ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その11)

2009-04-30 10:41:08 | 能楽





週末に他門のKくんが『道成寺』を披くのを拝見に伺って、翌日の月曜には京都にて浦田先生のご葬儀に参上し、その日は京都に泊まって翌日東京に帰り、そのままお弟子さんのお稽古に行って夜にようやく帰宅。今度は伊豆の子どもたちのための創作能の台本や稽古プリントを深夜までかかって作り、さて昨日はGWの渋滞を恐れて早朝に家を出て伊豆へ。これも子どもたちの稽古のほかに、6月に東京で『嵐山』の子方を勤める綸子ちゃんの稽古もつけたので、やっぱり帰宅したのは夜になりました。不思議と伊豆は往復とも渋滞らしい渋滞につかまることもなかったのが幸いでした。なんだか忙しい週末でしたね~。画像は京都の清水寺と、伊豆の国のシンボルの城山(じょうやま)。これほど離れた土地にある景物を翌日に見るなんて、なんだか現代は不思議です。スピードがある分、余裕はなくなっているのかもしれませんが。。

さてクリのお話なのですが、前述のようにクリの冒頭では囃子方が「打掛=うちかけ」と呼ばれる派手な手を打ち、常の能ではそれにかぶせるように地謡が謡い出すところ、小書がついた場合は「打掛」の間は地謡は謡い出さずに待ち、その手が打ち終わったところで謡い出すことになっているのですが、ちょっと説明が足りませんでした。

上記の例は『殺生石』の場合で、ほかの能では必ずしも当てはまらないのです。たとえば常の能でも「打掛」の間は地謡が休んで謡わず、その手が終わったところで謡い出す曲がありまして、それは曲によるのではなく曲籍によります。すなわち『羽衣』や『井筒』など「三番目」あるいは「鬘能」と分類される能と、『高砂』『養老』など「脇能」の曲では、常の場合でも「打掛」を聞いてから地謡が謡い出します。しかも常の能では「打掛」は2クサリ(=2小節)打たれ、すなわち「鬘能」ではその2クサリの「打掛」の間を地謡は声を出さずに待機し、「鬘能」ではない曲。。「修羅能」とか「切能」と分類される曲では地謡はその2クサリの「打掛」にかぶせるようにクリを謡い出すのですが、一方「脇能」だけはこの「打掛」をもう1クサリ多く、3クサリ打つことになっていて、地謡もこの3クサリの間を待機することになります。ですから「本来は四番目。または三番目にも」「または脇能にも」などと曲籍が両様になっている曲。。たとえば『雲林院』や『三輪』などでは、その日のプログラムの都合によって「三番目物」あるいは「脇能」扱いとして上演される際には上記の例に従って「打掛」を待って地謡が謡い出すことになります。

が、これまた例外もありまして。。上記の例はいずれも、このクリの直前にも地謡が謡っている場合に限られます。クリの直前に地謡が謡う たとえば「上歌」なりがあって、それに引き続いてクリになる場合、囃子方は「打掛」を打ってくることになり、そのとき「鬘能」「脇能」では「打掛」の間だけ一時的に声を止める、ということになります。

ところがクリの直前が地謡が謡う小段ではない場合。。たとえば「鬘能」の『定家』など、お役。。すなわちシテが謡っている場合には囃子方は「打掛」ではなく「ヨセ」という手を打つことになっていまして、地謡はこの「ヨセ」にかぶせて(=シテ謡にすぐ引き続いて)クリを謡い出します。この「お役」が謡うときに「ヨセ」を打つ例は、どうも概観したところ、クリの直前にシテが謡っている場合に限られているように思います。「脇能」の『高砂』や「鬘能」の『井筒』では、地謡が謡う「上歌」とクリとの間に ほんの短いワキの文句~なほなほ高砂の松のめでたき謂はれくわしく御物語候へ~が挟みこまれているのに、これは囃子方は「ヨセ」ではなく「打掛」を打ち、そのため地謡は上記の例にならって「打掛」の間は声を止めていますね。

また顕著な例は「脇能」の『玉井』で、この曲はシテとワキとの問答からいきなりクリになりますが、この場合もクリの直前がワキの文句「さらばやがて伴ひ申し。宮中へ参り候べし」であるためなのか、やはり「打掛」になります。この部分、囃子の流儀によってはシテとワキとの問答の間は演奏をしないお流儀もあるようなので、その場合は上記のワキの詞で問答が終わると いきなり囃子方が「打掛」を打ち始めるのです。その例だけであれば ほかの能にも例があるのですが、ところが『玉井』は「脇能」でああるため、「打掛」は3クサリが打たれ、やはり地謡はその間は待機していて謡い出さないのです。

それから「鬘能」に多い例だと思いますが、クリの直前に「イロエ」があることがあります。『杜若』や『源氏供養』などがその例ですが、イロエの終わりには囃子方は「打掛」の手は打ちにくく、また「イロエ」の直後には地謡ではなくシテが謡い出すのが通例のためでしょう、こういう場合にもやはり「打掛」は打たれず、また「イロエ」が終わるとすぐにシテがクリの初句を謡い出し、途中から地謡がそれを受けて謡い出すようになっています。

それからそれから。。「鬘能」であっても「脇能」であっても、そもそもクリが存在しない曲。。『賀茂』や『竹生島』、『白楽天』『半蔀』。。もあって、これは当然ながら上記の「打掛」の話題とは無縁の曲です。

こうして考えてみると クリの「打掛」ひとつとっても複雑な定めがあるのですね~。今回の『殺生石・白頭』は「打掛」の手法で上演されるわけですが、切能である『殺生石』に「打掛」が取り入れられるのは、今回の上演には小書がついているからでして、だからと言ってすべての曲が小書がつく場合に「打掛」があるとは限りません。小書の軽重ということにもよりましょうが、最も大きな要因は、上記のように囃子方にとって「打掛」が打てる構成に組み立てられている曲であることが第一条件でしょう。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その10)

2009-04-25 01:51:00 | 能楽
ぬえの今のところの計算では、まず三之松で「鳥類畜類までもさはるに命なし」と足を止めてワキに向き、その後おワキの文句で再び歩み行き、「いや委しくはいさ白露の」と一之松で足を止めてワキに向きたいと思っているのですが、おワキの謡の具合によって不都合があれば一つ前のシテの文句「昔より申し習はすらめ」でおワキに向く事にしたいな、と思っています。

さて問答の最後の文句「仇を今」とワキに向いてツメ足をすると、いよいよ地謡が謡い出します。

地謡「那須野の原に立つ石の。那須野の原に立つ石の。苔に朽ちにし跡までも。執心を残し来て。また立ち帰る草の原。もの凄しき秋風の。梟松桂の。枝に鳴きつれ狐蘭菊の花に隠れ住む。この原の時しも ものすごき秋の夕べかな

はじめて地謡がまとまって謡う箇所(初同=ショドウ、と言います)ですが、常の『殺生石』では一気に謡われるところ、「白頭」の小書がある場合は「また立ち帰る草の原」と囃子が打切という区切りの手を打って、地謡がほんの少しだけ小休止します。打切を入れることによってひとつのまとまった章段を二つに分断して、詞章に気持ちの変化を入れることにもなり、また ぬえはむしろこちらの理由が強いと思いますが、章段全体がすこし重厚に響くと思います。

型としても、常の場合はこの地謡の前、シテとワキの問答の間にシテは舞台に入ってしまっているので、初同ではシテは角まで出、舞台を一巡するように廻って常座に戻るところ、「白頭」ではこのときシテは橋掛り一之松にいるので、「また立ち帰る草の原」の打切のあとでようやく歩み出して舞台に入る程度。型は常の場合よりもぐっと少なくなるのです。動き回るよりも、むしろ泰然とした動作を目指して型がつけられているのは明白で、常よりも少し静かに謡う地謡と相俟って、シテの持つ性格を重厚に印象づける効果を狙っているので、「老狐」の風格の伏線でもあるでしょう。

ちなみに上記は ぬえの師家に伝わる演じ方なのですが、同じ観世流ではありますが家々の伝承には違いがある事も。ぬえが何度か拝見した観世流の『殺生石・白頭』のお舞台では、この初同の打切がない例もありました。逆の例もありまして、以前 ぬえが某家の『羽衣・和合之舞』の地謡にお邪魔させて頂いたとき、ぬえの師家にはない伝承。。初同の「天路を聞けば懐かしや」で打切が入ったのを聞いて、とてもビックリした覚えもあります。

いずれにしましても、小書がついた能の場合は、演技や面、装束が常とは替わることはもちろんなのですが、それらの変化は前後の二場に場面が別れる能の場合、当然ですが後シテに顕著にあらわれると思います。そして後半の場面の大きな演出の変化と比べて、前シテはほとんど演技・演出に変化がない、という場合も多いのです。それでも、小書がついても普段とまったく同じ様子で前シテの場面は進行し、一方後場では常とはまったく違う演出になる、その整合の悪さが勘案されたのか、前場でもこのように打切が増える、立ち位置が変わる、などの細かい変化はつけられていると思います。

前述しましたが、『安達原』や『小鍛冶』と違って『殺生石』では小書によって後シテが老体になっても前シテは若い女性の姿のままです。それは『殺生石』の前シテが傾城の美女・玉藻の前の物語を語るのに、シテ自身がその姿とオーバーラップして見える若い里女の役である方が最も舞台効果として有利であるからで、かと言って後シテの姿が常とは大きく変わるその伏線も必要でしょう。こういった理由で演技や囃子の作曲にある種の「重厚さ」を加えることで、常の能とは違った雰囲気を少しずつ醸成していって、最終的に自然に後シテの変化に結びつけてゆく演出なのだと思います。

初同が終わると地謡は引き続いてクリを謡います。ここでも小書による変化があって、クリの冒頭では囃子方は「打掛=うちかけ」と呼ばれる派手な手を打つのですが、常の能ではそれにかぶせるように地謡がクリを謡うところ、小書がついた場合は「打掛」の間は地謡は謡い出さずに待ち、その手が打ち終わったところで謡い出すことになっています。シテは拘泥なく大小前から中に出て下居する、常の能と同じ型をするのですが、このような小さな変化も、降り積もって常の能とは違う雰囲気を作り出します。

地謡(クリ)「そもそもこの玉藻の前と申すは。生出世定まらずして。いづくの誰とも白雲の。上人たりし身なりしに。

浦田保利先生がご逝去。。

2009-04-24 14:08:04 | 能楽
突然の訃報でした。京都の観世流シテ方、浦田保利先生が亡くなったと。。

ああ、悔やんでも悔やみきれません。ぬえは心より尊敬しておりましたので。。まさに京都の至宝でした。

思い起こせば、ぬえが浦田先生の能を拝見したのは、なんと海外公演でだったのです。もうずいぶん以前になりますが、ぬえの師匠が団長の海外公演に2度、浦田先生が招かれてご一緒しまして、ドイツでの公演で浦田先生が『隅田川』を勤められた折に ぬえも地謡でその能に参加させて頂きました。

この『隅田川』に ぬえは大変な衝撃を受けてしまって。。

それは、言葉は悪いけれど、ドロドロな『隅田川』でした。でも浦田先生の狂女は、本当に我が子のことしか目に入らない、まさしく狂女で、何というか。。彼女が我が子を探すその邪魔だてをしようものなら。。おそらく彼女はその相手を殺してしまうであろうという。。激烈な謡であるわけではないのですが、そういう密かな決意に満ちた能でした。ああ、能はキレイごとじゃいけないし、それでは済まされないのだな。。と、ぬえは魂を揺さぶられる思いでした。その『隅田川』は子方を出さない演出だったのですが、あの芸の前には子方は不要だったかもしれない。それほど人間のドラマを苦しいほど突きつけられた舞台でした。

その折 ぬえはホテルで浦田先生のご門下の大先輩と公演中ずっと同室で、この『隅田川』の素晴らしさについて夜遅くまで、この先輩をつかまえて熱弁をふるっていました。そんなご縁から、ぬえはこの先輩の催しに呼んで頂いたりしましたし、また この先輩は非常に人間性がすぐれた方で、ぬえは自分が海外の大学などで講義や公演を行う機会には、この先輩に同行をお願いしたりもしました。ぬえからは親子ほども歳が違う大先輩なのですが、快く協力してくださり、また ぬえを立ててくださって、大学からもとても評判がよかったですね。よいご縁に巡り逢ったと思います。

さて今からは数年以上前になると思いますが、浦田先生は京都で秘曲『関寺小町』を勤められることになりました。これには ぬえは居ても立ってもいられず、新幹線のチケットを買って京都に拝見に伺うことにしました。秋の行楽シーズンということで宿はどこも満室。。ついに小さな旅館のフトン部屋のようなところにようやく泊まることができ、この舞台に出演することになっていた ぬえの師匠にお願いしまして、ムリヤリその鞄持ちといういうことにして頂いて楽屋に潜り込むことができました。

で、この『関寺小町』が、これまた強い信念をもった芯の太い小町像で、素晴らしい舞台でした。あの杖を強く一つ突かれた、あの音はまだ ぬえの脳裏に残っております。。見所でこの『関寺小町』を立ち見した ぬえが終演後に急いで楽屋に戻ると。。やがて汗を拭きふき、胴着のままで浦田先生が装束の間から戻られました。ぬえが感動のうるんだ瞳で見つめながら(笑)、「あ、、ありがとうございましたっ」とワケの分からないお礼を申し上げると。。浦田先生は楽屋にあった菓子をさして ぬえに「お、ぬえ君、この菓子食べたか? これ、うまいんやで」と。。

ああ、もうダメです。秘曲を勤める気負いも、誇らしげな達成感も、なんにもありません。ニコニコと、いつもの浦田先生がそこにはおられるだけなのでした。やっぱりそうだった。ぬえが舞台で見たものは 浦田先生という人間そのものだったのですね。。

その後何年かして、浦田先生は大病をされてずいぶんお痩せになりました。毎年一度ほどしか ぬえは浦田先生にお目に掛かる機会がないのですが、体力もすこし落ちられたご様子で心配しておりましたが。。結局、ぬえは去年の秋に岐阜でお舞台をご一緒させて頂いたのがお目に掛かる最後となってしまいました。。

告別式も決まり、ぬえはお弟子さんの稽古日を変更して京都に参り、参列させて頂くことに致しました。ぬえにとって尊敬する先生。感謝の申し上げようもありません。どうぞご冥福をお祈り申し上げます。

                                   合掌

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その9)

2009-04-22 03:40:35 | 能楽
橋掛りで一度足を止めたシテは、再び歩み行きます。

ワキ「さてこの石は何故かく殺生をばいたすやらん。
シテ「むかし鳥羽の院の上童に。玉藻の前と申しゝ人の。執心の石となりたるなり。
ワキ「不思議なりとよ玉藻の前は。殿上の交はりたりし身の。此の遠国に魂を。留めし事は何故ぞ。
シテ「それも謂れのあればこそ。昔より申し習はすらめ。
ワキ「御身の風情言葉の末。いはれを知らぬ事あらじ。
シテ「いや委しくはいさ白露の玉藻の前と。
ワキ「聞きし昔は都住居。
シテ「今魂は天離る。
ワキ「鄙に残りて悪念の。
シテ「猶もあらはす此の野辺の。
ワキ「往来の人に。
シテ「仇を今。


ところで、呼び掛けで舞台に登場する場合、シテは必ず橋掛りで一度立ち止まってワキへ向く型があります。ところが、厳密に決められているような印象が強い能の型ですが、意外やこういう場合、シテが橋掛りのどこで立ち止まるかについては、割とシテの裁量に任されている場合が多いですね。

たとえば常の『殺生石』では「アシライ(注=ワキへ向くこと)は橋掛りの長短により見計らいにて可」と師家の型附には明記されています。その上で参考として(一之松辺にて執心の石となりたるなり とワキへ向き、不思議なりとよ と左へトリ行き、舞台に入りシテ柱にて 昔より申し とワキへ向き、聞きし昔は と正)とあって、それからあとの型は「今魂は天ざかる は正にて謡い、尚もあらわす とワキへ向き、仇を今 と二足ツメ」と決められています。つまりワキの「さてこの石は…」から、同じくワキの「聞きし昔は…」までは橋掛りのどの場所で立ち止まり、どの文句でワキへ向くかも、厳密には決められていないのです(いえ、家によっては細かく決められている場合もあるでしょうが。。ぬえの師家の場合では おおよそこのようにシテに任されているようです)。

たしかに能楽堂によって橋掛りの長短には極端な違いがあって、がんじがらめに型を決められてしまうと、現実問題として演技に無理が起きる場合もあると思います。ぬえの場合は、たしかあれは『藤』だったと思いますが、あまりにもシテが橋掛りを歩んでいる間に謡う文句が短くて、とても舞台に到着できず、これは稽古の段階から無理がわかっていましたので、この場合はおワキにお願いして、少しゆっくりめに問答して頂いたこともあります。

『殺生石』の場合では、ぬえが小書ナシの常の能として初演したときは、だいたい上記の(一之松辺にて執心の…)という記述に従ったと思いますが、今回の「白頭」ではまたその時と状況が異なります。。というのも、「白頭」の場合ではシテはワキとの問答の間には舞台に入らず、最終的に一之松で立ち止まって「仇を今」とワキにツメ足をし、そして地謡になってから舞台に入ることになっているからです。

このように、常の能ではワキと問答をしている間にだんだんとシテはワキに近づいて行って、舞台の中、シテが常座に立ったところでその問答がクライマックスを迎え、そして地謡がその緊張を引き継いで謡い出すのに、小書の場合には問答の間はシテは舞台に入らず、地謡が謡い出してから舞台に歩み入る、という例は非常に多いと思います。

これはシテの立ち位置に違いを設けることで 小書がついた場合には常の能とは あちらこちらの場面で演出が変わるのを印象づける、という意図もあると思います。常座と一之松とはとても近い位置関係にはありますが、見所から見るとかなり異なった場所、という印象があると思います。それゆえに舞台と橋掛りとで同時に演技を進行することで、舞台と橋掛りのそれぞれに居る役者がお互いに知らないところで事件が進行してゆく、という演出をすることも可能で、『小袖曽我』などはその好例でしょう。また『鞍馬天狗』などの天狗物によくある演出として、橋掛りに登場した後シテが割と長大な演技を橋掛りだけで行い、それは空中を闊歩して威勢を誇示している天狗のその姿が、まだワキに見えない、という事を表しています。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その8)

2009-04-21 01:57:50 | 能楽
前シテの装束は次の通り。

面=増、または若女、近江女 鬘 紅入鬘帯 襟=白・赤 摺箔 紅入唐織 鬘扇

至って普通の唐織着流しの扮装ですので、面や唐織の選択には注意が必要ですね。まず面の選択ですが、これは増で決まりでしょう。若女では恐ろしさが出ないし、近江女ではどうも肉感的すぎて、もうちょっと怜悧な感じが欲しいかな、というところでしょうね。もちろん若女といってもいろいろな型の違いがあるし、近江女にも様々なタイプがあるので、『殺生石』に似つかわしい面もあるでしょうが。しかし ぬえが実見した範囲では、前シテにはまず増が選ばれていることが ほとんどでしょう。最近流行の(?)「女体」という演出がありますが、その際には新作面の「玉藻」というのが使われたりしますが、これも基本形としては増で、そこから想像力をふくらませた面なのだと思います。

摺箔は紅入の若い女性のシテの役の決まりとして白地に金で文様を摺ったものを使いますが、唐織と鬘帯には工夫が要るでしょう。前に掲出した画像では唐織としては強い文様の「火焔太鼓」が織り出されているもので、文様としては古くからあるものです。師家にはこの唐織には赤地のものと、前掲の画像のような浅黄に近いくすんだ地色。。一見して無紅かと見まごうような地色のものと二種があります。この唐織はこの性格の強さから『殺生石』の前シテにはピッタリですね。鬘帯にも稲妻のような直線がいくつも入れられた「山道文様」の鬘帯がこの曲にはよく使われます。

ところで「白頭」の小書というのは、後シテが白頭を被った、すなわち老体を示している小書で、それにつれて往々にして前シテもその化身ということで老体になることが多いのです。『安達原』『小鍛冶』などがその例で、ほかにも「白頭」という名称ではなくても後シテが老体になる演出では前シテも老人になる例として『石橋』などがあります。

ところが『殺生石』では「白頭」になっても前シテの人格や装束は変化せず、若い里女のままですね。これは当然、彼女の姿に玉藻の前が仮託されているからで、なるほど、後シテが老体だからといってこの曲で前シテも老女にしてしまっては、クセの中で描かれる玉藻の前を巡る事件と前シテは何の関連性も印象づけられないことになってしまいます。おそらく老女を前シテにしたならば、それは言い伝えを物語る語り部の老婆に見えてしまうことでしょう。これが玉藻の前を彷彿とさせる若い美女であるからこそ、お客さまにとってクセの中の物語と、いま目の前に見えるシテの姿とがだんだんと一体化してくるのでしょう。そして、常の『殺生石』では、それなのに彼女の背後には巨大な岩の作物があり、それは違和感と圧迫感となって客席に迫り、言い知れぬ不安感をお客さまに呼び起こし、彼女が殺生石の化身だと明かされる場面にスムーズに結びつきます。

それだから、なのでしょうね。「白頭」の小書がついた上演では岩の作物を出さないのが本来ではありますが、ぬえは何度も岩の作物が出された「白頭」を拝見したことがあります。やはり『殺生石』は後場で岩の作物が二つに割られて、その中から後シテが現れる常の演出が面白くて効果的だから、という意味もあるでしょうが、上記のように前シテの存在の意味を保証する、という意味においても作物は効果的。そこで作物を略さずに登場させるのでしょう。その気持ちは ぬえもよくわかる。でも、今回が「白頭」初演の ぬえは、あえて定め通り作物を出さずに勤めようと思います。

シテ「それは那須野の殺生石とて。人間は申すに及ばす。鳥取畜類までもさはるに命なし。」…ここでシテは橋掛りの中途で足を止めてワキへ向き、

シテ「かく恐ろしき殺生石とも。知ろし召されで御僧達は。求め給へる命かな」…と正面に向いて謡い、

シテ「そこ立ちのき拾へ」…と再びワキに向いてツメ足をします。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その7)

2009-04-19 01:04:55 | 能楽
一時的に舞台上から消え去る役目の者が着座する場所=狂言座。しかしこの場所を狂言座と呼ぶのは、別に狂言方がシテ方やワキ方と比べて差別されているのではなくて、この場所に着座するのがほとんど狂言方に限られているという理由による単純な呼称でしょう。これは、能という劇がシテとワキとの対立をプロットの基本においていて、それだけではカバーしきれない役割を狂言方が担当している、という独特の台本の構造にもよるのだと思います。こういう意味合いであってくれば、狂言方は能の中で必要な場面だけに活躍して、そのほかの場面ではシテとワキとの対立を邪魔せずに控えていた方が都合がよいはずです。シテ方やワキ方の演技の質とはまた少し違ったあの狂言独特の機敏な動作で、必要な場面で能の台本を補完し、また能にちょっとした味付けをするのが狂言方の魅力でしょう。

狂言座が「舞台から一時的に消え去る役目の者が座る場所」というネガティブな意味合いの場所でない証拠には、じつは同じような意味を持つ場所はほかにもいくつかあることも挙げられるのです。たとえば後見座もその一つですし、囃子方の後方というのもあります。

後見座は能の中でシテやツレが舞台上で扮装を替えるときに着座する場合がこの代表的な例で、『羽衣』や『杜若』など例は枚挙に暇がありません。囃子方の後方に着座するのは、『望月』や『安宅』、『仲光』などに例がありますが、いずれの場合もここにクツログのはシテではなくてツレや子方に限られ、またこの場所は「主に」直面の役が着座するように ぬえは感じています。なお囃子方の後ろにワキはクツログことはないように思うのですが、『邯鄲』『花筐』など、輿舁の役のワキツレは囃子方の後方に一時的に着座しますね。もっともその場合は「囃子方の後方」というよりは「鏡板の前」という感じの場所で、微妙にその着座位置に違いがあります。

また、同じように一時的に消え去る役の着座位置として、例は少ないですが脇座の隅の欄干ぎわ、ということもあります。『安宅』や『皇帝』に例があり、前者ではワキと狂言が、後者ではツレの鬼神が控えて、一時的に舞台から消え去ったことを表します。

ついでながら、狂言座という場所はほとんど間狂言が着座する場所なのですが、例外もありまして、『小袖曽我』ではトモが、そして『望月』ではシテがここに着座します。これらはいずれも「一時的に舞台から消えた役」で、本来後見座にクツログべきところ、その時同時に「舞台から消えた」役がほかにもいて、その役者には物着など後見の手助けが必要であるため後見座にクツロギ、そのために仕方なく後見の手が必要でない役は後見座に はみだして着座しているのです。

『小袖曽我』では能の冒頭に弓矢を持った曽我十郎(シテ)五郎(ツレ)が登場し、二人の従者(トモ)がそれに付き従っていますが、この弓矢は能の冒頭部分にしか必要がないので、それが不要になると一行は後見座に一旦クツロギ、このときシテとツレは後見に座って後見に弓矢を渡しますが、二人のトモにはもう後見座に着座するスペースは残されておらず、それで二人は後見座ではなく狂言座に着座します。

また『望月』では敵の投宿を知ったシテ・ツレ・子方が橋掛りで仇討ちの相談をし、その結果ツレと子方は盲瞽女と八撥打ちというそれぞれ芸人に扮し、宿屋の亭主であるシテが彼らを敵に紹介して近づくことになります。さてその談合がまとまると、ツレと子方は芸人に扮装を改めるために後見座にクツロギ、シテはそれを見守るように(実際にはシテがツレと子方の扮装を整えてあげているのです)狂言座に着座します。

で、ようやく話題は『殺生石』に戻って。。(^_^;)

呼び止められて訝しむワキに対して、シテは凄みを持って登場して、制止した理由を述べます。

シテ「それは那須野の殺生石とて。人間は申すに及ばす。鳥取畜類までもさはるに命なし。かく恐ろしき殺生石とも。知ろし召されで御僧達は。求め給へる命かな。そこ立ちのき拾へ。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その6)

2009-04-16 02:02:34 | 能楽
能面というものは、自分の目に能面の眼の穴を合わせて掛けるように思われていますが、実際にはそうでなかったりします。総じて自分の顔より面を少し上にズラして掛けた方が、シテの姿が美しく見えるものなのです。そうやって面を掛けると、自分の目よりも面の眼の穴が少し高くなる、要するにズレてしまうのではないか? とお考えになる方が多いと思いますが。。実際その通りだったりします。(^◇^;) ですから姿の見栄えを取るか、視界を確保するのを取るか、という選択になるわけで、そうなるとそこはやっぱり役者ですから見栄えを取ることになる。人にもよるでしょうが、ぬえの場合は天井を見ながら舞っていたりします。(・_・、)

これがまた、演者によっては自分の目を面の眼に合わせても姿がまとまる方がありますね。身体のバランスの問題でしょうが、これは羨ましいかぎり。それから、このように目をズラして掛けるのは女面やそれに類する面に限ったことでして、たとえば『殺生石』では前シテはこのように(ぬえの場合は)目をズラして掛けますが、後シテでそれをやったら大変。激しい動きをする役の場合、目をズラして掛けたら舞台から落ちてしまいます(ぬえも一度試しに面をズラして激しい動作のある役を勤めてみて、この世の終わりかと思うほど恐怖を感じた経験あり。。)。それに、そういう役の場合は面を掛ける位置の微妙な違いによる姿の見栄えのよしあしなんて、舞台効果の面では違いはほとんど問題にならなかったりしますし。

というわけで ぬえは「呼掛け」の場面ではワキの方を向いてもその姿は見えませんで。。とはいえ適当に見計らって声を出してワキを呼び止めてしまっては前記の通り おワキにはご迷惑を掛けてしまいます。そこで、ぬえはこの「呼掛け」の場合ばかりは仕方なく面を下げて(下を向いて)、ワキの姿を視界に入れて呼び掛けることにしています。これ、幕の内だからできることで、お客さまのお席によって幕内まで見通せる場合は あまり良い姿ではないかもしれませんですね。。

さてシテに呼び止められたワキと狂言の二人の一行は、振り返ってシテの姿を認めて応答します。

狂言「や。何事やら申し候。
ワキ「そも此の右のほとりへよるまじき謂れの候か。


狂言はこのひと言を謡うとすぐに狂言座(橋掛り一之松の裏欄干)に行き、肩にかついでいた払子を置いて正面に向いて着座します。

この狂言座というのも、考えてみれば能の中では極めて特異な場所ですね。ぬえは考えるのですが、ここに座る役者は「台本上この場面にもたしかに存在するのだが、演出上、あるいは舞台効果の都合上、一時的に舞台上から消し去られた役」という意味の約束だと思うのです。

『殺生石』の場合、やはり事件の中心となるのはシテとワキであって、間狂言はこの能の中では要所要所に随時登場して、スムーズな舞台進行を助けたり、お客さまの曲の内容の理解を助けたりします。たとえば曲の冒頭にワキと一緒に登場した狂言は払子を肩にかついでいます。後にワキがこの払子を打ち振って殺生石を一喝するのですが、ところがワキ自身が払子を手に持って登場したのでは、前シテとの問答の場面に甚だ邪魔になるでしょう。また、殺生石が飛ぶ鳥を落とすのを発見する場面でも、ワキが文語調で「あら不思議や。あれに見えたる石の上を飛ぶ鳥が。。」などと言うよりも、狂言方が口語調で「ありゃありゃ!」と言う方がはるかに緊迫感が増すでしょう。この場面に狂言方は必要不可欠な存在なのです。

ところが、いざ前シテが登場すると、怪物の化身たるシテと、法力を持ったワキとの対話がこの曲の内容を掘り下げてゆくことになります。この場面では、実際にはワキに同行してはいているはずであっても、狂言方は一時的に姿を控えた方が、お客さまの視点も定まりやすいでしょう。それで狂言方は狂言座に着座して微動だにせず控えているのだと思います。

さて前シテが中入すると狂言方は立ち上がってワキの前へ進み、今の女は誰であろうか、とワキと対話します。間違いなく間狂言は前シテが言った言葉を聞き、彼女が消え去るところまでをワキと一緒に目撃しているのです。

「花よりも花の如く」第7巻に載るらしい(5/1発売)

2009-04-15 20:18:26 | 能楽
少女マンガの出版社・白泉社の編集部からメールを頂きまして、来月発売の能楽マンガ(?)『花よりも花の如く』の新刊に協力者として ぬえの名前を載せて頂けるそうで、氏名の確認をしたい、ということでした。

ああ、そうでした。去年の6月に東中野の梅若能楽学院で催された「インターナショナル邦楽の集い」に、このマンガの著者の成田美名子さんが取材に見えまして、ぬえはその協力を致しましたのでした。あれからもう1年になるんですね~

「インターナショナル邦楽の集い」は日本に滞在している外国人を対象にボランティアで長唄の三味線や鼓を教えておられる西村真琴さんの生徒さんの発表会です。西村真琴さんは2001年、ぬえが『道成寺』を披いた催し「第1回 ぬえの会」をご覧になって ぬえにコンタクトを取られ、初めて ぬえはその活動を知りました。それ以来 ぬえは西村さんの活動に賛同して、もう8年間もやはりボランティアでお手伝いに参加しております。

とは言っても、このような発表会の折だけのお手伝いで、三味線のお稽古のほかに まだ余力のある生徒さんを西村さんが選抜して、「能の舞もお稽古してみない?」と声を掛けて、本人が希望した場合のみ、発表会に向けての期間のみ、ぬえがその生徒さんをお借りして仕舞のお稽古をつけているのです。

昨年の発表会「インターナショナル邦楽の集い」に際しまして、ミクシイでお知り合いになりました紫苑さんからメールを頂戴し、成田美名子さんが能の稽古をしている外国人について取材をしたいという希望がおありになり、この発表会の際に出演者にインタビューできないだろうか? というお問い合わせを頂きました。

まあ、上記のような事情で ぬえは西村真琴さんの外国人の生徒さんには時折、一定期間しかお稽古をしていないので、生徒さんも来日中に能の実技を専門的に習っているわけではないのですが、それでも、もう何年も続けて仕舞を発表会で演じている生徒さんもあるので、多少のお手伝いはできるかもしれない。そこで上記の事情は成田さんにお話したうえで生徒さんへインタビューして頂くことにしました。

発表会の楽屋では、さすがに時間も余裕もないので、終了後の打ち上げパーティーに成田さん、紫苑さんも参加して頂き、パーティーの場とは少し離れたテーブルで、カナダ人の若い生徒さん、ジャン=ポールくんとケリーちゃんに短時間のインタビューが行われました。ぬえもちょっとだけ聞いていたんですが、「どうして日本の文化に興味を持ったんですか?」と成田さんに問われて、二人とも「ええと、日本のアニメを観て感激しました~」と答えていて、ぬえも苦笑。ま、バブル全盛時代には外国人の日本語習得の目的が判を押したようにみ~んな「就職」だったから、それよりも夢がある、というべきかも。

そんなこんなで、ぬえも協力者として名前だけは巻末に載るようです。

成田美名子『花よりも花の如く』第7巻 白泉社 420円

白泉社新刊情報

成田美名子さん取材のブログ記事
インターナショナル邦楽の集いの報告


殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その5)

2009-04-14 02:40:33 | 能楽
これでいよいよ前シテの登場ですが、前シテは「呼掛け」という能独特の登場の方法で登場します。まあ、独特の方法といっても実際には読んで字の如く、というわけで、遠くからワキを呼び止める、というだけのことなのですが、これが甚だ効果的で、しかも能舞台の独特の構造を活かし切った、素晴らしい発想の登場方法なのですよね。

シテ「なう其石の辺へな立ち寄らせ給ひそ。

「呼掛け」は『殺生石』以外にも、たとえば『羽衣』などにも広く用いられる、一種の登場パターンの一つ。シテはワキが歩み行く前に謡う最後の文句。。『殺生石』では「さらば立ち越え見うずるにて候」のところで幕を静かに挙げさせ、静かに右に向いてワキの歩み行く様子を見て、そして声を掛けます。このとき、見所のお客さまにはシテの姿は見えず、静寂の中からその声だけが響いてくるのです。まずその演出だけで神秘的な雰囲気が漂ってくるのですが、我々シテ方も、このときの第一声をとっても大切に考えています。「のう。。」と遠くから響く声の中に、まずお客さまに「!」と強く印象をを持って頂けるように、そして曲にもよりますが、「これは。。声を掛けてきたのは人間ではないな。。??」と思って頂けるような発声ができるよう心がけてはいるつもりで、実際にはなかなかうまく声を出せませんが、少なくとも目標にして稽古を積んでおります。

シテに呼び止められたワキの型も、これまた印象的です。まず「のう。。」と声が聞こえてきたところで、ふと、足を止められるのです。「?」という感じなのでしょう、ここではおワキの流儀による違いはないようですが、このあと、福王流のおワキは静かに歩みだし、脇座に到着してからシテの方へ振り返ってその姿を見ます。宝生流のおワキの場合もやはり脇座に向かって静かに歩み始めるのですが、あまり早くシテが声を掛けてしまった場合には、宝生流のおワキは脇座に到着するのに拘泥することなく、振り返ってシテの姿を見、それから脇座の方へ後ろ向きに歩まれますね。もちろんその場合は前よりもずっと静かに歩んで脇座に到着します。

こういうところもシテに心得がなければならない点で、おワキはシテに呼び止められても、その後にシテと問答を交わす都合上から、呼び止められたその場でシテに振り向くわけにはいかず、どうしても脇座に到着しなければならないのです。ですから、シテも歩み行くおワキが脇座に到着する数歩前? 。。そうだなあ、厳密には決められていませんが、舞台の中央を通り過ぎたあたりで声を掛けて呼び止めて差し上げるべきで、あまり早く声を掛けてしまうと、呼び止められたおワキは脇座に到着するのに苦労されてしまうのですよね。これ、あまり例はないように思われるかも知れませんが、『羽衣』の「和合之舞」や「彩色之伝」では羽衣に見立てた装束の長絹を橋掛りの一之松に掛けますから、これを拾ったおワキは、無言のまま橋掛りから脇座に向かって歩まれるのです。こういう場合には、あまり早く、たとえばおワキが橋掛りからやっとお舞台に入ったあたりで声を掛けてしまっては、これはおワキも困ることでしょう。。

でも、往々にして、シテが早く声を掛けてしまうことは ぬえも実見しています。でもこれはシテの不見識とばかりも言えませんで、たとえば目が悪い役者だっていますのです。幸いぬえは目は悪くないのでそのお気持ちはよくわかりませんが、目の悪い方は本当に大変らしいです。面の中で、もちろん眼鏡をかけるわけにはいかないですが、それどころかコンタクトレンズもつけるわけにはいかないのだそうです。それは、定めとして禁止されいるのではなくて、演能中にかく汗でコンタクトレンズは外れてしまうのだそうで、だから使うことができないのだそうです。

いや実際、目の悪い方の中には、たとえば地謡に座っていて、その正面にあたる脇正面席のお客さまの。。その顔どころか、人がそこに座っているかどうかもよくわからない方も本当におられまして、いや、ホント、そういう方はシテを舞っているときにはどうやって立ち位置を判断されているんだろう?? その前に、よくまあ舞台から落ちないもんだ。。実際、ぬえはまだ見た事はないですが、舞台から落ちるシテ方も時にはあるそうですが、それでも目が悪くてよく見えなくて、という理由で落ちた、という話は聞いたことがないです。ぬえがその立場だったら、怖くて舞台を自由に歩むことはできないです。。

また、舞台の構造によっては、幕の中からおワキの姿がよく見えないこともあります。さらには、シテが顔に掛ける面の高さによっても、おワキの姿は見えないこともありますね。ぬえの場合は後者の理由でおワキの姿が見えないことが多いですけれども。。

帰って来ました~。伊豆へ!(その2)

2009-04-13 01:25:39 | 能楽

昨日は師家の別会で チビぬえが『望月』の子方の大役を無事に勤めさせて頂きました。稽古は万全のつもりでしたが、まあ ぬえの期待を裏切ることなく、また舞台上のとっさの判断を求められる場面もありましたが、それもソツなくこなしていたようで、ああ、安堵。だいぶコイツも頼もしくなってきたもんだ。。ところが子方の仕事が一段落したあと、舞台の上では別なトラブルも起こって。。ああ、やっぱり舞台というのは怖いものだと考えさせられましたけれども。。

さて日が変わって今日は伊豆の子どもたちのお稽古に行って来ました。

前回、今年の狩野川能に出演する子どもたちとの初顔合わせに行ったときは、東名高速の渋滞に悩まされて東京から伊豆まで なんと5時間掛かりました。うん、同じ轍は踏まない ぬえ。そこがプロってもんです。えっへん。昨日は帰宅が遅かったのですが、今日は渋滞を見越して朝6時30分に東京を出発! 起床してインターネットで渋滞情報を見たところ渋滞はないようでしたが、それでも念には念を入れて早朝に出発しました。それでこそプロってもんだ!

。。ところが、都内の一般道も東名高速も、それはそれはすいていまして。。あれよあれよと、2時間ちょっとで伊豆に着いてしまった。。渋滞には巻き込まれなかったものの、こ。。これはこれでムカつく。。(`´メ)

でも、ぬえには今日は稽古の前に絶対にしておかなければならない仕事がありました。それは市内最高峰の葛城山に上って(あ、いや、ロープウェイを利用して、ですが。。)、山頂に鎮座する「葛城神社」に詣でること。

もう昨年で9年目を迎えた狩野川薪能ですが、予算不足から昨年末に、とうとう翌年。。つまり今年からは実施不可能と意見が出て、そうしてとうとう狩野川薪能は廃止、と市の決定が下されてしまったのです。いつかはこの日が来るとは分かっていたものの、現実にその状況に直面すると。。つらいですね~。 もうあの子たちに会えなくなる。。

薪能の中止(=廃止)を、年末に伊豆に行った折りに申し渡された ぬえは、もう絶望状態で。。もう、ここに来るのも最後か。。と思いながら、ロープウェイに乗って、市内でもっとも見晴らしのよいこの葛城山に上がったのでした。山頂には葛城神社の小さな祠があって、ぬえはこの神様に、いつの日にか薪能が再興できるようお願いしたのでした。

ぬえはその後も殷々鬱々とした正月を過ごしましたが、ところが年が改まると薪能の突然実行委員会から 失望した ぬえに連絡が入りました。いわく、これまでに出してきた薪能の成果の灯火を、むざむざと諦めて捨て去ってしまうのは忍びがたい。。このような意見が改めて提出されたのだそうです。(@_@)

こうして伊豆の国市での能の催しはみごとに復活したのですが、いろいろな条件も出されまして、これからは舞台を野外に設営する薪能の形式は諦めて、市内のホールに会場を固定して上演する「狩野川能」として生まれ変わること。。など。これはこのまま中止になってしまうことを考えたら、決して無理な条件ではありませんで、ぬえは即刻 条件を承諾させていただきました。

それで今日。葛城山頂の神様に「願ほどき」に参拝してきたんです。これだけは心を尽くして御礼を申し上げないと。やっぱり神様っているのねえ。。特定の宗教に属しているわけではない ぬえですが、今回の事も含め、経験として「神様」の存在は強く感じていて、要するに「信心」だけは持っておりまして。今回も神様にお礼だけは申し上げなければイケナイです。

そんで、予測よりもずっと早く伊豆に到着した ぬえは、葛城神社にお礼を申し上げたのです。狩野川能参加の子どもたちの一部に呼び掛けて、なんだか楽しい参拝になりましたが~

ちなみにこのページの画像は葛城山頂から見たものです。絶景!

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その4)

2009-04-10 15:18:32 | 能楽
いま、師家の別会を直前にして、これに チビぬえが大曲『望月』の子方で出演するためその稽古に、また伊豆で夏に催される新作の「子ども創作能」の台本を作るのに。もうた~いへん。昨日は12時間も台本作ってました~ (хх,)

さりとてこのブログで『殺生石』の話題も進めないと、演能当日に間に合わない。。
すみません、がんばって話を進めたいと思います~

さて狂言の驚いた様子を見たワキは子細を尋ねます。

ワキ「汝は何事を申すぞ。
狂言「さん候あの石の上へ。鳥がふらふらと落ちて空しくなりて候。
ワキ「これは不思議なる事を申す者かな。さらば立ち越え見うずるにて候。


どうやら事件のようで、しかも殺生に関することであるらしい。ワキは石の方へ近づいてゆく体で脇座の方へ歩を進めます。この時、常の『殺生石』では大小前に石の作物が出されていて、狂言もそのうえに鳥が落ちるのを認めて驚くわけです。それで近づいて様子を見よう、という相談になるわけですが、肝心のワキは石の作物には目もくれず(?)、その前を通り過ぎて脇座へ向かうのですよね。そしてまた「白頭」の小書がついて石の作物が出されない場合も、常の場合とまったく同じで、おワキは脇座の方へ歩いて行きます。

常の場合も「白頭」の時も、この直後にシテが幕の内から呼び掛けて「その石のそばに近寄るな」と警告することになるわけですが、それではこのとき石はどこに想定されているのでしょうか? ちょっと話を進めて、シテは常の『殺生石』では石の作物の中に中入します。これは地謡が謡う本文に「石に隠れ失せにけり」とあるので当然なのですが、「白頭」の場合は幕の中に中入します。つまり幕を石に見立てているわけです。

すると、前シテの登場シーンも、常の能では石に近づくワキに対して、「どこからともなく」シテが現れて警告する、という感じになり、「白頭」では、その石の影からシテが登場する、という意味に取れると思います。

でも、本当にそうでしょうか? シテが言う警告は「その」石に近づくな、であって、「この」石ではない。つまり、言葉の内容から言えば、「白頭」のときもやはりワキが向かう先に石はあるのです。

このへんが能の面白いところで、すなわち台本の中では固定されている石が、舞台のうえでは移動しているのです。小書の有無にかかわらず、この場面でワキが歩み出すときには石は脇座の向こうにあるのであり、前シテが登場してからは、常の『殺生石』では石は大小前にある作物そのものでリアルに表現され、「白頭」のときには、やはり前シテの登場している間はやはり石は大小前にある、と考えるべきですし(理由については後述したいと思います)、中入の場面では幕に引くわけですから、このときだけは石は幕に仮託されていることになります。で、後シテは前シテが中入した同じ場所から出現しないと前シテが後シテの化身には見えませんから、当然常の場合は作物から現れ、「白頭」の場合は幕の中から登場する、ということになります。

さて、このように前シテの間、とくに登場シーンのあとに石の場所が移動していても、能では これが違和感を感じさせないのですよね。実際には、この冒頭の場面でワキは脇座の方へ歩みを進めないと、そのあとのシテとの問答の際の立ち位置の関係に不都合が生じる、という現実的な問題もあるのですが、だからと言って大小前に石が置かれてある場合でも、不思議と違和感がありません。それはつまり、この前シテの登場シーンでは、役者が全員、石の作物を無視しているからなのでしょう。

『隅田川』でも最後のシーンにしか使われない塚の作物が、ずうっと舞台に出しっぱなしであっても、一向に違和感が生じませんね。これも演者がこの作物を無視して演技を進行しているからで、かえってそのために、舞台の上に不思議な不安感が漂ってきて、それがこの悲劇の物語の結末を予感させる効果まで生みだしています。よくまあ、先人はこういう演出効果を考え出したものですね~。。

抜糸しました。

2009-04-07 00:53:29 | 雑談
頭のケガから1週間。ようやく今日抜糸となりました。

救急車で病院に運ばれたその日、ケガを縫合するために少し髪を剃られたのですが、ケガをした時がちょうど髪を切ろうと思っていた矢先だったのが幸いして、髪でケガを隠して二つばかり催しに参加、またお弟子さんの稽古にもいくつか行ったのですが。なんと一度もケガをしたことが見破られることがなかったという。ほほほ、ラッキー。

本当は縫合したケガの部分にガーゼを当てて、それが動かないように編み編みのキャップをかぶっていなければならなかったらしいのですが、ん~~こういう仕事をしているとそれでは困ることも多くて、お医者さんに相談したところ「ガーゼを当てたくなければ仕方がないけれど、そうやってバイ菌が傷に入ってしまって、ついに入院・手術した人も知っていますよ。そうなってから文句を言わないようにね。。」と怖いことを言われてしまいました。

それで消毒だけは、これは念入りにしなければ、とマキロンを買ってくることに。マキロン。。傷にしみますよねえ。。

で薬局で事情を話して、あの~傷口にしみない消毒薬ってありません? そうか。。ないのか。。仕方なくマキロンを買うことになったのですが、まだ未練もあって「あの。。じゃ、一番小さいのを。。」ここで爆笑されてしまいました。「小さいボトルだって しみるものはしみるの!」

で帰宅して、心臓バクバクいいながらマキロンを頭にふりかけました。もう、のたうち回る痛みを覚悟して。。

。。(хх,)

。。。。。(@_@)

。。。。。。。。。(゜_゜;)??

あら不思議。しみません。よっぽど縫合の技術がすぐれていたのか。。これでぐっと気が楽になって、1週間はあれよあれよという間に過ぎていって、ようやく今日抜糸になったわけです。今日はお医者さまからも「ああ、傷口はキレイじゃないですか」とお誉めの言葉を頂いて、無事、抜糸→治療おわりになりました。

抜糸してはじめて糸を見て、5針縫ったことがわかりました。もう怖くて怖くて、とても自分で縫い合わされた傷口なんて見る勇気はありませんでした~。。゛(ノ><)ノ

そんなわけでようやく人並みの生活に戻った ぬえ。5月の『殺生石』で後頭部がパックリ。。なんてことにならなければよいんだが。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その3)

2009-04-05 08:49:47 | 能楽
ともあれ「次第」が演奏され、やがてワキと間狂言が登場します。

ワキは玄翁道人で、装束は角帽子(沙門)、小格子厚板、白大口、水衣、掛絡、緞子腰帯、墨絵扇、数珠、と僧としてはやや厳めしく強い感じ。間狂言は能力で、能力頭巾、無地熨斗目、縷水衣、括り袴、脚絆、扇の出で立ちですが、払子という、煩悩を払うために打ち振る道具に見立てた小道具を肩に担いで登場します。

この払子はもちろん玄翁の持ち物を能力が運んでいるわけで、長い竹の棒にS字型に曲げた竹を組み合わせ、そのうえに白垂を結びつけてあります。達磨像などに描かれ、現在でもよく見かける片手で扱う払子よりも大型で、これにさらに団扇を結びつけたものが『放下僧』でも使われます。放下僧ではシテが「浮雲」ツレが「流水」を名乗っていますから、この払子にもその寓意が込められているのでしょう。

やがてワキは舞台に入り常座に立ち、「次第」で登場した場合の決マリとして囃子方の方へ斜め後ろに向いて謡い出します。このとき間狂言は舞台に入らず、一之松のあたりに控えます。

ワキ「心をさそふ雲水の。心をさそふ雲水の。浮世の旅に出でうよ。

これまた「次第」の常として、ここで地謡がワキが謡った文句を低吟し、そのあいだにワキは正面に向き、名宣リを謡います。

ワキ「これは源翁といへる道人なり。我知識の床を立ち去らず。一大事を歎き一見所を開き。終に拂子を打ち振つて世上に眼をさらす。此の程は奥州に候ひしが。都に上り冬夏をも結ばばやと思ひ侯。

ここでワキが謡うのはかなり大仰な内容ですね。求道者としての強靱な精神力といったものを感じさせ、それが後に登場する、これまた強力な怪物であるシテを改心させるための前提ともなるわけで、これはこれで台本として立派な伏線になっているのだと思います。

ワキ「雲水の。身はいづくとも定めなき。身はいづくとも定めなき。浮世の旅に迷ひゆく。心の奥を白河の。結びこめたる下野や。那須野の原に着きにけり。那須野の原に着きにけり。

続いて謡われる「道行」と呼ばれる紀行文で、ワキは陸奥から都に上るさまを表します。「道行」の中でワキは斜めに向き二三足出、また振り返って囃子方の方へ二三足出て、このときに「那須野の原に着きにけり」と謡うことで、旅行の途次、下野の那須野の原に到着したことになります。

ここでワキが「急ぎ候ほどに、那須野の原に着きて候」と、「着きゼリフ」を謡って、あらためて那須野への到着を宣言しますが、おワキの流儀によってはこの文句がなく、代わりに狂言がそれを言う場合もあるようです。

狂言「御急ぎ候ほどに。那須野の原に御着きにて候。ありゃありゃ。落つるは落つるは。

常の『殺生石』ではこの文句、大小前に置かれた石の作物に向かって謡うようです。文意に即しているわけで、「白頭」の小書によって作物が出されない場合は、当然それとは違う方角に向かって謡うことになるのでしょう。シテ方としては作物を出さない場合は幕を石に見立てているのですが、お狂言も幕に向かって謡う場合や、それに拘泥せず見所の方へ向かって謡うなど、お流儀やお家によってそれぞれ定めはあると思います。

いずれにしても急迫したこの狂言のセリフは、いかにもこれから起こる事件を予想させるもので、効果的だと思います。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その2)

2009-04-03 00:57:20 | 能楽
さて「白頭」の際は作物を出さないので、囃子方は座着くとすぐに支度を開始。。すなわち大小鼓はすぐに床几に腰掛けて鼓を取り上げて膝に構えます。笛がヒシギ(ヒーー!ヤーーアーーー、ヒーー! という甲高いおなじみの譜のことです)を吹くと大小鼓も打ち始め、「次第」と呼ばれる登場音楽を演奏します。

「次第」は大小鼓がわざとリズムを崩して打つ独特の登場音楽で、正式には二段構成で演奏されますが、通例は一段で演奏することもあり、略して段ナシにすることもあります。「段」とは登場音楽の中に区切りを持って分けられる小段の数のことで、能では多くの登場音楽や舞がこういった小段を積み重ねる形で構成されています。登場音楽に限って言えば、いくつかの小段の、その一番最後の小段が いわゆる「幕上げの段」で(注意=例外あり)、ここで役者が橋掛りに姿を見せることになります。

それではその前にある小段がどんな意味を持つかというと、これはプロローグのようなものだと考えることができます。「次第」であれば、正式には役者が登場する前に器楽演奏だけの小段がふたつもあるわけで、どうもお客さまにとっては「まだ登場しないの?」と不審に思われるかもしれませんが、それだけの時間を割いて、囃子方の力量によってお客さまを現実世界から虚構の舞台の世界に誘う仕掛けであるわけです。

もっとも現代では「次第」を二段で演奏することは ほぼ皆無で、それは現代のスピード社会の中では、時間を取って舞台の雰囲気を醸成する前に、お客さまの緊張の糸が切れてしまうかも。。という配慮もあるかと思いますが、ぬえは最近、舞台芸術というものが現代では決して珍しいものではなくなったために、このような仕掛けに意味が薄れてきたのではないかな? とも考えています。

すなわち往古は舞台芸術が興行されるのは現代と比べればはるかに機会が少なく、言うなればそれは演者にとっても、お客さまにとっても「ハレ」の日であるわけです。神社の祭礼で演じられるとか、新将軍の就任で催されるとか。ましてや当時は現代のような娯楽も少なく、そして信仰もみんな持っていた。長大なプロローグに身をゆだねる余裕が、そこにはあったのかなあ、なんて考えています。

さてこのような小段構成の登場音楽ですから、場合により演奏を短縮するのも非常に容易。プロローグにあたる小段の数を省略すればよいわけです。これを古格を守らない現代人の無教養とか怠惰と断ずるのは簡単だけれども、じつはそうではないのではないか、というのが ぬえの思いだったりします。 バランスも大事。本来登場音楽は曲に固有のものではなく、同じ「次第」が『殺生石』のワキの登場の場面にも、また『井筒』の前シテの登場場面にも演奏されるのです。たとえば全体で1時間を割り込む短い能であれば、そこに最初の役者の登場音楽だけで10分を費やすのはいかにも均衡を欠きます。そういう場合には、登場音楽の「段」の数を減らすことでバランスが取れる、ということだってあるのではないか?

現実に、登場する役の心の中は激しく燃えていながら、それでいて登場の場面に重厚さもほしい、という能もあって、そういうときに使われる「頭越シ一声」という登場音楽もあります。『山姥』や『橋弁慶』で演奏されるこれにはプロローグの段は往時より一つしかなく、これは大変急調に激しく演奏される段で、ところがその後囃子方はグッと気持ちを変えて、今度はドッシリと、ある意味静かに「幕上げの段」を演奏します。これはプロローグの段で登場人物(=後シテ)の勢いとか猛々しい心を表現し、また一方「幕上げの段」ではそれを心のうちに秘めた重厚な登場を描写しているわけです。「一声」は「次第」と同じように正式には二段構成なのですが、そのバリエーションとして短縮型の演奏も古来ちゃあんと用意されていたわけです。

殺生石/白頭 ~怪物は老体でもやっぱり元気(その1)

2009-04-01 10:07:51 | 能楽
来る5月14日(木)、師家の月例公演「梅若研能会・6月公演」〈於・観世能楽堂・東京渋谷/午後2時開演〉にて ぬえは能『殺生石』を勤めさせて頂きます。今回は2度目の『殺生石』ということで、「白頭」の小書をつけての上演とさせて頂くこととなりました。今回よりしばらく、この能の見どころを紹介しつつ、曲目の考察、そして稽古の状況などをも逐次お伝えできれば、と考えております。

それでは例によって、最初は上演の順序に従って能の進行を見ていきたいと存じます。

橋掛りに登場した囃子方と、切戸口より現れた地謡がそれぞれ座着くと、常の『殺生石』では、幕からまず一畳台が運び出されて大小前に据えられ、それから『殺生石』という能を象徴する巨大な「石」の作物が出されて一畳台の上に置かれます。下の写真に少し作物が写っていますが、この作物は竹組みの上に緞子を張った張り子なのですが、左右に二つに分かれるように細工がしてあります。前シテは中入でこの作物の後ろに隠れて装束を着替え、後半となって後見によってこの作物が真っ二つに割られて、後シテが突然姿を見せるのがこの曲の眼目です。世阿弥時代よりもいかにも後世に造られたスペクタクルの能で、見た目優先! という感じが、殺生石という恐ろしい題材に取材した能らしいと思います。



ところが「白頭」の小書がついた場合は、この作物は出さない(一畳台も出さない)ことになっています。

まあ常の『殺生石』をご覧になった方にとっては、この石の作物が割られる場面がお楽しみでもあるわけで、その意味では作物が出されない、ということは「??」と感じられたり、あるいはお客さまによってはガッカリされたりもする場合もあるでしょうが。。

しかし、観世流の場合に特に強く感じますが、小書がついた時にはある場面が強調されると、その分別の場面が削減される、という傾向があると思います。たとえば小書によって後シテが舞う舞が長大になると、クセの場面が省略されたり、といった場合で、これらはワンセットとして上演されるため、小書がついた場合も全体が長大化するのではなく、強調する場面を突出させて、その分別の場面をコンパクトにまとめて全体としての均衡をはかる傾向があるように思えます(もちろん例外の場合もたくさんありますが)。

『殺生石』の場合もそれが言えて、「白頭」の場合に省略されるのは場面ではなく作物。つまり演技・演出に関わる点で、それを補うためか、後シテには常の『殺生石』とは比べものにならないくらい派手な型が満載されています。逆に言えば「白頭」の小書のときに作物を出さないのは、化け物としての後シテの活躍を強調するために、お客さまの視点を作物に分散させず、シテの演技に集約させるため、あるいは後シテが思い切った演技ができるように、舞台に障害物を置かない、というように考えられたのかもしれません。

それだけ派手な演出を取り入れたのに、なぜ「白頭」なのか。。常の『殺生石』では赤い頭(かしら)を頭に被るわけですが、言うまでもなくそれを白頭に替えるということは、その登場人物が「老体」であることを表しています。これまたご存じの通り、能では老体は よぼよぼして身体が利かない、という事を表すことは稀で、むしろ「劫を経た強さ」という表現であることが多く、のっしのっしと舞台を歩む、という感じの演技になります。でも『殺生石』の「白頭」だけはちょっと感じが違うような。。こういう演技であれば、むしろ動物的な野性を表現する「黒頭」の方が似合うと思うのですが。。

まだ ぬえの稽古が足りないからそう思うだけかもしれません。。これらはまた追々考えてゆきたいと思います。