ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

東北支援の旅、スタートしました!(その18=仮設開成第11団地…その2)

2012-01-27 01:02:09 | 能楽の心と癒しプロジェクト
明友館といえば、このたび集英社から新書『笑う、避難所 ~石巻・明友館 136人の記録~』が刊行されました。地震・津波の当日の様子から、みずからも被災者でありながらその後住民の支援活動に携わっていった経緯などが詳細に綴られていますのでぜひご一読をお勧めします~(ぬえは千葉さんから1冊頂きました~)(^^)V

「笑う、避難所 ~石巻・明友館 136人の記録~」

12月31日 このレポートもようやく大晦日になりました。(^◇^;)

この日は午後から昨日と同じ仮設開成第11団地の集会所で『菊慈童』を演じることになっています。昨日と同じ場所なのは、この日は別のイベントがあって、ぬえたちはそこにゲスト出演をするから。それが山本実樹子さん(ピアノ)、宮澤等さん(チェロ)によるミニコンサートと年越しイベントでした。

イベントは昼頃から始まっていたのですが、そのあたりはTさんの笛の体験にお任せして、ぬえは夕方くらいに上演を行いました。昨日来て頂いたお客さまもお出でになって、装束の着付け体験が大変好評だったとのこと。この日はどちらかというとイベントが立て込んでいたので、終わってからはすぐに会場を空けましたが、ふと見るといつの間にか3人の女の子が会場の一番後ろ…集会所の入口あたりで こちらを見ながらくすくす笑っています。着替えるために控室に行くにはその入口を通らなければならない ぬえは早速この子たちをからかい始めました。すぐ乗ってきた子どもたち。それからはまあ、片づけているんだか、子どもたちと追っかけっこをしてるんだか、ワケのわからない状態に。。(^◇^;)

手加減を知らない子どもたちは、まあ座布団を投げてくるやら蹴ってくるやら、おいっ、蹴るのはやめろよなっ!

でも…ぬえは見てしまいました。ようやく着替えて本格的に(?)子どもたちと遊び始めたその時に。。「津波ごっこ」を。

そういうものがある、…ぬえも仄聞だけはしていました。そうして ぬえが見たそれは、震災から9ヶ月半を過ぎて、ちょっと形を変えて、一種の言葉遊びの中に 不意に現れたものでした。。いや、多くは書きますまい。だけれども、こうやって彼らは自分ではコントロールできないほどの大きな体験を、懸命に消化しようとしているのです。いまだに格闘を続けているんだね。。(・_・、) もうひとつ。。やはり子どもたちと遊んでいる中で「地震」という言葉が口をついて出てきたことと。。この二つは忘れ得ぬ体験になりました。ぬえは思わず曇りそうになる表情を隠すのに精一杯。

ちなみに大人だって同じで、今回の訪問先である釜石でも、気仙沼でも、そして石巻でも、いまだに みなさん「あの日のこと」を話題にしておられます。。これは半年前、ぬえが6月に震災後はじめて東北に行ったとき、最初の訪問地・仙台で見たのと なんら状況は変わっていません。あのときは東北道で車中泊をして、さて翌日の早朝に仙台の若林区で被害状況をはじめて目の当たりにして。。そうして朝食を買うためにコンビニに立ち寄ったときでした。「お客さんがみんな震災の時の話をしている。。」 あれから半年が経ったけれど、やはり時計の針が止まったように、何人かが顔を揃えると「あの日」の話になる。。

東京ではややもすると震災の話はしなくなっていて、テレビでも話題はもっぱら原発事故のことばかりであるような気がします。しかし津波の被害は予想以上に大きく当地の人々の心をむしばみ続けていると ぬえは思います。

東北スマイル・アゲイン!

東北支援の旅、スタートしました!(その17=こんな出会いも)

2012-01-25 19:43:23 | 能楽の心と癒しプロジェクト
12月30日、ワキのNくんと別れたスーパー銭湯「元気の湯」で、じつは思いがけない出会いがありました。

銭湯で野天風呂につかっていると若い人が話しかけてきました。「こちらの土地の方ですか?」もちろん違うのでボランティアとして東京からやってきた事を言うと、その子いわく、自分たちは埼玉県から来た大学生で、震災のあと何かできないかと悶々としていたが、ついにこの年末に意を決して仲間と一緒に3人で東北にやって来たのだ、とのこと。2日前に気仙沼に行き、そこから南下して今日石巻に到着したところ。被災地の方になにか力になりたいと思って使い捨てカイロを100個持参した、とも。

うん、うん。その気持ちは痛いほどよくわかります。ちょっと当地に来る時期は遅かったけれども、やって来たその実行力は賞賛されるべき。来たくても来れない人だってたくさんいるのですから。ぬえの方もこれまでの体験や活動について話し、カイロを届ける受け入れ先などについて、あとで情報を差し上げることとしました。

お風呂からあがってNくんやTさんとフロアで食事を摂っていると、はたしてその3人組がやってきました。あいにく名刺を持っていなかったもので携帯の連絡先を聞き、こちらの番号も伝えて、そうしてカイロの届け先として明友館を紹介しました。こちらもこちらで石巻で活動を終了したNくんとのお別れの食事だったもので、彼らには激励を送って別れ、やがて食事を終えた ぬえたちも駐車場でNくんにお別れを言って。。Nくんは一人で運転して東京に帰って行きました。

さて宿舎に戻った ぬえとTさん。
そこで ぬえはふと、考えました。待てよ。。?あの大学生はどこに泊まっているのだろう?

そうなのです。ホテルに泊まっているならスーパー銭湯に入浴に来るはずがない。あの若さだから。。車中泊か!?
Tさんも彼らは車中泊しながら旅をしている、と言っていたようだ、とのこと。う~ん、う~んと考えて、Tさんにも相談して、彼らをこの宿舎に泊めてあげることにしました。

いや、これは本当はイケナイ事なのです。ぬえたちもボランティア団体の拠点を宿舎として拝借している立場なので、ぬえらに宿舎を斡旋してくださった当地の関係者に無断で「又貸し」することになる。。でも、12月末のこの寒さの石巻での車中泊。。しかも連泊では、危険でさえある。。これは背に腹は代えられない非常事態でありましょう。すぐに彼らに電話して宿舎の住所を告げ、こちらに泊まるよう言いました。

やがて到着した彼ら。。見れば、彼らが乗っていたのは なんと、小さな小さな乗用車で、しかも若葉マークまで貼り付けられていました。この車に3人で車中泊を続けてきたの?? …はい、シートを全部倒して平らにして、毛布にくるまって3人で身を寄せ合って。。

彼らには又貸ししている事情を話し、もしもはしゃいで騒いだり、無礼な態度を取ったら深夜であってもすぐに追い出す、翌朝にはトイレ掃除や灯油運びなど身体を使った作業を手伝うことでお返しをしてもらう、と申し渡しました。。が、いやいや、とっても礼儀正しい子たちばかりでした。挨拶もきちんとできるし、仲間だけでゲラゲラ談笑するでもなし、ひそひそと相談したり。。見れば携帯の待ち受け画面にしているアイドルの女の子をお互いに見せ合っていました(^◇^;)

彼女いるの? 。。いいえ 何年生? 高校時代の友人同士でみんな2年です。あ、こいつは1浪したのでまだ1年、なんて、たわいもない話をしたり、石巻の現状やこれからの課題など、また伝え聞いた津波の恐ろしさなども話して、彼らは眠りにつきました。あ、そうそう ちなみに ぬえらに宿舎を斡旋してくださった関係者にはこの後彼らを泊めた事情をお話しして、事後承諾ではありますが了解を頂きました。

ところが! 彼ら、泥のように眠りやがりまして。翌日は7時になっても起きてこない。8時になっても誰も起きない。9時になっても目を覚まさない。。凍死してないよね? (;^_^A

まあ。。窮屈な車中泊を2泊も続けてきたのだから、そりゃ疲れたでしょう。Tさんは「そういえば昨夜、ああ。。やっと足を伸ばせて寝られる。。なんて言ってたよ」と教えてくれました。

ようやく起き出したのが10時頃。昨夜言ったようにトイレ掃除と灯油を買ってくるよう言って(代金はもちろんプロジェクトから支払いいました)、ようやく11時頃に明友館に向けて彼らは出かけて行きました。今日…大晦日に予定されている開成団地での公演を知らせると、ぜひ見に来るとのこと。記念写真を撮ってお別れ。最後まで礼儀正しい若者たちでした。

考えてみたら今回の活動では往路に東北道でヒッチハイカーを拾ったし、前回9月の活動では南三陸の旅館で、やはり風呂場で紋々のお兄さん…「極道牧師」さんに声を掛けられたし。。なんか不思議な出会いがいっぱいの ぬえ。

さて彼らが出かけてすぐに明友館の千葉恵弘さんに電話して、彼らが持参したカイロを受け入れて頂き、石巻の現状について教えてあげて頂きたいとお願いしました。まるで半年前の ぬえを見ているようです。何も知らないで一人っきりで石巻にやって来て。。そのときも千葉さんのお世話で湊小にお手伝いに行き、そうして いまの ぬえがあるのです。またまた千葉さんにはご厄介をお願いすることになりましたが、即座に快諾頂きました!

東北支援の旅、スタートしました!(その17=仮設開成第11団地…その1)

2012-01-24 10:01:01 | 能楽の心と癒しプロジェクト
12月30日の…まだ続き。

この日の夕方、はじめて仮設住宅での演能がありました。場所は「仮設開成第11団地」。





石巻市では「仮設○○団地」という呼び方をしていますが、仮設住宅は大小本当に規模の差があります。12月15日現在の資料を見ると、石巻市で仮設団地の総数は134カ所(石巻地区73カ所、河北地区9カ所、雄勝地区8カ所、河南地区19カ所、桃生地区4カ所、北上地区3カ所、牡鹿地区18カ所)で、総戸数は7,170戸(そのうち入居戸数は6,819戸)です。このうち20戸に満たない小規模な団地は47カ所、逆に100戸を超える大規模なものも16カ所におよびます。

それぞれの団地にはその規模に応じて(または立地条件によって)集会所や、もう少し小さいものだと談話室が併設されていて(小さい規模の団地ではそのどちらも無いところも)、抽選で入居が決まった新しいご近所さんとの交流の場となっています。大きな団地では「第○団地」というように同じ敷地の中で大きく「○丁目」のような区切りがあって、それぞれが自治組織を作り、またそれぞれが集会所を持っていたり。

その中で仮設開成団地は1,091世帯が入居する最も大きな規模の団地です。じつは当初は「トゥモロー・ビジネスタウン」というビジネスタウンとして構想されて石巻市によって造成開発が進められてきた広大な土地で、それがこのたびの震災で仮設住宅の建設地となったものです。開成団地の場合「第1団地」から「第14団地」までがあるのですが、ぬえらが伺った「第11団地」はこの開成団地の中でも最大の285世帯が暮らし、集会所も南北にふたつ備えているところ。この集会所でいろいろなイベントが催されています。

しかし団地はプレハブ造りで、すきま風や結露がひどいそう。。無味乾燥のこの住宅ですが、しかし集会所にはちょっと以前に話題になったように、壁面にペンキでいろいろなイラストが描かれていました。これもたしかボランティア活動の成果だったと思います。



集会所の内外にはまだクリスマスツリーが置かれていました。これも住民さんへの支援として届けられたものだとか。



この日は夕方6時から『菊慈童』の上演を行いました。ぬえたちははからずも湊小学校で行った活動が、おそらく能楽が避難所で上演された最初で最後の例となったと思いますが、仮設住宅での能の上演もおそらく最初ではなかったかと思います。避難所となった小学校の巨大な体育館で行う上演とはまた違って、こぢんまりとした空間の中で住民さんとふれあいながらの上演は、とても良い雰囲気でした。集まった20名くらいの住民さんは、最初から能をご覧になるつもりでお出でになる。避難所でもそうだったはずですが、どちらかというと配食の時間にその会場となっている体育館で上演したので、足を止めてご覧になる方、配食を受け取ってそのままお帰りになる方。。さまざまでした。開成団地ではもっとこう、ご近所さんの仲間に入れて頂いたような気分で、終演後も親しく住民さんとお話をしたり、ここでも能装束を着付けて差し上げたり。また翌日に同じ集会所で行われるイベントにも参加しますよ~、と申し上げて会場を後にしました。

こちらは上演前に笛を調べるTさん



これにてワキのNくんはスケジュールの都合により東京に帰ります。またみんなで一緒にスーパー銭湯「元気の湯」に行って、湯上がりに食事も楽しんで、そうしてNくんと別れました。今回の公演旅行ではこのNくんに助けられた部分が大きかったです。はじめての被災地旅行で宿泊も食事も上演の条件も悪かったのにイヤな顔ひとつ見せず、ずっと謙虚な態度を貫き通しながら、必要な場面ではいろいろなアイデアを出してくれる。。笛のTさんも同じですが、ぬえは良い友達に恵まれたと思います。ありがとうNくん。Nくんは多忙なのですが、今後も都合がつく際にはプロジェクトのメンバーとして活動してくれることになりました。

東北支援の旅、スタートしました!(その16=チーム神戸「ふれあいサロン」能の会)

2012-01-21 20:58:06 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ご報告に戻って12月30日の続き。

避難所が解消となってから「チーム神戸」の拠点となった「ふれあいサロン」(内海歯科のご厚意によって被災した医院の建物を拝借している)での公演は、なんだか大盛況でした。1階は津波被害があったとは思えないほど手入れが行き届いていて、いつもの面々…リーダーの金田真須美さんとスタッフの水島緑ちゃん、無尽洋平くんも相変わらず忙しく立ち働いていました。

水島さんは当初から金田さんと一緒に関西から当地にやってきたようですが、無尽くんはなんと東京の人。ぬえと同じように6月に石巻にやってきて、そのままチーム神戸の一員として湊小で働きはじめ、以来ずっと石巻にとどまっているのです(!)。若さがあるから出来ることですね~。なんにしても素晴らしいバイタリティです。そのうえ無尽くんはこの日が誕生日でした! おめでとう~~ まずは「ふれあいサロン」の開所祝いということで、到着してすぐ出演者一同で居囃子『高砂』を謡いました。邪気を払い、福がもたらされますように。。

この日つめかけた(と言って良い盛況でした)お客さまは、みんな近所の住民さんです。ある方は比較的被害が軽微だったご自宅に住まわれ、またある方は仮設住宅からお出ましになりました。多かれ少なかれ湊小避難所で金田さんたちのお世話になった方々なのでしょう。金田さんの人望の厚さゆえ、その後もこうして「ふれあいサロン」に集っておられるのですね。

とはいえ、次の3月11日…震災1周年を迎えると、当地の状況はガラリと一変してしまうのですが。。

さてこの日は『菊慈童』を演じましたが、終演後には装束の着付け体験をしました。ワキのNくんも大サービスで『菊慈童』のワキの勅使の装束を着付けて差し上げて、をを~お内裏さまとお雛さま~ …少々時代は経っておりますけれども。いや、それでも立派に、キレイに、みなさんとても楽しんでくださいました~ (^^)V



ところでこの日、9月に湊小で上演したときにご一緒したお坊さん、曹洞宗庄内青年会の渡辺祥広さんとまたまたご一緒させて頂きました。

渡辺さんは9月にはじめてお目に掛かった際も、万事控えめに身を引きながら 能の上演の合間に住民さんたちに果物のサービスをされていましたが、伺えば ぬえなんかよりずっと以前から湊小で活動しておられ、それは ぬえのような上演などの、いわば派手な活動とは違って、有志のお坊さんたちとご一緒に、湊小避難所の住民さん方のお部屋をひとつひとつ廻りながらお茶やコーヒーのサービスを続けてこられたのだそうです。9月に見た、作務衣を着てとても静かに果物を勧めておられるそのお姿に ぬえはとっても美しさを覚え、感銘を受けました。

こんな事もあって、この度の石巻訪問では ぜひ再び渡辺さんたちとご一緒に活動をしたい、という希望を持ち、9月の訪問をコーディネートしてくださったチーム神戸の金田さんから渡辺さんのご連絡先をお知らせ頂いて、ぬえの方から活動をお誘いしたのでした。渡辺さんも喜んでくださって、前回と同じように能の公演の合間に茶などをお勧めします、とのことでした。あいにく年末の事ですからお寺も忙しい頃で、結局この日は渡辺さんお一人で石巻にいらしたのですが、まあ大きな荷物をお持ちになってびっくり。お茶や紅茶などの飲み物、お菓子、そうして絶品の玉こんにゃく! これは抜群に美味しかったです~~(*^。^*)





金田さんもカレンダーなどのお土産を住民さんたちのために用意され、いや~楽しい1日になりました。



こっちでは無尽くんが近所の子どもたちの宿題を見てやっていますね~



この夜は仮設住宅の集会所でも能の上演をしたのですが、避難所当時とは違ってこのような場所では上演後に住民さんと如何にふれあう時間を作るか、が大切だということを学びました。

そのうえこの日は金田さんがお客さまに提案してくださったらしく、終演後に住民さんからの寄せ書きを頂戴しました(!)。これやヤバい…マジ泣きそうでした。半年間しか石巻に来ていない ぬえに頂く資格があるのか。。でも ぬえも、最初こそ「被災地支援」なんて格好のよい事を言っていましたが、今となっては石巻のあの優しい人々に会いたくて、また行ってしまうのですよね~。金田さんも ぬえにこっそり「な? なんだか元気をもらっているのは、うちらの方かも知れへんな」と言っておられました。確かに。。



渡辺さんと再会を約して、次の公演会場である仮設住宅に向かいました。渡辺さんは今回も爽やかな印象と明るい笑顔を ぬえに与えてくれましたね~。また次回の訪問の際も渡辺さんとご一緒に活動できるよう、いまご相談を申し上げているところです。



あ、そうそう、仮設住宅に向かう前に、同じく避難所が解消となって拠点を変えた「明友館」にもお邪魔してきました。



ここは湊小のすぐ目の前の「みなと荘」という建物で、正式には「石巻市総合福祉会館」という施設でした。1階には「湊幼稚園」もあったのですが…やはり津波の被害を受けていまは無人の状態で、そこを間借りして支援団体である「明友館」が新しい事務所を開いたのでした。幼稚園のあった部屋は、いま支援物資倉庫となっています。





ここでリーダーの千葉恵弘さん(ご本人も被災者)と久しぶりに再会して、ここでもやはり居囃子『高砂』にてお清めをして参りました。

を?? Kyoranに手伝ってもらった「ふれあいサロン能の会」のチラシがちゃんと入口に貼りだしてありました~


東北支援の旅、スタートしました!(その15=はじめての石巻訪問のビデオ!さらに続く)

2012-01-20 02:09:41 | 能楽の心と癒しプロジェクト
次にこの日の記録について伺ったのは写真家の加藤昌人さん。湊小をずうっと撮影しているカメラマンさんです。7月にはまだお名前も知りませんでしたが、コンサートでは小栗さんの写真をずっと撮っておられたのでお顔は覚えていまして、その後親交を得ることになりました。

加藤さんは「被災者にレンズを向けないカメラマン」という特異な呼ばれ方をしていました。後に加藤さんから直接伺った話では、今回のようにあまりに大きな被災現場では容易に人の心を打つ写真が撮れるので、カメラマンであれば誰にとってもとてもやりがいのある現場なのだそうです。しかしその被写体の「魅力」に取り憑かれて、苦しんでいる人々に無遠慮にカメラを向ける者も多く…そこで加藤さんは「許されたり頼まれない限り自分から人にレンズを向けない」撮影を試みたのだとか。

これが住民さん方から自然に信頼を受ける事になって、「記念撮影」を頼まれるようになったんですって。記念…? それは湊小避難所で再起の第一歩を踏み出した、その記念撮影なのだそうです(!)。以来ずうっと加藤さんは湊小避難所で撮影を続けられ、撮った写真は無償で住民さんに配る活動をしておられます。

加藤さんと東京で再会したときには加藤さんも ぬえの事を覚えていてくださいました。そこで7月1日の ぬえの舞囃子の写真があるかどうか伺ったのです。…答えは「否」。。加藤さんいわく「だって、その日はあなたから撮影のお許しを頂いていませんでしたから…」…ごもっとも。飛び入りでしたから…(・_・、)

すると…あの日ビデオの撮影をしておられたのは、テノール歌手の小栗慎介さんの関係者の方だな…そこで小栗さんにコンタクトを取って、調べて頂くことになりました。そこからも紆余曲折がずうっと続いたのですが、年末にとうとう撮影者の方から「ビデオはうちにございます」というお返事を頂いたのでした(!)

この方、kaori kashiwagiさんという写真家さんです。面白いのはスチール写真ばかりでなく映像にも力を入れておられるようで、頂いたメールを見ても…

「データ自体は、.MTSというフルハイビジョンのデータで、サイズは1.5GB位ございます。もしフォーマットのご指定があれば、ご指示ください。Adobe Premiereがあるので、色々変換可能です。ただし、マック環境なので、.wmv への変換が難しいです。」

あ~…その、なんだ。wmv以外、まったく ぬえが知らない言葉なワケだ。これが。

それで ぬえの返信が、

「ええと、PCではなく家のDVDデッキで再生できる形でお願いしたいのですが。。以前からよく、PCで焼いたDVDを頂いてもDVDプレイヤーで再生できないことがしばしばありましたが、録画方式の違いがあったのですね。。
できればこのようなお願いでご高配願いたく。。変換が無理でしたら、そのまま送って頂いて、なんとか能楽師の中で技術屋さんを探して変換して頂くようにします。。また長い旅に出るわけです。(^◇^;)」

ああっ、ぬえってどこまでも文系。(×_×;)

こうしてかなりご迷惑をお掛けして、ようやく年始になって半年前の自分の姿を見ることができたのでした。汗だくの掃除のあとにしては…割とよく舞えているので少し安心。会場となった湊小の音楽室では後日寝泊まりもさせて頂いて、その時も感無量でしたが、7月の時点では天井からハエ取りリボンがいくつもぶら下がり(ハエは本当に大量発生していた)、教壇の10cmくらい? の段差を上ったり降りたりしながらのハコビでしたから、ちょいと神経を遣いながら舞ったあの日の事を思い出しました。



舞囃子が終わったら住民さんたちと一緒に『高砂』の待謡のひと節を謡ってみる体験コーナーもやってみました。住民さんたちには、避難所では団体行動をしているから無理もあるかと思うけれど、場所を見つけて大きな声を出す事をお勧めしておきました。大声は良いですよ。身体の中の筋肉を使いますからね。…これが良かったみたいで、終演後住民さんから喜んで頂いたお言葉をたくさん頂戴しました。



そうして…「また来てちょうだいね」「はい!また参りますっ」…ああ、言っちゃった。
ここが ぬえの活動の原点なのですよね。最初の頃こそ「被災地支援」なんてカッコつけた言葉を使っていましたが、むしろ元気づけられたのは ぬえの方。今はあの住民さんに会いたくて、また行ってしまうのですよね~。



改めまして、この日 ぬえに10分間の前座の出演時間を快くお許し下さった小栗慎介さん、ビデオを ぬえのために送ってくださった撮影者kaori kashiwagiさん、そうして湊小避難所に ぬえを受け入れてくださった「チーム神戸」のみなさん、その湊小へ ぬえを斡旋してくださった「明友館」の千葉恵弘さんに心より御礼申し上げます~m(__)m

→kaori kashiwagiさんの素敵なブログsilently ...
→テノール歌手小栗慎介さんのブログOguri Super Diary
チーム神戸ブログ(すたあと長田)
石巻 明友館

東北支援の旅、スタートしました!(その14=はじめての石巻訪問のビデオ!…承前)

2012-01-18 03:04:34 | 能楽の心と癒しプロジェクト
チーム神戸のリーダーの金田真須美さん、今朝テレビに映っていましたね~。これは年末に直接聞いていたことなのですが、バスを仕立てて今日の阪神淡路大震災の17年目の日の集会に石巻の住民さんを連れて行かれたそうなのです。神戸は震災のあとどうやって復興していったのか。。それを伝えるためですね。来る3月11日には東日本大震災の1周年がめぐって来ます。それを機に、これまでずっと被災地に常駐していたボランティア団体も撤退するという予想がされています。これから先は住民さんが組織的に行動して、各地から寄せられる支援を受け入れていかねばならない。。現実はそう簡単ではないと思いますが、自分たちで復興しなければならない時は確実に近づいているのですよね。

さて6月下旬に一人で東北を訪れた ぬえ。この湊小での清掃と飛び入り出演は7月1日のことになります。この日は夜に湊小を出て一路気仙沼へ。まさかこの二つの街の距離が80kmも離れているとは知らずに。。

途中、南三陸町・志津川と歌津のあまりにひどい被害に驚愕しつつ、しかも宿のあてもなくて、最後は登米市のラブホに泊まったのでした。(^◇^;) 翌日は気仙沼の被害状況を見て。。しかしこの当時は気仙沼に個人的に知っている人もなく、夕暮れになって東京に一人帰りました。もう帰りは眠くて眠くて。。東北道のサービスエリアごとに停まって仮眠を取りながら帰る有様でした。ついでに言えば、この頃はまだボランティア車両の認定を受けて高速の通行料金が免除になるシステムを知らず、片道8.000円以上かかる高速代を節約するために、深夜割引の制度を利用して、夜中に東北道を走っていました。

さて東京に帰ってから、能楽師の友人にこのときの体験の話をして、何人かが ぬえの思いに賛同してくれ、これが後の「能楽の心と癒しプロジェクト」に繋がりました。掃除も瓦礫の撤去も大切だけれども、能楽師としてやるべき事はもっとほかにあることを、テノール歌手の小栗慎介さんの活動を見て思いを致したのです。

こうして8月に、笛のTさんと狂言のOさんと一緒に石巻を再訪しました。6月に湊小で掃除をしたのがキッカケとなって、チーム神戸が受け入れをしてくれ、湊小避難所で能『石橋』を演じた(←このときは公演はたった1回だけでした)のですが、これが結局 避難所で能を演じた最初で最後の例になったのだと思います。

そしてこの時はまだ「能楽師の有志による演能」であって、プロジェクトは発足していませんでした。この避難所での活動の手応えが、こうした活動を本格的に始める意義となって ぬえたちの心に響いて、そうしてプロジェクトが発足したのです。

。。この頃から、7月1日に湊小・音楽室で ぬえが舞った『高砂』の記録について考えるようになりました。考えてみればぬえたちのプロジェクトの原点でもありますし、何といってもこの活動は能楽師として ぬえのひとつのターニングポイントになったように思います。それほど ぬえにとっては記念すべき、と言うのは変かもしれませんが、特別な活動だったのですね。

こう考えて、まずはチーム神戸にあの日、ビデオを撮っていたのは誰か伺ったのですが、ご存じないとのこと。そりゃそうで、チーム神戸は住民さんたちのケアを活動としているのであって、この日のコンサートにはチーム神戸のスタッフさんの姿はなかったと思います。これは後日直接金田さんから聞いたのですが、「住民さんの支援以外の。。たとえば ぬえさんのように慰問をしたい、という人があれば交通整理をして。。」とのことで、ぬえたちのプロジェクトの公演活動も、チーム神戸から活動場所の紹介をして頂いて、あとは自分たちで出演の交渉をしたのでした。ましてや7月1日は、ぬえはチーム神戸に指示頂いて避難所の掃除をしたところ、コンサートの開催を知って飛び入り出演したわけですから。。










東北支援の旅、スタートしました!(その13=はじめての石巻訪問のビデオ!)

2012-01-16 09:57:15 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ご報告の途中ではありますが、驚いたことがありまして~
ぬえが震災後に初めて石巻を訪れた際のビデオが届けられました! こんな映像が残っていたなんて~!!

もう半年以上前になりますね、ぬえが石巻を訪問したのは。。詳細はこのブログの中で次のページでご紹介しております。
東北の被災地に行ってきました
石巻市で支援団体にコンタクト
石巻市の在宅避難者支援団体『明友館』【支援希望】
避難所でボランティア(その1)
避難所でボランティア(その2)
避難所でボランティア(その3)…避難所で舞囃子を舞ってきました

…詳細はこちらをご参照頂くとして、要するに以前に学校公演で石巻と気仙沼を訪れた ぬえが、震災後に心に刺さったトゲを抜くために、6月下旬に何をして良いかわからないままに一人で東北地方へ行き、そこで出会った支援団体「明友館」の千葉恵弘さんのご紹介によって湊小学校避難所(当時)に手伝いに行きました。ここで出会ったのが避難所を拠点に住民さんの支援活動をずうっと続けている「チーム神戸」でして、彼らからこの日避難所の掃除を任された ぬえは一人黙々と湊小学校の廊下を磨いていました。7時間の掃除の終わりに、たまたま音楽室でテノール歌手の小栗慎介さんが慰問コンサートを開かれるところに出くわして、ぬえは能楽師であることを名乗って、そのコンサートの前座として飛び入り出演させて頂いたのでした。

このときは飛び入りですので小栗さんの貴重な時間を頂いて、ほんの10分だけ…録音音源を使って舞囃子『高砂』を舞ったのですが、言うなれば ぬえの東北支援活動の原点がこの時の上演でした。この日はものすごく暑くて、7時間の掃除のあと汗まみれになっていましたが、小栗さんに出演の許可を頂いて、すぐに ぬえを受け入れてくれた「チーム神戸」にその旨を連絡、何か使うこともあるかも…と思って車に積んでいた着物にすぐに着替えて録音音源が入っているICレコーダーと小型アンプを用意して、扇をおっ取り…この間、ほんの10分くらいで準備をしたのではないでしょうか。

コンサートには30名ほどの住人さんが集まってくださいまして、何人かは掃除をしている最中に何度も挨拶を交わした方の顔もありました。着物に着替えた ぬえを見て驚かれた様子でしたが、簡単な能の説明や、なぜ ぬえがここにいるのか、という事情をお話して、舞囃子の上演。さらに「高砂」のサワリをみなさんで謡って頂いて、ちょうど10分くらいで終了して小栗さんにバトンタッチしました。隣の教室で洋服に着替えた ぬえは音楽室に戻って、正座して小栗さんの演奏を聴きました。

このとき、開演前のあわただしい時間に、たしかに三脚にビデオカメラを据え付けた女性があって、ぬえに「撮影してもいいですか?」と問われたのでした。ですから正確にはこの時の映像がどこかに残っているかもしれない、ということだけは知っていました。それからお髭のカメラマンの方がコンサートの間中撮影しておられましたから、写真も残っている可能性がありました。

ただ、この日はそれどころではなかったのです。湊小でお手伝いをすることが決まったのもこの日の朝「明友館」に伺ってからのことでしたし、1日中の掃除のあとコンサートの開催を知ったのが開演直前でしたから。。そのうえ、ぬえの限られたスケジュールではこの日には石巻を出て、もうひとつの目的地である気仙沼に向かわねばなりませんでした。

コンサートが終了して住人さんとも親しくお話をさせて頂いてから、小栗さんと名刺を交換し、「チーム神戸」にもご挨拶をして、午後8時近くになってあわただしく気仙沼に向けて出発。。このときはもうビデオのことは忘れていました。(続く)

※紙幅も尽きてしまったので、ビデオを撮影し ぬえに届けてくださったkaori kashiwagiさんにつきましては次回ご紹介させて頂きたいと思います。お待たせしてしまって申し訳ありません。。

東北支援の旅、スタートしました!(その12=石巻・支援する人々)

2012-01-15 03:20:12 | 能楽の心と癒しプロジェクト
石巻駅前での公演を終えて、急いでスーパー銭湯「元気の湯」で入浴。。ほとんど15分くらいで上がって。。ああ、これで700円かいっ、と思いながら石巻駅前へ戻り、翌日からの公演の斡旋をしてくださったF氏、A氏と飲みに行きました。

F氏は9月に門脇中学校避難所で公演をした際に ぬえたちを受け入れてくれた方。ご本人も被災者で、当時はその門脇中学校の避難所にご両親と一緒に住んでおられ、今はまた仮設住宅にお住まいです。こんな関係から、今回はF氏が住んでおられる仮設開成団地(仮設住宅)で公演をさせて頂けることになりました。

しかもF氏は、あの、焼けてしまった門脇小学校の卒業生なのだそうです。思えば門脇小の子どもたち(地震のときはいち早く避難して被害は皆無)が間借りして授業を続けているのがこの門脇中で、そのうえ門脇中の体育館は避難所になっていました。ひとつの学校が中学校と小学校、そして避難所としての役割も担っていたのです。F氏はそんな中で自然と避難所のリーダーとなり、住民さんの支援や、ぬえのような慰問活動の交通整理などに八面六臂の大活躍をするようになりました。10月11日に石巻市の方針で避難所はすべて解消となり、F氏も仮設開成団地に移りましたが、その後も石巻市の住民のために、街を建て直すために尽力しておられます。この日はいろいろな話を聞かせて頂きました。今の仮設住宅の現状、ボランティアの現状。。いずれも問題や課題の多い話ばかりです。3月11日に震災1周年を迎えると、ボランティアもほとんど撤退してしまうことが予想されるので、その後どうやって支援活動を続けていくのか。。これは ぬえの課題でもあるのですが。。

12月30日、石巻3日目。

日が明けてこの日は「チーム神戸」の新事務所「ふれあいサロン」での公演がありました。「チーム神戸」は名前の通り神戸のボランティア団体です。17年前の阪神淡路大震災のあとに、神戸への支援のお返しとして、また同じような大きな災害が起こった時に迅速に支援に駆けつけるために結成されたいくつかのボランティア団体の混成チーム、ということで、母体は「すたあと長田」という、神戸の震災でも甚大な被害を受けた長田地区で結成された団体。

ぬえは6月にひとりで湊小で掃除のボランティアをしたときから、この「チーム神戸」に受け入れて頂きお世話になりました。それ以来、「チーム神戸」の斡旋で8月と9月に湊小で能楽の慰問公演を行い、その度に、石巻の実情や問題点などをいろいろ教えて頂きました。リーダーの金田真須美さんは ぬえの恩人の一人です。

スゴイのは、金田さんは震災直後からずうっと石巻に滞在して支援活動を続けていること。大きなボランティア団体はいくつもあって、それらでは中心メンバー以外は短期間当地に滞在して支援活動をし、交代要員とバトンタッチをして去る、というのが通例です。それぞれのボランティアさんにも生活がありますからこれは当然ですが、中心メンバーはずっと石巻に留まって、行政と相談しながら復興支援をしたり、短期ボランティアや ぬえのような慰問ボランティアの交通整理をしたりしているのです。最初は水道も電気も復旧しておらず、遺体捜索からこの地の支援に携わり続けている。。この活動を知ったときは ぬえも衝撃を受けました。あとで聞いたことですが、神戸では阪神大震災のあと、人員の面でも資金の面でも、こうしたボランティア団体を支援する体勢がしっかりと作られたのだそうです。備えがあるから憂いがない。。言ってしまうのは簡単ですが、実行するのは難しいことです。。

そうして金田さんは震災直後に石巻に入って、津波の被害を受けて学校としての活動を停止、避難所となった湊小を拠点に活動を続けておられました。そこで ぬえもお世話になり、避難所での活動もご支援頂いたわけです。

ところが10月11日に石巻市の方針によりすべての避難所は解消となり、チーム神戸も拠点の移転を余儀なくされました。金田さんは地元の「内海歯科」さんのご厚意によって津波の被害を受けて営業停止となった医院の建物を借りて、ここを新しい拠点として現在も支援活動を続けておられます。





ぬえらはこの新・事務所での公演を金田さんにお願いし、金田さんも快諾。こうしてこの日の公演となりました。

そうそう、1月17日(火)に「NHKスペシャル」で「阪神・淡路大震災 東北復興を支えたい」という番組が放送されるようです。ひょっとすると「チーム神戸」も取り上げられるのかも。ぬえは「チーム神戸」とともに大晦日までお付き合いし、除夜の鐘を撞くところまでご一緒しましたが、取材チームもありましたから、ぬえも写っているかなあ。

東北支援の旅、スタートしました!(その11=石巻2日目)

2012-01-15 01:08:50 | 能楽の心と癒しプロジェクト
12月29日、市内を見て廻ったあと宿舎に戻ってみるとワキのNくんも笛のTさんも起床していました。前夜にコンビニで買った弁当で朝食を済ませて、この日初めて石巻に来たNくんのために、さきほど見て廻ったばかりの被災地区をみんなで見に行きました。昨日気仙沼で大規模な被害の実態を初めて目にしたNくんは「これ…(東京に帰って)説明しても誰も信じてくれないかもしれませんね…」と言っていたNくんも、石巻で門脇小や「木の屋水産」の鯨肉の缶詰のタンクがいまだに放置されている有様を見て、やはり言葉少なになっていました。

さて今日の公演地は以前にもお邪魔させて頂いた蛇田の「イオンモール石巻」(以前は「イオン石巻ショッピングセンター」という名でしたがこの秋に改称されました)。要するにショッピングセンターで、能楽の公演には相応しくないと思う向きもあるかと思います。が、今回の震災では直接津波の被害が及んだ地域だけでなく石巻という場所そのもの。。大きな意味で市民みなさんが傷ついたのですよね。それは東京にいた ぬえも同じことでした。市民のみなさんに元気になってほしい。そういう思いで、前回 ぬえはここでの公演に応募したのでした。そうしたら。。公演当日のお客さまの中に、あの大川小学校で孫を亡くした、という婦人がいらして、開演前にわざわざ名乗ってくださったのでした。これを聞いた ぬえは絶句。このご婦人は「わざわざ東京から…ありがとね」とおっしゃって下さったのでした。(・_・、) 会場を提供してくださったイオンさんでも、最初は「能…ですか?」と不思議そうに受け入れてくださったのですが、終演後は喜んで頂いたようで、それが今回の再演につながりました。



ここではダイジェスト版ではありましたが『松風』を演じました。今回の活動ではこの時だけの上演曲ですが…愛する人を待ち続けるこの曲のシテの姿は、この土地でどのように感じられるのか。。という逡巡もありました。ぬえとしては、それでもどうしても演じたかった曲ではあるのです。この曲の本質は、人を信じて、愛して、疑わないその純真でありましょう。その姿は儚く悲しい…けれども限りなく美しいです。そうしてそれを描く、あまりにも高い能としての完成度。ぬえはこの曲は能の最高峰のひとつなんじゃないかな、とさえ思っています。世阿弥はこの曲について「亡父曲」と書き遺しましたが、ぬえはずっと疑問に思っていました。ある時ドナルド・キーン先生がテレビの能楽講座で「本人は否定しているが、これは世阿弥の作品です」と断言されているのを聞いて、ようやく胸の支えがおりました。ロマンチックでテーマが平易。わかりやすい表現で、どこまでも人間を信じている…ぬえが世阿弥に持つイメージはそういうもので、それは文体によく表れていると思います。

愛する人を待つその一途さ。。この曲に描かれるその心こそ美しいのであって、それは石巻の人々への賛歌にさえ、ぬえには思えるのです。…それで、ぬえはこの曲を石巻で演じることによって、ここに生きる人々の心を「肯定」したい、と…ちょっと自分の気持ちを表すのは難しいですが、そういう念願を持っているのですよね。。今回に限らず、いつの日か石巻の人々が喪失感ばかりでなく、自分を信じて「肯定」できるようになりますように。。

この日、微妙に決まっていなかった、この日のもう一つの公演…夕方の公演のお話が流れてしまいました。それでは、というので、以前にも飛び込みで出演のお願いをして、お許し頂いた石巻駅前の「ロマン海遊21」…正式には「石巻市観光物産情報センター」、つまり観光協会が入居しているツーリスト・インフォメーション兼お土産屋さんにまたしても飛び込みで「今日上演させてくださ~い」とお願いに参りました。ををっ、観光協会の方は ぬえたちを覚えていてくださって、歓迎して頂きました~(^^)V イオンさんと同じくこちらも前回出演のお願いをした時は半信半疑、という感じでしたが、終演後にとても喜んでくださって、再演につながりました。やはり能はなかなか一般に知られている芸能ではないのですが、見て頂ければその魅力は分かって頂けると思います。

上演が決まったことで早速、これも前回 ぬえたちの活動の宣伝をお願いした地元FM局「ラジオ石巻」にも情報を流して、夕方に『菊慈童』を上演。あいにくの雨で通りがかった人も少なかったのは残念でした。前回もやはり駅前にはほとんど人がいなかったのですが、開演すると あれよあれよと人が集まり、最後には20人くらいの方に見て頂いたのではないかと思います。…が、今は冬。そこに雨が降ったのでは、どうにも条件が悪かったですね。それでも観光協会の方々は熱心にご覧になっていてくださいました。



終演後、観光協会の方と親しく話をさせて頂きましたが、震災直後の大変な有様は今でも ぬえの心を打ちます。…そういえば、岩手、宮城と廻ってきた今回の旅ですが、当地の方々は…今でもずうっと、あの日…3月11日の話題をしています。話しぶりの深刻ささえ薄らいできたものの、あの日の体験は心の中にずっと響いているのですね…ちなみに ぬえはこのあと仮設住宅で、もっと深い心のキズを垣間見てしまうのですが…

東北支援の旅、スタートしました!(その10=石巻の被災地区の現状)

2012-01-12 21:04:21 | 能楽の心と癒しプロジェクト
更新が遅れて申し訳ありません。1月も3分の1が過ぎようとしているのに、ご報告はいまだに12月29日。。

さて石巻に到着して一夜明けたところで ぬえは朝5時半頃に起き出して被災地区のその後の状況を見に行きました。こちらは北上川の西岸。。門脇(かどのわき)1丁目付近。ぬえはずっと駅など中心地から川を挟んで対岸の不動町や湊地区だけが片づけが進んでいないのかとばかり思っていましたが、川岸に近い場所はほとんど手が着けられていない状態でした。



こちらは激しい被害があった門脇地区。夜明けです。ぬえが6月に見て以来ずっとそのままになっている、よく目立つ3階建ての黄色い建物。。ずっと気になっていたので調べてみると、これは「レピドール」という洋菓子屋さんだったようです。。



もう観光地みたいになってきた門脇小。午後に再び行ってみましたが、紅白歌合戦で長渕剛がここで歌うそうで、なんだか大きな輪のようなセットが校庭に組み立てられているところでした。



こちらは有名な「がんばろう!石巻」の看板。これも半年以上前から建てられています。ちょっと分かりにくいかも知れませんが、朝日のあたりにクリスマスのイルミネーションか何かがあったようです。



看板のとなりのこのスペースには季節ごとにいろいろな飾りつけがされていました。こちらは8月のお盆の頃に撮影したものですが、有名な仙台の七夕飾りを思わせる吹き流しが飾られていました。



この場所、セブンイレブンがあった場所で、正確にはセブンイレブンの隣りにあった写真プリントのお店と工場があったのだそうです。ぬえも石巻は震災前には1度しか訪れていないので、かつての街の姿を知っているわけではありませんが、もうこのあたりは震災後には何度も何度も通った道で、だんだんと地名や道が通っている様子がわかってきました。

日和大橋を渡って北上川の東岸に到ると、こちらもずうっとそのままの鯨の缶詰。これは魚町の「木の屋水産」の水産加工工場のシンボルだったタンクで、津波によって300mほど流されてこの場所にとどまりました。



6月にはじめてこれを見たときは周囲に中央分離帯の樹木もたくさん残っていましたし、瓦礫もたくさん残っていました。それらは次第に片づけられてゆきましたが、缶詰だけは撤去するのが難しいのでしょうか。



湊町の方ヘ脇道に入って、明神町・川口町のあたりはいまだにこの有様です。





湊町に乗り上げた下田の漁船もまだそのまま。



そうして ぬえがずっとお世話になった湊小。避難所としての役目はすでに終え、かといって学校施設の再開のための工事(津波の被害があるので、大掛かりな改修が必要。。体育館は床の張り替えが必要でしょう)も始まっておらず。。誰もいない寂しい学校となってしまいました。。学校の再建を祈っています。



こちらは北上川の中州である中瀬(なかぜ)地区。ここには有名な石ノ森萬画館とハリストス正教会があったほか、「中瀬マリンパーク」という公園がありました。屋外ステージや風車、灯台まであったそうで、フラワーガーデンを背後にするように海の方に向かって建てられた、なぜか自由の女神像があります。この石ノ森萬画館と自由の女神像はなんとか流されずに残りましたが、女神像は無惨な姿を晒していました。。



これらの街並みのかつての姿はどうなっていたのでしょうか。
Googleのサービス「未来へのキオク」で震災前後の街並みの様子がストリートビューでご覧になれます。門脇町などの様子はあまりの変化にただただ唖然。。

東北支援の旅、スタートしました!(その9=石巻の宿舎と「味の東助」)

2012-01-08 02:44:47 | 能楽の心と癒しプロジェクト
石巻初日のスケジュールをこなした一行は、これから5日間を過ごすための宿舎へとりあえず移動。現地で ぬえたちの宿舎を確保してくださったのは9月に上演した門脇中学校の住民さん(避難者)のリーダーのFさんで、ご案内頂いた場所は、ボランティア団体の事務所のとなりにあって住民さん向けの憩いの場として解放されている「石巻まちカフェ」という施設でした。

トップ画像がその外観ですが、意外にキレイでしょ? 年末年始ということで休業中の事務所・カフェを使わせて頂いたのですが、もとよりその施設も被災した建物(店舗が集合した建物)をボランティア団体が間借りしているもの。ぬえらが投宿した「カフェ」は、元は旅行代理店でした。カーペット敷きのフロアに事務所から畳をお借りして敷いて、寝具はもちろん ぬえらが持参したものを使います。寒さについては随分心配したのですが、さすが寒冷地とあって、巨大な石油ストーブは完備してあって安心! ただし元は商業施設ですからトイレはそれぞれのオフィスの共用。宿舎としてはいったん外に出て行かねばならないことになります。しかもトイレは電気が復旧しておらず、LEDランタンを持参して行くことになりました。



こちらは宿舎の内部。いやいや、快適です~



で、こちらはNくんにマッサージをしてもらうTさん。そろそろ東北滞在も5日目を数え、お疲れも出てくる頃でしょう。Nくんはマッサージ終了後、Tさんにこと細かに身体の使い方についてアドバイスをしていました。能楽師は器用な人が多いね~。。

それで、宿舎にはもちろんお風呂はナシ。こちらは近所の銭湯も被災していたので、車で10分くらいかけてスーパー銭湯に通うことになりました。このスーパー銭湯、もとは「やまとの湯」といっていたようですが、震災後に名前を変えたのでしょう、ぬえらが行ったときには「元気の湯」という名前になっていました。しかし~、スーパー銭湯の入浴料700円は痛いっ! ぬえらが東京に帰る元日にはボランティアさんのお手伝いもあって近所の銭湯「鶴の湯」も再開することになっていましたが。。そういえば ぬえも以前にご紹介したように、避難所時代の湊小学校には新潟の地震被害への手助けのお礼として設置された「希望の湯」がありましたし、それが終了してからもピースボートによって運営されていた仮設風呂「不動の湯」がありました。これらもすべて10月の避難所の閉鎖とともに姿を消し。。避難所を活動の拠点としていたボランティア団体と一緒にこの地を去ってしまったのです。

それでも ぬえがお世話になっている「チーム神戸」など、避難所閉鎖のあともまだ石巻に別の拠点を確保している団体はお風呂はどうしているのか。。これ、今回の滞在の事前に「チーム神戸」と連絡を取っている間にちょっと聞いてみたのです。。というのも、避難所から出た彼らが次の拠点として見いだした場所は。。やっぱり ぬえらの宿所と同じく、被災した建物をオーナーの善意によって拝借しているのでした。ちなみに「チーム神戸」の場合は湊小学校からすぐそばの激甚災害地にある歯医者さんの建物が新しい拠点でした。石巻に到着した翌々日には ぬえもそこで公演することになりますが、ここも水道電気ガスは通っていても、湯船につかるのは無理だそうで、やはりスーパー銭湯頼みなのだとか。出費も大変だろうに、震災に遭った神戸のボランティア団体だからこそ、というか、支援体勢の充実があればこそ、でしょうね。

さてお風呂に入ってから急いで湊小学校のそばにある焼き鳥店「味の東助」へ夕食に。このお店、これまた ぬえがかつてご報告しましたように、震災直後に京都から石巻支援に単身で来て、それからずっとここに滞在して自転車の修理などをしている ちゅんさんの拠点。湊小避難所時代に仲良くなった店主の「とおさん」の店の再開のためにずっと店の改修を続け、避難所が解消されてからはここに住み込んで、店舗の一部を自転車修理の店としています。とおさんは仮設住宅住まいですけれど、先日には念願の焼鳥屋さんも再開し、ぬえはここで焼き鳥を食べるのを楽しみにしていました。年末なのでどうかな~~?? とは思ったけれど、なんとか正月休み直前に行けてセーフ! ちゅんさんは ぬえとは入れ違いに東京経由で京都へ里帰りして不在で残念でしたが、焼き鳥はウワサに違わず絶品! でした。



お客さま(近所の住民さん)と話も弾み、ぬえもこれまでの湊小での活動をお知らせしましたが、とおさんと かあさんは「私、あんたの能を見たよぉ」とのことでビックリ。ま、同じ湊小にいたのですからそういう事もあるかもしれませんが、なんだかうれしいお言葉でありました。

東北支援の旅、スタートしました!(その8=石巻に到着)

2012-01-05 20:40:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今朝 みのもんたさんの「朝ズバッ!」で宝来館のオープニングが生放送されていました! ぬえの『羽衣』も放映されて、プロジェクトも面目躍如といったところ。惜しむらくは、『羽衣』の上演後に「朝ズバッ!」のスタッフの方に放映の可能性を言われたので、その場合は「能楽の心と癒しプロジェクト」の団体名を流してね♪ と言っておいたのに、それは却下になったようでした。(×_×;)

さて12月28日、気仙沼での子どもたちへのワークショップを終えて一路石巻へ。もうこのへんは走り慣れた道ですね~。最初に通った頃は倒壊した家の屋根が道路を半分ふさいでいたりしたけれど、今はもうそんなこともありません。しかし未だに仮設の橋が架かっているところや、寸断された鉄道が痛々しい姿を晒していることには変わりありませんが。。

前にご紹介した陸前小泉駅もこの気仙沼~石巻の間にありますが、さらに進んで行くとこれも甚大な被害を受けた南三陸町の歌津や志津川を通ることになります。歌津では国道45号線が相変わらず不通で迂回させられましたが、よく見ると国道は歌津のところだけ海岸線に沿うように高架になっていたのでした。。これが津波で損壊してしまったため、震災以来ずっと。。9ヶ月も復旧しないでいる事にようやく気がついたのでした。



もちろん津波では高架だけでなく地上の道路にも被害を及ぼしました。驚くべきなのはアスファルトさえ剥がしてしまうその破壊力。これは、海から押し寄せた波の強さで剥がされたというよりはむしろ、波が地上の建物を押し壊し、その瓦礫が引き潮によって海中に引き込まれた際に、さらに多くの物を壊していったのでしょう。。防波堤などの損壊も、多くが海側に沈み込んでいるのを見れば、その破壊力に驚愕します。。

歌津や志津川でも建物はおおかた撤去されていて、そこここに仮設商店が建設されていました。。が。鉄骨でできた建物はまだまだ無惨な姿を晒したままの物も多いようです。ワキのNくんが言うには、鉄骨でできた背の高い建物。。工場などは撤去するのも難しいのだそうです。大きな重機を使って上の方から取り壊してゆかないと倒壊する危険があるからだそうで、そういえば気仙沼でも巨大な水産物加工工場などは いつまで経ってもそのまま取り残されていますね。

さて今回は釜石~気仙沼の間と、気仙沼~石巻の間と2カ所で80kmの距離の移動があり、しかもそれぞれ移動した直後に公演の予定があって、交通の障害が発生した場合の心配をずっとしていました。雪や道路の凍結による事故や、自分たちは事故を起こさないでも、ほかの車の事故などによって通行止めになるとか。。まあ、海岸に沿った移動なので雪はそれほど心配しないでもよかったかもしれませんが、それでも移動時間には余裕を持ってスケジュールを組んでありました。

結果、気仙沼にも石巻にも予定通り到着。そうそう、気仙沼では到着が予想より早かったので、唐桑半島にある名所の「巨釜」(おおがま)を見てきました。海にそそり立つ尖った巨岩が印象的ですが、これは「折石」といって、その名の由来は先端部分が明治29年の明治三陸津波によって先端が折れたところから名付けられたのだとか。どこまでも歴史的に津波の被害が繰り返し襲った地域なのですね。



そういえば海岸沿いの国道45号線を走っていると、地形によって道が上下する際に「ここから津波浸水想定区域」「ここまで。。」と書かれた看板に何度も出会いました。ここまで被害も予想されながら、それでも数十年~100年単位で起きる津波には、いざとなると対処できにくいということか。。

そうこうしているうちに無事石巻に到着。最初の会場は市役所です。石巻駅前に立地する市役所はたいそう立派なのですが、もとは「石巻ビブレ(さくら野百貨店)」という百貨店だったそうです。ぬえらも出演した「イオン石巻ショッピングセンター」(この秋に「イオンモール石巻」と改称)が蛇田に開店した影響などで「石巻ビブレ」は閉店、その建物に市役所が移転した、という、不思議な経緯。しかも現在でも市役所は2階~7階に入り、1階には「エスタ」という店舗街が営業中です。市役所としてはかなり珍しい形態なのではないかと思います。

ぬえたちが上演したのはこの1階の休憩所スペースでした。5時の開演時にはお客さまは大勢ご覧になってくださりありがたかったですが、とくにお喜び頂いたご婦人があったそうで、この方は石巻での今後の公演スケジュールを控えてくださり、ご住所も残してくださいました。



袴狂言『仏師』、能『羽衣』のダイジェストを上演して、これにて狂言チームはスケジュールの都合で東京に帰り、石巻での残りのスケジュールは ぬえと笛のT氏、ワキのNくんの三人で続けることになります。

東北支援の旅、スタートしました!(その7=気仙沼。。子どもたちへのワークショップ)

2012-01-03 15:26:09 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ちょっと前の話になりますが、釜石・宝来館での能楽の上演が読売新聞全国版にカラー写真入りで報道されました!



宝来館は釜石では本当に注目されているのですね。こちらでの演能は、宝来館とはずっと長いおつきあいがある「海をつくる会」からの斡旋があって実現したのですが、ぬえたち「能楽の心と癒しプロジェクト」のメンバー、笛方のTさんがその「海をつくる会」の会員であるところから、公演の話につながったわけです。

同じく気仙沼での公演は、ぬえがたまたま昨年からお付き合いさせて頂いている劇団「演劇倶楽部 座」の座長である 壌晴彦さんが個人的に気仙沼の児童ミュージカル劇団「うを座」の指導にお出でになっている、という関係で壌さんにご紹介頂きました。どちらも偶然とはいえ、人と人とのつながりが、この時期に見事にひとつになって公演の実現にまで結実したことは感慨深いことですね~

気仙沼では町会の集会施設に泊めて頂きました。その施設は激甚災害地区である魚町から急坂を上った高台にある太田二区自治会館という施設で。。途中、大船渡線の線路を渡るのですが、もちろんこの路線は壊滅的な打撃を受けていて運休中。そこから見えるトンネルの入口も封鎖されていました。しかし高台に建つ自治会館は無事で、お風呂や寝具こそないものの、設備のそろった立派な施設に泊めて頂いてありがたかったです。翌朝にはメンバー揃っての記念撮影をし。。気がついた時に写真を撮っておいてよかったです。結局このあとに記念撮影をする機会はとうとう訪れませんでした。

さて気仙沼2日目、12月28日のスケジュールは「うを座」の団員の子どもたちへのワークショップでした。ようやく訪れることができた気仙沼で、子どもたちを相手に催しができることになるとは! 会場は これまた激甚災害地である南町の中に建つ「cadocco」と名付けられた子どもたちのための多目的スペース。となりにある、オープンしたばかりの仮設商店街「南町紫市場」の一部として運営されているようです。







集まった生徒は、年末の多忙のため3人だけでしたが、まずまず内容の濃い催しになりました。まずOくんたちによる狂言ワークショップ。ぬえは準備のためあまり見ていませんでしたが、ふと様子を見に行くと、なんとOくんが中学生の上におんぶの格好で乗っかっています(!) 直前にカマエ運びを教えていたので、ははあ、きちんとした姿勢が出来ていれば大人が上に乗っても大丈夫、という実演ですね。それにしても突然のことで子どもたちはビックリしながら大笑い。



次に笛のワークショップ。なかなか音が出ないようで一同苦戦していたようでしたが、それでも能の歴史や笛の構造についてのお話は興味深げに聞いていました。







そうしてワキのワークショップに移ったのですが、こちらは ぬえと相談してシテ方の演技とシンクロさせて教えることにしました。テーマは「祈リ」。ぬえはワキ方と一緒にワークショップをするのは初めての経験でしたが、これがとても面白かったです。笛のTさんにも出演願って、まずは「祈リ」の実演。シテの「暴力」に対して「法力」で対抗するという「祈リ」独特の構図は、ちょっと現代では珍しい戦いの場面でしょう。ついでワキ方、シテ方それぞれが「祈リ」の型を教えましたが、ここで注目させたのが「気」ということ。これがなければ「祈リ」もただのダンスになっちゃいます。





「もっと気合いを込めて。。そう。。怒って!」「お坊さんの方も後ろに引くときも押し返すつもりで!」。。ワキ方の演技指導のときは ぬえがそのお相手、シテ方の演技指導のあとはおワキにお相手を願って、それぞれ戦ってもらいました。すると、最初は能楽師の気勢に ついつい腰が引っ込みがちだった子どもたちも、みるみる目が真剣になっていきます。「そう。。その目だよ。いい目になってきた」。。ぬえ、最後は祈り押されて壁に追いつめられてしまいました~ (^◇^;)









そうして最後は『羽衣』の装束を着付けてあげました。ありゃありゃ、とっても可愛い天女の出来上がり~









楽しい時間でした。2時間の予定が40分もオーバーしてしまい、荷物を車に積み終わったところを見計らって子どもたちはうち揃ってご挨拶してくれました。子どもたちにも再会を願って、その後「うを座」の座長さんの経営されるラーメン屋さんで昼食を頂き(美味!)、一路石巻へ移動です。

本年もよろしくお願い申し上げます

2012-01-01 01:50:41 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ぬえ@石巻です。

大晦日は仮設住宅で公演、同じ会場で鍋パーティー、そしてチーム神戸のパーティーにお邪魔して無事に年越しを迎えました。そうしてチーム神戸のみなさんと一緒に除夜の鐘を撞きに行きました。

思わず出た「あけましておめでとうございます」を。。リーダーの金田真須美さんはたしなめて「おめでとう、じゃないのよ。被災地は」。。そうでした。申し訳ありません。。(・_・、)

本年は良い年になりますように。よろしくお願い申し上げます~~