本日、申合も済み、あとは『二人静』の上演当日を待つばかりとなりました。お囃子方もおワキも巧者の方が揃って、なんだか ぬえのような芸で申し訳ないですけれども。。それでも稽古の甲斐あってシテとのシンクロ率はかなり上がってきたと思います。そればかりを見せるのではダメなんですけどもね。。このテンションをあと2日、きちんと保って行ければ、まあなんとかお目汚しにはならない程度の舞台にはなるかもしれない。。
ところで稽古を重ねてきて、どうしても気になるのが例のキリの場面でシテが左手をツレの右肩に置く型なのですよね。先にも書きましたが、この場面は『二人静』の中で40分間におよぶシテとツレとの相舞の中でわずか30秒ほどのごくごく短い時間ではありますけれども、憑依した静の霊がはじめて 彼女が取り憑いた菜摘女。。生を持つ生身の人間の肌に触れるわけですから。。
そうしてここで地謡が謡う内容。。取りも直さずシテの言葉が「思ひかへせばいにしへも。恋しくもなし憂き事の。。」という文句です。およそ、能の中にあって霊として現れたシテが「いにしへも恋しくもなし」と言うことがあり得るだろうか。。
楽しかった頃の生前の思い出、恋しい人との忘れがたい思い出。。ときにはつらい、悲しい事件に恨みを残すシテもあるけれども、能の中に登場するシテの霊の多くは、そういった美しい思い出に未練を持ち、そのために成仏できないでいる迷える魂です。だからこそワキ僧の弔いを求めて現れることも多いわけで、『二人静』でもシテは弔いを願っているのですが、どうもこの曲のシテはほかの能のシテの造形とは少し違った位置にいるようです。
ずっとこの問題について考えてきた ぬえは今、このシテの姿は見所にいらっしゃるお客さま以外の目には見えていないのではないか? という思いを持っています。
単純な理由としては、『二人静』で二人の役者が同じ文様の装束を着ているのが そもそも不審ではありました。静が勝手神社に納めた舞の装束は1組だったはずで、これを着た二人が登場するのは理屈に合わないからです。
しかし、もしこの霊が人の目に見えない存在だとしたら。。すなわち、ツレ菜摘女が着ているのが正しく静が納めた装束なのであって、勝手神社の神職はじめ吉野の里人は見たのは、これを着たツレ一人が舞っている姿だったのではないか。。ここにもう一人の登場人物。。シテの静が現れるということは、能楽堂に集うお客さまがよく目を凝らして見ると。。その菜摘女の後ろに重なるように、薄くぼんやりと見える影がある。。という意味なのかも。これは言うまでもなく今 菜摘女に取り憑いてその体内にいる静の霊なのであって、菜摘女を突き動かしている。。というよりは、むしろ静が舞う動作に、すでに意識を失った菜摘女の身体だけが操作されてつき従っているのではないか。
一方、静は義経との逃避行を仕方話のように語り舞ううちに、その言動に変化が起きていることにも ぬえは気づきました。
「ても義経凶徒に准ぜられ。既に討手向ふと聞えしかば。。」「次第々々に道せばき。御身となりてこの山に。分け入り給ふ頃は春。。」これは明らかに彼女の恋人、義経の逃避行を語っているのですが、そのうちに。。「我こそ落ち行け落ちても波は帰るなり」と一人称の語りが登場します。最初にこれに気づいたときは、これは義経の言葉を静が代弁した表現かとも思ったのですが、またそのあとにも「遊子残月に行きしも今身の上に白雲の」とか「追手の声やらんと。後をのみ三吉野の奥深く急ぐ山路かな」と語られていて、これは義経の思いを静が言ったとも、また静自身の言葉とも、また彼女を含めた一行が共有する思いとも考えることができるようです。このへんから、どうもこのあたりは作者が意図的に発言者の主体を曖昧にしているのかも知れない、と ぬえは考え始めたのでした。
そうしてクセが終わったとき、地謡が描くのは鎌倉に護送され、頼朝の前に引き出された静の姿でした。「それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。とくとくと有りしかば。。」頼朝に所望されて静が舞ったのが義経を想う舞ではあっても、ここで描かれるのは まさしく静の個人的な体験の仕方語りに変化しています。
こうして静が頼朝の前で舞った舞の再現に当たるのが序之舞で、これを舞い上げた静の霊は菜摘女の肩に手を掛けて「思ひ返せばいにしへも恋しくもなし。。」と言うのでした。
ここからは ぬえの個人的な妄想に過ぎないかもしれませんが、義経との吉野山での逃避行から始まった『二人静』のシテの物語は、次第に義経を離れて静その人の内面に向かって深まって行くように思えます。『二人静』の作者は、逃避行を続ける義経への静の想いを、いつの間にか静が自分の内面に向ける眼に、意図的に置き換えているのではないかと ぬえには思えるのです。考えてみれば『義経記』に描かれた静の後半生。。この吉野山で義経と別れたあとの彼女の人生は悲惨きわまりないものでした。吉野山の衆徒に捕らえられて鎌倉に護送され、頼朝の前で屈辱の舞を見せ、生まれた男児。。義経の子は殺され。。わずか十九歳で剃髪、その翌年にはこの世を去り。。
とすれば、彼女の言う「恋しくもな」い過去とは。。
ぬえは、それは愛してはいけない人を愛してしまった、そのために尋常ならざる苦難の道を歩むことになった、そんな静みずからの人生の事を言っているのだと思っています。後悔、ともまた違う、いわゆる「業」というか、抗いがたい運命のようなものではないか。。? これによって前シテは「わらはが罪業」を「悲しく候へば」と言ったのであって、そんな「業」からの魂の救済を願ったのではないでしょうか。
。。こう考えたとき、例の、シテがツレの肩に手を掛ける型には恐ろしい意味があるのではないか、と ぬえは考えています。すなわち、この型は自分が運命によって失ってしまった「生」への静の執着を表している。。生身の人間に触れて「いにしへも恋しくもなし」と言うとき、失ったものへの強い憧れが ぬえには感じられるのでした。
こう考えると、ツレの肩に手を置くシテの型。。よくまあ先人はこういう印象的な型を考えたものだと想います。
なんとも。。救いのない物語です。これを美しい装束を着た二人の役者が見事に動作を合わせて舞う。。そんな美的に昇華させた能。。それが『二人静』なのではないか、と ぬえは考えています。
ところで稽古を重ねてきて、どうしても気になるのが例のキリの場面でシテが左手をツレの右肩に置く型なのですよね。先にも書きましたが、この場面は『二人静』の中で40分間におよぶシテとツレとの相舞の中でわずか30秒ほどのごくごく短い時間ではありますけれども、憑依した静の霊がはじめて 彼女が取り憑いた菜摘女。。生を持つ生身の人間の肌に触れるわけですから。。
そうしてここで地謡が謡う内容。。取りも直さずシテの言葉が「思ひかへせばいにしへも。恋しくもなし憂き事の。。」という文句です。およそ、能の中にあって霊として現れたシテが「いにしへも恋しくもなし」と言うことがあり得るだろうか。。
楽しかった頃の生前の思い出、恋しい人との忘れがたい思い出。。ときにはつらい、悲しい事件に恨みを残すシテもあるけれども、能の中に登場するシテの霊の多くは、そういった美しい思い出に未練を持ち、そのために成仏できないでいる迷える魂です。だからこそワキ僧の弔いを求めて現れることも多いわけで、『二人静』でもシテは弔いを願っているのですが、どうもこの曲のシテはほかの能のシテの造形とは少し違った位置にいるようです。
ずっとこの問題について考えてきた ぬえは今、このシテの姿は見所にいらっしゃるお客さま以外の目には見えていないのではないか? という思いを持っています。
単純な理由としては、『二人静』で二人の役者が同じ文様の装束を着ているのが そもそも不審ではありました。静が勝手神社に納めた舞の装束は1組だったはずで、これを着た二人が登場するのは理屈に合わないからです。
しかし、もしこの霊が人の目に見えない存在だとしたら。。すなわち、ツレ菜摘女が着ているのが正しく静が納めた装束なのであって、勝手神社の神職はじめ吉野の里人は見たのは、これを着たツレ一人が舞っている姿だったのではないか。。ここにもう一人の登場人物。。シテの静が現れるということは、能楽堂に集うお客さまがよく目を凝らして見ると。。その菜摘女の後ろに重なるように、薄くぼんやりと見える影がある。。という意味なのかも。これは言うまでもなく今 菜摘女に取り憑いてその体内にいる静の霊なのであって、菜摘女を突き動かしている。。というよりは、むしろ静が舞う動作に、すでに意識を失った菜摘女の身体だけが操作されてつき従っているのではないか。
一方、静は義経との逃避行を仕方話のように語り舞ううちに、その言動に変化が起きていることにも ぬえは気づきました。
「ても義経凶徒に准ぜられ。既に討手向ふと聞えしかば。。」「次第々々に道せばき。御身となりてこの山に。分け入り給ふ頃は春。。」これは明らかに彼女の恋人、義経の逃避行を語っているのですが、そのうちに。。「我こそ落ち行け落ちても波は帰るなり」と一人称の語りが登場します。最初にこれに気づいたときは、これは義経の言葉を静が代弁した表現かとも思ったのですが、またそのあとにも「遊子残月に行きしも今身の上に白雲の」とか「追手の声やらんと。後をのみ三吉野の奥深く急ぐ山路かな」と語られていて、これは義経の思いを静が言ったとも、また静自身の言葉とも、また彼女を含めた一行が共有する思いとも考えることができるようです。このへんから、どうもこのあたりは作者が意図的に発言者の主体を曖昧にしているのかも知れない、と ぬえは考え始めたのでした。
そうしてクセが終わったとき、地謡が描くのは鎌倉に護送され、頼朝の前に引き出された静の姿でした。「それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。とくとくと有りしかば。。」頼朝に所望されて静が舞ったのが義経を想う舞ではあっても、ここで描かれるのは まさしく静の個人的な体験の仕方語りに変化しています。
こうして静が頼朝の前で舞った舞の再現に当たるのが序之舞で、これを舞い上げた静の霊は菜摘女の肩に手を掛けて「思ひ返せばいにしへも恋しくもなし。。」と言うのでした。
ここからは ぬえの個人的な妄想に過ぎないかもしれませんが、義経との吉野山での逃避行から始まった『二人静』のシテの物語は、次第に義経を離れて静その人の内面に向かって深まって行くように思えます。『二人静』の作者は、逃避行を続ける義経への静の想いを、いつの間にか静が自分の内面に向ける眼に、意図的に置き換えているのではないかと ぬえには思えるのです。考えてみれば『義経記』に描かれた静の後半生。。この吉野山で義経と別れたあとの彼女の人生は悲惨きわまりないものでした。吉野山の衆徒に捕らえられて鎌倉に護送され、頼朝の前で屈辱の舞を見せ、生まれた男児。。義経の子は殺され。。わずか十九歳で剃髪、その翌年にはこの世を去り。。
とすれば、彼女の言う「恋しくもな」い過去とは。。
ぬえは、それは愛してはいけない人を愛してしまった、そのために尋常ならざる苦難の道を歩むことになった、そんな静みずからの人生の事を言っているのだと思っています。後悔、ともまた違う、いわゆる「業」というか、抗いがたい運命のようなものではないか。。? これによって前シテは「わらはが罪業」を「悲しく候へば」と言ったのであって、そんな「業」からの魂の救済を願ったのではないでしょうか。
。。こう考えたとき、例の、シテがツレの肩に手を掛ける型には恐ろしい意味があるのではないか、と ぬえは考えています。すなわち、この型は自分が運命によって失ってしまった「生」への静の執着を表している。。生身の人間に触れて「いにしへも恋しくもなし」と言うとき、失ったものへの強い憧れが ぬえには感じられるのでした。
こう考えると、ツレの肩に手を置くシテの型。。よくまあ先人はこういう印象的な型を考えたものだと想います。
なんとも。。救いのない物語です。これを美しい装束を着た二人の役者が見事に動作を合わせて舞う。。そんな美的に昇華させた能。。それが『二人静』なのではないか、と ぬえは考えています。