ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

気仙沼~旅の終わり

2011-07-25 02:23:33 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼の駅前から、それほど大きくないけれど、すでに落ち着きを取り戻したような町中を進んで行き、さて港の方ヘ道を曲がった途端、突然半分崩れかけた建物ばかりが連なる光景になって…これには ぬえも唖然…。本当に1ブロックの差で、これほどまでに街並みが変わっていようとは想像もしませんでした。

そうして港に近づくにつれて、テレビでも再三報道されていたように焼け焦げた船があり、さらに進むと…もう、それは街並みではなく、その痕跡と呼ぶしかないような惨状でした。くしゃっと小さく丸め込まれたようなクルマの残骸、プラットホームを見つけて ようやくそれと解る駅舎、きれいに形をとどめたまま隣家に乗り上げた家、配線がむき出しになった工場は、それだけでモンスターのよう…

気仙沼被災地


そうして、これが ぬえを最も戦慄させた光景でしたが、海からずっと奥、まるで山登りからいま帰ってきたように陸上に並ぶ船…



もうひとつ、こちらは気仙沼から東京に向けて帰る途中に出会った光景です。自動車道をまたいでいるのは鉄道で、よく見るとその上に家の屋根が乗っている…



…こうして ぬえの東日本大震災被災地訪問…2泊5日の旅を終えました。
ぬえが持つ感想としては、繰り返しになりますが、この度の震災が日本にとって有史以来最大・最悪の災害であること。こと被災地に向けては、数年に渡る支援が必要なことが痛感されました。

それでも、長い道のりではありましょうが、現地では着実に復旧に向けて歩みが進められているのがとっても印象的でした。当初は一面の瓦礫ばかりだった土地に重機が踏み入って、舗装さえ流されてしまった道を再び切り開き。一方で被災を免れた街並みは生活の足音を響かせ始め…その光景は、今現在は被災した地域をいったん切り離して、残された地域は震災などに負けじと、以前よりも豊かな町にしようと逞しく進み行くように見えました。

ぬえ、こういう仕事をしているせいか信心は人より篤いと思いますが(特定の宗教は持っていないのですが)、今回の被災の状況を見るに…こんな事を言って良いのか躊躇いはあるのですが…「魔」が襲ってきたのだと感じます。そうしていまだ そいつらは、そこ彼処に巣くっている…重機を使って道を切り開き、またボランティアの方々の献身の重労働(本当にそう思う)という作業は、ひとつひとつ、そういう魔物の棲む場所を潰してゆく、という作業なのだな、と感じたのでした。

もちろん、ぬえが被災地を訪問したのは震災から3ヶ月が経った頃で、ぬえが見た復興に向けての作業に到るまでの、それまでの時期には もっとつらい、厳しい現実があった事を考えなければなりませんね。それは ぬえには想像の域を出ないことですけれども、報道には乗らない、恐ろしい話を、ぬえも聞く機会がありました…。

今回の訪問には、やはり大きな躊躇もありました。自分の心に刺さったトゲを抜くために、結局 ぬえとは比較にならないキズを持った人の心に土足で踏み込むような事にならないか…? しかし、現地で上のような写真を撮るとき…これはこれで相当に気を遣って、神経をすり減らしながら撮っているのですが、そんなよそ者の無礼な行動にお叱りなど受けることもなく…いや、むしろ、それどころではない、もっと前を見つめて、ひとつひとつ歩を進めて行かれる姿が心に焼き付きました。ぬえ、正直、今回の訪問で一番大きく感じたのは「勇気」かもしれないです。

いまの ぬえは、また被災地を再訪したい、という気持ちで一杯です。1回目よりも、もうちょっとマシな活動ができるかもしれない。そして仲間の能楽師にも声を掛けて、慰問ボランティアも計画しているのですが…これがあまり簡単な事ではなく、受け入れをして下さる組織が見つからなくて…いまちょっと困っています。

さらに…ちょっと言葉が足りないかもしれませんが、誤解を恐れずに言わせて頂ければ、時間や経費の問題もありますが、ぬえは日本人に降りかかったこの災難の現状を、多くの方にぜひその目で見て欲しい、と思っています。映像ではない現実を見ること…真摯な態度を持って、ですが、その現実を見ることが、的確で、そうして息の長い支援に繋がるのではないか、と信じて。

(この項 了)

石巻~気仙沼へ(遠い道のり…)

2011-07-20 21:51:25 | 能楽の心と癒しプロジェクト
前夜の宿泊地・塩竃市まではネットでホテルを予約できたのだけれど、そこから先はまったく宿泊検索は不可能で、まあ…民宿のひとつでもあるんじゃないか、と淡い期待を持って走り出しました。石巻から気仙沼までは、やはり海岸沿いの道が最短距離のようで、カーナビの指示通りに走っていたのですが…ああ、やっぱり。あちこちに通行止めの標識があります。まだまだ通れない道がたくさんあるのね…。その通行止めの指示も「道を戻って桃生町方面へ迂回せよ」ですって…「モモウ?」…それ、どこ…? あとで知ったところでは「モノウ」と発音するのだそうですが、ん~やっぱりカーナビ買って正解。地図だけじゃあ、迷子になってしまうところでした…。途中に道の駅がいくつかあり、その中には入浴施設もあるようで、うう…ここでお風呂に入りたい~…とは思ったのですが、先行きが80kmもある事や、当夜の宿さえ決まっていない状況なので、まずは先を急ぐことに。

しかし海沿いの道は、そのまま つまり、津波の被害を受けた地域であるわけですし、そのためかどうなのか、時折見かける道の駅やコンビニエンスストアのほかには商店というものもほとんどなく、まして民宿なんて、走っても走っても まったく見かけません。もちろん道がすべて海に面しているわけではなく、時には山道になり、時には海からだいぶ隔たりながら、だったので、宿への期待はふくらんだのですが…

もう真っ暗闇の中をひたすら走っていましたが… いきなり周囲にヘッドライトで照らされたところだけ、がらんと開けた様子が見える場所に出ました。道もそれまでの山道の曲がりくねった道ではなく、直角に曲がる道路で…あきらかにこれは市街地なのです…が、何もない…。まさか…と思ってカーナビの表示を見ると、そこは南三陸町の中心地の志津川でした。ああ、そんな…。そうしているうちに突然、暗闇の中から巨大な崩れかけたビルが目の前に迫ってきました。恐ろしい光景に呆然として、早々にそこを走り過ぎることに…しかしこのあたりは、川か谷に沿って、相当内陸の方まで津波が入り込んだらしく、しばらく走っても被害を受けた家屋がずっと続いているようでした…

気仙沼に近づくと、崩れた橋が鉄板を組み立てる仮設式の橋に替えられていたり、凹凸が激しい道にはあちこちと迂回路が設けてあったりと、復旧に向けた努力の跡が目に見えて増えてきました。しかし、もう市内に入ろうというのに、とうとう民宿も1軒も見つからず…時間はすでに午後10時を廻ろうとしていて、ぬえは困り果ててしまいました。ああ、こんな事なら石巻に近い場所にあった入浴施設つきの道の駅でお風呂に入るべきだった…石巻の避難所で一日清掃をしていたので 汗まみれの ぬえ…とうとう意を決してカーナビで検索。

をを…ここなら多分泊まれるだろう。という事で選んだのが…



    ラブホ。



ここならビジネスホテルのように深夜にフロントをたたき起こして空室を尋ねる気遣いは不要。しかも旅館や民宿がないことを考えると、宿はあってもボランティア等が分宿していたりで空室を見つけるのはほぼ不可能でしょう。ここなら空室がある可能性も高いだろう。そう思って検索したのですが、見つけた最寄りのそれは気仙沼市内で、それは無理だろう、とその次に近い施設を探したら…なんとここから30kmも離れた場所でありました…。ようやくそこに到着した頃はすでに11時も廻っていましたが、ああ~やっとお風呂に入れました~。コンビニで買い込んだお弁当とビールでようやくひと心地ついて、大きなベッドでバッタリと眠りました。

翌日…気仙沼市街に入る前に、学校公演の会場となった中学校に行って外からそっと様子を窺ってみると…体育館の外には干されているフトン。校庭には仮設トイレと多くの車両。…明らかに避難所になっていました。やっぱり…と思いながら気仙沼駅の前へ行きましたが、不思議といつもと変わらぬ生活が続いているような、何の異変もないような雰囲気でした。学校公演の際に ぬえたちが泊まった駅前のホテルも営業しているようでしたし(一時は避難所になっていた、という話も聞いていましたが)、食堂も、そうして なんとお土産屋さんまでも営業していました。

もちろん、市内に向かう道ではずうっと対向車線には瓦礫を満載してどこかにそれを捨てに行くのであろうダンプが連なっていましたし、おびただしい数の警察の車両もひっきりなしに走っていました…それも ぬえが目にしたのは京都府警や長崎県警、鳥取、兵庫…およそ日本全国から集まったパトカーの数。ですから物々しい雰囲気もずっとつきまとってはいたのですが…不思議に市内は落ち着いているように見えました。

…あの道路の角を曲がるまでは。

石巻の被災地の現状

2011-07-13 22:43:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト
※先日石巻の避難所でお世話になったテノール歌手の小栗慎介さんから写真の使用許可を頂きましたので、前回の記事に画像を追加しました。

…これまであまり被災状況を撮った写真などはこのブログでは載せていなかったのですが、やはり未曾有の災害…ぬえが見たところ、日本にとって有史以来 最大・最悪の災害を肌で感じ、目に焼き付けることは無意味ではないかも。今回は少々、そういう厳しい画像をご紹介致しましょう。

トップ画像は今回 ぬえが最もショックを受けた石巻市・門脇(かどのわき)地区の門脇小学校の焼け焦げた有様。この地区は海から1kmばかり入ったこの小学校までほぼ平坦で、そのすぐ裏手にそびえる崖…で「日和山(ひよりやま)」と区分けされる地形なのですが、この崖の上と下では被災の明暗がくっきりと分かれてしまいました。



小学校が焼け焦げてしまったのは、避難して来られた方々の車が津波で日和山の崖…すなわち小学校の校舎に次々と打ち寄せられ、それらが火災を起こしてしまった、という事らしいです。…じつは今日、師家で事務局の方とこの旅行の話をしていたのですが、その方のお母様? が石巻のご出身だとかで、「日和山に上りましたか?」と問われて絶句… そこから海まではずっと、壊滅状態だったのです。

…それでも ぬえの心が少し安堵したのは、意外やこの小学校の児童のほとんどは無事だったのだそうです。すぐ背後の日和山に避難する訓練が行き届いていたのでしょうか。それでも小学校の正面玄関には花束と線香が供えられていました…

石巻では瓦礫もだいぶ撤去されていて、被災した地区はがらんと広けた光景になっていました。



被災直後の石巻の記録

しかし大きな建物など、撤去に重機が必要なものは まだまだいくつも取り残されています。こちらは水産食品加工工場のシンボルだった、缶詰の形を模した貯蔵タンク。広い道路の真ん中に、その巨大な姿を晒したままです…。このあたりでは信号機も被害を受け、警察官がずっと交通整理をしていました。





ちょっと離れて、こちらは奥松島のあたり。こちらはほとんど瓦礫が片づけられていません。ぬえの印象では、市街地のそばから順次、片づけが進んでいるようでした。やはり経済活動が再開した都市部から、その活動範囲を拡大していく、という方法が採られているのでしょうか。



ぬえは石巻では避難所でのコンサートで心が温まる体験をしましたが、またこうした厳しい状況も目にしました。明友館のリーダー・千葉恵弘さんからも「支援は今後数年に渡って必要でしょう」という言葉を伺い、ぬえの印象でも原状回復まで数年は掛かると感じ、また他方、被災地の方の声として「復興までは15年必要」という言葉もあるのだとか。一時の関心が時とともに薄れてしまわないようにしなければなりませんね。

ぬえも先日、再び明友館にわずかばかりの野菜を送ったのですが…ぬえの財力じゃ、なんだか情けないような支援です。師家や能楽師の友人とも相談して、もっと大きな支援にしたいのですが…

…さて話は戻って、コンサートに飛び入り参加したあと、ぬえは汗みどろのまま着替えた洋服のまま石巻の小学校をあとにして、一路 もうひとつの学校公演の会場であった中学校がある気仙沼に向かったわけですが、出発したのはもう夜も8時になろうという頃。

はあ~、石巻から気仙沼までは80km以上も離れているのね…それを知ったのは出発してからでした。ぬえ、ものごとを知らなさすぎ。昼間の避難所の掃除の疲れで、こりゃあ、途中で眠ってしまうんじゃないか、と心配しましたが、ともかく先を急ぐことにしました。

避難所でボランティア(その3)…避難所で舞囃子を舞ってきました

2011-07-08 16:52:40 | 能楽の心と癒しプロジェクト
床掃除をしているうちに次第に避難されておられる方々ともうち解けてきて、何となく会話をしたり、笑顔で挨拶したり。

この頃から床掃除だけでなくて、廊下にある共用の品…ちょっと荷物を置くデスクとかスツールとかも拭いておりましたが。…ところが 小さなテーブルを拭いていたら おじいさんが歩み寄ってきて「ああ、お掃除ありがとうねえ…そのテーブル…持ってっちゃうの…?(・_・、)」…きれいに拭いているのを、よそで使うための作業だと思われたようでした。「は?…いいえ、持っていきません。みなさんのまわりをキレイにしようと思って…」「ああ、そうですか…ありがとう…(O.;)」…小さなテーブルで、共用の品であっても、何というか限られた生活であってみれば立派な「財産」のようなものなのでしょう…ご心配掛けて申し訳ありませんでした…

結局 ぬえは7時間掛けて避難所となっている小学校の1階と2階の廊下を拭き上げました。夕方、ちょっと息抜きに校舎の外に出ると…さきほどまではなかったスコップが…そう、数十本以上も玄関の前に立てかけられています。ああ、暑いさなかの昼間に瓦礫の撤去や泥の掻きだしに出ておられたボランティアの方がいつの間にか戻られたのでしょう。屋内で掃除をしているだけの ぬえさえ汗だくでしたから、外で作業をされた方は本当に大変だったと思います。それも毎日、この作業を続けておられるのですから…ぬえにはとても真似のできないこと…頭が下がります。

さて、ぬえの掃除もいよいよ終わりに近づき、2階の端の「音楽室」の前を拭いているとき、どうも催し物の準備をしている雰囲気に気づきました。そういえば 掃除をしている最中にも時折「今日はコンサートが…」というような会話が耳に入ってはおりました。そこで恐る恐る、その準備をしている方に聞いてみると、この方は小栗慎介さんといって、まだ若いけれどテノール歌手なのだそうで、なるほどこれから避難しておられる方々のためにボランティアでミニ・コンサートを開かれるのだそうです。

あとで知ったことですが、この方は避難所を廻ってこのようなコンサートで慰問することをもってボランティア活動とされておられるのですね。なるほど~、その手があったかあ…掃除も大切ですけれども、能楽師としては避難所を慰問する、というのが正しいボランティアだったかなあ、なんて、ようやく思いました。どこまでも 何もわかっていない ぬえ…(・_・、)

で、この時は この小栗さんに ぬえの素性をお話しして、その前座として(?)、飛び入りで ぬえも参加させて頂けないか伺ってみましたところ、ふたつ返事で どうぞどうぞ、と仰って頂き、すぐに着替え。一応 着物と扇、それに録音した音源とアンプは持参していましたが、開演まであと10分という…。掃除で汗まみれになったままですぐに着物に着替えて、三々五々とお客さんも30名ほど集まってくださり、そうしてミニ・コンサートは開演となりました。

小栗さんがこの日のメイン・プログラムで、ぬえは飛び入りですから冒頭にちょっと時間を頂き、舞囃子の『高砂』を披露しました。みなさん、昼間からずうっと床掃除をしていた ぬえが突然着物に着替えて現れたので驚かれたようでしたが、最初に ぬえが能楽師であって、石巻と気仙沼の小中学校で学校公演をしたいきさつから震災後に心のトゲが抜けず、ちょうどスケジュールが空いた今になって飛び出すように東京を発って来ました、と事情を説明すると納得されたご様子。

『高砂』は、扇は天井から下がる何本もの「ハエ取りリボン」をかき分けるようにして、足の運びは教壇の段差を上がったり下りたりしながら、と ちょっと工夫が必要でしたが、これが大喝采を頂き、それじゃあ、と、みなさんで『高砂』の待謡のサワリを謡って頂きましたが、これも避難所でふだんは大きな声を出していないみなさんには刺激だったようです。大きな声を出して、笑って。ぬえも「団体生活の中では難しいかもしれませんが、どこか場所を見つけて大声を出されると健康のためにも良いですよ~」と申し上げて舞台を下りました。

すぐにまた洋服に着替えて、小栗さんのステージを拝見。同じくボランティアのピアノ伴奏を相手に30分ほど、美しい歌声を披露してくださいました。終演後は再び ぬえも混じってお客さまと握手をしたり、しばしの交歓がありました。ぬえも「もっと聞かせてほしい」「アンコールを見たかったわ」などと激励を受けて…これは忘れ得ない思い出となりました。ぬえも ついつい「また来ますから!」なんて答えましたが…それは簡単ではないけれども、今はまた、すぐにでもあの避難所に戻りたい気持ちで一杯です。

こうして一日限り、ボランティアとはとても呼べないような下働きのお手伝いをして、もう夜も8時近くではありましたが、ぬえは一路 もうひとつの目的地・気仙沼へと走り出したのでした。

【おまけ】湊小学校(避難所)で見かけたもの



※ こちらは自転車修理屋さん。道端のような場所でもちゃあんとお店のような構え。



※ 朝から晩まで真っ黒に日焼けして自転車修理など避難所の外の仕事を精力的にこなしていたお兄さん。



※ これはバイクのバッテリーを利用して作った作業灯?兼・廊下灯でしょうか。電力が限られているため、こういう柔軟な発想が素晴らしい。



※ このたびご厚意で ぬえの飛び入り参加を許して頂いた小栗慎介さんのミニ・コンサートの様子。後日メールでこのような「慰問ボランティア」をなさった経緯などを教えて頂きました。どこまでも感謝です!

避難所でボランティア(その2)

2011-07-07 02:40:48 | 能楽の心と癒しプロジェクト
1階の掃除が終わって2階へ。こちらは避難者の居住スペースです。避難されている方々とどうやって接したらいいのか、ちょっと緊張しながら掃除を始めました。

…それにしても、ハエの多いこと。そこらじゅう、至る所にハエが飛んでいます。天井からはいくつものハエ取りテープが下がり、そこにもハエがいっぱい…そういえば明友館でもハエ取りテープは目立っていました。避難所ではハエが原因で窓を開けることもままならず、ぬえが到着したこの日にもようやく窓に蚊帳のような網を張ってハエを防ぐ対策をしていましたが、それでも館内に飛ぶハエの数といったら…ぬえが掃く廊下のゴミも多くはハエの死骸だったりします。

石巻市 明友館・ハエとの苦闘

衛生面ではまだまだ問題があります。この日はまだ風があったし、暑さもさすがに東京より多少はマシかな? というわけで、窓を全開にしなくても なんとか生活はできる感じでしたが、それでも掃除している ぬえは汗まみれで、水をガブガブ飲みながらの作業になりました。水道が通じていてホントによかったあ。…しかし、3ヶ月前…もうそろそろ4ヶ月前になりますか、震災直後はこの小学校も相当にひどい被害を受けていたようで、よくまあここまで復旧したものだと思います。

湊・旧魚市場周辺の被災状況
湊小学校 被災時の状況

さて初めてこの2階で避難されておられる方々と挨拶や短く言葉を交わすことになったわけですが、ここに避難されておられるのはご高齢者が多いですね。震災当時1200名おられた避難者もいまは200名ほど。つまりアクティブに動ける若手~壮年の方々は自宅に戻られたり、引っ越しをされたりして、そのような手段がない、いわば弱い立場の方が仮設住宅への入居を待ってここに残っておられるのですね。

ぬえに救いだったのは、一様に明るい笑顔で ぬえに話しかけてくださったこと。廊下で通りかかる度に「ご苦労さま」「ありがとうねえ」とお声を掛けてくださる…それが、同じ方が何度も何度も通りかかる度に、です。ぬえも恐縮して「あ…いえ…お邪魔しております…」なんて言うのが精一杯。

でも…それとなく ぬえの耳に響いてくる 避難されている方々やそこへ面会にやって来られた方々の会話は…
「今は気が張っているけれど、ここを出て生活に安心したらどうなるか…」
「避難所を出て娘夫婦の家にいるんだけど、いつまでも居るわけにもいかないし…」
「そんな弱気なことを言って!寂しいのはみんな一緒だよ」
…やはり皆さんつらい思いをしておられるんです。ぬえはそっとその場から離れるしかありませんでした。

そういえば、この前日に訪れた仙台でも、コンビニなんかに入っていると聞こえてくる店内の会話は「あの地震以来ずっと…」「これからどうやっていくのか…」と、常に震災の話題でした。4ヶ月近くも経っているのに。正直言って、ぬえが被災地を見た感想としては、その被害の規模から言って、おそらく日本の有史以来最大の災害なのではないかと思います。石巻や気仙沼、南三陸の瓦礫をすべて取り除いて、そこに新しく家を建てるところまで…原状復帰までに数年は掛かるのではないか、というのが ぬえが感じた印象ですし、別な方面から気仙沼の人の話として「復興までは15年掛かるだろう」という言葉も聞こえてきました。この日の朝に話を伺った明友館のリーダー・千葉さんからも「支援は数年先まで必要です」というお言葉を聞きました。

この日は避難されておられる方のそばにいたので、写真を撮ることは極力控えていましたが、トップ画像は湊小学校の昇降口。いまは避難所の正面玄関として、様々なインフォメーションや各地から届けられた千羽鶴などが飾られています。

そのすぐ奥には、小学校のすぐ裏にある(やはり半壊状態でしたが)お寺さんから運ばれたのか、仏像が安置されてあり、この仏様に手を合わせる方のお姿も何度も見かけました。



それからこちらは避難所の中枢。「本部」と段ボールに手書きの表示ですが、スタッフの方は精力的に活動されておられました。



…すみません、無人に見えますが、それは避難しておられる方を写さないように、また忙しく立ち働いておられるボランティアの方のそばで手を休めて撮影することのないよう気を遣ったためです…


避難所でボランティア(その1)

2011-07-06 03:01:04 | 能楽の心と癒しプロジェクト
石巻の明友館でお話を聞き、ぬえもその日何か活動を手伝わせてほしい、と申し出ましたところ、近在の小学校で活動しているボランティア団体のお手伝いを紹介されました。…その紹介されて行った先が「石巻市立 湊小学校」。ここは避難所なんですね。

湊小学校は津波で浸水の被害を受け、いまは避難所として使われています。こういうところには「ボランティア受付」というものがあって、ぬえのような飛び込みのボランティアを受け付けて、仕事の割り振りをしています。ぬえも早速 明友館からの紹介であることを伝えました。受付をしていたのは20歳そこそこの学生さん? とおぼしき若い方。総じて避難所で忙しく立ち働いているボランティアはこのような若い人ばかりでした。

受付で「今日の瓦礫撤去の班はもう出発してしまいましたが…」と言われて、すみません…そういう重労働は無理かも…と答える ぬえ…非力です。(×_×) それでも、「それでは室内の仕事もありますよ」と快く応じてくださって、そうして ぬえに宛われた仕事は…

避難所の床掃除  でした…

ホウキとちりとり、そしてモップとバケツを手に、避難所となっている湊小学校の1階と2階をひたすら磨きました。…忙しく行き来するボランティアスタッフの、ややもすると邪魔になりながら、なんだかミジメな気分にもなってきました。ぬえって、被災者のためじゃなくて、こういう若いボランティアの下働きだよなあ…でも仕方ありません。彼らはもう何日もずうっと休みもなく被災者のために立ち働いている。ぬえはその支援のシステムもわからずに、飛び込んでたった1日ばかり、ボランティアの「体験」をしているに過ぎません…彼らの邪魔にならずに、その活躍がしやすいような環境を作るのが最も貢献度の高いお手伝いでありましょう。

ところが掃除をしているうちに、内弟子時代の日課だった師家の掃除の あの日々の記憶が蘇ってきました。だんだんと掃除にも力が入ります。師家の掃除は雑巾掛けでしたから、モップなんて高級品を使って掃除をするなんて贅沢。おっとこのシミは力を入れてこすらなきゃ取れないぞ。こういう時はモップはダメだな。ここにある雑巾をちょっと拝借して…

通りかかるボランティアさんも「お掃除ありがとうございま~す」「お疲れさまで~す」なんて みんなが声を掛けてくれる。みんな神経を隅々まで行き渡らせながら仕事をしているなあ。中には「わあ、ぴかぴかですね~」なんてお世辞を言って通る子までいる。ぬえも ついついおだてられて、ますます掃除に力が入ります。

掃除をしながら、この避難所の様子がだんだんと見えてきました。石巻市の災害対策担当者ももちろん常駐はしているのでしょうが、避難所の運営自体はすでに民間団体に任されている様子です。教室を利用して1階に本部があるほか、資材保管所や洗濯スペース(洗濯機は廊下に3台置かれ、目隠しのノレンを掛けた室内が女性の洗濯物を干す部屋になっているようでした)から、はてはゴミを利用して堆肥を作る部屋まであります。

そうして2階と3階に避難者が暮らしておられる様子で、これはあとで伺ったのですが、最上階の4階にはボランティアスタッフが寝泊まりしておられるのだそうです。体育館は物資の倉庫や炊き出しのスペースとして使われているようでした。

校庭はぐしゃぐしゃに ぬかるんでいましたが、自転車の修理屋があったり、新潟の地震の際に使われたという仮設のお風呂を納める大きなテントがあります。



自衛隊も来ていて、こちらはどろどろの校庭に砂利をまいて整地をしておられました。





石巻市の在宅避難者支援団体『明友館』【支援希望】

2011-07-04 04:04:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
石巻市で ぬえが出会った市民団体はこちら。

石巻 明友館

明友館はもと市の「勤労者余暇活用センター」で、震災により被害を受けて、現在は避難所になっている施設です。ところが数ある避難所(段々減りつつあるが、一時は石巻市だけで143箇所の避難所があった模様→石巻市避難所マップ(pdf))の中でここが異彩を放つのは、避難所でありながら在宅避難者支援の活動の一大中心基地となっているところでしょう。ぬえが突然訪問した時にも、石巻市のとなりの東松島市で罹災し、夫の実家に身を寄せている、という若いお母さん二人が不足している物資を求めて来館していました。こういう相談にも乗り、また全国から集まる支援物資を必要に応じて被災者に届け、また不足の品の支援を発信する、というネットワークが確立されてありました。活動地域は石巻市を越えて、すでに宮城県さえ越えて東北地方の沿岸部一帯の被災地域をカバーしそうな勢いです。

ぬえは前日にネットではじめてこの団体を知り、突然訪問したのですが、リーダーの千葉恵弘(ちば・やすひろ)さんにお会いしてお話を聞くことができました。

ぬえは恐る恐る、どうしてよいかわからず東京からとりあえず野菜を少量持参したこと、被災地の惨状と明友館の活動を知り、演能の場や能楽師を通じてこちらの活動を発信できないか考えていること、などを話しました。

が、千葉さんから伺った当地の支援活動の現状など。

まず、震災から3ヶ月が経ち、基本的に食料・衣類などは充足している(しかし義捐金はやはり届いていない)。ただ現地のニーズは日々刻々、また場所によっても大きく変わるので、いま大切なのは、必要な物を的確に集めて必要な場所にいち早く届けること。だから明友館としても必要品の発信の方法には気を遣う。「これが必要」と発信すると、「それ」ばかりが全国から必要以上に大量に送られてしまうので。保管場所の限られているし、配達する車両も軽自動車2台だけしかないので、余分な品物はかえって困ることもある。現地のニーズを捉えて、それに充足する支援をお願いしたい。

要するに、すでに支援のネットワークは確立されていて、このネットワークの中に入り込んで現地のニーズを知り、必要品を必要な数だけ迅速に揃える、というのがいま最も求められているようです。

とはいえ、刻々と変わるその現地のニーズを知るためには現地との頻繁なコンタクトが必要なわけです。伺えば明友館にもいくつか大口の支援者があり、それらの支援者はトラックに物資を満載して幾たびも当地を訪れて支援しておられるらしい。こういう方々との息の合った通信によって必要な物資を届けるネットワークが構築されて、物資のスムーズな流通~円滑な支援が可能になったのでしょう。ああ、どうも ぬえは遅きに失したらしい。いや、いち早く支援を始めても、ぬえの財力では途中で息切れしてしまうかも…

では、これらのネットワークに入っていない、また個人のささやかな善意はすでに受け入れてもらえないのでしょうか? 否、それでも千葉さんが仰るには、「いくつあっても困らないもの」があるのだそうです。

まずは野菜。これはとても重宝され、先日も支援者が4tトラックに野菜を満載して支援しましたが、あっと言う間にはけてしまったそうです(トップ画像は ぬえ持参のあまりに貧弱な数の野菜を感謝して受け取って下さった千葉さん)。それから季節によって必要なもの。たとえば扇風機。それから子どもの下着類。扇風機は節電が叫ばれているためどこでも品薄で、現地でも足りていないそうです(これはこのあと訪れた避難所でも感じた)。子どもの下着類というのは、どうしても被災地では洗濯の機会が少ないところにもってきて、子どもの衣類は90cm~160cmまでいろいろなサイズが必要なため、不足しがちな品物だということでした(注:衣服の支援は新品に限る)。

これらの品物ならば、現地で邪魔にならず喜んで頂けると思います。前回書きましたように、野菜であれば数千円である程度の分量の支援ができます。衣類もまとめて安価で売っているお店があるかも。ぬえも早速何か送ろうと思っています。どうか現地のご支援を希望されておられる方、募金だけでは心のトゲが抜けない方は、上記 明友館のサイトもご覧になって最新情報に留意された上、ご支援頂ければありがたく存じます~


【以下 明友館サイトから転載しました】

支援物資送り先

※お手数ですがお送りいただく前に必ずメールにてご連絡頂き、品目、
 個数を詳しくお知らせ下さい。 明友館はそれほど広い施設ではありません。


〒986-0017 宮城県石巻市不動町2-16-10
           明友館 千葉 恵弘 宛

支援物資募集にあたり下記注意事項を良くお読みください。

【梱包の際のお願い】

1 物資はなるべく側面にも内容物をご記入下さい。
  ダンボールは積まれる事が多いので側面を見て内容が解ると
  送る側、配る側の手間が省けます。

2 混載はご遠慮下さい。様々な物資が入っている箱をそのまま
  避難所などに届けることはまずありません。仕分けする必要があります。

3 衣類はサイズ別、品目別に分けてください。また、
  下着など直接肌に触れる物は必ず新品をお願いいたします。
  自分が着たくないものを送るのは支援活動ではありません。残財処分です。

4 食料については賞味期限、消費期限をよくお確かめ下さい。

明友館支援活動基金

現金書留の場合は以下の宛先までお願い致します。

〒 986-0017 宮城県石巻市不動町2-16-10
                明友館  千葉恵弘
お振込み頂く場合下記の口座にお振込み下さい。

 三菱東京UFJ銀行 仙台中央支店
 普通 1387149
 名義 チバ ヤスヒロ

ご協力お願いいたします。


石巻市で支援団体にコンタクト

2011-07-04 04:04:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
翌日…石巻市を訪れましたが、海沿いの一部地域はもう壊滅的な被害で、目を覆うほど…。また地形によって被害に大きな差があることも印象的でした。

さて ぬえは思いつきのように東京を出てきたわけですが、東京に、どちらかというとひそやかに伝えられている情報としては、どうも赤十字などの大きな団体に寄せられた義捐金が現地の被災者にうまく届いていないこと、今はむしろ在宅避難者の支援が急がれていること、そこで必要とされているのは現金…はもちろんでしょうが、むしろそれよりも野菜や飲料水など、その場ですぐに使える生活必需品であること…などでした。

それで、ぬえもその情報の真偽はわからないままに、出発直前に近所のスーパーマーケットに行って野菜を買い求めることにしました。…なんせ思いつきのスタートだったもので、その日の ぬえの準備は慌ただしいもので、まずはカーナビを買うところから…(^_^;) ぬえの愛車のレイちゃんには、いまだにカーナビがついていなかったのです。いつでも ぬえは、こういうの、遅いです。でもさすがに今回はあまりに東京から離れた土地を広範囲に移動しようというのですから、カーナビがなくては無理だな…と判断して、ようやくナビを買うことにしたのですね。出発当日に買ったナビ。取説は実際に走りながら休憩時に時々読む程度で、あとは走りながら動かすことで使い方を覚えました。

さてそれからようやく被災地に持って行く物資の買い込みでしたが、そもそも被災地に何を持っていけば良いのか? それを誰に渡せば良いのか? まさか避難所に突然持って行く? …それも前回ご紹介した八千代ウェディングの内田さんから「100人避難しているところに99個の品物を持っていっても意味がない…それはまた別の問題を引き起こすことにもなる」…というような事を以前聞いていまして、ぬえは買い物にも躊躇してしまいました。…でもまた、手ぶらで被災地に入ることは、結局 被災地の「見物客」と同様になってしまうわけで、それだけはなんとしても避けたい、という思いもあって、それで出発直前にスーパーに野菜を買いに行ったのです。もう、手探り状態ですね。

スーパーではたまたま、キャベツのタイムセールをしていました。葉物野菜はすぐに傷んでしまうけれど、キャベツは別。ニンジンとかジャガイモとか、保存の利く野菜が、長距離の輸送にはいいでしょう。…で、店員さんにこのキャベツを10個欲しいので段ボール箱をつけてください、と聞いてみました。タイムセールの品で、個数に制限があるのでは? と危惧した ぬえではありましたが、数量をまとめての購入にも「奥から箱入りのまま持ってきますね」とあっさりOK。「10個だと1箱とちょっとですね~」と言われたので、それでは2箱ください、ということになりました。これと先日の生徒さんの発表会の打上パーティーで余ったウーロン茶を1箱もって いざ出発。

あとで思ったことですが、被災地への援助はこれでも十分に意味を成します。この時掛かった費用は、恥ずかしい話ですが2,000円にも満たないものでした。現地で引き取ってもらえない場合を考えて2箱を購入するにとどめた ぬえでしたが、これならば10箱買えばよかった。事前に事情を話せばスーパーでも特価のまま10箱を用意してくれるでしょう。現地で現実に逼迫して必要としている物資を数千円で届けられるならば、誰でも気軽に支援が出来るでしょう。こういう情報はもたらされないのか? これを知っていれば ぬえの心のトゲも簡単に抜けたでしょうに。…ところがそう簡単ではない事情を、この日、現地の支援団体の方とお会いして話を聞いて、はじめて知ることになるのでした。

ぬえは東北に入った初日は現地を見て回り、その夜はネットで予約した塩竃市のビジネスホテルに宿泊したわけですが、翌日の行動の目安を知るために、そうして野菜を受け入れてくれる団体や施設を知るために、ホテルの部屋でPCを使っていろいろと検索してみました。これは東京でも検索できたことかもしれませんが、今回の震災はあまりに被害が広範囲に渡っていて、支援をしようにも個人の検索では目的地が絞り込めない、ということもあると思います。気仙沼や石巻は地名としても知られていますが、それだけに支援の手はいち早く差し伸べられたのではないかと思います。一方 南三陸町や陸前高田市、女川町などは、この震災で初めて名を知った人も多かったのでは… また一方ではこういうマイナーな…つまり規模として小さい町にこそ支援が届きにくい、というような情報も聞こえてきて、遠隔地の人々はピンポイントに即効性の確かめられるような支援がしにくく、結果として日本赤十字やテレビ局など大きな義捐金募集に応募するしかない、または支援そのものを躊躇することになってしまった…という事もあったのではないかと思います。

ぬえはこの日塩竃市に宿泊することで、ようやく翌日の行き先…野菜を届ける先は石巻市が適当であろう、と思って検索を絞り込んで、ようやく一つの市民団体のサイトにたどりついたのでした。

東北の被災地に行ってきました

2011-07-03 19:38:01 | 能楽の心と癒しプロジェクト
3月からずうっと… 心の中に刺さったトゲ。みなさんもそうだと思うのです。募金はしました。電気はこまめに消すようにしてます。でも、どうも災害義捐金は現地の人々に届いていない、という報道も耳にするし、原発事故はいつまで経っても解決の糸口さえ見えない…肝心の政府は仲間割れと主導権やポストの争奪戦。テレビでの話題も原発事故のことばかりですね。あんな大災害に見舞われた方々に、私たちは何か役に立っているのだろうか…

みいんな心にトゲのように突き刺さっている…でも、どうしていいのかわからない。救援物資はすでに余り気味とも聞く…でもそれは仕分ける人もいない状態だかららしい。じゃあ、いっそ現地に赴いて泥にまみれながら体を使って瓦礫の清掃に励めばいいんだ!…ぬえにはそんな時間も体力もありません。(泣)

でも、それをやってのけた友人も ぬえの周囲にはいるのです。レンタカーを借りて支援物資を満載し、自宅避難者の窮乏の支援に奔走、ついで放射線の恐れのある南相馬市で遺体の捜索…くわしくはこちらをご参照ください

和婚・祝言・婚礼 八千代ウェディング【ブログ】

この行動力…でも個人で取りそろえた支援物資のための出費は相当なものでしょう。羨望さえ感じる行動力ですが、そんな財力も、ましてや体力にも自信のない ぬえ。…でも、何かしなければ。…そんな思い、みなさんが持っていると思うのです。そうやって悶々とする毎日の中、震災からすでに相当の時間を経てはいますが、ちょうど先日 生徒さんの発表会が無事に終了したところで ぬえには ぽこん、とスケジュールの空きができてしまいました。それで…あまり計画性もない行動なのですけれども、ぬえは被災地に行ってみることにしたのでした。

日本人なら誰もが民族に降りかかった重大に過ぎる災害を、身をもって心に刻み込んでおきたい…これまた誰しも思うところなのでしょうが、ぬえにはそれに増して、石巻や気仙沼で先年行った学校公演がとても印象深く新鮮な思い出となっていました。…ですから伊豆で小学生に能を教えている身にとって、学校公演で出会った彼らのその後の動向は ぬえにとってあまりに心に突き刺さる想いでありました。

ぬえの東北地方学校公演

彼らに会えるわけでもないのに、思いついて深夜に東京を出発した ぬえ。東北道を4時間走って、サービスエリアで仮眠をとって、ようやく仙台市に入りましたが、もうその惨状に絶句… ビルのように積み上げられた瓦礫… ひしゃげて原型も留めない家屋や車… 道路は穴だらけ、信号が消灯したままの交差点には警官が立って交通を指揮している… いたるところの道路は通行止め。仙台空港は閉鎖されたままでした。仙台から多賀城市、七ヶ浜町、松島町、奥松島、東松島市…と見て回りましたが、どこもいまだに瓦礫が手つかず同然の状態です。

ところが不思議に松島は無傷だったのです。…正確に言えば津波の打撃はなく、浸水にとどまった、という意味なのですが、じつは ぬえ…松島の被害が少なかった、という情報は4月上旬にはすでに知っていました。というのもその時、たまたま静岡県の三保の松原に行っておりまして、そこで旅館の女将さんから話を伺ったのです。どうも多くの島々が津波をせき止めたらしい…松島は健在だ。どうも「観光地ネットワーク」というようなものがあって、こういう情報はいち早く伝えられたものらしい。

…そういえば 震災直後にアメリカから ぬえがお世話になった大学の先生から安否を問い合わせるメールが届きましたが、その文面にも「松島は無事か?」と書かれてありましたね~。アメリカ人からも愛される観光地。そうしてその観光地には観光客が戻り始めていました。もっとも浸水の被害は軽微なものではなく、まだ営業を始めているお店は半数程度、と地元で伺いました。

松島(五大堂~瑞巌寺)


この日はネットで予約できた塩竃市のホテルに泊まることができ(ネットで宿泊予約できるのはこの町まででした)、塩竃神社にも参拝しました。(トップ画像が塩竃神社)

訪れたのはちょうど六月末日…水無月祓のとき。大祓えに ぬえも参加しました。神主様も東日本大震災の難時を鎮める意味での夏越のお祓い、というお言葉があり、参拝者全員で茅の輪をくぐりました。





塩竃市も中心部は浸水被害程度で済んだようでしたが、ここでも多くの信号は動作せず警官の交通整理に頼っていました。なんでも信号は停電しているのではなくて、修理するにも部品が足りないのだとか。それも信号機の製作年代によって部品も微妙に異なるため、修理が遅れているのだそうで、関西や九州からも信号機の修理のために技術者が東北地方を訪れているのだそうです。

ところで…『融』で語られる「融の大臣陸奥の千賀の塩竃の眺望を聞こし召し及ばせ給ひ」という文句…これがまさか日本三景の松島のことを言っているとは、今のいままで知りませんでした…(←ばか)

なんだか観光気分も紛れ込んだような初日ですが、翌日に入った石巻でようやく被災者支援の市民団体にお会いすることができ、ぬえも微力ながらお手伝いをさせて頂くことになりました。