旧約聖書で「残りの者」(remnant) という言葉を読む時、時々普通の、「多くの者がいなくなった後に残された者」という意味ではとおりが悪いような気がしていた。日本語では、どちらかと言うと主役ではない、重要ではないその他の人々、といったイメージが浮かんでくるからである。
この度、上村静が「残りの者」の思想について書いているのを読んで、この語が聖書で別の意味を持つことを知った。
民が神の道からそれて神から罰を受け、多くの者が滅ぼされる。そのような時、なお残る者がいる。それは神の裁きをへて残ることを許された者であり、残ることができたのはヤハウェへの忠誠を示したか、主に立ち帰ったからと受けとめられる。
捕囚の場合、連れて行かれてそこで滅びることなく、戻ることができた帰還民は「残りの者」とみなされた。このようにして捕囚期以降、捕囚民も帰還者も「残りの者」と見られることになる。
少数でも残る者がいる時、その存在は希望の基となる。ところが捕囚から帰還したユダヤ人は自分たちが希望(民族が滅びずに生き残る)を体現する者と自負し、エリート意識を持ち始め、排他主義的傾向を帯びることになる。
それはともかく、旧約聖書時代に生まれた「残りの者」という思想は、新約聖書時代にも受け継がれていくことになる。ローマ11:5, 黙示 12:17。以上、今頃気づいた晩熟(おくて)の末日聖徒である。
参考文献:上村静「宗教の倒錯」(2008年) 3章3,3
参考資料:牧師の書斎 エレミヤ書における「残りの者」(レムナント)の思想
あけましておめでとうございます。
今年は私の(豚)年ですので、頑張らんとな~。
でも、出来ればぼーっとして生きて居たいです。
>ところが捕囚から帰還したユダヤ人は自分たちが希望(民族が滅びずに生き残る)を体現する者と自負し、エリート意識を持ち始め、排他主義的傾向を帯びることになる。
日本には「残り福」って言葉も有りますし。
これは、末日聖徒の「末日に取っておかれた優秀な霊」と言う考えと似てる気がしますね。
人間は、「あなたたちは特別だ」とか「あなたたちは優秀だ」って言われると気持ちのいいものです。
「豚もおだてりゃ木に登る」ですね。
ただ、本当に美味しいものは、残しておいても、結局は食べますよね。それでも残ってるって事は、やっぱ不味いんじゃないかな?(笑)
と言うことで、年始のあいさつ代わりに書き込みました。
今年もご活躍をお祈りしております。
追伸
今年から始まる、個人学習のテキスト冒頭に出て来る「改心」と言う言葉に違和感をもち、少し考えこんでおります。
また良いお知恵を拝借できれば、幸いです。
今の教会翻訳部ってセンスないですね。NJさん、OBとして一言言ってやってくださいな。(笑)
改心は普通に「自己の罪を認めて神に立ち返ること」(キリスト教用語辞典)、「すなおな気持ちで謙遜な状態」になる(NJ)くらいの解釈でよいのではないでしょうか。
Unknown さん、手引き(個人と家族用)の英文をあちこち捜しましたが、見つかりませんでした。ここはルカ22:32の convert (KJV)ではないかもしれません。convert となっている箇所のギリシャ語(原語)は、口語訳「立ち直った」がよいと思います。convert では今日多用される「改宗する」と取られるので望ましくないと思います。
今年用に各家庭に配布された資料「2019年 新約聖書わたしに従ってきなさいーーー個人と家族用」のP.2に以下のように記述されています。
『新約聖書わたしに従ってきなさいーーー個人と家族用』の目的は、あなたがキリストのみもとに来て、福音にもっと深く改心するのを助けることです。
この文章の「改心」という言葉について豚さんが指摘されたのだと思いますが、ここは英文では以下のようになっています。
The purpose of Come, Follow Me—For Individuals and Families is to help you come unto Christ and become more deeply converted to His gospel.
ちゃんと convert(ed) となっておりますでしょ?
改宗だとそれこそキリスト教圏のカトリックから新教徒に、ユダヤ教徒やイスラム教からとか(その反対も)何か大きな変化が新しく起こった人、改心というのも含め、というのがconvert・conversionにはあるんでしょうね。日本での改宗者統計が少ないのに。ましてそのような元牧師だった人とかってほぼ希少中の希少かほぼ皆無に・・・改宗だと宗旨替えという意味合いも含まれ(強制改宗の歴史文化)、いまいち、宗教観・背景希薄的?!一般日本人にはインパクトというか理解の度合いが及ばないんではなと・・・
改心は開心に通ず?!で、モルモン書のレーマン王に大いなる光がさしこんでの話もあったり、改心とされたのはたいへん英断だったんでは?!と。
そのへんの過程、誰の発案でどうなったのかとかって外部の者にもわかるよう、教会管理部もっとオープンにすればいいのにね。飛鳥昭雄氏の断食献金不使用指示問題もあったり、まずは地元管理本部からトランスペアレンシーのある、ガラス張りを自ら実践してるような、そんなんであってほしい気が・・・毎日新聞なんかは記事に記者が記名してるかっこうで、そういうの取り入れるとかぁぁ・・・ネットでアクセスされる公開質疑コーナーあるとかぁぁ・・・
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直った(thou art converted)ときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
」
知らないと言って、鶏が鳴くんでしたね、そして彼は激しく泣いたと(22:62)・・・聖霊の賜物は救い主の復活後に与えられるようになったんでしたかぁぁ・・・
改心(信仰や悔い改め)の度合いによって賜物の度合いも変わってくるんでしょうかね、人それぞれ千差万別・・宗教の宗じゃなく心にしたのは各自に深く迫るような感じでえぇこっては?!
Convertという言葉は、日本のLDS教会で従来「改宗」あるいは「真の改宗」という言葉で表現されてきたものです。モルモン書巻末の聖句ガイドにも「改宗」という項目で掲載されています。「改宗」という言葉で長年LDS教会でなじんできておりますので、たまWEBさんがおっしゃるような『いまいち、宗教観・背景希薄的』ということはありえないし、『日本人にはインパクトというか理解の度合いが及ばない』などと言われると一体どの日本人のための翻訳なのか?と感じてしまうのです。
もっとも、教材を新しくするついでにいろいろ用語を変えてしまえってノリで翻訳者が「改心」にしたかも知れません。そういう箇所がさらに見つかるかも、と想像しています。
まぁモルモン教義自体がいい加減なものですし、用語一つでそんな必死にこだわるものでもないですけどね。
改宗じゃなく改心になった背景や如何??
’改心’を気に入ってる向きとしては、勘ぐり的には、もう一度初心に立ち返らせみたいな意図があったのやも?或いは伝道のことに目を向けさせたいみたいな?なぁぁんてね・・・そのへんの事情オープン度0・なしのつぶてじゃなくてぇ、なんとかならんですかのぉぉ??
先日お話しのアサイメントをもらった時も「改心を促進する」と言う言葉が使われていました。
私は、何故ここに「悔い改め」と言う、従来から使用してきた言葉を使わんかったのか?と言う疑問を持ちました。
たぶんそれは、悔い改めには、「罪を犯した」と言う前提が付きまとうからかと思いましたが、だからと言って「改心」はどうもしっくりこない。
と言うのは、「改心」と言う言葉は、意味が完結していると思うからです。
笑い話ですが、「禁煙なって簡単だよ、私は今まで何度も禁煙したからね・・。」と言うのが有りますが。
これと同じで、「私は何度も改心した」って言うのは、変でしょ?
改心って、そう毎週やる事じゃないですよね、普通は。
>ちゃんと convert(ed) となっておりますでしょ?
英語はまたく不得意なんですが、コンバートって、「変わる」とか「入れ替える」って意味が本来じゃないんですか?
>『新約聖書わたしに従ってきなさいーーー個人と家族用』の目的は、あなたがキリストのみもとに来て、福音にもっと深く改心するのを助けることです。
これを意訳すると
『新約聖書わたしに従ってきなさいーーー個人と家族用』の目的は、あなたの心が変化して、日々キリストに近付いていくのを助けることです。
だと思います。
確かに、神が召した指導者の言葉を、翻訳者が「意訳」するのは、はばかられる事かと思いますが、日本人の会員に理解しやすくすることも必要かと思います。
また、蛇足ですが、このテキストの中でさかんに「リソース」と言う言葉が出て来るんですが、これも日本語にしてほしいものですね。
「資料」とか「情報源」ではダメなんでしょうか?