昨年末中国ハルピンで東北網というメディアの取材を受けネット上に暫く掲載された。後に日本語版も出たのでここに転載させていただくことにした。記事中、読み応えがあるように誇張や創造的追加・変更が見受けられるが、大体そのような流れであったと見ていただいてよい。例、大学入学時から言えば50年来の夢というのが正確である。60年となったのは2009年に中国が建国60周年を迎えたのでそれに合わせたものであった。
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日本人沼野治郎さん:60年の夢実現http://japanese.dbw.cn 2009-12-07 14:08:17
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中国で中国語に関わる仕事をするのが沼野さんの人生での夢でした。すでに白髪となった日本人沼野治郎さん今年68歳。40年間待ち続け、2009年9月高校の紹介によって国際交流活動として、ついに中国に訪れハルビンでの一年間の生活がスタートしました。
沼野さんと生徒の教室での様子(写真:画素数多く掲載不能。以下同様)
沼野さんと中国語の不思議な縁
沼野さんには2つの故郷があります。育ちは日本の兵庫県西宮ですが彼は中国上海で生まれました。この事から彼は小さいから中国に対して特別な感情がありました。
沼野さんは“日本の故郷兵庫県には中国商品が売っているお店がありそこには中国産の茶碗、眼鏡、陶器、手工芸品などがあります。見た目もよく値段も高くないので地元では非常に人気があります。私はそこの肉の缶詰が一番好きでした”と思い出しながら話してくれました。
高校生の時、日本で中日友好協会が中国の食べ物、文物、書法、絵画などの展覧会や紹介を定期に開催していました。毎回この情報を聞くと彼は必ず参加していました。展覧会で展示されていた中国の絵画がとても高く高校生にとっては毎回そこに立ち見ることしかできませんでした。この時から彼は中国語を学びものにすることを決心しました。
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沼野さんと彼の中国の学生との植物園で沼野治郎(写真沼野治郎さんのブログ)
大阪外国語大学進学時、彼の友達たちはほとんど英語を専攻しました。英語学科の学生は卒業後良い仕事がたくさんありました。しかし彼は中国には五千年の文化があり、絵画は人々を魅了するものがあると感じていました。中日は隣り合っていて、さらに文化と文字は関係していて、中国語の実用性も理解していたので彼は中国語を専攻しました。
大学二年生の時、先生と家族は沼野さんに英語専攻に変更することを薦めました。父母をずっと尊敬してきた沼野さんと家族には大きな壁が生まれ、家でも2回ほどしました。その後父母は賛成していませんでしたが彼は人々に“可愛い理想”と見なされていた中国語専攻の課程学び終えました。
卒業後、仕事を探す日々が長く続きました。40年前は中日の経済間での貿易はとても少なく、3つの短期アルバイトと大手の会社で勤務したあと沼野さんはついに安定仕事に就くことができました。しかし自分の専攻したこととはまったく関係がないまま9年間働きました。卒業してから10年後、家族の勧めで1974年彼はアメリカのユタ州ヤーバイハン大学に留学し、英語を3年専攻しマスターの課程を修了しました。外国で留学したことにより、仕事を簡単に探せるようになりました。1980年彼は徳山大学で英語を教え始め1999年広島国際学院大学の教授となりました。授業が毎日とても忙しいなか常に自分の「可愛い理想」が頭の中に残っていました。2009年沼野さんは退職となる前に、ハルビンでの生活体験に応募しました。一年間だけのものでしたが、これは沼野さんに大きな刺激を与えました。
編集: 李晶
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沼野さんは新華辞典と中日辞典を常に携帯しています(東北サイト記者李晶撮影)
沼野さんの楽しいハルビンでの生活
沼野さんはハルビンで生活し始めたばかりですが楽しく毎日を過ごしていました。彼の上手な中国語により周りの人たちとも波長があい、同僚や学生達はみんな彼を好きです。
沼野さんは“初めてハルビンで授業をするのはとても緊張しました。以前日本ではすべて英語の授業でした。中国語を話すチャンスがまったくなく中国に来てやっと中国人と中国語での交流ができるようになりましたが、いつも単語などを思い出せません。
私はたくさんの辞典を持っていて、この新華辞典は私といる時間がとても長く今年20歳です”と言いました。つねに携帯するためにハルビン学府で中日電子辞典も買いました。
沼野さんの真面目な仕事態度に先生達は頭があがりません。ハルビン師範大学恒星学院中国語学科日本語教育責任者冨鉄民氏は“沼野さんは視野がとても広く、日本語の知識だけでなく、中国語と英語も流暢であり仕事に対してはとても真面目です。クラスの中で成績が悪い生徒がいると、彼はその生徒のために全力で手助けします。日本語の基礎があまりできない二年生の王キン君は成績はいいのですが毎回テストで日本語だけ合格することができません。週末になると、沼野さんは彼に補習授業を行い、1月後その学生の日本語の作文は沼野さんを十分に満足させるものとなった”と言いました。
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インタビュー後、沼野先生に質問する学生達(東北サイト記者李晶撮影)
沼野さんの授業が学生達の中で人気があるのは彼の優しさだけでなく、学生達に日本の文化や日本人の生活タイルなどをも教授して、時には教室に授業のために道具を持って来て授業を活力のあるものとします。休み時間には、彼は学生達と日本のゲームをします。生徒は日本語に対し更に積極的となり彼の教室はいつも楽しい笑い声で溢れています。対外漢語日本語の二年生張力新君は“日本語会話の授業で発音などが難しく面白くなかったのですが沼野先生が発音カードを準備してくれ授業が面白くなり分かりやすくなったので私たちは先生が本当に好きです”と言いました。
対外漢語日本語の三年生楊俞婷さんは“教室で分からない事があると沼野先生は真面目に答えてくれます。私は週末にも先生の部屋にお邪魔し分からない問題を先生に教えてもらっています。また先生は日本の美味しいものを御馳走してくださるので私達も沼野先生をご飯に招待したり植物園や極楽寺、中央大街などにいったりします。すばらしい先生であると同時に親友でもあります”と言いました。
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沼野治郎さんと彼の学生といった植物園(写真、掲載略)
同僚の前で沼野さんは静かに語りだしました。“ハルビンに来たのは1回目ではなく、以前二回ハルビンに来たことがありますが1日泊まり翌日には日本に帰っていたので特別な印象が残っていません。今回ハルビンに来て学生達の日本語に対する熱意、先生に対する態度、明確な学習目的に感動しました。さらに、この都市には特別な思いがあります”沼野さんは“現在すでに帰国した多くの残留孤児ハルビンで育ててもらい成長しました。自分の衣食住の問題を解決することさえも困難な時にハルビンの人は侵略者の捨てた子供たちを大きく育ててくれたことは本当に偉大な事です”沼野さんは“この恩を忘れずこの町のために何か残したいです”
沼野はこのようなに考えこの事を実現しています。現在ハルビンに住み3ヵ月となりました。沼野さんは“私は夜人が寝静まったときにブログを開き、学生達の書いた文章などを保存しています。彼たちの一日一日の成長が毎日夢の中にでてきて、彼達の成長を感じ取ることができ私はとても嬉しく思います。ハルビンでの生活や仕事は私に自分が“かわいい理想”を追い求めていた青春時代を常に思い出させます。
翻訳:李晶 吹田尚樹「東北サイト」
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写真は http://www.flickr.com/photos/njwindow/ のページにupload しています。
本ブログ 2009/11/27 [ニュース]日本の高齢者、中国ネットメディアの記事に 参照。コメント6件あり。
[付]中国語原文
沼野治郎:在哈尔滨工作让我想起追求梦想的青春年代
沼野治郎的课堂从不缺少欢乐
能够拥有一份同汉语相关的工作,是沼野先生一生的夙愿。满头银发的日本老人沼野治郎今年已经68岁高龄,在人生40多年来的坚持与等待中, 2009年的9月通过高校之间的国际交流,他终于来到了中国,在哈尔滨开始为期一年的快乐生活。
沼野先生与中国汉语的不解之缘
沼野先生有两个故乡。虽说是在日本关西的兵库县西宫长大,但他是在中国的上海出生的。也许是基于这个原因,从小他就对中国有着特殊的情感。
沼野先生回忆说,在日本的故乡兵库县,有一个叫做中国商品百元店的超市有中国制造的茶碗、眼镜、瓷器、手工艺品等。样式好看,价钱不贵,中国商品百元店在当地非常受欢迎。沼野先生最喜欢吃那里卖的烤鸭罐头。上高中的时候,日本的中日友好协会定期举办关于中国美食、文物、书法、绘画的展览会,每次只要听说这方面的消息,他都一定去参加。展览会上出展的中国书法绘画价格非常昂贵,所以对于一个高中生来说,每次也只有在那里驻足发呆的份。在那个时候,他就下定决心以后一定要把汉语学好。
沼野治郎与他的中国学生一起游览植物园。
在报考大阪外国语大学的时候,身边的朋友都选择英语专业,那个年代,英语系的学生毕业之后就有好工作等着。他却认为中国有五千年的文化,中国书法绘画让人陶醉,中日两国又是邻邦,在文化和文字上有很强的关联性,学习汉语实用性很强。所以,他毅然决然地报考了汉语专业。
大二时,老师与家人曾劝沼野转为英语专业,一向对父母言听计从的沼野与家人产生了巨大的分歧,曾经两次离家出走。后来,尽管父母无法认同,但沼野还是读完了被人们认为是“可爱的理想”的汉语课程。
毕业之后找工作的日子是艰辛而漫长的,在40多年前,中日之间的贸易往来少,在经历3份短期打工和几家大公司职员工作之后,沼野终于找到了一份稳定的工作,不过还是和自己所学专业不相关,这样一做就是9年。在毕业的第10个年头,在家人的一再劝说下,1974年他前往美国尤他州的杨百翰大学,学习英语专业3年,取得硕士学位归国。有了国外留学经验的沼野,找工作顺利了许多。1980年他开始在日本山口县山大学教授英语,2003年又转到广岛国际学院大学教科。尽管教书的日子里,每天都非常忙碌和充实,不过他还是会在夜深人静的时候,想起自己那“可爱的理想”。2009年在沼野先生即将退休的日子,他申请来哈尔滨体验中国生活,虽然只有一年,但这个消息却让沼野先生兴奋了好几个晚上没睡着。
随身携带的新华字典和中国制造的中日词典。
沼野先生快乐的哈尔滨生活
沼野先生来哈尔滨的时间不长,但是他每天的日子过的非常惬意、舒心。凭借深厚的中文功底他很快就和周围的人打成一片,这里的同事教工与学生们都很喜欢他。
沼野说:“其实第一次站在哈尔滨的讲堂上特别紧张,以前在日本讲课都是讲英语,汉语虽然学了那么久,却一直没有机会说。现在终于来中国,可以和中国人讲汉语,有些单词却经常想不起来。我带了好多汉语字典来哈尔滨,跟随我最久的就是这本新华字典,今年它已经20岁了。”为了方便携带,他还在哈尔滨的学府书店,特意购买了中日电子辞典。
正是因为沼野严谨的治学态度,老师们对他也都赞誉有加。哈尔滨师范大学恒星学院中文系日语教研室负责人富铁民说:“沼野老师的视野很宽广,除了精通日语,还讲一口流利的汉语与英语。他有着严谨的工作态度,一丝不苟的治学精神。不忽视班里的任何一位同学,不管学生成绩怎样,他都努力地去帮助引导他们,诲人不倦。有个日语基础很差的大二学生叫王鑫,各科成绩都很好,每次考试唯有日语不及格,每个周六,沼野就单独给他补课,连着一个月下来,听说现在这孩子写的日语小作文,沼野老师都很满意了。”
采访结束,向沼野先生请教问题的学生们也闯进镜头。
沼野老师的课受学生们的欢迎,不仅仅因为他为人非常和蔼、亲切。为了让学生们更好地了解日本的文化和日本人的生活方式,他经常在课堂使用一些道具,使学习更加生动、活泼。课间他会带领学生们玩些日本的小游戏,将大家学习日语的积极性充分调动起来。他的课堂总是充满欢声笑语。对外汉语日语方向的大二学生张力新说:“上日语会话课练习音图发音是很枯燥的,为此沼野老师精心准备了识别音图发音卡,这样不但上课变得有意思了连课程都变容易了,我们都很喜欢他。”
对外汉语日语方向的大三学生杨俞婷说:“课堂上遇到不会的问题,沼野老师都认真解答。我周末的时候也经常去老师的公寓请教问题,老师每次都热情讲解,还招待我吃好多日本的美食。课后,我们也邀请沼野先生一起去吃哈尔滨的美食,游览植物园,逛哈尔滨的极乐寺等,他是我们的良师益友。”
沼野治郎与他的中国学生一起游览植物园。
面对同事的肯定学生的认同,沼野表现得很平静。他说,来哈尔滨已经不是第一次,以前来过两次但都是公出,住一天,第二天就飞回日本,没有留下什么特别记忆深刻的事情。这次来哈尔滨,他被学生们学习日语的热情、尊重师长的态度、明确的学习目的所感动。另外,他对这座城市还怀有一颗感恩的心。沼野说,现在好多已经归国的日本遗孤都是在哈尔滨被抚养长大的。在那个解决自己温饱问题都困难的年代,哈尔滨人能够含辛茹苦地把侵略者抛弃的孩子抚养成人,真的是件很伟大的事情。沼野说:“我就是带着这样一颗感恩的心,想为这座城市做点什么。”
沼野是这样想的,也是这样做的。如今,在哈尔滨的生活已经过去3个多月。沼野先生说:“我最喜欢在夜深人静的时候打开博客,把学生们上课时造的句子写的文章一一记录下来。看着他们每天为梦想打拼,一步步成长起来,我感到很欣慰。在哈尔滨生活工作的这段日子,也时常让我想起自己努力追求‘可爱理想’的青春年代。”
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それは、やはり彼らを知らないからだと思います。
ただNJさんの報告で、中国ではキリスト教が広がりを見せていることを知ると、同じ聖書を読む者として、彼らも同じなんだと理解できます。
中国のクリスチャンといつか話す機会が訪れることを願っています。
日本ではtwitterを通してクリスチャンが活発に交流しています。中国でもネット環境がより開かれたものとなればアジアのキリスト教の中心は質、量共に中国になるのかもしれません。
>同じ聖書を読む者として、彼らも同じなんだと理解できます。
そのとおりと思います。
>中国のクリスチャンといつか話す機会が訪れることを願っています。
私もこれまで断片的な(あるいは一方通行の)交換しかできていませんので、もう少し語り合う機会を目指したいと思います。
中国版twitter, QQにクリスチャンのグループを検索したことがありますが、まだ活発でない様子でした。
NJさんをはじめ(クリスチャンでなくても)誰にでも愛を示せる方が世界中に良い影響を与え偏見を取り去って下さるのではと希望を持ってます。
偏見を取り去ることは容易ではないとつくづく感じます。被害に遭ったなどの歴史が背後にあり、現在置かれている環境 -- 所得、職業など -- の越えがたい相違があるからです。それは偏見というより、生じてしまった嫌悪や怨念のようなもので、和らぐには時間の経過や物心両面の余裕が必要となってきます。
それでもそれぞれが置かれた状況のもとで最善を尽くしたいものだと思います。親切を受ける側も、働きかける側も。