ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第24次支援活動<七ヶ浜町・多賀城市・気仙沼市>(その4)

2014-12-29 03:12:41 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて多賀城公園野球場仮設住宅での上演ですが、こちらは15名ほどの住民さんが集まってくださいました。大きな仮設なのでちょっと寂しい感じではありましたが、集まってくださった住民さんは興味津々でご覧頂き、とても楽しんで頂けたと思います!

こちらでの上演曲は『羽衣』ですが、さきほどの七ヶ浜町と同じく初めてお邪魔する場所では必ず『羽衣』を上演するようにしております。

思えば震災当初。。ぬえが初めて石巻を訪れて避難所の掃除から活動をはじめたときは舞囃子『高砂』から。。それは慰問コンサートを行っていた方にお願いして飛び入り参加したのでした。そうして東京に帰って能楽師の友人とともに夏に石巻を再訪した際は能『石橋』を上演したのでした。

これはまだまだ瓦礫も散乱している状況の中では、人が足を運ばなくなった被災地域に巣くう「邪気」があって(これは最初に訪れたときにすぐに感じた)、その邪気を退散させる意味で『石橋』を上演したのです。こういうことは能楽師の本来的な使命でして、そうと頭では理解していたつもりですが、いざ実践する場が ぬえに訪れることがあるとは夢にも思わなかったです。避難所(当時)の住民さんには「能ってノロノロ動きが遅いもの、と思われていますが、今日は激しい曲で楽しんでください~」とか説明しましたが、真意は このように別なところにありました。

ところが東京に帰って再度被災地を訪問してみると、当時膨大にいたボランティアさんの努力によって、少しずつ、ではありましたが瓦礫が片づけられてキレイになっていく。。そうすると、ぬえが前回に感じた、何か悪い物のニオイが薄まってきているのを、また感じるのです。

だからその次の上演曲には『羽衣』を選びました。「七宝充満の宝を降らし」と招キ扇をして観客に寿福を与える天女。この曲を舞うのは被災した住民さんに幸せになってほしい、という願いからです。住民さんには「さあ、今回は天女ですよ~。動きは少ないかもしれないけれどキレイですから飽きずに見てね」なんて説明しましたが、やはり上演の真意は別のところに。。本当に、こういう大変な状況の中で、しかも折々に変わってくる被災地の状況に合わせて、それぞれの場面で ぬえの祈りの気持ちをを伝える曲が ちゃんと用意されているのだな。。と、能の。。すなわち先人のスゴさをこの被災地での活動で まざまざと感じております。

その後 避難所は解消され、住民さんは仮設住宅に生活の拠点を移しました。そこでは抽選によって居所を定められたために、避難所時代には同じ場所で被災したために住民さんに共有されていた連帯感が ここでは薄れて、住民さんが孤独に陥るなどの問題もあって。近所づきあいがなくなって孤独死などという事態まで引き起こされて。。

これを見て ぬえは仮設住宅では長く『菊慈童』を上演していました。意味は。。おわかりですよね。

いま仮設住宅から次の段階へ。。自力で自宅を再建するか、もしくは公営災害住宅に移り住むか。いやとくに子育て世代の住民さんには被災地の雇用の問題もあって県外移住という選択肢もありましたが。。

ところが被災地域に住み続ける住民さんにとって、災害住宅の建設が大幅に遅れている現状は前述の通りです。ぬえらプロジェクトの活動も、仮設住宅が解消された時にひとつの転機を迎えるだろうという予感はあたのですが、その時期が一向に見えてこない現状には、住民さんと同じような不安を感じます。

脱線しましたが、そういうわけで、すでに『石橋』を上演する必要がある時期はすでに過ぎました。『石橋』は現在でもときおり上演はしておりますけれども、その理由は必要であるからではなく、お祝いの場面だからとか(ああ、いつの間にかそういう場面に立ち会うようになったんですね~!)、同じ場所で何度か上演しているために自前の装束でできる曲を選ぶ都合からとか。そういった意味では被災地での上演も気を遣わなくてもよい、そんな段階に進んできたのだと思います。

こうして初めての上演場所では、『石橋』で邪気を払う段階ではなく、次のステージである『羽衣』から上演をスタートさせております。

多賀城市の仮設も今回初めて訪問させて頂きましたので、まずは『羽衣』から。
終演後はとっぷり日も暮れてきましたが、やはり装束着付けの体験も行い、楽しい時間を過ごさせて頂きました~









終了後、寺井さんと緑さんを駅まで送って、ぬえは一路石巻へ。この日は、住民ボランティアの高橋信行さんが運営する「いしのまき寺子屋」さんに泊めて頂くことになっていました。

でもこれから気仙沼に帰る緑さんや。。仙台に宿泊する寺井さんにとってもハードスケジュールの一日でしたね~。ぬえが一番ラクだったかも。

久しぶりの石巻。まずは「元気の湯」で入浴してから、ぬえの活動の原点のひとつである湊地区を見て。





それから「いしのまき寺子屋」にお邪魔しました。すみません。。お待たせしてしまって。

その後高橋さんご案内で石巻の中華料理屋さんで夕食。とても美味しかったです~
ぬえが前日に伺ったばかりの秋保の方や気仙沼の防潮堤建設の反対派の方などが集まって、話に花が咲きました~

終わって高橋さんは所用あって夜行バスで東京へ。ぬえは気仙沼の方と一緒に寺子屋で休ませて頂きました。

第24次支援活動<七ヶ浜町・多賀城市・気仙沼市>(その3)

2014-12-27 02:52:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さてクリスマスも終わり、急いでご報告をせねば。。まだ10月の活動報告の途中です。。

七ヶ浜町の七ヶ浜中学校第2グラウンド仮設での活動を終えて、次は多賀城市の多賀城公園野球場仮設住宅へと移動しました。七ヶ浜町と多賀城市の仮設での活動をコーディネートしてくださった梅津周子さんが昼食の弁当の手配もしてくださったので、それを受け取って多賀城の仮設へ。

野球場を利用して仮設を建てるのは女川町や東松島市でも見ましたが、やっぱり大きなスコアボードが残されている前に住宅が建ち並ぶのは不思議な感じ。

ここでは七ヶ浜町からの移動を急いだこともあって、比較的上演までに余裕が生まれました。能面の展示など、時間に追われた七ヶ浜町の仮設よりも住民さんをお迎えする準備はよくできたと思います。





ところが、ボランティアさんと話しているうちに、どうも違和感も感じてきました。

前日に下見に来た際に、これは七ヶ浜で、だったと思いますが、住民さんと地域ボランティアさんと懇談して「公営災害住宅の建設が始まっている」「この仮設も春には解消」「あなた、良いときに来ましたね」。。なんて言われて、ああ そこまで復興が進んでいるのか。。これは石巻や気仙沼よりもはるかに速いスピードで進行しているのだな~、仙台に近い町だからだろうか? と思ったものですが、この日ここでボランティアさんと話をしてみると、どうも様子が違うようです。

。。いわく「災害住宅の建設は遅れている」「仮設でのはまだまだ続くだろう」「ことに七ヶ浜町は遅れが顕著かもしれない。。」 。。え? 前日に伺った内容と すいぶん違うようですが。。

ぬえがお会いした住民さんが、たまたま災害住宅の抽選に当たっていて、ご自分の将来に向けての明るい見通しを語られたのを、ぬえが勝手に勘違いしたのか。。? ともあれ厳しい状況には変わりはないのが現実らしい。。

仮設住宅や仮設商店街などプレハブ建築の建物は もともと耐久性の問題から法令によって使用期限が定められていまして、東日本大震災の被災者のために建てられた仮設住宅も 当初これに従って設置期間は2年という予定で設置されました。ところが法令では、必要があれば県知事等自治体の長の申請によって使用期限は任意に延長される、とされていまして。。

今回の震災では、当初予定よりも公営災害住宅の建設が遅れて、それが理由で仮設住宅の使用期限が延長されてきました。宮城県の場合、当初2年間の設置の予定が3年になり。そうして今年 知事の申請により、なんと5年間への延長が決まりました。

5年間。。あの仮設住宅で暮らすとは。。

もともと仮設住宅というものは住みにくく造ってあるそうです。防音性能は悪く隣家の音はそのまま聞こえてくる。保温性も悪く 寒い季節にはすきま風が吹き込んだり、結露もひどいとか。。

「仮設」の住宅なのだからある程度の不便は仕方ないことでしょうが、災害によって自治体が設置する仮設住宅には「こんなところにいつまでも住み続けていたくない」と住民さんの復興への意欲をかき立てる効果も期待されているのだとか。それでも被災された住民さんの中には自力で自宅を再建できない高齢者もあるわけで、そのために自治体は終生住み続けることができる代替の自宅として 災害住宅を、仮設住宅の使用期限が来る前に設置するのです。

ところが。。今回の震災では公営災害住宅の建設が思うように進んでいません。

原因にはいろいろありますが、ひとつには被害を受けた地域があまりに広く、また被災者も多いために。さらにはリアス式海岸という地形により、災害住宅を建設する平地が少ないこと。。

ところが今回の災害住宅の建設が遅れている原因にはさらに、次の災害に備えるために建設される防潮堤、さらには東京オリンピックの競技施設の建設が進められている、という背景もあるのだとか。。要するに賃金の高い現場に作業員は流れ、その結果 自治体の予算で災害住宅を建設する事業には魅力がなく、結果 建設の発注をしても入札は不調に終わったりするのですって。。

ぬえは生まれも育ちも東京都民ですが、やっとつかんだ東京オリンピックも、それが被災地に悪影響を与えている可能性があることを考えるとなんだかなあ。。 さらには次なる震災による津波を防御するために莫大な建設を投じて建設が進められている防潮堤が、必ずしも被災地域の住民さんの賛同を得ていないこと。。

これらよって公営災害住宅の建設が遅れているために、実際に被害を受けた住民さんが安住の地を見付けらすに仮設住宅での生活を続けることを強いられているのです。。あんなところに5年も押し込められたら。。死んじゃう!

前日 ぬえが住民さんから聞いた明るいニュースは、どうも その方が仮設住宅を卒業して新たな人生を目指して歩き始める、という意思表示を、ぬえが勝手に被災地全体の復興計画が加速的に早まっているのだと勘違いしたのかも。。

そうあって欲しいという気持ちは変わらないですけど。

サンタさんは実在するか

2014-12-24 19:42:26 | 雑談
毎年恒例の投稿ですがー

サンタさんは実在するか

。。という話題が先日お稽古場でもちきりになりました。
 
稽古に来ている女の子(小4)ヒトちゃんが、やはり同学年のお友達の女の子のアヤちゃんに尋ねていました。「ね?ね? もうサンタさんにプレゼントお願いした?」。。なんだかとってもうれしそう。
ところがアヤちゃんは ふ、とため息をつくとヒトちゃんに言ったのです。「サンタさんなんて。。ホントはいないんだよ」
ををを~っっっ!!??
 
 
「え?」きょとんとした顔で ヒトちゃんは聞き返しました。「だって、みんな信じているじゃない。去年だってプレゼントもらったよ」
「ううん」首を横に振って、今度ははっきりと、でもどこか寂しそうな声でアヤちゃんは言いました。「でもやっぱりサンタさんはいない」
 
 
あっけにとられたように、信じられないという顔のヒトちゃんは、それでもアヤちゃんの真剣な声を聞いて、疑念がわき出てきたようでした。おそるおそる、ヒトちゃんはアヤちゃんに尋ねます。「それじゃ。。ホントは誰だか知ってるの?」
「うん。知ってる」
 
 
ああっ、それを言ってしまうの!? いつかは知らなければならない真実。それは大人になるために必ず通らなければいけない残酷な試練。いつも私を見守ってくれている、神様のような方がいるんだ。。そういう甘い幻想から、いつかは決別しなければならない。そうして大人になって、彼女たちもいつかは母親になり、そのとき自分が見守る子どもたちに、世界中があなたを愛している、と言ってあげたい。だから彼女たちも 我が子にやはり言うだろう。「いい子にしていればサンタさんがプレゼントを持ってきてくれるのよ」。。その言葉を聞いた幼子は、誰か知らないけれど自分を見守ってくれる優しい神様のような方を想像して安らかに眠りにつくだろう。そうして安心して育つ子もまた、いつか真実を知る日が来るのだ。。
 
 
「ホントに知ってるの?」
「知ってるよ」
 
 
ああ~~っ、しかし! しかしっ! それを知る日が、今日のこの日である必要がどこにあるのだろう!? 明日ではいけないの? あさってでは許されないの? 知ってしまえば。。知ってしまえば時計の針を元に戻すことは出来ない。彼女たちが母になる日はずっと先の未来だ。いつかは誰だって大人になる。。でもその日をせめて少しだけ延ばしてやることはできないの? 世界中が君たちを愛してる。それはひとつの真実なのだ。でも、それを知ってしまったら。。サンタさんが誰なのかを教えてしまったら。。この言葉さえ色を失ってしまう。家族だから愛しているんじゃない! 親だからプレゼントをあげるんじゃない! そうじゃない! 世界中が君たちを愛しているんだよ、と伝えたいから親はプレゼントを用意して、誰からかがわからないように、そっと君の眠っている横にそれを置いて立ち去るんだ。そうして次の朝、驚く君の顔を見て、そして満面の笑みで君がこう言うのを待つんだ。「パパ! サンタさんが来てくれたよ!」
 
それは本当はパパが枕元に置いたものだけれど、それでもパパからのプレゼントじゃないんだ。君が夢の中で見た美しい世界。。ねたみも争いもない、そんな世界のみんなからのプレゼントなんだよ。心の中でつぶやいて、そうしてパパは思う。この子が大きくなるまでに、きっと世界は良くなる。パパだってがんばってそうしてみせるさ!
だから、だから もう少しパパに時間をおくれ。君は安心して美しい夢の中に生きていておくれ。そうすればその夢が君の現実になる日が必ず来るさ。。
 
 
「じゃ、誰なの? サンタさん」
「それはね。。」
 
 
うわわわ~~っ! それを言ってはいけない! 私の名前を言ってはいけない! 私の名前は悪魔を呼び出す魔法の呪文。その名前は呪いが掛けられた罪深い言葉。それは君を恐ろしい魔界の迷宮につき落とす禁断の謂い。その名前は。。その名前は。。
 
 
 
「ママ」
 
 
 
。。え? 何ですと? (゜_゜;)
 
 
 
 
「ママだよ」
 
 
。。えええ~~?? (O_o)WAO!!!
パパぢゃないの? (__;)
。。そうなのか。。
その後周囲に聞いて回ったところ、「あ、今はママでしょう。昔はサンタさんは じつはパパでしたけどね~。最近はこんな世の中だからパパは仕事に忙しくて家にいないから存在が薄いのかな~。わっはっは」ですって。
んんん~~。。複雑。
 
 
「なんだぁ、ママなのかーっ、ねえママ~、プレゼント買って~!」
 
 
 
毎年の投稿ですみませぬ。。
彼女たちも いつのまにかもう中2になりますた。

第24次支援活動<七ヶ浜町・多賀城市・気仙沼市>(その2)

2014-12-04 07:12:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【10月31日(金)】

早朝より起床して、気仙沼の緑さんと、なんと関西から高速バスを乗り継いでこの朝に仙台に到着した寺井さんをピックアップして、今回の最初の公演地。宮城県七ヶ浜町の七ヶ浜中学校第2グラウンド応急仮設住宅にお邪魔しました。



じつはこの前日に道順を確かめるためにここにもお邪魔して、たまたま集会所の前に集まっておられた住民さんたちとも盛り上がってお話しした経緯もあるのですが、まあ、多いとも言えないけれどもこの日は20名ほどの住民さんが集まってくださいました。

それよりも、ここでは時間に追われて大変でした。楽屋入りが可能な時間が朝9時からで、上演は午前10時に開始。1時間で装束を着付け、会場の準備をしつらえるのは並大抵のことではありませんで。。そのために前夜からホテルで装束に仕掛けを施したり、準備は万全に整えていまして。。 また一方、この仮設住宅での活動を後援してくださった「NPO法人アクアゆめクラブ 七ヶ浜町応急仮設住宅総合サポートセンター」の方々も、微妙にスケジュールの進行がスムーズに進むよう便宜を計らってくださって、展示品を並べることはできなかったけれど、無事上演にこぎつけることができました。

恒例の『羽衣』。



ここまではマジメにやっていたのですが、終了後の装束着付け体験のコーナーではホントに盛り上がりました! まずは面を、この日はじめて住民さんたちにも触って頂くことにしました。ぬえ、このへんは保守的というのか、はじめての試みです。扱い方をちゃんと教えて。。。。。ありゃ。







ついでいつものように唐織を住民さんに着付けてみたところ、とても喜んで頂いて。次の公演地に移動する時間がないというのに、別の住民さんに長絹も着付けてみました。







笑いが絶えない活動となりましたね~。ぬえも安心しました。

愛してる

2014-12-03 04:34:06 | 能楽
この週末、静岡県・伊豆の国市で ぬえが指導する「子ども創作能」『ぬえ』の公演がありました。
この街が誇る能楽公演「狩野川能」の第一部、入場無料の催しとして、仮設とはいえ本格的な能舞台に子どもたちを上がらせての上演は じつに5年ぶりの快挙でした。まさに悲願の達成。

そうして22人の子どもたちもノーミスで演技を完了、15年間に渡る「子ども創作能」の歴史の中で、間違いなく輝かしい1ページを築きました。

愛してる。努力に努力を重ねて、泣きながら、がむしゃらに ぬえが出した課題を乗り超えて ここに到達した君たちを。

思えばこの夏、「。。良くなかった」と公演後のミーティングで、これも ぬえとして15年目で初めて発したかもしれない言葉を聞いてショックを受けた小学生たち。その後の稽古でも決して機嫌がよいとも言えない ぬえでしたが、まさかここまでの完成度を ぬえに見せつけるとは。「どうだ」「これでも良くない、って先生は言うの?」と言わんばかりでしたねー。

こちら、1年生と新入会員6人による仕舞『玄象』。はじめて上る能舞台に緊張。。はあまりしてなかったみたいだなー。ママさん方5名も地謡でサポート。これ、ときどきやるのですが、ママさんは我が子の動作に目を奪われて、自分が謡うどころではないのですって。ま、賑やかしに。





こっちは3年生のきっぺの仕舞『屋島』。これは同じ年齢の小学生の中では、能楽師の子どもを除けば彼が日本一上手だろうと思います。子ども能とは別に個人的に古典の曲を稽古してくれているのですが、興味は深いようだし、ちょっとした工夫も自分なりに加えているようだし。あと稽古で直されたところは同じ間違いを絶対にしないね。これは大したもんだ。



ナオコちゃんと よっち(5年)の母娘による舞囃子『小袖曽我』。男舞は短く詰めましたが、ママの方はお稽古を始めてまだ半年くらいじゃないだろうか。ああ、それなのに仕舞も難しい『小袖曽我』を舞囃子で課すなんて、なんて非道なの? ぬえ。だってぇ伊豆が舞台の曲なんだもん。



さてお待ちかねの子ども創作能『ぬえ』です。今回の大臣はまさかのケイゴ(4年)が立候補して役を射止めました。。が、謡はしっかりしているけれども、その身長で狩衣が着れるのだろうか。着れました。なせばなる。



頼政役は ゆっきー、猪早太役はウレシ、鵺役はリカちゃんの6年生コンビで、こちらは慣れた配役で安心して見ていられます。むしろ小ぬえ役の5人、ケイゴ、ソオ、コウミ、アッコ、よっちのほぼ5年生チームは、橋掛リで舞働を舞うなど、はじめての能舞台で、その特殊な形状の舞台で舞うのは大変だったろうと思います。













しかし。。中学生が勤めた地頭、後見はさすがの風格でした。地謡は。。かつて15年前は ぬえが地頭を勤めて、子どもたちは口パクでかろうじて ぬえに従って謡う、という程度でしたが、いつの頃からかもう地謡は子どもたちに任せるようになりました。プロの囃子の演奏に合わせて子どもたちだけで地謡を謡う。。これも全国でここでしか出来ないことだと思います。それどころか地謡を彼らに任せた当初、謡い方はいわゆる「雨だれ拍子」といって緩急のない のっぺりした謡い方にして囃子に合いやすくしていたのですが、段々とレベルが上がってくるにつれて ぬえもハードルの高さを上げていって。。専門的になりますが「トリ」の間であっても、さらにその間で謡い出すのが難しい幸流小鼓がお相手でも間をはずさないレベルにまで到達しています。今回は久しぶりに地頭の大役をサラ(中1)が見事に勤めました。



後見。。ときどき子どもにやらせている役目ですが、今回は能舞台での上演ということで、幕揚げからすべての仕事をやらせました。舞台上での物着もあり大役だったと思いますが、さすがずっと子ども能に携わってきた中学生。居ずまいからして決まっていました。



トップ画像は今回ママさんたちに撮って頂いた画像の中で最も ぬえが好きなものです。幕を出る直前の頼政役の ゆっきーと猪早太役の うれし。幕を揚げる用意をしているのが ぬえとともに後見を勤めた ゆかべー とイチイ(中1)です。この緊張感は ぬえたち能楽師が幕を揚げて出る直前となんら変わらなかったです。

終演後のミーティングでは市長さんに激励のお言葉を頂き、またこの日のためにわざわざ駆けつけてくださった気仙沼の村上緑さんが震災のあとの気仙沼の復興について 子どもたちに話をしてくれました。





緑さんは「子ども創作能がこれほど素晴らしいとは思っていなかった」「この街だけで上演しているのはもったいない」「気仙沼の人々にも見せてあげたい」と言ってくださいました。またこの日 第二部の有料の能楽公演のために集まって来られた能楽師の先生方からも「子どもたち、すごいですね~」「どれくらいお稽古すればこんなに出来るようになるのですか?」なんて ぬえに感想や質問を頂きました。子どもたちのおかげで ぬえも鼻が高かったです!

まあ。。間違いなく小学生が出演する能楽公演では全国トップのレベルでしょう。みんな、お姉ちゃんが主役やってる姿に憧れて参加したり、来年は6年生だから主役をやるぞ、と自宅でひそかに稽古を積んだり、そうして15年間の切磋琢磨と、そういう向上心が伝承され続けて、彼らはここまで上ってきました。

次回は2月に市内の神社で行われるイベント「梅まつり」への参加に向けて、また楽しいお稽古の時間が再開されます! これは年度の最後の公演だというので、恒例として子どもたちは学年に関係なく、誰でも主役に立候補できることにしています。その代わりお役に決まったら責任は全うすることを条件に。以前、誰でも主役やって良いと言ったら1年生が「はい!」と手を挙げてしまって。予想外の展開で ぬえもドキドキしましたが、なんと当日は無事に大役を勤め果たしたのでした。

可能性には終わりはないですね。限界なんてそう簡単に見えるものじゃない。そもそも能の型というものは、少しマジメに勉強すれば誰でも舞えるように作ってあるのです。楽しむだけでもちゃんと成立するし、そこより奥に進むにはコツもあって、それはずっと奥深いところまで続いている。そこが能の素晴らしいところだと思います。彼らはそこにすでに気づいているんじゃないかな。こうして舞台を勤める責任ということを感じて、ちゃんと全うして見せた姿に ぬえは惜しみない拍手を贈ります。