみんな、謡や型を忘れてないだろうな~~??(×_×;)

そうして最終稽古の翌日、いよいよ彼らは本番の舞台を勤めます。

昼に会場に集合して午後から最終リハーサル。これはお囃子方も参加して本番の通りに行い、そうしてその2時間後には開演になります。

ああ~みんな悔いがないよう、精一杯やるんだよっ!?
守山の八幡さまも、花火大会の神様も(?)、みいんな見守ってくださっているからね!

そんでもって、ぬえにも『望月』が無事に舞えますように、よろしくお見守りください~(; ;)


外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その30)

2009-08-28 00:53:45 | 能楽
そして『現在七面』。この曲が『現在~』と呼ばれるからには、ある時期に『幽霊七面』、あるいはそれに相当する演目が同時に存在していたことを意味しているはずで、それが謡曲『七面』(ななおもて)なのです。

いま『未刊謡曲集』から全文を掲出します。(読みやすくするため送り仮名や注記は改変しました)

【七面】

わき次第「松をしるべに法のみち。松をしるべに法のみち。ふかき山路を尋ねん、詞「是は諸国一見の僧にて候。我未甲斐の国身延山に参らず候程に。唯今おもひ立ちて候、
上歌「旅衣。唯仮初に立出でて。唯仮初に立出でて。ひとのこゝろは大井川、いく関々の道すがら。所をとへば由井の浜。いそげばはやく甲斐の国、こまの郡に着きにけり、こまの郡に着きにけり セリフアリアイシライ 「急ぎ候程に是ははや。かひの国駒の郡に着きて候。人を相待ち当山の謂をも尋ねふずるにて候、ツレ「尤もにて候
一声 して下(準サシ)「玉櫛笥弐つも三つもなき法を。たのむばかりに明しくらしつ
わき「いかに申すべき事の候。今の歌をば何と思ひよりて号み給ふぞ、して「実能御不審候物哉。唯一乗の徳によりて。仏果はうたがひなしとなり、わき「扨々女人の御身として。かやうの子細を承るは。かへすがへすも有難ふ候、して「衆罪如霜露恵日の有情と聞く時は。仮令罪科は重くとも。僧会を供養し正しき妙音を唱え、その結縁に引かれつゝ、罪もや安く消えぬべし、仏果菩提にいたらん事。実往来の利益こそ。他をたすくべき力なれ、わき「近頃面白き人に参りあひて候、とてもの事に当山御法事の子細御物語り候得、して「年々会式の法事の中に、児の舞は作り花を色どりかざりかうがひにさす。をわりにはちり花とてかざれる花を散らし。其侭児の髪をそる、下(準サシ)「かやうに申せばいにしへの。またおもはるゝうらめしや、かゝる下歌「うきもつらきも行き通ふ、涙もみちのしるべなる、
地上歌「ふる雪に、笠はなけれど身延やま。笠はなけれど身延やま。けふ旅衣きて見れば。妙なる法の御経を、ちやうもんするぞ有難き。聴衆の眠り覚まさんと。拍子を揃へ児の舞。よしよし思へ世の中は。電光朝露まぼろしと。さとらざるこそ愚かなれ、さとらざるこそ愚かなれ
クリ「それ三界六道の拙き形より。如来十かうの貴き位ににいたらん事。仏教のおきてに。よるべきなり、 
してさし「然るに生死の海を渡り。金の岸に至らん事。一葉の船に乗らんとて、地下「明暮是を歎くといへども。輪廻の浪にたゞよひて、うかひかねたる、人界かな、
曲下「凡人間の。あだなる事を案ずるに、ひとさらにわかき事なし、終には老と成る物を。かほど、はかなきゆめの世。妙なる花の縁、薄きぞあわれなりける
上(ロンギ)「扨そも児の名をとえば。それは名高き人やらん、会式にかざる作り花、して「桔梗かるかやをみなめし。くねるこゝろにあらねども、乱れて咲くや玉椿、同「その、いにしへの児の舞。見しよりこゝろみだれがみの。いひ伝へ聞きたまへ。われは寔は七面に。住む身ぞと云ひ捨てて、かきけすやうに失せにけり、かきけすやうに失せにけり(中入)
わき「かゝるふしぎなる事こそ候はね。是につきおもひ合はする事の候。偖も薩埵日蓮上人。此身延山に移らせ給ふ。頃は文永十一年卯月とかや申し候。此山はまことの霊山にもおとるまじ。爰に庵室をむすび。最第一の法華経を御読誦有るべしと宣ふ。妙法花経のたつとさよ。夜な夜な此所へ山神来つて陸地になし。安々と安置し給ふ。また御経御読誦の折節に。何国とも知らぬ女性。毎日おこたらず来り御経聴聞あり。諸人是を不審をなせり。又いつもの如く彼女性。高座近く来り給ひしを。大上人のたまわく。けふは御身の誠のすがたをあらはしおわしませと有りしかば。其時面色かわり。仏前なる花びんの水を便として。目前に大蛇と成る。天地もひゞき震動す。聴衆驚きさわぎ。なをなを大上人を貴しと礼拝し奉り申すとかや。寔に法華経の功力の有難ふ候ぞ。十二の角うろこ即時に落ちて。成仏とくだつの身と成り給ふ。さて落ちたる角鱗をとり炭灰にし。絵の具に入れ末世のしやうこのためにとて。絵師其形地を写しをく。今の七面の明神の子細是也。なんぼうきどくなる物語にて候ぞ。まづまづ七面の明神へ参詣申さばやとおもひ候。つれ「尤もにて候
ワキ上「はや明方の鐘のをと。はや明方の鐘のをと。教へのつげをまたんとて。袖をかたしき山居して、なをなを御経読誦する、なをなを御経読誦する
一声太鼓 後して(サシ)「有がたやあふ事かたきうどん花の。花まちえたる法の機縁。未顕真実の方便。成仏のまことあらわれて、上同「正直捨方便無上の道にいたらん事。うたがひさらになき物を、して上「今は何をか包むべき。われ此山に住み馴れて。五濁の罪にまとわれ。苦しみおほき身なりしを、上行ぼさつ日蓮の。此山上へ来りたまひ。妙なる御法をうけ悦び、同上(ノル)「今は成仏、得脱の。身と成る事ぞ、有難き 舞五段
同上(ノル)「実有難き、御法のみち。実有難き、御法のみち。末くらからぬ、灯の。ながき闇路を、照らしつゝ。三つのきづなも、ことごとく、皆成仏の、縁となり。仏法いまに、繁じやうの霊地、仏法いまに、繁昌の霊地。此妙経の、徳用なり

この『七面』は江戸時代の前期の観世流謡本があるほか、ワキ方や囃子方の伝書も多く残る、能としてれっきとして上演された曲です(古い謡本の中には、能として上演されなかった曲や、そもそも座興や趣味のような意味合いで謡うことだけを目的に作られた曲もたくさんある)。しかし著者・穂高光晴(田中允)師の指摘のようにこの『七面』はさまざまな古曲の一部の文句を焼き直して取り入れた部分も多く、『現在七面』と比べるべくもなく、お世辞にも名作とは言えない曲ですね~。そのうえこの曲の後シテは最初から天女。。というか『海士』のような龍女の姿で登場して簡潔に舞を舞って終曲する淡泊さで、やや物足りない感じもします。ただ、『現在七面』の後シテが大蛇の姿で登場して物着をする重厚さのあとにさらに重厚な「神楽」を舞うのと比べると、現代の上演では『現在七面』でも物着のあとにはこれぐらいの軽やかさが似合うようにも ぬえには感じられました。

『七面』は成立時期が不明確で、同じく上演記録から考えて江戸時代の新作である『現在七面』とあい前後して成立した曲であろう、という程度の推測しか成り立たず、この2曲は成立事情については何かと問題の多い曲ではあります。おそらく江戸時代初期の頃に法華宗の大きな勃興のようなことがあって、その時期にこの2曲とも法華宗に近いところで作られ、そして法華経や日蓮を信奉する人々が観客の多くであるような場所で上演される事を想定して作詞されたのではないかな、と ぬえは考えています。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その29)

2009-08-26 02:45:47 | 能楽
これら『現在~』と名のつく能。。というか謡曲の数々を見てみますと、一見して気がつかれると思いますが、現行曲の曲名の前に『現在』を冠した曲の多いこと。そうしてもう一つには、それら現行曲のほとんどは いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる、前シテは化身であって、後シテとなってその本当の姿を幽霊などの形として現す能であることです。

タネ明かしを先にしてしまいますと、『現在~』という名前が付けられた曲は、物語の中で起きる事件が現在進行形で、時系列のままで進行する曲なのです。これに対して、前述のようないわゆる複式夢幻能またはそれに準ずる形式の謡曲に付けられた名前というものもありまして、それはそのものズバリの『幽霊~』というもの。この名称はさすがに居心地が悪いのか現行曲には1曲もありませんが、前述の『未刊謡曲集』によれば次のような曲が過去にあったことが知られます。

幽霊大江山・幽霊清重・幽霊楠・幽霊熊坂・幽霊小町・幽霊重衡・幽霊信夫・幽霊酒呑・幽霊酒呑童子・幽霊曽我・幽霊経政・幽霊童子・幽霊時宗・幽霊鵺・幽霊松風・幽霊光季・幽霊横笛。

これらの曲の中には、さきほど挙げました『現在~』と共通の題材を扱ったと思われる曲がいくつも重複するように現れて来ていることにもお気づきになるかと思います。つまり同じ題材。。具体的には同じ主人公を扱う曲が複数存在した場合、それらを区別するために、その曲の中で描かれる物語が現在進行形で事件の展開を追う形式の曲を『現在~』、また事件の後日談として後世に幽霊として現れた主人公がワキ僧などに懐旧談を物語る形式の曲を『幽霊~』として区別したものなのです。

すると、『現在~』『幽霊~』という曲名は、作者自身が名付けたのではなく、同じ題材を扱った複数の曲目を面前にした後世の人がその区別のために原曲の題名に勝手に付与したのか? というと、多くはその通りであったとしても、必ずしもそればかりとは言い切れないようです。ある題材を扱った曲がすでにあった場合、それでも同じ題材を扱う新曲が作られる場合もあるわけで、その場合現在物の先行曲があれば、新曲は目先を変えて複式夢幻能形式で作られ、これを『幽霊~』と作者自身が名付けて先行曲との区別を図る場合もあったでしょうし。

さらに言えば同じ題材でありながら曲のタイプが違う曲が、まったく別々の題名になっている曲もあります。じつはこの事実は有名で、牛若丸が盗賊・熊坂長範を退治した同じ物語を脚色した二つの現行曲のうち、現在進行形の物語、すなわち生きている牛若丸と熊坂が斬り合う曲『烏帽子折』がかつて『現在熊坂』と異称され、また退治された熊坂が幽霊となってワキ僧に回向を頼む『熊坂』もかつて『幽霊熊坂』とも呼ばれていました。

『現在熊坂』がなぜ『烏帽子折』と呼ばれるようになったかと言えば、それはこの曲では前半と後半がまったく脈絡ない展開をする。。つまり二つの事件を同時に扱っているからで、この曲の前半では盗賊・熊坂はまったく登場せず、牛若丸の元服。。「烏帽子着」を扱った場面で構成されているからで、そこに着目して『幽霊熊坂』と区別して『現在熊坂』ではなく『烏帽子折』を曲名としたのでしょう。こうなると『幽霊熊坂』が先行曲で、それに遠慮して新作が『烏帽子折』と名付けられたようにも思えるし、はたまた、それでは先行曲であるはずの『熊坂』が『幽霊熊坂』と呼ばれたのは別の曲を意識しての名称にほかならないわけで、疑問は尽きないです。世阿弥の伝書を見ても室町前期頃はまだ曲名の固定はあまり重視されていなかった様子ですし、同じ題材の複数の曲の成立過程を検証するのは簡単ではないようです。

ちなみに前述の『現在~』『幽霊~』の曲のうち、今なお名を変えて現行曲として上演されている曲の例を挙げてみても、以下のように複雑です。

現在忠度=現行曲にはナシ。ただし現行『忠度』『俊成忠度』はどちらも忠度の幽霊が登場するから関係は複雑。
現在張良=現行『張良』の異称。ただしこれに対する『幽霊張良』に該当する曲が伝わらない。
幽霊松風=現行『松風』とは別曲の『夢想松風』の異称
現在道成寺=現行『道成寺』の原曲とされる古曲『鐘巻』の異称。ということは現行『道成寺』と『鐘巻』が並存していたことを示す。
現在錦木=シテが幽霊として登場する現行『錦木』のほか、これと別曲も存在。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その28)

2009-08-25 22:13:46 | 能楽
今日は週末に迫った「狩野川能」の上演曲『望月』の申合でした。『現在七面』と引き続いてのお役で、稽古や申合、そして当日と、もう5日間も続けてシテを舞っています~。これはさすがに ぬえも初めての経験です。。

さて『現在七面』ですが、じつは稽古を始めてみて。。これは難しい能だな。。と思いました。何が難しいと言っても、面白くお客さまに見て頂くのは本当に難しい能だと思います。

まずは 法語をちりばめたあまりに難解でちょっと聞いただけでは理解しにくい詞章。クリ、サシ、クセと型もなく、しかもワキの説教の聞き役に徹する前シテ。中入の場面には動きがあり、また間狂言も面白いのですが、いよいよ大蛇となって登場した後シテは、二重に着込んでいるその装束の束縛によって機敏に動けず、面がズレる危険を避けるためにも動作は慎重になり。。結局 ものすごい形相の後シテの姿とは裏腹に動作はどちらかといえば緩慢になりがちに。そして変身して天女になるという眼目の演出も早変わりとはほど遠い「イロエ」を導入して入念に仕立てられ、さらには天女となった後シテが舞うのは長大な「神楽」。。これらによってこの曲は1時間40分という長大な能となっています。

おそらく法華経に対する絶対的な信仰や信頼感がお客さまの中にあることが前提に、この能はそういう方を対象に作られているのだと思います。「次第」による重厚な前シテの登場や軽やかな「天女之舞」を避けてあえて「神楽」を後シテに舞わせていることなど、この曲の作者は徹頭徹尾 シテを法華宗の守護神として尊重して描ききる事に集中しているように ぬえには思えます。

そんなわけで、大蛇が登場し、それが可憐な天女に変身するという思い切った演出を持つ割には、信仰を持たない現代人のお客さまにこの能に爽快さを感じて頂くのは演者としては本当に難しいと思います。今回の ぬえの工夫も なんとかこれらを克服したくて、後見に無理をお願いしたり、お囃子方にご協力を頂いたりして演出の工夫を試みさせて頂いたのですが。。さてどこまで効果があったでしょうか。。

さて『現在七面』についての話題もこれが最後になりますが、『現在七面』という曲名について。

この曲名に御不審を持たれる方は多いと思います。が、能の中では古来『現在~』という曲名はほかにもいくつか例があるのです。現行曲としては『現在七面』のほかには『現在忠度』『現在鵺』という、どちらも金剛流の所演曲の2曲のみではありますが、ぬえの恩師、幸流小鼓方で能楽研究者の故・穂高光晴(本名:田中允)師の著書『未刊謡曲集』によって廃曲までをも概観してみると、以下のように膨大な量の『現在~』と名のつく謡曲が過去には存在していました。

現在敦盛・現在海士・現在鵜飼・現在善知鳥・現在鵜羽・現在江口・現在箙・現在項羽・現在景清・現在祇王・現在楠・現在熊坂・現在菅丞相・現在実盛・現在十方・現在慈童・現在信夫・現在酒呑童子・現在殺生石・現在道成寺・現在田村・現在弾正・現在千方・現在張良・現在経政・現在鶴・現在巴・現在難波・現在錦木・現在野守・現在反魂香・現在檜垣・現在星下・現在松風・現在盛久・現在頼風・現在頼政・現在女郎花。

上記金剛流現行曲を含めてなんと40曲!
ちなみに『現在七面』は観世流と金剛流のみに伝える曲なので。。という事は金剛流では『現在~』という曲名を持つ現行の能は3曲もあるのですね~。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その27)(まだ続く)

2009-08-24 09:47:11 | 能楽

『現在七面』終わりました~。まあまあ大過はないままで終われたのはよかったと思います。ご来場頂きましたお客さまには心より御礼申し上げます~ m(__)m

自分としては「神楽」の初段の中で左袖を掛けるのが少し甘くてハラリと落ちてしまったことと、「神楽」のあとのワカで微妙な言い間違いをしてしまったのが瑕瑾でしたが。。でも、むしろ今回はあまり足が動かなかったのが。。つらかったです。

それから maicaさん、コメントを頂きましてありがとうございます。このような自己満足的なブログですんでなっかなかコメントはつかないのですが、お喜び頂けましたようで、やりがいがあります~ 終演後、お客さまから「詞章が難解で聞いていてチンプンカンプン。あらすじは読んで知ったが楽しむのは難しい曲ですね」という感想も頂きました。現代語訳つき詞章プリントや詳細な解説を見所に配るのもよろしいのですが、紙をめくる音というのは意外に響いてしまって、ほかのお客さまの迷惑になったりしますし、また演者による解説は舞台の上で勝負すべき演者からの ややもすると「こう見てください」という誘導(強制?)になってしまうのを恐れて、東京の常設能楽堂でそれを配布することは控えて、ブログという形で発信しております。苦肉の策。。という感じもあります。。かわって今週末には ぬえは伊豆の国市で催される「狩野川能」で『望月』を舞うのですが、こちらは能をあまりご覧になる機会の少ない地方都市での公演ですので、現代語訳つき詞章プリントの配布を試みてみることに致しました。試行錯誤しながらいろいろ考えていきたいと思います。。

公演は終わったのですが、今回の『現在七面』については、本当にいろんな事を知ることができました。ひとつの曲を上演するについて、ぬえはシテ方ですから自分の流儀については仕事もわかるのですが、それにお相手してくださるおワキ、囃子方、お狂言のお流儀について、いろいろな定めがあることがわかりました。これからしばらく、このブログではそういったこの曲の約束事とか、またこの曲の背景などについて、もうしばらく書いておこうと思います。

『現在七面』のように上演が稀な曲では前述のようにお流儀同士の「申合」が完全に整っていない場合もあるのですが、シテ方は主役ではあるとしても、それらのお流儀の定めによる齟齬や矛盾をまったく無視して自己中心的に演じてしまっては舞台そのものが崩壊する。。と言っては大げさかもしれませんが、失敗は免れ得ないわけで、そういう時は最終的にはその曲を実演する役者同士が、それぞれの師匠の了解のうえで当座のすりあわせをするよりほかに方法はありません。そのために事前の申合のみならず、当日の楽屋の中でまで諸役集まっていろいろと話し合いをしました。ぬえもそこでまた型を変えたところもありますし、これはもう一つの「申合」となりました。当日の話し合いの以前から この曲には実演上の決マリとして興味深い点もたくさんありまして、今回はせっかくの上演の機会ですから、できるだけそれらが生かせるように心がけました。

たとえばワキがかぶる「花帽子」。白い布で頭を包むものですが、ワキ方でこれを着るのは『現在七面』ただ1曲だけなのだそうです。シテ方では『大原御幸』をはじめ『当麻』『身延』『俊成忠度』など、いくつかの能でシテやツレも花帽子を着けることがあるのに、おワキではこの1曲だけ。しかも常のお坊さんの頭巾である「角帽子(すんぼうし)」と「花帽子」の両用、どちらでもよい、ということになっていまして、それを知った ぬえはワキのNくんに花帽子での出演をお願いしました。ところが さすがワキ方ではレアな装束。花帽子は所蔵もしておられず、当然着付けもできないのだそうで。

じゃ『現在七面』が上演されるときにおワキ方はどうしておられるのかというと、もちろん中には花帽子もキチンと着付けられるワキ方も当然あるでしょうが、多くの場合は花帽子を所蔵していた場合であっても、その着付けはシテ方にお願いする事も多いのだそうです。

今回は所蔵されていないそうなので ぬえは自分の師家にお願いして花帽子を拝借しまして、これを申合の際にNくんに貸し出し、そのうえに ぬえが自分で作りました「装束着付けノート」というものがありますので、この中の「花帽子」のページをコピーして「せっかくの機会なので、ちょっとご自宅で自分でも着付けられるか試してみられたら?」とお渡ししました。Nくんも『現在七面』のおワキは初役なのだそうで、いろいろ研究されたようですが、ん~残念、花帽子の着付けは難しいので、結局当日、シテ方が着付けることになりました。

花帽子を着たNくん、なんだか ちょっと童顔に見えましたが演技や謡は威風堂々。立派な高僧ぶりでしたね。Nくんは若手ワキ方ではありますが、ぬえが信頼する役者さんのひとりです。彼とご一緒して『現在七面』を勤めるのも ぬえには楽しみでありました。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その26)

2009-08-22 20:28:56 | 能楽
今日は師家で『望月』の稽古がありました。1週間に2番のシテを舞うのは ぬえ、初めてかもしれません。こう忙しくても、まあ文句の間違いだけはないように以前から準備はしておりましたので、昨日の『現在七面』の申合も、今日の『望月』の稽古も、ミスはほぼなかったので安心しました~。ただ、明日の公演に向けて気分を切り替えるのが難しい。今から大蛇モードになっておかなくちゃ。

さて後場ですが、今回の ぬえの上演の一番大きな挑戦がここにあります。すなわち、前述した「物着のイロエ」を省略するのです。

これは近来は様々な演者によって しばしば試みられている工夫です。と言いますのも、この場面でシテが後見座にクツロイで物着をすることが、早変わりはしにくい能では仕方のない事ではありますが、「たちまち蛇身変じつつ」という地謡の文句が意味する「瞬時の変身」とは かけ離れた様子になってしまうのです。やはり何らかの工夫をすることで、少しでも「瞬時」に近づけたい、というのがこの曲のシテを勤めた事のある者の共通した願いではありましょう。

その意味で「イロエ」の演奏の中で物着をすることは、古来その演じ方で上演されてきたとはいえ、最初から時間を掛けて物着をすることが前提になってしまいますし、また支度が出来上がってシテが立ち上がったところから、それを見た囃子方が「イロエ」を終了させるための手組を打たれることで、ここでまた若干のタイムラグも生まれてしまう。。『現在七面』でしか演奏されない「物着のイロエ」ですから、シテとしてもこの珍しい曲を上演する機会にいっぺん経験しておきたい、という気持ちも もちろん一方にはあるのですが、そのために生まれてしまう演技の「中断」も、これまた悩みの種でもあるのです。

で、イロエを省略してどう物着をするのかというと、これはイロエを入れた場合とまったく同じく、シテは後見座にクツロイで物着をするのです。そうして地謡が謡い続けている間に手早く物着を済ませて立ち上がる。。作業としてはまったく変化はないのですが、これは後見にとっては大問題です。この手際はシテにはどうすることもできず、ただただ後見の手腕によって決まるのですから。。

今回の後見はお二人とも ぬえの先輩。この「イロエ」を省略する工夫を相談したときは、やはり先輩も顔をしかめて ぬえに尋ねました。
「それで。。物着にはどれくらいの時間の余裕があるの?」
「ええと。。地謡のこの文句では立ち上がりたいので。。2分です」
「!!!!!!!!!!!!」

まあ、この先輩ならば大丈夫、信頼できると考えたからこそ ぬえもこの重大な工夫をお願いしたのです。そうして稽古能の際には当日とまったく同じく装束・面を着けて、実際に地謡が謡う中で物着を試みて頂きました。

その結果は。。

おお、なんと! ぬえが予想していたよりも遙かに早く物着が完成しました。「はい出来た!立って!」と後見に言われた ぬえは、そこで立てるとは予想していなかったので、一瞬。。はて、そこで舞台に出て演じる型を見失いかけたほど。あとでその稽古能のビデオを見たのですが、シテが後見座に着座して、さて物着が済んで立ち上がるまでの所要時間は なんと! 1分30秒! たぶん世界新記録です。まあ当日も同じ条件が揃うかはわからないので同じタイムになるかはわかりませんが、もちろんシテである ぬえも後シテの装束の着付けには工夫を凝らしてあって、物着がしやすいようには考えていますので、これより大幅なタイムロスはないでしょう。これぐらいならば「瞬時」に少しは近づけたかもしれません。

この物着については本当に長い間いろいろと考えていました。いっそのこと後見座にクツロがないで堂々と舞台の真ん中で行ったらどうか。。? ところが物着で脱ぐ大蛇の装束が膨大な量なので、これを舞台上に散らかすわけにはいかない。。これはダメです。天冠を着けるのに最も長い時間と手間が掛かるので、細い紐を駆使してパッと頭に載せる工夫はできないか。。? 鬘ではなく黒垂を下に着けたらどうか。。? 結果的にはどれもいろいろと問題があって、正攻法で物着を行うのが最適ということがわかりました。やはり後見の手腕頼りですが、それが成功したのだと思います。

それと今回は「神楽」を二段だけでやめて。。要するに「神舞」となる部分を演じずに「神楽」の部分だけで終わる「神楽留」という演じ方にすることにしました。急調の「神舞」は、その後に続くこの曲のキリのゆったりとした型と合いにくいことと、やはり『現在七面』の後シテは女神とは言いにくいのですよね。この曲の「神楽」が「序ナシ」と決められて略式に扱われているのも、神道に基づく、日本古来の神楽とは別に考えられているからだと思います。

それでは後シテは誰なのか。ここは ぬえは本地垂迹した仏。。というか菩薩の一人なのだと考えています。キリに描かれた文言もそれを雄弁に主張しています。そして、ぬえはこの曲のここに一番感心したのですが、ヨワ吟で謡われるキリの中で、最後の言葉「虚空に上がらせ給ひけり」だけがツヨ吟に節付けがされているのですよね。この後シテは決して『羽衣』や『吉野天人』のような、飛天の類の「カワイイ」天女ではありません。上演時間の長大にこだわらずに短く軽快な「天女之舞」ではなく「神楽」をシテに舞わせた『現在七面』の作者。キリもメロディアスなヨワ吟で終止することを潔しとせず、あえてツヨ吟で終曲することで、作者はこの後シテから「権威」を守ろうとしたのではないか、と ぬえは考えました。

さてこそ後シテは高らかに宣言します。「垂跡示現してこの山の鎮守となつて、火難水難もろもろの難を除き。七福則生の願ひを満てしめ。代々を重ねて衆生を広く済度せんと約諾かたく申しつゝ」

このブログの最初の方でも申しましたが、この後シテは日蓮の、そうして法華宗全体の守護神であるのです。その「強さ」、盤石の存在感が舞台に実現されることこそが『現在七面』という曲の意味であろうと思います。

変身の面白さ、だけではこの曲の魅力や意味はわからないのだ、という事を今回は強く感じました。そしてこの菩薩。。だと思うのですが、ぬえにはこの後シテは、自分を「上行菩薩の再誕」と確信していた日蓮自身とも重ね合わされて感じられてきて、なんというか、特定の信仰を持っていない ぬえにも、信じることの「強さ」と「美しさ」というものを実感させたのでした。

とりあえず今回の考察はこれで了とさせて頂きます。最後は駆け足になってしまいまして申し訳ありません。明日ご来場頂ける皆様には改めまして感謝申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その25)

2009-08-22 00:06:45 | 能楽
さて今回の『現在七面』の上演につきましては、いろいろと考えるところもあり、師匠や先輩、そしておワキや囃子方、お狂言方に至るまで、共演して頂く演者の方々と ぬえの工夫について相談し、ご協力を頂けることになりました。またその課程で各お流儀のいろいろな決マリ事などについても知ることができ、思わぬ勉強の機会となりました。今回はそのへんについてお話ししてみたいと思います。

まずこの『現在七面』の稽古を始めて最初に気がついたのは、この曲が意外にも かなり長大な曲であること。なんと平均上演所要時間は1時間40分です! これは予想外でした。。地謡は2度謡ったことがあるけれど、さすがに上演頻度が少ない曲ですので、上演時間までは記憶も曖昧で。。しかも今回の公演(梅若研能会8月公演)は能が3番も上演される日でして、『現在七面』はトメ。。というのですが、その日の最後の上演曲です。う~ん、お出でになるお客さまにとって、3番の能の最後の曲が1時間40分掛かるのでは少々お疲れになってしまいますよねえ。。 それだけが理由ではないのですが、今回の上演については上演時間の短縮を目指すこととすることに致しました。曲のエッセンスは損なわずに、もう少しコンパクトに上演する方がこの曲の良いところが引き立つとも考えまして。。

師匠に相談申し上げましたところ、演出の工夫で時間の短縮を図るのはよいが、詞章を省略してはならない、と仰せられ、その方向で工夫を試みることに致し、また他の演者の方の上演の成果も参考にさせて頂いて演出の工夫を致しました。

前シテは、これはシテよりもむしろワキの説法が中心となった場面なので あまりシテの工夫は凝らせないのですが、次第で前シテが登場する際に舞台の中の常座ではなく橋掛リ一之松として、シテの上歌のところで謡いながら舞台に入ることにしました。日蓮の草庵に歩みを運ぶ心です。それと前述の通りクセの中でワキに向いて合掌する点、そして中入で謡のうちに幕に走り込むところ。。この3点が主な工夫になります。

ところで今回 ぬえのお相手をしてくださるおワキは下掛宝生流のNくんなのですが、どうも下掛宝生流では『現在七面』の詞章には ひと通りではなくいくつかのやり方が伝わっているようです。じつは先日『現在七面』が上演されたのを拝見したのですが、そのときのおワキが謡っておられた詞章は観世流の本文とほぼ同一のものでした。独自本文を持つ下掛宝生流としては異例に感じた ぬえでしたが、このたびNくんとご一緒した稽古能や申合ではNくんが謡う詞章はそれとはあまりに違っている、やはり独特な本文でビックリ。伺ってみると、Nくんのお家には古い台本が伝わっているのだそうです。やはり上演が稀な曲であるうえに観世流と金剛流にしかレパートリーとして伝わっていない曲ですから、お相手の流儀の中にも このようにいくつかの伝承が伝わっているということもあるのでしょう。

次に間狂言のことですが、これも演者に伺ってみました。と言いますのも、『現在七面』についてあちこちの能楽師に聞いていたところ、シテの中入の演出によって間狂言の演技が替わってくるらしい、と仄聞したからです。それならば、と前シテは幕に走り込む演出を採りました。じつは ぬえの師家にこの型はありませんのですが。。 ところが狂言方に伺ってみたところ、今回お相手してくださるお流儀では『現在七面』の間狂言の型は、前シテが幕に走り込むことが前提となって作られていて、それ以外の演出はないのだそうです。ということは ぬえの師家の本来の型と、このお流儀の間狂言の型は合わないということになってしまう。。もしもどちらの流儀もそれぞれの型の主張を曲げなければ、まあ上演が続行不能とまではならないでしょうが、とても ちぐはぐな舞台になってしまいます。

近世まで能は「座」と呼ばれる演能グループで活動していまして、シテ方の大夫を中心として、お相手をするおワキ・囃子方・狂言方もほぼ専属で決まっていました。近代になって「座」というものは解消されて、各役は自由にお相手をするようになったのですが、それぞれのお流儀が共演する実演上の必要として、各お流儀の宗家の話し合いで演出や演技、演奏の齟齬がある点についてすり合わせが行われたのです。このすり合わせを「申し合せ」と言い、「シテ方○○流相手のときはこう囃す」「太鼓方○○流の場合はこう舞う」というように決められたのですが、ところが能の膨大な曲目についてすべてのお流儀同士で完全に申合を行うのには気の遠くなるような時間が必要なわけで、珍しい演目や難しい小書については現代に至ってもいまだ申合が整っていない場合もあるのです。『現在七面』で ぬえは長い能の歴史の中でこのように演出が未整理の点がまだ残っている場面に遭遇して、なんだか感慨を覚えました。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その24)

2009-08-21 20:28:45 | 能楽
今日は研能会8月公演の『現在七面』の申合がありました。装束も面も決まり、囃子方やおワキとの打ち合わせもすべて済ませて(今回はかなり多くの工夫がありますので。。)、あれあれ?? ふと気がつくともう『現在七面』の上演はあさってではありませぬか。

ああ~、このままではこのブログの『現在七面』の記事が上演当日になっても終わらない。。工夫についてや、曲そのものについても記したいのに。。ちとペースを上げて行きましょう。

物着の「イロエ」で装束を改め、大蛇から天女となった後シテは、後見座から立ち上がって舞台に進み出ます。このあたり、ぬえの師家ではあまり型はないのですが、サシ廻シ、ワキへ向き、橋掛リの松を見、と少々の型があります。

地謡「忽ち蛇身を変じつゝ。如我等無異の身となれば。空には紫雲たなびき。四種の花降り。虚空に音楽聞えきて。宜禰が鼓に類ふなる。報謝の舞の袂も。異香薫じて吹き送る。松の風颯々の。鈴の音も更け行く夜半の月も霜も白和幣。振り上げて声すむや。
シテ「謹上。地謡「再拝。


「謹上」と幣を振ったシテは「再拝」とこれを頂き、「神楽」という舞となります。「神楽」というのは面白い舞ですね。最初に「序之舞」と同じように囃子に合わせて足遣いをする「序」という部分があり、それから舞になります。舞の中は「掛カリ」「初段」「二段」と舞い進んでいきますが、この間 小鼓だけはずうっと「プ、ポ、プ、ポ。。」という二つの粒を打ち続けます。シテも扇ではなく幣を持って舞い、しばしば「沈ミ」の型があるのが特殊。笛の譜は「ラアラアヒャイツ、ラアラアラア。。」という、こちらもかなり特徴的な譜で演奏されます。

さて「二段」のあとに「空段」(そらだん)という段数としてはノーカウントの段があって、ここでシテは幣を後見に渡し、扇を受け取ります。このことからこの段を「幣捨て」とも呼び慣わしています。すると。。笛の譜が「ヲヒャヒュイヒョイウリ。。」とおなじみの譜に変わり、小鼓も常の舞の手に変わり、これより「神楽」は「神舞」となります。やがてシテが角に出ると「三段」となり、この「三段」と「四段」が「神舞」として舞われ、奏されるのですが、面白いのは「三段ヲロシ」に笛が吹く譜が常の「神舞」とは違った独特の譜で、これを「神楽返シ」と呼んでいる点でしょうか。この部分だけ「神舞」から ちょっとだけ「神楽」の雰囲気に戻る、という意味なのでしょうが、実際にはこのヲロシの譜はさきほどの「神楽」の譜とあまり似ているとも言えないようには思いますが。

「神楽」は女神が舞う舞です。女神であるのに「謹上再拝」と神を拝む言葉を言い、神慮をすずしめる幣を振って舞うのは ちょっと意味が通らないようではありますが、笛の森田流の『森田流奥義録』には次のような記述がありました。「神徳をたたえ、神の加護を請けようと神前で神慮をすずしめるために奏するお神楽を真似て、その構想に基づいて、女神霊が遊興的に舞う舞である」とあって、いずれシテは「神舞」となったところで真性の神となるのは疑いようがなく、その前に舞う「神楽」の譜の部分を「遊興」と捉えるところはちょっと面白い解釈だと思いました。なお同書には日本古来の神楽と能の舞の関係についてのかなり哲学的な考察が載っていますので、興味のある方は一読をお勧めします。

ちなみにこの『現在七面』と『巻絹』の2曲は、シテの性格が本格の女神ではない、という解釈からほかの曲の「神楽」よりは略式とされ、演奏の冒頭の「序」の部分を省略して演奏する「序ナシ神楽」が演奏される決マリとなっています。

じつは ぬえは能で「神楽」を舞うのは かつて『龍田』を勤めて以来で、これで わずかに2度目です。『龍田』の時に師匠からは「神楽」は厳しく直されまして、これは心に残っておりますね。この時教えて頂いたのは「神楽」はノリが命、ということでした。舞というものは囃子に乗って、多くの場合笛の譜にうまく同調するようにシテは舞うものなのですが、「神楽」だけはほかの舞とは違って、早め早めに動いて、次の目的地で止まって笛の譜を待つ、というつもりで良いのだそうです。今回は稽古でそれを思い出して早く舞ってみたのですが。。ビデオを撮ってみたら。。型が荒くなっちゃった。。何事もほどほどでなければいけませんですね。。

「神楽」が終わるとシテはワカを謡い、ついに終曲に向かって最後の場面「キリ」となります。

シテ「鷲の山。いかに澄みける。月なれば。
地謡「入りての後も。世を照らすらん。
シテ「嬉しや妙経信受の功力。
地謡「嬉しや妙経信受の功力。三身円満の妙体を受けて。和光同塵結縁の姿を現はし。垂跡示現して。この山の。鎮守となつて火難水難もろもろの難を除き。七福則生の願ひを満てしめ。代々を重ねて衆生を広く。済度せんと。約諾かたく申しつゝ。行方も白雲に立ち紛れて。虚空に上がらせ給ひけり。


キリはゆったりとした型で、「神楽」から一転、とっても平和な雰囲気で終わります。「もろもろの難を除き」と笛座前から左袖を返してサシ分をするのと、「約諾かたく申しつゝ」とワキへ向いて下居して、成仏して身延の鎮守となりながら、なお日蓮に深く帰依する様子が表現されるのが注目される型でしょうか。

こうして常の如くシテは常座で留拍子を踏んで、扇をたたんで幕に引きます。

<語釈>
鷲の山~=続古今集所収の法橋顕昭の歌。顕昭は仁和寺で門跡の守覚法親王に仕え、当時の歌壇の中心的人物のひとり。守覚法親王は後白河天皇の皇子で平経正との親交で能の中でも有名ですね。
三身円満の妙体=法身・報身・応身を完備した尊い身、すなわち仏のこと
和光同塵結縁の姿=光を和らげて塵に同ずる、の意で道教から出た言葉。仏教では仏が智慧の光を隠して煩悩の衆生に同じて救うことを言い、さらに日本では神は仏が仮の姿として現れたものだとする本地垂迹説となった。
七福則生=「七難即滅・七福則生」という対語で直前の「もろもろの難」を受ける。日蓮は法華経を信ずれば七つの大難はたちまちに七つの福に変わると説く。煩悩即菩提。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その23)

2009-08-21 00:10:30 | 能楽
さてここで『現在七面』という曲の最も大きな特徴である「変身」が行われるのですが。。能では本当の意味の「早変わり」というのはありませんで、実際にはシテは後見座にクツロイで、後見の手によって着替えが行われます。

しかし中入のような装束の着替えは舞台上ではできないですし、そんな空白の時間を作るわけにもいきません。ことに面を掛けるのは繊細な作業ですから、舞台上で面を取り替えるのは至難。『葵上』では舞台上で面を取り替えますが、それは前シテと後シテの差異が面の違いだけなので(唐織は前シテの終わりの場面で脱いでいる)、まだこのような「変身」も可能なのですが、『現在七面』の場合は役の性格がガラリと変わりますので、面だけではなく装束や持ち物まですべてを取り替えることになるのです。

こういう理由でこの曲では面をふたつ重ねて掛けるのであって、あくまで「変身」のために要する時間の短縮のために、面を掛け替えるのではなく、外側の面を外す、という方法が採られているのだと思います。

着替えの手順は、打杖を引く→大龍戴と白頭を取り去る→面をはずす→法被を脱ぐ→天冠を着ける→幣を持たせる、という順序になります。着ている装束や面を脱ぐだけならば時間も掛からないのですが、この曲で問題になるのは ひとえに天冠の着用です。脱ぐのは簡単だけれども、物を着せるのは、これはどうしても時間が掛かります。具合よく着けなければなりませんから。。

そのため、この曲ではこの着替え。。「物着」の間に囃子方が演奏で間を繋いでくださることになっています。これはほかの曲には一切演奏されない『現在七面』だけの演奏なのです。

とは言っても、ほかの曲でもシテの「物着」に囃子方の演奏が入ることはお客さまもお聞きになったことがあると思います。一番身近な例では。。やはり『羽衣』でしょう。ワキの漁師・白龍からようやく羽衣を返してもらった天人は、『現在七面』と同じく後見座にクツロイで、後見の手によってこれを着付けてもらいます。この間に囃子方が「物着アシライ」というものを演奏しています。がしかし、この「物着アシライ」は笛・小鼓・大鼓によって演奏される拍子に合わない、なんというか叙情的な演奏ですね。

話は脱線しますが、この「物着アシライ」は、女性の役のシテの物着の場合に限って演奏されることに定められていまして、ツレなどの物着や、またシテであっても男性の役の場合の物着には、演奏されないことになっています。さてこの「物着アシライ」に対して『現在七面』の物着では太鼓が演奏に加わっている演奏になります。太鼓が加わるということは拍子に合った演奏になり、その分、なんというか叙事的な演奏になって、そのためこの演奏は「物着アシライ」とは区別して「イロエ」と呼び慣わしています。

なぜ『現在七面』の物着だけ太鼓が演奏に加わるかというと、これは後シテの登場からこの物着の直前までずうっと太鼓が演奏しているから、ここでいきなり太鼓が演奏からはずれるのも、それから『羽衣』のような叙情的な「物着アシライ」がここに挿入されるのも、どちらも唐突だからでしょうね。「物着」というものは、いうなれば扮装を改めて、物語の新たな展開の、そのスタートであることが多いのに対して、『現在七面』ではこの物着は大団円のフィナーレの準備であるでしょう。また通常「物着」というものはその役の人格が変わるのではなくて、彼(彼女)を取り巻くシチュエーションが変化したために、それに対応して服装を改める、という意味で行われるものだと思います。『羽衣』では返してもらった衣を着ることによって天女の不完全性が補完されて人間界に幸福をもたらすのであり、『盛久』や『芦刈』では不幸の果てから一転して「ハレ」の場の主役になるのであり、はたまた『望月』のツレや子方は弱者が敵討ちのために芸人に扮して相手を油断させることによって有利な状況に転換させるのであり。

こう考えると『現在七面』の物着は、終曲を前にしてシテが別人格へ「変身」するという いかにも特殊な場面展開の例であって、そのために用意された太鼓入りの「物着」の演奏は、誤解を恐れずに言えば「苦肉の策」なのだと思います。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その22)

2009-08-20 00:56:43 | 能楽
ワキ「かゝる不思議に遇ふ事も。かゝる不思議に遇ふ事も。ただこれ法の力ぞと。心を澄ましひたふるに。読誦をなして待ち居たり。読誦をなして待ち居たり。

待謡についで演奏される早笛(または出端)に乗って現れる後シテの持ち物は打杖。打杖には赤地、萌黄地、黒地などがありますが、じつは役割によって使う色が決められています。いわく若い女性の鬼では「紅入」というわけで赤地のものを使います。龍神は水中から上がってくるためか「萌黄地」。そのほかの役。。たとえば『安達原』などでは適宜それに合うような色。。たとえば黒地などを使っております。今回のぬえの『現在七面』の大蛇というのは、まあ。。龍神のようなものですから萌黄でもよろしいんですが。。ちょっと装束の色とは合わないかなあ、とも思っていますが。。

一之松に登場した後シテは数拍子を踏み、やがて舞台に入って型があります。このあたり、同じ曲なのですが家によってずいぶん型が違うところですね。ぬえの師家の型はだいたい以下のようになります。

地謡「あら不思議やな今までは(数拍子)。あら不思議やな今までは(左トリ舞台に入り)。妙に優なる女人と見えつるが(常座にてヒラキ)。さも凄ましき。大蛇となつて(角トリ左袖返シ)。日月の如くなる眼を開き(左へ廻り)。上人の高座を幾重ともなく(常座ヨリワキへ出ヒラキ下居)くるくると引き纏ひ(グワッシ二つ)。慚愧懺悔の姿を現し(立ち上り右へ廻り)。高座へ頭をさし上げて(常座ヨリワキへ出右へ飛返り)瞻仰してこそ居たりけれ(打杖を右に突き下居る)

威勢の良い型ではありますが、心は日蓮に帰依してかしづいているのですね。ゴロニャン♪と甘えている風情だと思うのですが、まあ般若や眞蛇ではそこまで表現するのは無理ですね。

この大蛇は懺悔のために本性を見せているのですが、それでも ぬえは、彼女(?)の心は幸福感に満ちあふれているのではないかと思います。なんせ前シテの間に日蓮から「二乗闡提悪人女人おしなめて。成仏する事疑ひなし」という保証を得ていて、なお大蛇は「懺悔のその為に。もとの姿を見せ給へ」と日蓮に言われて「報恩に。ありし姿を現」したのですから。懺悔のために醜悪な自分の姿を見せるのは、成仏を求めて人間の姿となり、その保証を得た大蛇にとって、恥ずかしいことではあっても威風を見せる場面ではないはずです。まあ、それでも般若や眞蛇の面を掛けて打杖を持って登場した後シテとしては日蓮に丁寧にお辞儀をするだけでは演じにくく、またそれではお客さまにも不満足になるはずで、こういうところは意外に演者のジレンマになるところのひとつでしょうか。

さて大蛇が日蓮にかしづくと、日蓮はあわてず騒がず法華経を取り出して声高らかに読誦します。

ワキ「その時上人御経を取り上げ。
地謡「その時上人御経を取り上げ。於須臾頃便成正覚と。高らかに。唱へ給へば忽ち蛇身を変じつゝ。


すると大蛇は一瞬の間に変身を遂げるのでした。。

<語釈>
於須臾頃便成正覚=「須臾の頃に於て便ち正覚を成ずる」法華経提婆達多品において、まさに八歳の龍女が成仏する直前の場面で、智積菩薩がその実現を信じずに言った言葉による。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その21)

2009-08-19 00:13:56 | 能楽
さて後シテの装束ですが、まず下に天女の装束を着けます。紫大口・摺箔・腰帯・舞衣・鬘・鬘帯(バサラ付)・増面という出で立ちですが、頭の上に着ける天冠だけはこの時には着けません。上に大蛇の装束を着け、頭の上には白頭を着けるためで、さすがに白頭の下には天冠は仕込めませんですから。。

上記のうち、摺箔と鬘は前シテのそのままを中入で脱がずに引き続いて後シテで使います。ぬえは摺箔は『葵上』で使う自分の所蔵品の「鱗箔」を使おうと思っていまして、普通前後のシテがどちらも摺箔を着る場合、後シテが着る摺箔をあらかじめ前シテでも着込んで、その文様を前シテでは見せないように、肩から胸だけしかない「肩箔」(かたはく・けんぱく)をその上に着ることが普通なのですが、この『現在七面』では大蛇の鱗を暗示する鱗箔を、前後ともその文様が出るように前後のシテで通して着るのがよろしいかな、と考えています。

紫大口は、これはよくまあ考えたもので、大蛇と天女という正反対の性格の装束のどちらにも合わせられる大口は、たしかにこれしかないかも。演者によっては大口の上に 薄い袋状の大口カバーのようなものを用意されて、大蛇の役はそれで勤め、物着で天女に変わるときにサッとその「大口カバー」を脱いで、上下の装束を総取り替えにされる工夫も何度か拝見したことがありますけれども。

さて天女の装束が出来上がると、その上に大蛇の装束を着けます。袷法被、腰帯、白頭、大龍戴、輪冠、般若(眞蛇)がその装束で、あとの物着でスムーズに着替えができるよう、この大蛇の装束を着る際にも、ぬえはいろいろな工夫をこらしております(先日 稽古能のために、ぬえが後見に装束を着けて頂くために着付けの工夫を紙に書き出してお渡ししたのですが。。なんと細かい字でA4版用紙いっぱいになりました。。)

さて舞台上では間狂言が終わると、ワキ・ワキツレは「待謡」を謡います。ワキツレはここまでずうっと辛抱して黙って座っているのですが、それは前述の通り、前シテと日蓮が話し合う前場は日蓮の草庵であって、この場面には日蓮と前シテの二人だけしかいない、という設定だったからです。前シテの正体が大蛇だとわかり、懺悔のためにその本性を見せることを約して消えると、日蓮は大蛇の供養のために講堂のような別のところに場所を移して法要を行うのであり、この後場に至ってはじめてワキツレは存在意義が生ずることになります。すなわちワキツレは日蓮に唱和して大蛇のために法華経を読経する多数の僧たちなのであり、さらにはその法要を取り巻いてやはり日蓮に唱和する多数の法華経信者を表してもいるのです。

「待謡」に付けて囃子方は後シテの登場音楽を打ち出します。この登場音楽は「早笛」か、あるいは「出端」のどちらかをシテが選択することになっています。登場音楽に選択肢があるのは『安達原』などにも例がありますが、『現在七面』では、これはつまり大蛇が登場するのですから強く激しい登場音楽であるべきところ、ところが大蛇は「年経たる蛇身」であり、白頭で登場するのですから登場音楽の位もシッカリであるべきで、そこで激しい登場音楽の白眉。。そして龍神の登場にはつきものの「早笛」と、オールマイティな役柄に対応できる「出端」を両用として、シテの選択に任せてあるのでしょうね。

当然ですが「早笛」を選択した場合も、それは「シッカリ」した位の、ゆっくりと奏される「早笛」になります。「早笛」特有の、あの爽快感は、この曲では望むことはできませんですね。後シテの登場も同じくシッカリとした歩み(次第にノリが加速されることは必要ですが)となります。ですから「早笛」をシテが選択する場合は「大蛇の勢い」に主眼を置いて、されどもそれは後シテが走り出てくるわけではなく、心の中が、まあなんというか「畜生」の野性味が常に燃えている、という感じで出たい、という場合でしょうし、一方「出端」で登場する場合は、獣性は抑えられて それこそ懺悔の体で登場する、という演出を選択されるのでしょう。それでも大蛇の登場ですから「早笛」であっても「出端」であってもお囃子方は「強く」演奏することは変わりません。

で、ぬえの選択は。。やはり「早笛」です。曲の中のメリハリという演出効果の上では、こちらの方が似合うと思いますので。。

伊豆で二日間続けての稽古(付・守山八幡宮にみんなで参詣に行きました)(続)

2009-08-18 01:22:24 | 能楽
さて今年の「狩野川能」では恒例の「子ども創作能」も、今年新作初演の『伊豆の頼朝』を上演します。もう10年続いているこの催し、その第一回から「子ども創作能」は上演されていますが、当初は旧・大仁町の催しだったもので、題材を大仁の民話に取材した『城山の大蛇』(じょうやまのだいじゃ)を作り上げて上演しました。この曲はかれこれ5年間、毎年少しずつバージョンアップしながら上演を続けていましたが、その後町村合併によって大仁町は韮山町・伊豆長岡町と合わせて「伊豆の国市」として生まれ変わりました。

そんなわけで旧・大仁町以外の町の話も創作舞台にすることになり、第二作目の子ども創作能として旧・伊豆長岡町を舞台とした『江間の小四郎』という曲を作りました。こちらも少しずつ毎年演出や台本を手直ししながら4年間上演を続け、そうして今年から北条館跡や蛭ヶ小島、そして頼朝が挙兵してまず始めに襲撃した平家の伊豆目代・山木館跡のすべての史跡が揃う旧・韮山町での事件を題材に作った『伊豆の頼朝』が初演されるのです。

ところが狩野川能に参加する子どもたちには台本を渡して稽古を始めても、頼朝の挙兵という当地での画期的な出来事はまだほとんど学校でも習っていないわけで。そこで自分たちの郷土で起こった事件について知識を深め、また狩野川能の成功を神様に祈念するために、頼朝が戦勝を祈願したこの守山八幡宮にみんなで参詣することにしたのでした。

当地・寺家(じけ)地区の区長さんに八幡さまの境内を拝借する許可をお願いしたところ、快く神主さまにお願いすることをお引き受け頂き、当日は区長さんから守山八幡宮の由緒と頼朝との関係について子どもたちに説明を頂きました。子どもたちも本殿に向かって拝礼して舞台の成功を祈念し、さらに『伊豆の頼朝』の一部をみんなで謡って奉納させて頂きました。神も納受し給い、子どもたちを加護くださるでしょう。

さて先ほど北条氏の居館跡の周辺に南條、中條という地名が残っていると申しましたが、肝心の北條はないのです。北条氏居館跡やこの守山八幡宮のあるあたりの現在の地名はさきほど出てきた「寺家」。そうしてなるほどその名の通り、この周辺にはお寺がたくさんあります。それもほとんどが頼朝以後の北条氏にゆかりの寺ばかり。北条時宗の子が建立した北条氏の菩提寺の成福寺、当初は頼朝の別荘として建てられたと伝わる光照寺、頼朝の悲恋物語にまつわる真珠院、そうして頼朝が奥州藤原討伐の祈願のために建立し、都からわざわざ運慶を呼んで作らせた阿弥陀・不動・二童子・毘沙門となんと5体もの仏像を安置する願成就院。。

すなわち名字の由来である北条という地は北条氏の本拠地であったために、北条の繁栄とともに歴史の中でめまぐるしく様相を変えた地で、その現状に即して地名も変化したものでしょう。守山八幡宮という名も、平家を自称していた頃の北条氏ではなくて、頼朝。。すなわち源氏と結びついたのちに、この神が北条の鎮守となることを祈ってつけられた名前なのではないかと ぬえは想像をたくましくしました。

さて~、八幡さまへの参拝をすませた子どもたちは近所のコンビニでみんなでアイスを頬ばり、ここで一旦解散して、お昼ご飯を食べたあとの午後から ぬえの稽古を受けました。

中学生の仕舞2番、小学生低学年の連調、と稽古をして、そうして子ども能。うん!今日は誰も間違えず、声も良く出て、何よりみんな真剣に稽古をしています。もう ぬえからは1発でOKが出て、ついに子ども能はこの日を以て完成致しました!

今年の子ども能は、運動神経抜群の6年生も得て、ちょっと面白い演出もあります。どうぞみなさまも子どもたちの舞台を応援して頂き、できることなら実際にご覧になって頂きたいと存じます!

伊豆で二日間続けての稽古(付・守山八幡宮にみんなで参詣に行きました)

2009-08-17 01:17:00 | 能楽

15日(土)~16日(日)の2日間、伊豆の子どもたちのお稽古に行ってきました。自称「合宿」と名付けた稽古で、遅れに遅れて春から始まった稽古、しかも新作の初演という悪条件の重なった今年の「子ども創作能」の稽古の総決算であり、この機会に舞台の完成を目指したのです。

初日の稽古はいわゆる「立ち方」だけを集めての稽古で、もう謡から型から、修正やら洗練を徹底的に行いました。正直に言って ぬえが怒鳴る場面もあったし、またほめるところもあり。。稽古時間は4時間を超えて、おそらくこれまでで一番長い稽古だったのではないかと思います。結果は。。まあ、ぬえが要求するところまで みんな応えてくれたかな。彼らは翌日の稽古にも参加させましたので、一緒に宿泊したわけではないけれど、まさに合宿状態の稽古でした。

翌日は朝から市内にある「守山八幡宮」にみんなで参詣に行きました。

伊豆の国市にある守山八幡宮は非常に古い神社で、さらには源頼朝が崇敬していた社です。平治の乱に負けて伊豆に流罪になった頼朝ですが、よく言われるのは「蛭ヶ小島」に流された、という説。蛭ヶ小島は市内・韮山に史跡公園として整備されていますが、実際にはここで行われた発掘調査では平安期の遺物は出土せず、頼朝がここに居たとは考えにくいのです。頼朝が流された地が「蛭ヶ小島」とされたのは後世のことのようで、実際には頼朝は姻戚関係を結んだ北條氏の居館(こちらは市内から遺構が出土)に寓居していたと考えられます。

当地を見て廻ると、南条、中条という地名が残っていて、それから考えると北条氏というのは本当に小さい地域の地名を元にした名字だという実感があります。当時北条氏は平氏を称していましたが、おそらく地方の中流豪族のひとつであった北条氏が平家全盛の時流の影響で平氏を名乗ったものでしょう。平氏を名乗ったため当時の当主・時政は流罪となった頼朝の監視役とされたのでしょうし、それは自称平氏の北条氏にとって清和源氏の御曹司である頼朝というはじめて由緒正しい家と結びつくチャンスであったのが実情だろうと思います。政子と頼朝の結びつきも『吾妻鏡』等の資料によれば頼朝が略奪婚のようなことをして結ばれた、とか政子が婚儀の夜に頼朝のもとへ出奔したような事も記されているわけですが、実際には時政の意向も強かったと ぬえは考えています。

そしてその北条館の裏山にあたるのが守山で、その頂に八幡宮があるわけです。これは頼朝がこの地に来るずっと前から鎮座していました。もともと源氏の氏神が八幡神で、都では石上八幡宮を崇敬していた頼朝は、おそらく当地で(監視ではなく)自分を庇護してくれた北条氏の、その鎮守のような存在に自分の氏神がなっている事に感激したでしょうね~。こういうこともあって頼朝と北条氏は急速に接近したのではないかしら。

後に頼朝は平家打倒のために北条氏の関係による手勢を率いて挙兵するのですが、これまた頼朝の確固たる意志に基づいたものではありません。以仁王が叛乱を起こした際に諸国の源氏に挙兵を促す令司を送り、この乱を鎮圧した清盛がこれを知って、後顧の憂いを払拭するために源氏の根絶やしを計って諸国へ軍勢を送ったため、頼朝は生き残るために一か八かの選択を迫られてついに挙兵したもののようです。

ともあれ、その挙兵の際に頼朝は伊豆山神社や三島社に並んでこの守山八幡に戦勝祈願をしています。この後頼朝は兄弟である範頼・義経を指揮して最後には壇ノ浦に平家を滅ぼし、鎌倉に幕府を開きました。頼朝の八幡信仰はここで花開いて鶴岡八幡宮という形となったのであり、いうなれば幕末にまで670年余りに渡る武家政治の原点はこの地にあるといえるのだし、鶴岡八幡宮の壮麗な社殿もこの質素な守山八幡の昇華した形なのですね~。