「イエスが譬え話を語る背景には具体的な生活がある。・・イエスの通常の食卓は、威信を重んじる当時のユダヤ社会において、特に敬虔な人々にとって不可解極まる行為であった。
それ故人々は『見ろ、大飯食らいの大酒飲み、取税人や罪人の仲間』とイエスの行為を嘲笑し、囃し立てた。」
「そうした誹謗中傷の現場で、(またパリサイ人などとの厳しいやり取りの中で[沼野])イエスは譬え話の中身に、批判する者に相当する人物をそれとなく巧みに登場させ、人間として何が本当に正しい事なのかを悟らせ、誤った価値観からの回心に導いた。そこには病巣を抉り(えぐり)」取る鋭い刃と共に、論争相手をも、かけがえなき人間として尊敬する温かいユーモアが存在する。」
この文は米田が「放蕩息子」(ルカ福音書)と「長者窮子(ぐうじ)*」(法華経)の譬え話を比較分析した部分に出てくる。そして両者の共通(類似)点は題材、構想ともそっくりであるが、相違点について増谷文雄が、ルカの方では一人の父の感情が大きく前面に出ているのに対し、法華経の方では一人の父の理性が支配している、と言うのを引いて、こう述べている。
[屋敷で働く窮子(貧しい子)に、長者が全財産を贈与するという喩話]
「長者窮子と放蕩息子の譬え話は、仏教及びキリスト教の本質的内容を含んでいる。前者では息子がより良い人間性を自ら開発するよう、息子の覚醒、悟りを待ち望み、時間をかけてゆっくり教育する仏教的父の姿がある。一方、父と子という唯一無二の関係の中で、かけがえなく大切な愛の対象に素直に向かってゆく父、息子が如何にどん底の状態であろうと、父の懐に戻って来た事実、そのことだけで十分であり、そのことだけが嬉しくて嬉しくてたまらないキリスト教的父の姿がある。仏と神の、在るが儘の姿を二つの譬えは描いている。」
出典
米田彰男「寅さんとイエス」筑摩書房、2012年
*長者窮子の譬え話は、「妙法蓮華経(法華経)」信解品第四に出てくる話である。ネットでは次のサイトで要約を読むことができる。http://www.n-seiryo.ac.jp/library/kiyo/tkiyo/11pdf/%E7%9F%AD%E5%A4%A71105.pdf p. 57
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もともとイエスは「宗教=神」ではないと説きましたが、教会では「立ち直った状態=キリスト教に入信した」と説きます。
放蕩息子も長者窮子もろくな状態ではないのですが、後に立ち直り「父親の元」に来ます。
さてこの親ですが、これが神と同義であっても何らかの宗教ではありません。
神を敬う事をすれば「両親を敬う、隣人に親切にする」等々をしなくても善いと云う宗教優位の教えをイエスは否定されてます。
神=キリスト教でもないし仏教でも他の宗教でもないのに、どの宗教も何を言っているのか?と疑問を感じます。
多くの伝統的宗教は素晴らしい愛や善行を説いてますが、宗教自体は神ではないのです。
神よりも宗教を神としている時点で「長者窮子や放蕩息子の例え話」が違う方向に人々を導いている事が多々あり残念です。
今では反日に導くような説教や解説ばかりで「これが宗教?どこかの政党事務所じゃないのか?」と首を傾げたくなるような教会が多くて、妻も私も教派や会派問わず「○○キリスト教会」と書いてあると警戒するようになってしまいました。
なぜかかつての所属ワードとは信徒たちとも時々交流し友人付き合いが続いてます。