ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その10)

2009-07-31 01:28:23 | 能楽
シテと日蓮の会話。。その短い会話を地謡が引き取って上歌を謡います。

地謡「その名をだにもまだ聞かぬ。その名をだにもまだ聞かぬ。御法を既に保つまで。いかで契りを結びけん。げに頼もしき折からや尚も女の仏となる謂はれを示しおはしませ。

内容としては「まだその名をさえ知らない凡夫の私が、ありがたい法華経を堅く信仰するまでに至るとは、どうしてこのような仏縁を結んだことであろう。本当に頼もしいこと。なお女が成仏する理由をお示しくださいませ」といったところでしょう。

『現在七面』ではこの初同(地謡がその能の中で最初にまとまって謡う下歌・上歌の類)からすでに。。シテにとっては試練が始まるように思いますね。

じつは能の初同でシテが行う型には、ある程度のパターンがあるのです。まあ、その状況やシテの性格によって かなり流動的なパターンではありますが、たとえば後シテの化身としての役割を持つ前シテであれば、多くの場合、初同では次のような定型の型を演じます。

初同の直前の文句(シテとワキの会話のおわり)にシテはワキに向かって二足ツメ、初同となり正面へ直し、打切はそのまま聞き、返シ過ぎてより右へウケ、直し正へ出てヒラキ(地謡が謡う文句によりここでワキや作物に向かってヒラキになる、または右へ遠く見渡すなどのこともあり)、角柱へ行き正へ直シ、左へ廻り(文句の長短により角トリはナシにすぐに左へ廻ることもあり)シテ柱へ行き正へ直ス(またはワキへ向いてヒラキなどの型になることも)。

バリエーションはいろいろあるとはいえ、やはり初同の型に一つのパターンというものは確実に存在しています。ところが『現在七面』では この定型の型を勤めるのは ちょっと苦しいのです。理由は単純で、初同の文句がほかの能と比べるとあまりに短いからなのです。

そこで ぬえの師家の型では打切あとにすぐ正へ出てヒラキ、「いかで契りを結びけん」とワキへ向き、すぐに左へ廻ってシテ柱に戻り、「謂はれを示しおはしませ」と再びワキへ向いてツメ足をすることになっています。定型の型をかなり省略してエッセンスだけを残すように作られている型でしょうが、それでも ちょっと忙しいですね。

それを反映してか、ぬえがこれまで拝見した他家の『現在七面』では、初同のシテの型は 同じ観世流でありながら、定型の型からの省略の箇所が ぬえの師家の型とは少しづつ違っていました。たとえば「いかで契りを結びけん」とワキへ向かず正へヒラク型をされた演者もおられました。これは ぬえの師家では「いかで契りを。。」の文句を「どうして(あなた様のお導きに従って)仏縁を結ぶようになったのでしょう」と、ワキに対する問いかけ。。というより詠嘆の言葉と捉えるのに対して、「どうして私の心が仏縁に惹かれていったのだろう」と、自分自身への問いかけと解釈した型で、なるほどこれも合理的な解釈であるうえに、ワキへ向く型がない分だけ型に余裕が生まれます。

これとは逆の例で、この上歌の終わりの文句「尚も女の仏となる。。」は、これは日蓮に向けられたシテからの懇願、という以外の読み方はできないはずで、ぬえが拝見した他家の『現在七面』でも 当然ことごとくワキへ向いておられました。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その9)

2009-07-28 13:01:31 | 能楽
装束の話の続きですが、ぬえの師家では『現在七面』の前シテは扇を持たないことになっています。右手に数珠だけを持っているのですが、まあ、大ざっぱに言えば これはこの役が舞わない。。というかあまり動作をしないことを表しています。まあ、これは大ざっぱに言えばで、後シテが舞う場合にその伏線として動作はなくても前シテも扇を持って出ることもありますけれども。。

が、しかし『現在七面』は中入で激しい型がありますので、それを考えると やはりこの前シテは扇を持って出た方が良いと思いますね。その型をするときに、扇を持っていればお客さまの視線も扇に集まるのですが、数珠だけだと、どうもそれを振り回している印象になってしまう。。モノが数珠だけに、それはそのまま不信心を暗示してしまうような気がします。

さて上歌の終わりにワキはシテの方を向き、やがて声を掛けます。

ワキ「怪しやなこの山は。花より外に知る人もなき庵なるに。そもや女性の御身ながら。御経読誦の折々に。歩みを運び花水を仏に捧げ給ふ。さておことは如何なる人にてましますぞ。

どうやら季節は春であるらしい。。シテの下歌の中にも鶯が出てきますし、また上歌の中にも雪解けの様子が出てくるので、ここでは花と言っていますが、古典文学の常道としての「桜」ではなくて梅が咲く頃なのかもしれません。もっとも身延山は高地なので、桜の頃にようやく雪解けするのかも。いずれにしても季節感は希薄な能と言わざるを得ませんですね。その場で起こる事件そのものに焦点を当てて、季節にはあまり拘泥しない能もたくさんあるのですが、『現在七面』もまさにそんな曲のひとつでしょう。どうもここに出てくる春のイメージも、どちらかといえば付け足しのようなもので、事件そのものには関係しませんし、むしろ春寒の頃にひとり草庵で法華経読誦三昧の修行生活を送る日蓮と前シテの里女との心の交流を描く装置と考えてきたいと思います。

このような孤独感や寂寥感をするのならば秋深い頃もよいとは思うのですが、反面、この曲が最終的に女人成仏を扱い、天女が法華宗の守護神となる、という霊験を描いていることから、ある種の希望のようなものが能の中に底流している方がよく、そのために雪解けの季節が選ばれているのかもしれません。そう考えてくると、先日考察したように一畳台やワキツレの扱いにも舞台設定のための仕掛けが隠されていたり、このような上演が珍しい能であっても、作者あるいは先人はかなり緻密に舞台効果を計算しながらこの曲を作ってきたのだと気がつきます。ん~勉強のタネは尽きないね~

シテはワキの問いに答えて法華経に、またそれを授ける日蓮への帰依を述べ、また日蓮もそれを受け入れて、二人の心の交流が生まれます。

シテ「これはこのあたりに住む者なるが。かくありがたき御法に遇ふ事。盲亀の浮木優曇華の。花待ち得たる心地して。喜びの涙の露。かかる折しも縁を結び。後の世の闇を晴らさずは。また何時の世を松の戸の。明暮歩みを運びつゝ。上人に結縁をなすばかりなり。
ワキ「げに奇特なる信心かな。この法華経を保ちぬれば。若有聞法者。無一不成仏と説き給ひて。二乗闡提悪人女人おしなめて。成仏する事疑ひなし。
シテ「さては殊更ありがたや。


<語釈>
盲亀の浮木=大海で盲目の亀が浮木の孔に入ること。優曇華の花とともに仏の教えに巡り逢うことが困難な喩え
優曇華の花=優曇華はインドの想像上の植物で、三千年に一度花を開き、そのとき如来が世に出現すると伝える。
若有聞法者。無一不成仏=若し法を聞く者有れば一として成仏せざるは無し。法華経方便品に見える言葉。
二乗闡提悪人女人=成仏往生のなりがたき者。日蓮はその第一に「決定性の二乗」第二に「一闡提人」を挙げるが、法華経に依る女人の往生を力説する。悪人は不信心の者。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その8)

2009-07-25 00:59:21 | 能楽
そりゃ、中入の着替えの便利というだけの理由で「着流し」が選ばれるのも変な話ではありますが、とはいえ、たとえば『葵上』で「壺折」の着付けをしているのも、同じような理由からですね。『葵上』では中入の場面で前シテがみずからの着ている唐織を上に引き抜いて、シテ自身の姿を隠すように引きかずく、という非常に印象的な型があります。この型をするのには「着流し」では不可能で、「壺折」でなければ出来ないのです。よく言われるように「壺折」は女性の旅行姿でして、上臈である六条御息所のしかも生霊が葵上の病床に現れるという『葵上』の舞台設定には、「壺折」はじつは似つかわしくない装束だと言わざるを得ません。しかも六条御息所は青女房にかしづかれ、牛車に乗って現れているのですから。。

このような例もあって、舞台上の演出の都合で、本来は舞台設定とは似合わない装束が選ばれる、あるいは定められていることも能ではあるのです。ぬえの考えるところでは、『現在七面』では「着流し」であるか「壺折」であるかは舞台効果としてさほど大きな印象の違いはないのではないかと思います。であるならば、後シテの扮装を確実に着付けるためにも前シテを「着流し」で勤めるのは、ひとつの工夫であろうかと思いますですね。実際 ぬえが拝見した『現在七面』は前シテはすべて「着流し」でしたし、ぬえもそうしようと思っています。

むしろ問題になるのは前シテを「無紅」。。つまり中年の女性で勤めるのか、あるいは「紅入」。。若い女性で勤めるのかの方がよっぽど大きな問題でしょう。

ぬえがこれまでに拝見した例では、これまた すべて「紅入」。。若い女性の姿でした。これはなぜかなあ。。?大蛇として現れた後シテがさらに変身した結果の、天女の伏線なのかもしれませんですね。うがった考え方をすれば、やはり深井の面で役を勤めると、若い役よりも少し位がシッカリするので、長大なこの曲を少しでもコンパクトにする(←これは重要なポイントだと思います)ためには紅入の方がやりやすい、ということもあるかもしれません。

もっとも前シテが中入する際にはじめて自分の素性を明かす場面で「われは七面の池に。澄む月並の数知らぬ。年経たる蛇身なり」と言っているので、その文章には無紅の装束の方が合うように思うのと、前シテが寂しい草庵で日蓮と会い、その法話を聞くには、無紅の方が似つかわしいとも思います。ぬえは無紅装束・深井の面で勤めたいな、と今は考えております。

さて舞台常座、または一之松で正面を向いたシテはサシ~下歌~上歌を謡います。

「ありがたの霊地やな。漢土にては四明の洞。和朝にては我が立つ杣と詠じけん。御山もいかで勝るべき。さて又大白波木井の川風に。波の立ち居も自づから。随縁真如を現せり。
「谷の戸出づる鴬も。法を唱ふる花の枝。
「来ても見よ。身延の山の深雪だに。身延の山の深雪だに。春を迎へて消えぬれば。これも慧日の。光かと思へば我が作りにし罪科も。かくこそ消えめ頼もしやと。信心はいや増しに。げにありがたき御山かな。げにありがたき御山かな。

型はとくにありませんが、上歌の終わり頃にシテが少し歩む(一之松にいる場合は舞台常座に入る)ことで、シテが日蓮の草庵に到着したことを示します。

<語釈>
四明の洞=中国・浙江省にある霊山。
我が立つ杣=最澄の歌「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏たち我が立つ杣に冥加あらせたまへ」(新古今集1920)。比叡山のこと。
大白波木井の川風=元禄期の『身延鑑』に「ここに甲斐国巨摩郡波木井乃郷、北に当たり身延山久遠寺と申し候は、往古、日蓮大聖人開基の霊場にして、峰たかく谷深うして麓に四つの流れあり。(中略)麓に四河の湯々たる流れとは、御書に曰く、「北に大河あり。早川と名づけはやき事箭を射るがごとし。南に波木井川と名づけ大石を木の葉のことくながす。東に富士川、千の鉾をつくがごとし。西に大白川」これ四海に妙法流布の儀を示し給う」とある。
波木井(はきい)実長は鎌倉時代の御家人で日蓮に帰依、領有する身延山に彼を招いて草庵を建て、日蓮没後に久遠寺と改めた。
波の立ち居も自づから。随縁真如を現せり=水と波とを区別できないように、縁によって種々の現象として現れても本来真実は普遍である。
谷の戸出づる鴬も。法を唱ふる花の枝=鶯は「法~法華経」と啼く。。
慧日の光=仏・菩薩の智慧の広大無辺なことを日光に喩えていう

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その7)

2009-07-24 18:04:20 | 能楽
地謡によって寂寞とした草庵でひとり法華経を読誦する日蓮の姿が描かれると、それにつけて笛が「ヒー!、ヤアーー、ヒーー!」と鋭い「ヒシギ」を吹き、前シテの登場音楽である「次第」の演奏が始まります。「次第」は「二段」と呼ばれる、区切りを2カ所持つ。。すなわち全体で3パートに分けられる構成の演奏が本式ですが、各パートはほとんど同一の内容の手組が打たれるうえ、本式の演奏では前シテの登場までに時間が掛かりすぎて登場を待ち受ける緊張感が途切れる感もあるので、近来は区切りをひとつだけ持つ「一段」と呼ばれる演奏がされるのが普通です。「二段」の場合も「一段」の場合も、前シテが登場するのは最後の「段」で、それまでは雰囲気を醸成するためのプロローグのようなものでしょうか。

登場の段になると、シテは幕を揚げさせて登場します。師家の型ではシテは舞台に入って常座で謡い出しますが、他家では一之松ということもあるようですね。いずれにしても「次第」の囃子に乗って役者がひとりだけ登場するときは、所定の位置に着いてから見所に背を向けて、斜め後方に向かって謡い出します。「次第」に独特の約束事で、理由は定かではありませんが、独特の不思議な印象を与える演出です。

シテ「法の教へを身に受けて。法の教へを身に受けて。誠の道に入らうよ。

シテは七五・七五・七五(末句はしばしば定型の字数をはずれることあり)の定型の三句を謡い、ついで地謡が同じ文句を低吟します。これまた「次第」のときの定まりで、この地謡が謡う「地取り」の間にシテは正面に向き直ります。

この曲の前シテの面装束には ちょっと珍しいほどいろいろなバリエーションがあるようです。観世流の大成版謡本の前付けによれば

面=深井、鬘、無紅鬘帯、襟=浅黄、着付=摺箔、無紅唐織(壺折ニモ)、無紅鬘扇、水晶数珠
 とあって、それとは別記として
(紅入装束ニテモ其時ハ 面=若女、又ハ小面) とあります。

ここには「無紅唐織」と簡単に書いてあるのですが、その場合は唐織を「着流し」に着付ける事を意味しています。それは着流し以外の着付け方をする場合には、たとえば水衣であるとか大口であるとか、また縫箔であるとかの、唐織のほかに別の装束が必要になってくるからなのです。一例としてここに「壺折ニモ」と書いてあるのですが、その場合は縫箔が必要になります。大成版の本文の上にある挿絵では前シテが その「壺折」の着付け方をしていますが、『葵上』とか『鉄輪』の前シテと同じ着付け方になります。いずれも下半身に縫箔を着付けて、唐織はその上半身部分に折り込むように着付けるのです。

そして『現在七面』の前シテは、その「着流し」あるいは「壺折」の着付け法が両用となっているわけですが、さらにその年齢を「無紅」あるいは「紅入」。。すなわち中年女性か、あるいは若い女性のどちらの演じ方でもよいことになっているのです。これほど、4種の役柄の選択が役者に任されているのは珍しいことでしょう。

もっとも、ぬえが何度か拝見した『現在七面』では、「壺折」の装束の例は一度も見たことがありません。すべて「着流し」でした。これはもっともなことだと思います。。と言いますのも、後述しますが、この曲では中入した前シテが後シテに扮装を替えるのが本当に大変なのです。いわば一分一秒も無駄にしたくない、というのが役者。。いや現実的には着付けをする後見の偽らざる本心で、そうなると唐織+縫箔と2枚の装束を着込んでいる「壺折」の装束よりも唐織だけをワンピースのように着ている「着流し」の方が着替えには有利ということになります。いわば「脱がせる」ときのことを想定して「着流し」が選ばれる、ということもあるかと思います。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その6)

2009-07-19 00:36:57 | 能楽
さて なかなかシテの登場にたどりつきませんが、もう一つ『現在七面』のワキについて。

いまここで

ワキ「われ法華修行の身なれば。読誦礼賛を怠る事なき所に。いづくともなく女性の絶えず詣で候。今日も亦来りて候はば。名を尋ねばやと思ひ候。

というワキの詞をご紹介しましたが、ぬえは「ふうん。。意外に、あるんだ。。」と思いました。なにが「ある」というのでしょう? それは「候」なのです。

能の台本は文語で記されているわけですが、それでもセリフの中で会話の部分には やや口語の雰囲気を持つ「候」が多用されます。ところが『現在七面』の姉妹曲というべき『身延』には、この「候」が一度も出てこないのです。じつはこれは ぬえの発見ではありませんで、かつて『身延』が上演された際に、お笛の故・一噌幸政先生が これに気づいて、小鼓の故・穂高光晴先生に「この曲には“候”ってのが出てきませんな」と楽屋でおっしゃられたのだそうで、ぬえは小鼓の稽古の際に穂高先生からこれを又聞きしたのですけれども。

ぬえがこの事実を伺ったのは、いまから10数年前になるかと思いますが、そして ぬえはその後『身延』という能には一度も上演に接していないのですけれども。。不思議によく覚えています。で、今回『現在七面』について調べるのにあたって、その点を『身延』『現在七面』の2曲に具体的にあたって調べてみました。

結果、『現在七面』の中に「候」が出てくるのは、いま掲出した箇所に3カ所。それから 初同のあと、クリの前に、同じくワキが謡う「なかなかの事草木国土。悉皆成仏の法華経なれば。女人の助かりたる所をも語つて聞かせ候べし。」の中に1カ所の、計4カ所であることがわかりました。

また一方『身延』にも、一度も「候」は出てこないのかと思いきや、シテの詞の中に「かかる妙なる御法には。逢うこと難き女人の身の。今待ち得たる法の場に。いかでか怠りさむらふべき」。。と、「さむらふ」と形を変えて一度だけ登場しているようです。

いずれにしても「候」は能の中で とくに会話の部分には欠くことのできない言葉ですので、『現在七面』の4カ所、『身延』の1カ所は、極端に登場が少ないと言ってよいと思います。

まあ。。とは言っても すべての謡曲本文を精緻に調査したわけではなし、案外 同じように「候」が出てこない曲もあるかもあるかもしれませんが。。『鶴亀』だって「いかに奏聞申すべき事の候。。そののち月宮殿にて舞楽を奏せられうずるにて候」の2カ所しか出てきませんから。。

そんなわけで、未調査ではありますが、『現在七面』『身延』という、日蓮に関連する、それも内容も非常に近い2曲には「候」など台本の言葉遣いの面でも相似する特徴がある、という可能性だけは提示しておこうかと思います。

そういえばまだ問題点が。。

先日『現在七面』のワキの装束付けをご紹介しましたが、どうやらおワキで花帽子をかぶるのは、お流儀による違いはあるでしょうが、まさにこの2曲。。『現在七面』と『身延』だけなのだそうですね。

日蓮の名を台本の中で明かさない。花帽子を着る(角帽子のこともあり)。そして。。これは付け加えられるかどうか微妙ですが、「候」が台本にほとんど現れない。。ふうむ、やはりこの2曲には共通点があるのかもしれない。。能の中では異色である2曲も、なんらかの理由があって意図的にほかの曲とは差別化されるような特徴を付与された、ということは考えられないでしょうか。。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その5)

2009-07-18 01:09:27 | 能楽
ワキによるここまでの長い独吟を引き受けて地謡が謡い出します。この間ワキにも(もちろん前場には存在していないワキツレにも)型はまったくありません。

地謡「尾上の風の音までも。尾上の風の音までも。皆法の声ならずや。落ち瀧つ瀬の響きもただ懸河流瀉の御声にて。鷲の御山も外ならず。八巻の法の花の紐。時知る風に立ち渡る。身の浮雲も晴れぬれば心の月ぞさやかなる心の月ぞさやかなる。

<語釈>
懸河流瀉の御声=懸河は急流、流瀉は流れ落ちるさま。釈迦の弁舌爽やかな様子に喩える。意味合いとしては獅子吼と同じ。
鷲の御山も外ならず=この身延山が釈迦が説法をした霊地・霊鷲山と異ならない、ということ。
八巻の法の花の紐=法華経は八巻二十八品(章)から成る。その経巻の紐を解いて読誦する様子。
身の浮雲も晴れぬれば心の月ぞさやかなる=心のにかかる雲が晴れて真如の月の光が射し込む。

地謡が終わるとワキは不思議な女人が常に自分を訪ねてくることを述べます。

ワキ「われ法華修行の身なれば。読誦礼賛を怠る事なき所に。いづくともなく女性の絶えず詣で候。今日も亦来りて候はば。名を尋ねばやと思ひ候。

。。ところで ここまでの場面でワキが日蓮だということはハッキリとは書かれていないですね。じつはこれは有名なことなのですが、能の中には『現在七面』のほかにも何曲か日蓮が登場する曲があるのですが、それらはすべてワキの役で、そしてそのどの曲の場合でも、登場した日蓮は 自分が日蓮だということを名乗らないのです。これは『春日龍神』の明恵、『誓願寺』の一遍、『石橋』の寂昭が堂々とその名を名乗っているのと比べて対照的。

その、日蓮が登場する能とは『現在七面』のほかに『身延』、『鵜飼』の2曲なのですが、それらの曲の中でワキが誰であるかについて どのように描かれているかというと。。

『現在七面』 …ワキ「甲斐の身延の山に引き籠り。。われ法華修行の身なれば。。」
『身延』   …ワキ「衆生の愉楽も今ここに。身延山の風水も。。」
        シテ「かく上人のこの所に。到り給ふは上行菩薩の御再誕ぞと忝なくて。。」
『鵜飼』   …ワキ「これは安房の清澄より出でたる僧にて候。我いまだ甲斐の国を見ず候程に。。」

。。このように、不思議にどの曲もワキが日蓮であることを暗示しながら、その名を明示することはないのです。能の中に与えた法華経の影響は多大ですが、この3曲はいずれも、ことに法華宗の立場に立った法華経賛美の曲ですので、あるいは法華宗の内部に近いところから作詞の欲求が生まれて誕生した曲(『現在七面』『身延』については、それはおそらく間違いないでしょう)である可能性もあると思います。その立場に立ってみれば、宗祖聖人である日蓮の活躍を舞台化することは理想でもあり、また一方、実際に能役者が日蓮の役を演じることに何らかの抵抗感があって、その葛藤の結果がこういう形になって台本に現れたのかもしれませんですね。

このことについては現行曲以外にも調査を広げなければならないのですが、もとより ぬえの手には余る作業。。

なおこの3曲のほかに『梅枝』のワキは「これは甲斐の国身延山より出でたる沙門にて候」と名乗っていますが、それに続くワキの言葉「われ縁の衆生を済度せんと。多年の望みにて候ほどに。この度思ひ立ち廻国に赴き候」から考えると、日蓮自身というよりは、もう少し後世に身延山で修行する法華宗の僧という印象を ぬえは持ちますので、今回は除外させて頂きました。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その4)

2009-07-16 00:06:22 | 能楽
ちょっとワキツレの話題に戻りますが、今になって ぬえは、この場面にワキツレは登場しているけれども、実際には前場には「いない」という設定なのかな? と考えました。すなわち、このワキのサシ謡にはハッキリと「寂寞無人の樞の内には」と宣言されていますから、やはりこの場面は日蓮がたった一人で草庵に座し、法華経読誦と観想の修行をしていると考えるべきなのではないか?

おそらくこれは正しい解釈でしょう。後に登場する間狂言は身延山の麓に住む日蓮に帰依する在家信者で、前場で起こった事件(日蓮が不思議な里女に会い、女人成仏を説く法華経について説くと、自分は七面の池に棲む大蛇で、懺悔の姿を現すことを約して消え失せたこと)をワキから聞くと、それではその大蛇が現れる奇特を日蓮と一緒に見よう、という相談がまとまるのです。この直後にワキが謡う「待謡」の文句は「かゝる不思議に遇ふ事も。ただこれ法の力ぞと。心を澄ましひたふるに。読誦をなして待ち居たり。」というもので、この文章には取り立てては 大蛇の登場を待ち受けるこの場に大勢が集っていることは書かれていないけれども、少なくともこの場には間狂言の里人も同席しているのであって、そうなればこの日蓮が「読誦をなして待ち居た」る場は、彼が孤独に修行を続ける狭い草庵ではなく、従僧や信者も集う説法の場に移ったと考えることもできるからです。

前述のようにこの「待謡」ではじめてワキツレがワキに同吟するのも、草庵から広い説法の場に座を移したからだと考えれば納得ができます。そういえばワキが座すためにわざわざ用意される一畳台も、考えてみれば草庵にはふさわしくない仰々しさで、これも後場で大衆の前で日蓮が説法する高座として はじめて機能するのだと考えることもできるでしょう。

もとより身延山は日蓮に帰依した御家人・波木井(はきい)氏によって寄進された修行道場であって、度重なる迫害を受けた日蓮にとっては最晩年に至ってようやく得た安住の地。この地に当時から大勢の日蓮信奉者が集っていたのはこの曲の間狂言の役割からも想像できるところです。通常はそんな信者とは離れて なお一人草庵で修行に励む日蓮のもとに大蛇の化身が現れる、というのが『現在七面』の前場の設定であって、実際の舞台上ではワキもワキツレも微動だにしないけれども、そしてまた大蛇を目撃する奇特を得る、と宣言したはずの間狂言も実際には舞台から退場してしまうけれども、日蓮は後場では大衆が集う説法の場に移動し、そこで大蛇のために法華経を手向けてあげたのです。

ワキツレはそんな説法の場の賑わいを表現する装置として、舞台の上に存在すること自体に大きな意味があるのですね。というのも、後場に登場する大蛇は日蓮の説法を受けて感謝の舞を見せる、という能の常套の脚本に収まらず、天女に変身して身延山の鎮守、すなわち守り神となることを約束するからです。いま「天女」と書きましたが、この変身後の後シテは謡曲本文中には明確にその実体は示されていません。しかし「如我等無異の身」「和光同塵結縁の姿」「垂迹示現して」等の文句を見れば、『羽衣』や『吉野天人』などの「飛天」風の軽快な天女像よりも、むしろ菩薩か、極論すれば釈迦如来自身のような より霊力の高い高次の存在だと感じますし、それを印象づけるような演出もこの能には組み込まれています(後述)。

いまここに『身延鑑』という元禄頃の身延山・久遠寺の参詣手引き書の翻刻が ぬえの手元にあります。これは10年ほど以前、中森貫太氏の催しで久遠寺で『現在七面』が上演されたときに ぬえもお手伝いに参上し、この折 久遠寺より戴いたもの。まさかこの本を熟読する日が来るとは夢にも思いませんでしたが。。 この書には『現在七面』の能の原拠となったと思われる大蛇の話が出てきまして、これによれば大蛇は安芸国・厳島の弁財天とされています。この本のことは改めて後述したいと思いますが、まあ ぬえがいま言ったような「釈迦如来自身」というのは言い過ぎかもしれませんが、『現在七面』の後シテが菩薩か天部のような大きな存在に変身したのは疑いのないところで、だからこそ身延山の鎮守ともなれるわけです。

法華宗の霊場の鎮守とはすなわち宗派そのものの守り神でもあるわけで、変身した後シテがそれを高らかに宣言する場は日蓮一人が住まう草庵であるより、多くの信者が集う説法の高座の前であることがふさわしい。ワキツレの存在は法華宗のすべての信徒の象徴でもあって、欠くべからざるお役なのだなあ、と ようやく気づいた ぬえでありました。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その3)

2009-07-15 10:03:36 | 能楽
うう~パソコンがクラッシュ寸前で、まだデータの救出中。。とりあえず古いノートパソコンに転居しております。。

さて『現在七面』。

重厚なワキの扮装とくらべると、ワキツレは無地熨斗目に白大口、縷水衣という いたって普通の大口僧の扮装です。

この曲のワキツレは辛抱役ですね。舞台に登場するとすぐにワキの下に着座して、そして謡う場面は 後シテが登場する直前の「待謡」だけなのです。「出し置き」の登場の場合、「次第」や「道行」など、ほとんどの能の冒頭部にあるような 立って謡う場面はないものですが、それでも着座したままワキとワキツレが掛け合いの謡を謡って地謡がそれを引き取って謡うことが多いように思います。『現在七面』ではそれもなく、冒頭部はワキの独吟→地謡の「上歌」となります。

じつは『現在七面』は上演時間が長大な能(詳しくは後述したいと思います)なのですが、そんな中で謡う場面も少しだけで、あとはひたすら姿勢を崩さないように着座している。。このワキツレのお役は大変だと思います。

『現在七面』のおワキは日蓮の役で、その高僧としての威厳を表すためにお供のワキツレが二人も登場するのだと思いますが、場面としては草庵で法華経を読誦する日蓮の前に不思議な里女が登場して 教化を受けるわけですから、日蓮と里女の二人だけの関係に視点が集まった方が現代人の目からすれば むしろ効果的で、このワキツレのお役は登場しなくてもよろしいのではないか、とも感じますが。。

ワキ「それ世尊の教法は。五時八教に配立し。権実二教に分てり。さる程に滅後の弘経も正像末に次第して。今後五百歳の時なれば。時機に適ふこの妙経を弘めつゝ。国土安全の勧めをなせしその甲斐の。身延の山に引き籠り。寂寞無人の樞の内には。読誦此経の声絶えず。一心三観の窓の前には。第一義天の月まとかなり。

さてこうしてワキの独吟によるサシからこの能は始まるわけですが、もう 最初っから難解至極の文章です。現代語訳を試みれば次のような感じでしょうか。

「そもそも釈尊の教えというものは五つの時期、八つの内容に配分されるが、それらも衆生を導く方便としての説法と、真実の教えとしての法華経に分けられたものである。入滅されてのち正法・像法の時期も過ぎ、いまや仏法が衰退するといわれる末法の時代に至り、釈尊の教えを弘めるためには真実の教えであるこの法華経を説くべきである。私はこれを弘め、国土安全を全うするためにこの甲斐国の身延山に引きこもっている。あたりに人の気配もない静寂の草庵にはつねに法華経を読誦する私の声だけが響き、一心に観想の修行をするその草庵の窓には真理を示すように明月の光が射し込んで照らしている」

<語釈>
五時八教=五十年間に渡る釈迦の教えを分類したもの。五期の時系列、八種の内容による分類。
権実二教=未熟な衆生を大乗に至らせる方便としての教えと、真実の教えとしての法華経。
正像末=釈迦入滅後、仏法が正しく伝わっている千年の正法の時代、経文の研究や寺塔の建設などの努力によって仏法が保たれる千年の像法の時代がすでに過ぎたこと。
後五百歳=正像法の時代のあとの現在は後五百年と言われ、世が乱れ仏法が衰退する末法の時代の始まりと考えられた
時機に適ふこの妙経=日蓮は末法の世の衆生を救うためには釈迦の最高度の教えである法華経を広めることが最適だと論じた。
一心三観=観想の修行。
第一義天の月=仏教の最高真理を天に喩え、そこに住む仏を暗示した語。月は永久不滅の真理が衆生を照らす喩えとしても常用される。

パソコンがクラッシュ!

2009-07-14 22:39:58 | 雑談
ぬえです~

なんとパソコンがクラッシュしかかっていまして、ただいま催しの間を縫ってデータを救出中です~。うう~。

今日は来月催される「狩野川能」で演じられる新作の「子ども創作能」『伊豆の頼朝』が初めて試験的に上演される「古典芸能教室」というものが伊豆の大仁小学校で催されました。その活躍もお伝えしたいのに~

しばし書き込みをお待ちください。。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その2)

2009-07-12 01:00:47 | 能楽
さて今回も舞台の進行につれて『現在七面』について解説していこうと思うのですが、なんと言ってもこの曲は日蓮と法華経の功徳について描かれた曲で、その詞章の難解なこと! ぬえも初めて地謡としてこの曲を覚えた際には、かなり苦労したことを思い出しました。

そこでこの曲の解説は必然的に語釈に紙幅が割かれてしまうのは仕方がないところです。どっさり山盛りの法語・仏語について調べるのは大変でしたが、その語釈を読まれる方も大変であろうかと存じます。。しばしお付き合いくださいまし~m(__)m

囃子方・地謡が着座すると幕より後見が一畳台を持ち出し、脇座に据えます。日蓮上人の高座を表す一畳台が置かれると、ワキとワキツレ(二人)が登場します。

ワキの登場にはほとんどの能で「次第」「一声」「名乗り笛」の三種の登場音楽が用いられますが、『現在七面』では登場音楽のようなものは一切ありません。それは登場したおワキの立ち位置や謡い出す内容によって登場音楽が規定され、『現在七面』ではそのどれにも当てはまらないからです。すなわち「次第」「一声」の場合は、これはワキに限らずシテやツレ、子方などの登場にも広く使われる登場音楽ですが、登場した役者が一人の場合は舞台常座、または橋掛り一之松などに立って謡い出し(さらに「次第」で役者が一人だけ登場する場合は見所に背中を向けて、斜め後方に向いて謡い出し)、また二人以上の役者が登場する場合は舞台または橋掛りで向き合って謡い出すことになります。

そして「次第」の場合は登場した役者は登場音楽の名称と同じ「次第」と呼ばれる「七・五、七・五、七・五」の字数の(多少の字余り・字足らずの場合もあり)定型の三句の文章を拍子に合わせて謡い、「一声」の場合はやはり「一セイ」という「五、七・五、七・五」の字数の(こちらは字数は不定形の例も多し)三句の文を拍子に合わせずに謡う、という特徴があります。

「名乗り笛」はワキの登場に限定される登場音楽で、登場したワキは舞台常座または中央で止まり、ワキツレが随行する場合は橋掛りに控えて、ワキは「これは諸国一見の僧にて候」などと「名宣リ」と呼ばれる、これは節のないセリフの文を謡い出します。

『現在七面』ではワキは登場するとさきほど脇座に出されたばかりの一畳台の上に上がって着座し、ワキツレもその隣。。すなわち地謡の前のあたりに着座して、さてワキは「それ世尊の教法は。。」と拍子に合わず字数の定型もない、いわば散文調の比較的長い文章を独吟するのです。

このように登場音楽が規定する演技に当てはまらない登場のしかたの場合は登場音楽が演奏されず、ワキは静謐の中を舞台に進み、無言のまま一畳台に到着して着座すると、おもむろに上記のサシの文を謡い出すことになります。こういう登場のしかたを「出し置き」とも呼びますが、すなわちおワキが脇座の一畳台の定位置に到着して着座するまでは、一畳台が舞台に出されるのと同じく、お客さまからは まだ見えていない、上演の準備段階にある、という見方もできるかと思います。もちろんおワキはその歩みでワキの役の存在感のようなものは表現しながら登場はされますので、演技でもあり、準備でもあり、「出し置き」というのはそういう感じのちょっと変わった登場方法とも言えると思います。

なおワキの装束は通例の大口僧ではありますが、白練の着付の上に紫水衣を着る、という かなり重い扱いの装束になります。これは『道成寺』とほぼ同じ扮装であることからも、『現在七面』のワキは重厚な出で立ちだということがわかると思います。そのうえ これとはまた違った装束であることもありまして、その場合は頭にかぶる角帽子を花帽子(『大原御幸』でシテや法皇が着けている白い頭巾)に替えることもあり、また白大口を指貫に替えることもあります。ここまでくると シテに匹敵する豪華さで、それほどこのお役が重視されている証左でもあります。

サイモン&ガーファンクル

2009-07-11 01:35:45 | 能楽

。。のコンサートに行ってきました! こんなに人が集まるんだ~。。

もとはといえば三島在住のマイミクさんの日記によって来日を知ったのでした。もう彼らも67歳なんですね~。ひょんなことから今年デュオが再結成されたそうなのですが、当然一時的なものだろうし、なんといっても年齢的にも二人が揃った来日コンサートに次の機会はないでしょう。そんなわけで衝動的にチケットを買って、マイミクさん(とそのお友だち~初対面でしたが面白い方のうえに音楽事情にも器材にも精通しておられて、楽しい時間を過ごさせて頂きました~)と一緒にコンサートを見にいくことになりました。

感想は。素晴らしい。。のひと言に尽きました。もう1曲目が まさかの「オールド・フレンズ」から始まるとは。。そのまま「冬の散歩道」「アイ・アム・ア・ロック」。。そうして「アメリカ」。。「スカボロー・フェア」「ホームワード・バウンド」。。「コンドルは飛んでゆく」。。本物だ~ (・_・、) ポールサイモンのソロパートでは「時の流れに」。。再び二人で「マイ・リトル・タウン」「明日に架ける橋」。。もう涙腺がゆるんでしかたがありません。あまりに完成度の高い演奏で、アンコールで「サウンド・オブ・サイレンス」「ボクサー」が演奏されるまで、このヒット曲をまだ聞いていないことに気づかないほどでした。

衰えもあるかと思ったのですが(上記マイミクさんの友人から聞いたところでは YouTubeなどに投稿される最近のポールサイモンはあまり良くなかったので心配したそうで。。)、意外や声も2時間を歌い続ける体力も溌剌としたもので。いや、むしろポールサイモンのギターは若い頃よりさらに磨きが掛かったのではないかしらん。ぬえは双眼鏡を持っていったのですがこれは大正解で、あ~本物を見ました。ちょっとお顔の皺が増えたのが気になったけれど。。

ぬえ、じつは前回の二人の来日公演のときも「会場に行った」のです。当時 ぬえはまだ中学を卒業する頃で、会場は同じく東京ドーム。。ではなくて、それが建つ前の後楽園球場でした。お金がなくて、会場の外で音だけを聞いていた。。懐かしい思い出です。そういえば ぬえがギターを弾き始めたのも「スカボロー・フェア」を弾きたかったからだったなあ。。

。。という話を今日したところ、マイミクさんのご友人から「それは。。16年前の来日公演の。。その前の来日ですよ」と指摘されてしまいました。 ooO(゜ペ/)/ひゃ そうなんですか。。 なるほど16年前といえば ぬえは内弟子修行の真っ最中で。。まさかコンサートを見に行くなんて、そんな状況ではありませんでした。。その当時は二人が再び来日したことさえ知らなかった ぬえです。だって~コンサートだって10年ぶり。。?

そういえば先日の「ブルーマン」といい、このところ能とは違う世界のエンターテイナーの催しを見に行く機会が立て続けにあって、意味合いはいろいろ違うと思うけれど。。考えるところは大きい。今日も何百、何千回も演奏している曲だろうに、手抜きは一切ない演奏と、そして自然にあふれる二人の笑顔に、自分たちの進んできた道を信じて、そして愛していることを まざまざと感じることができました。能は600年間、同じ曲を演じ継いできたわけで、ちょっと形は違うのだけれど、曲に対する思いや愛というものがなければ それも受け継がれては来ないわけで。。

プロ意識。。と言ってしまうのには あまりに自然な形で全力投球をする二人の姿に、ある種の嫉妬を覚えた ぬえでもありました。目を吊り上げて最高の舞台を目指すのは。。まだまだ青いのかもしれないです。

彼らのあのようなセンシティブな感性と同じ時代に生きることができる ぬえは本当に幸福だと思います。はからずもこの日は ぬえの誕生日。最高の一日になりました。

ぬえ、明日は研能会で地謡。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その1)

2009-07-10 01:11:41 | 能楽
来る8月23日(日)、東京・観世能楽堂で催される師家の月例公演「梅若研能会8月公演」にて ぬえは稀曲『現在七面』(げんざいしちめん)を勤めさせて頂きます。今回勤めるこの曲は「稀曲」というだけの範疇には収まらない。。ときに「珍曲」とさえ呼ばれるほど思い切った演出が採られている能です。というのも、後シテが二つの能面を重ねて掛ける、という掟破りの荒技が繰り出されるから。

『現在七面』は、そのような特殊な演出が採用されているから 能楽ファンの方にとっては有名な曲である一方、謡のお稽古をされておられていても「そんな曲があるんですか?」と言う方があるくらい上演頻度は低い、いわゆる「遠い曲」の筆頭でもあります。

今回 師匠に申しつけられてこの曲を勤めることになった ぬえは大歓喜! そりゃあそうです。こんなに思い切った演出が採られている曲を勤めるのは演者として やり甲斐のようなものが大きいです。曲の情趣などの魅力によって「演じたい曲」というのはたくさんありますが、演出の特殊性、というのも上演する意欲をかき立てるものなのですね~。

ところが上演が珍しい。。ということは不人気な曲は なかなか勤める機会がないわけで。。どうしても演じたいとなると自分で企画する催しで上演することになりますが、そうなると準備にかける労力も大変だし、そうして上演してみても、はたして不人気な曲を上演して採算が取れるのか。。という切実な問題もあります。能楽師個人の主催の催しは自己負担ですから、チケットが売れなければ自分に負担がのし掛かりますから。。

そういうわけで、こういう 所謂「稀曲」。。珍しい曲というのはシテ方の流儀、あるいは家の単位で催される「月例公演」とか「月並能」で、人気曲と抱き合わせのうえで ようやく上演される場合が多いのが現実です。こういう催しでは固定客もあり、そのような能そのものを愛してくださるお客さまに支えられていますから、いわゆる「稀曲」の上演をしやすい、ということもありますですね。

で、今回は師家の月例公演で ぬえが『現在七面』を勤めるチャンスが巡ってきました! ん~、とはいえ、たまたまですがその翌週の8月29日には伊豆の『狩野川能』で ぬえは大曲『望月』を勤めることを すでに決めておりまして、今回の師匠からのご指名は ぬえにとってやや複雑な思いでした。。やはり珍しい曲では その舞台に接した経験も限られていますから(ぬえの場合 地謡を2度勤めたことがあります)、文句も身に付いていないし、演技のコツのようなものも見て覚えた経験値というストックがない。。手探り状態で上演することになるからです。それが『望月』の1週間前。。はたして研究が進められるのか? まさか両曲が 共倒れなんてことには。。(T-T)

ま、ともあれ、例によって上演の内容に即しながら、今回もこのブログで作品研究をしてみたいと思います。今回の作品研究は『望月』と『現在七面』と、どちらにしようかなあ、と迷ったのですが、『望月』はすでに一度勤めたことがあり、一方『現在七面』は もちろん初役。しかもこの曲の研究記事は二度と書く機会がないでしょうから、今回は『現在七面』を取り上げてみることと致しました。

が、この曲。さすがに稀曲だけあって先考も ほとんどありません。ぬえが先行論文に頼らずに独自に調査すのは かなり未熟ですが。。どうぞ悪しからずお付き合い頂けたらと思いますです~(・_・、)

それでは 始まりはじまり~~~

伊豆のお稽古(最初の難関がすぐ目前に…)

2009-07-06 03:45:13 | 能楽

三島卓くんにも本当にお世話になった伊豆の子どもたち。今日は彼らが演じる「子ども創作能」の稽古に行って来ました。なにを隠そう、彼らにとって最初の大きな試練が10日後に訪れるのです。

今年初演の新作子ども創作能『伊豆の頼朝』は8月下旬の「狩野川能」で上演されるのですが、実行委員会の尽力と学校側のご協力によって、数年前からその腕試しの機会として「中間発表会」が行われます。正式には市内小学生を対象にした「古典芸能教室」というのがそれで、地元の小学校の体育館で能楽師が能楽教室を開く、というのがその趣旨なのですが、その場でこの「子ども創作能」を上演するのです。

出演する子どもたちにとっては まさにこれが初めて人前で上演する機会。普段の稽古では ぬえに叱られながら、激励されながら、稽古しているわけですが、それもこれもすべて狩野川能の当日にお客さまの前で立派に責任を果たすために稽古しているのです。でも子どもたちにとっては そのような自分の責任というのは なかなか実感しづらいもので。。そこで狩野川能の実行委員会がこのような「古典芸能教室」を用意してくださいました。

出演者にとっては「中間発表会」といえるもので、この場ではじめて人前に立つ恐ろしさを体験することになるのです。稽古とは違って ぬえからのアドバイスも飛ばないし、まして やり直しは利かない。そういうことは小学校で催される学芸会でも多少体験することもあるでしょうが、ご父兄が見守る学芸会とはちょっと緊迫度は違うと思います。実際 例年参加してくださる子どものご父兄から聞いたのですが、この「古典芸能教室」での上演を境にして 子どもたちの目の色が変わって稽古に真剣さが現れるのですって。ん~、実行委員会の責任者が元・教育長さんだけあって、よくまあ ぬえも考えつかなかったこのような機会を、関係者に協力を取り付けて実現させたものだ。子どもたちは幸せだと思います。そんで、トップ画像がその稽古の様子です。今日は装束もつけて本番さながらの稽古をしました。以下にも稽古の画像を載せますが、稽古会場が暗く、また ぬえも稽古しながらではなかなか良い画像は撮れず。。お許しくださ~い。。(T.T)

。。じつは。。今年の子ども創作能の稽古は幾重もの苦難の上に成り立っています。まずは今年初演の新作であること。昨年末に一時 狩野川能は中止の憂き目に遭い、その後実行委員会の熱意によって復活しまして、そのために例年より稽古が1ヶ月遅れて始まったこと。それに加えて今年はそれまで狩野川能も、能楽自体もまったく見たことのない新人さんがたくさん参加してくれて、それはありがたい事なのですが、動き方も謡い方も、まして挨拶のしかたも全く知らない子どもたちに手取り足取りお稽古を始めなければならなかったこと。

実際のところ、前回の稽古では とうとう ぬえも相当厳しい態度をとってしまいました。「だから! 声が出ていないんだよ!」。。去年の稽古が、ぬえ自身 これまでで最も厳しい稽古だったと思っていたけれど、前回の稽古はその比ではなかった。稽古が終わってから ぬえ自身が大人げない自分の態度に落ち込んだほどで、実行委員会の方に「今日の稽古は厳しすぎて。。新人さんのご父兄から苦情が来るかもしれない。。そのときはよしなに対処してください。。」と 珍しく弱音まで出ました。

ところが! 今日はどうでしょう! なんと出演者に一人の欠席もなく、そのうえ みんながすべて前回 ぬえが直した(叱った。。)ところを見事に克服して稽古に臨んでいます。「なにくそ!」「これならどうだ!」「これなら文句はないでしょう!」。。まるで前回怒った ぬえに挑戦しているようだ。

オマエら、小学生にしとくのは惜しいな。。

そりゃあ、ぬえも今日は拍手喝采。それどころか囃子の部分をアシライで打ちながら笑みを止めることができませんでした。「ヤア!ハン!。。ふふ。。イヤー! ヨヲッ!。。ははっ、ヨーイ!。。わはは!」(^o^) いかんいかん。。(__;) 子どもたちからはあとで「笑われたけれど。。なにがいけなかったの~??」(・_・、) と聞かれました。。許せ。m(__)m あ~、これなら大丈夫! 10日後の「古典芸能教室」では彼らは立派に大役をこなしてくれるでしょう。

ただ。。その「古典芸能教室」。。なんと ぬえは参加できないのです。。(хх,) 狩野川能を立ち上げ、現在も総合プロデュースする、つまり実質上の主宰者である大倉正之助氏と ぬえのスケジュールがどうしても合わず、今回は大倉氏の都合を優先して ぬえは遠く東京の楽屋から彼らの成功を祈ることになりました。今回の新作の台本の大部分は ぬえの作だし、子どもたちの稽古も ほぼ一人だけで稽古していたので、この試練を共有してあげたかったんだけど、それでも彼らの成果を今の ぬえは胸を張って信じることができます。

がんばれよ! 。。じゃなかった「楽しんでおいで」。Y(^^)



さて今日の稽古が終わってから、伊豆・長岡で同日に催されていた「あやめ祭り」に行ってみました。温泉旅館街にたくさんの出店が出て、ほど近いホールでは歌謡ショー。また近所の公園ではカラオケ大会。いや~盛り上がっております。





しかし。伊豆の稽古に行っていつも思うのだけれど、子どもたちが多いですね~。少子高齢化と言われて久しいのだけれど、どうもこの土地に行くとそんなことを忘れてしまいます。若いご両親と、それに叱られながら(笑)走り回る子どもたち。人口統計としては どうなのかわかりませんが、ぬえの教え子にも4人兄弟もあれば6人兄弟のご家庭もあるから、やっぱり子どもたちは多いのではないかなあ。

と思いながら歩いていたところに、お祭りを楽しんでいる教え子たちとバッタリ! ああ、彼らは6年生の、今年の「狩野川能」の子ども創作能で主役級を演じる子どもたちだ。ま~去年から仲良しのキミたちだけれど、ここでも一緒なのかい!



ぬえと会ったのも束の間、「スーパーボール釣りやりたい!」「射的やりたい!」。。と、東京から見ると ちょっとレトロな感じの (^_^;) ゲームに鈴なりになって興じておりました。うん、アクティブでよろしい。

ぬえもしばし露店をひやかしながら、それでも東京に帰らねばならず、またまたまたまた 後ろ髪を引かれながら伊豆を後にして渋滞が待つ東名高速に向かうのでありました。

いいなあ。。伊豆。

三島卓くんのこと(その3)

2009-07-04 01:06:00 | 能楽
そのメールは まさに卓くんが夭折されたことを ぬえに知らせるものでした。もう一気に酔いが醒めた。。ぬえにメールを送ってくれたのは、これまた伊豆の薪能で長く一緒に子どもたちの指導をしているお囃子方のT氏でした。この伊豆の催しを ぬえと同じく大切に思ってくれている、そのよしみで ぬえに知らせてくれたものでしょう。

ぬえって、今回に限らず能楽師が亡くなると、なぜかいつも誰かしらが 真っ先に知らせてくれます。友だちが多いからかもしれませんが、師匠よりもずっと先に知らされることも多くて、そんな時は ぬえから師匠にお伝えする事に。。内容が内容だけにあまり嬉しいメッセンジャーではありませんけれども。。今回もそうなってしまいました。

ぬえが卓くんが危篤だと知ったのは5月にお相手するはずだった『殺生石』が終わった直後。それから経過を知ることはできないまま3週間が経ち、なんというか、忙しさにかまけていて、「どうしたかなあ。。彼。」と、ときどき思い起こす程度になってしまったことも白状しなければなりません。3週間前に電話でご母堂さまから冷静な説明を伺って、そのときには「今年の狩野川能では10周年の記念に『望月』を勤めますので、その時までに是非快復されて。。お相手を楽しみにしております。。」と言った ぬえでしたが、それはおそらく叶わぬ望みなのだろう、と感じざるを得なかったのもまた事実。。それなのに ぬえは ずっと彼のことを心配してあげたわけではありませんでした。(・_・、) 。。ゴメンな。

ぬえ、友だちは昔から多いけれども、一代目の能楽師という自分の立場がずっと能楽界の中で自分は門外漢、という意識にさいなまれていた時期がありました。ところが『道成寺』を披くときに神経をすり減らしていたとき、公演当日の朝にある囃子方の友だちから「オマエの稽古は間違っていない。今日は楽しんでいらっしゃい」というメールを受け取って、「がんばれ」なんていう、こういう時には一番言って欲しくない言葉でなく、同じ舞台人だからこそ言える言葉に本当に勇気をもらいました。後日彼と飲みながらそのメールについてお礼を言ったのですが、そのとき彼は お礼を言う ぬえを不思議そうに見て、「だって。。仲間じゃねえか」と言ってくれた。あの言葉は忘れない。

卓くんも、形は違っても、一緒に創作舞台を作り上げ、ケンカもし、ようするにウソのないお付き合いができる仲間だった、と言えると思います。それなのに去年は大げんかをして絶交直前にまでなってしまった。そしてこの度は本気で彼の心配をし続けてあげたわけではなかったです。自分に都合のよい「仲間」にしてしまっていなかったか、悩みは深いです。

今年の狩野川能で ぬえは『望月』を勤めますが、本来この能で太鼓を打つはずだった卓くんの名前はもうチラシやポスターには載っていません。しかもその太鼓のお役は、卓くんの属する金春流ではなく観世流の太鼓方に替わっていました。シテである ぬえにはその代役は知らされていませんでした。が、この催しは大倉正之助さんが主催になるので その判断になるので致し方のないところ。。

卓くんと同じ舞台に立っているつもりで勤めたいと せめて希望は持っていましたが、『望月』では二つの太鼓のお流儀では かなり打つ手組が変わるのでそれも無理。。それでも今回『望月』の太鼓を勤めてくれる方も伊豆の催しと卓くんとの関係はよくご承知でありましょう。彼と協力して、より良い舞台を作り上げることに専心して、僭越ながら心の中では卓くんの追善のつもりで勤めたいと考えています。

卓くん。熱くて、ケンカっ早くて、鉄っちゃんで。  安らかにお眠りな。(・-・)

三島卓くんのこと(その2)

2009-07-03 02:39:53 | 能楽

三島卓くんのお父君・元太郎先生につながるかと思って(やはりお忙しく大阪と東京を行き来なさっておられる元太郎先生だから、まず連絡はつかないと思いながら、というのが正確ですが。。)東京のご自宅に電話したのですが、意外にも電話口に出られたのは奥様。。卓くんのお母君でした。その電話で ぬえは衝撃を受けることに。。

ぬえとは面識のないご母堂は ぬえの名前を聞くとすぐに『殺生石』に卓くんが代役を立てて欠勤したことについてお詫びを申され、そうして卓くんが すでに意識不明で、肝臓の数値も最低のレベルであることを教えて下さいました。「え。。」

ぬえは動転して、思わず狩野川薪能で卓くんにお世話になっている事のお礼を申し上げ。。ご母堂も伊豆の薪能のことはよくご存じのようで、「ああ。。お子さん方にはとっても良くして頂いたようで。。本当にありがとうございます」と。ぬえの驚きとは対照的に、そのお声に動揺はありませんでした。卓くんの病気について ぬえは事情はよくわかりませんが、ご家族はもう、お気持ちは平静のようでした。ぬえは動揺を隠しながら今年の狩野川能で『望月』を勤めることを申し上げ、ぜひその時には快復されて、また卓くんとお手合わせするのを楽しみにしています、とお伝えするのが精一杯でした。

この翌日は地方の催しで ぬえも出勤しましたが、偶然にもその日の催しの太鼓方は ぬえの『殺生石』に卓くんの代役を勤めてくれたSくんでした。楽屋でそっとSくんに「昨日。。三島先生に電話してみたんだよ。。そうしたら。。」とすべてを話してみました。Sくんは「奥様がそこまで話したの。。そう。彼が危篤状態なのは流儀(=太鼓方金春流)ではもちろん みんな知っていて、彼が引き受けた舞台の代役の割り振りをするのが大変なんだ。でも詳しい病状は ぼくが勝手に説明することは出来なかったんだ。ゴメンね」と。

そう言えばSくんは『殺生石』の申合の際に、師家の舞台に到着してすぐに ぬえに向かって「卓くんが具合が悪いので代役を勤めさせて頂きます」と挨拶をされましたが、申合が終わると ぬえを通じて師匠への面会をお願いしてきました。そして研能会の主宰者である師匠に向かって代役のお詫びを手を付いて丁寧に申されていました。同じ流儀の仲間の病状を気遣いながら容態については詳しく説明することはできず、病気という不可抗力でありながら欠勤の不義理を彼の代わりにお詫びをされる。。Sくんも複雑な思いだったでしょう。。

6月6日。この日、奇しくも ぬえは伊豆の子どもたちの稽古をしておりました。

この頃の伊豆の稽古は、ぬえの後輩が東京で勤める『嵐山』の子方のお役に チビぬえと一緒に伊豆の綸子ちゃんが出演する直前でもあり、チビぬえも同伴して伊豆に参り、子ども能の稽古~綸子ちゃんの『嵐山』の稽古、と、早朝に東京を出発してから伊豆で稽古が終わるのは夕方遅く、という一日がかりのスケジュールでした。そのうえこの日は翌日には同じ伊豆で結婚式のお手伝いがあり、伊豆に泊まることにしていた日でありました。

しかもこの日、伊豆・韮山の有名な反射炉のとなりを流れる小川に自生するホタルを鑑賞する「ホタルまつり」というのが伊豆の国市で開かれていて、もう10年この地で稽古していながら一度も参加したことのない ぬえは喜んで参加させて頂きました。地元の観光協会の人も驚くほど この日はホタルが乱舞していて。。いま考えると。。

そうしてその夜は観光協会の方々と飲みに行きました。深夜になるまで楽しく過ごし、さて宿に帰ってお風呂に入るときに携帯にメールが来ていることに ようやく気がつきました。



※トップ画像はただいま製作中の「侍烏帽子」。今年の伊豆・狩野川能の子どもたちのために自作しています。。