晴れ渡り晴れ渡る空 風呂敷の己に包み秋の野を行く 山鳩暮風
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「風呂敷の己」とは「風呂敷のようにふわりと広がっている己のこころ」のことである。大空が晴れ渡っている。爽やかに晴れ渡っている空を引き寄せて風呂敷に包む。風呂敷だから包み込んだら四方を寄せて結ぶ。そして秋の野を行くのである。すると己も空のようになって爽やかになり、軽くなる。風呂敷に包み込むという作業が、歌を作る人の作業である。
晴れ渡り晴れ渡る空 風呂敷の己に包み秋の野を行く 山鳩暮風
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「風呂敷の己」とは「風呂敷のようにふわりと広がっている己のこころ」のことである。大空が晴れ渡っている。爽やかに晴れ渡っている空を引き寄せて風呂敷に包む。風呂敷だから包み込んだら四方を寄せて結ぶ。そして秋の野を行くのである。すると己も空のようになって爽やかになり、軽くなる。風呂敷に包み込むという作業が、歌を作る人の作業である。
「恋しいか」「何処何処までも」向かい合ふ老爺と雲の果てない孤独 山鳩暮風
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「恋しいか」という問いに向かい合う老爺と雲が互いに「何処何処までも」と答えている。孤独の深さが恋しい感情の深さである。何が恋しいか。誰を恋しいか。対象なしの恋しさというものがある。果てしのない恋しさとそこに横たわる果てしない孤独。
一発勝負ではなかったのですね。生きて病んで老いて死んで、生きて病んで苦しんで底からなにがしかを学び取って死んで、生きて悲しみに出遭って喜びに出遭って死んで、生きて悩み抜いてそこに救いを求めて死んで来たのですね。このスパンを10の100乗のさらにその1000乗の回数を繰り返していたわけですね、わたしというのは。遅遅たる歩みですね。それをそうせしめた力とはどんな力だったのでしょう。これからも続いて行きます。わたしが仏陀に成るまでは続いて行きます。生まれて生きて道を求めて迷って沈んで浮いてあえなく死んで、生まれて生きて愛する人に出会って信じ合って死んで、生まれて生きて憎しみを抱いて不安のどん底に落ちて死んで、また生まれて仏陀に会って仏法を聞いて光明を見出して死んで行くのでしょうか。病んで老いて死ぬ、それだけのショートサイクルではなかったのですね。
わたしは今日のわたしになるまでに劫の時間を経てきましたが、これからも経ていくでしょう。この一生の時間とは一粒の砂ほどの大きさ長さでしかないのです。そしてやがてその後わたしも観世音菩薩になっていくことでしょう。そのような誓願を観世音菩薩が建てられたからです。わたしもまた等しく誓願を建てて衆生を救済できるようになるでしょう。そういうことを経典が教えてくれています。
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弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願 妙法蓮華経観世音菩薩品より
ぐぜいじんにょかい りゃっこうふしぎ じたせんのくぶつ ほつだいしょうじょうがん
弘誓の深きこと海の如く、劫を歴(ふ)るとも思議せられじ。多く千億の仏に侍(つか)えて、大いなる清浄の願いを発(おこ)せり。
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お釈迦様が法華経を説いておられます。これはその法華経の中の第18番目の観世音菩薩品です。この中に偈があります。これはその偈にある文言です。無尽意菩薩の問いにお釈迦さまがお答えになっておられます。
弘誓(ぐぜい)は辞書にはこうありました。「弘く一切衆生を済度して仏果を得させようとする仏や菩薩の広大な誓願」「弘誓の海」とか「弘誓の船」などとも使われる。
観世音菩薩の起こした弘誓(ぐぜい=広大無窮の誓い)の深いことは海のようです。それを思議しようとして劫の時間を経たとしても説明し尽くせるものではありません。それは何故かと言いますと、それまでに観世音菩薩はもろもろ千の仏、億の仏にお仕えして、そこでその仏たちを相手に清浄の限りを尽くして誓願を建てられたという歴史が横たわっているからです。そのようにお釈迦様は無尽意菩薩に説きおこされました。
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長くなりました。わたしさぶろうはこの偈を繰り返し繰り返し朗読しています。そしてここへ来るとその千億万の仏たちのことをイメージしてしまいます。お釈迦様ですら観世音菩薩の衆生救済の誓願を説明するのに劫という無限の時間を用意しても説明しきれないと言っておられますが、それだけの時間を観世音菩薩がガンジス川の砂の数ほどの仏たちにお仕えしてきた過去があるわけです。
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わたしが行き着いた結論を言います。観世音菩薩様ですらこれだけの時間をかけておられます。わたしさぶろうがたとい一生を掛けたとしても何ほどのことがありましょう。さぶろうもまた実は観世音菩薩と同じくらいの、或いはその何千何億倍もの時間を掛けて今日を迎えているはずです。これからもそうです。これからもやはり多千億万の仏たちにお仕えをして事故究明の大事業をしていくことになるはずです。短兵急ではなかったのです。
父と子の諍(いさか)う声の洩れて来る小さき門の月見草 月 薬王華蔵
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子は大きくなって来ると父と諍いを起こすことが多くなる。父を否定し出すのだ。否定された父は居場所がなくなってしまう。盛り返そうとしても子の成育の旺盛さにはかなわない。主の座を少しまた少し明け渡さなければならなくなる。それでいいのだろう。それが自然の成り行きだろう。小径に面したところにドラマの二人が暮らしている家の門がある。門と言っても小さいのだが。そこに月見草が一群れあって黄色い花を着けている。月も雲から覗いていて、やや明るい。夕方仕事を終えて帰って来た二人の声が門から洩れてくる。諍いがまた始まっているようだ。諍いの声を聞いているのはお月様一人なのだが。
いとどしく老いにけらしもこの夏は我が身ひとつの寄せどころなき 良寛禅師
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良寬様はお腹が弱かったようである。瀉(くだ)り腹を抱えておられたようだ。腹を瀉すとそれとともに力も流れてしまう。それで禅師はげっそりとお痩せになられた。厠に行ったり来たりなさっている。そしてこの歌が口を突いて出てきた。ひどく年を取ったものだなあ、我が身一つをどう扱っていいのか分からなくなってしまった、と。その夜は夜中4度も厠を行き来なされたと人宛の手紙に書き記してある。
「初めはしぶりて少々くだり、二三度はさっとくだり、四度目は又少々くだり候。腹いたみ口の中辛く且つ酸く候。五(いつつ)時分丸薬を服し候」と。
新潟国上山の五合庵はやや登った山麓にある。狭いところだ。晩年の一人暮らしはさぞ辛かったであろう。あれこれ気遣ってくれる支援者もおられたはずだが。
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わたしも今日は下している。朝からもう3度。下腹部はもうすっかり空になった。食欲も湧かない。昼は、それでも、素麺を茹でてもらって少しだけすすった。わたしも老いている。痩せてもいる。しかし、家庭という身の寄せ処はある。夏茣蓙を敷いてごろんごろんとしているきりだが。
明暗の明たらしむる暗の海 悲心といふは深き海なり 薬王華蔵
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大悲心とは深い。夜の深い海のようだ。星を映している。暗い海でなかったならば、星を美しく映すことは出来なかったであろう。この世には明暗がある。是非がある。善悪がある。禍福がある。病がある、健康がある。その二枚の鏡が互を映し合うようになっている。健康の時には健康の有り難みは感じ取れない。病になって始めて健康が有り難く目に映ってくる。ということはどういうことか。病が健康を映す鏡になっていると言うことではないか。慈悲は一見してそこには見出せないように見えていてもその背後にそれを輝かすものが深々と高々と控えている。
仏の大悲もかくのごときか。
難しい男だ。そんなことぐらいでは喜べないと言い立てている。そんなことぐらいであっても喜んだ方が勝ちなのに。勝ちを捨てて、断然負けを選びたがる。偏屈。おれ様は気位が高いんだと。
ワシワシ蝉が喧しい。ワシはな、ワシはな、ワシはなとワシを主張して譲らない。似たような者同士の夏の朝。ワシワシワシワシワシワシ。どうやら、ワシがこの世で最高のイキモノらしい。
ほほ。食べてみたら塩鮭がおいしかった。朝ご飯の上にのせた薄桃色の薄っぺらの塩鮭が。案外だったので、気分がほくほくした。ふふふ、今日はいいことが起こるぞ! はるばるいい人が会いに来るぞ。簞笥の隅っこから100万円の残高がある通帳が見つかるかも知れない。どんどん調子のいい発想へ進んだ。
油蝉の甲高い鳴き声が村里を行き来している。黒揚羽蝶が鬼百合の群落を飛び交っている。夜中には雨音がしていたっけ。これで幾分かは涼しくなったかもしれない。北の畑でミニカボチャ🎃が二個収穫できた。これがなんともまあ可愛らしい。食べるには惜しい。ちんまり玄関を飾ることになった。
若(も)しよく至心に呪(しゅ)を誦(じゅ)し、我を念ぜば、現身に飛行自在(ひぎょうじざい)神通変化(じんづうへんか)を獲得して、我が如くにして異なることなからん
真言宗経典「仏説十一面観世音菩薩随願速得陀羅尼経」より
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呪(しゅ)とは口に称える呪文、すなわち神呪(じんしゅ)のことである。真言のことである。陀羅尼のことである。因みに十一面観世音菩薩のそれは「おんまかきゃろにきゃそわか」である。それを至心に、すなわち真心を尽くして誦(とな)えれば、十一面観世音菩薩はたちどころにその人の眼前に現れ出て来られる。なおなお念ぜばその身に観世音菩薩と同じ神通力が備わって、空を飛行することも自由自在にできるようになり、そのほか思いのままに変化身(へんげしん)能力を発揮することができるようになる。観世音菩薩にしかできない功徳が身に備わって、すっかり観世音菩薩その人になってしまう。というのである。その約束である。この経典中の「我」とはもちろん十一面観世音菩薩のことである。この約束はお釈迦様に対してなされている。お釈迦様は「善哉大士 よいかなだいし」 でかしたぞでかしたぞそれでこそ菩薩に相応しいと褒めておられる。
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わたしはここを読むと嬉しくてたまらなくなる。菩薩の位に達した者でなければ許されないはずの秘術の数々をも惜しげもなく譲り渡してしまわれるのである。もちろん、その秘術とは他者を救うときにしか使えないから、ちょっと試しにおもしろおかしく飛んでみるという具合にはいかない。それは当然のことである。「ここまでおいで」と唆(そそのか)しておられるのである。あなたも利他行をする菩薩になりなさいと勧めておられるのである。菩薩には何ができるか。代受苦ができるのである。苦しんでいる人に代わって、その人の苦しみを己に引き受ける菩薩行ができるのである。
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何から何まで全部が全部己の功徳をも譲っておしまいになるという十一面観世音菩薩の信頼の深さ。これはまるで愛する人へのラブレターのようではないか。
それに応えられるだけの自分の日常生活であるかどうか。問われていると思うと身震いをしてしまう。
おんまかきゃろにきゃそわか。呪文を称えてみる。観音様あなたはわたしにそこまでの思い入れをしてくださったのですか。「まことに忝(かたじけな)いことで御座いました」の心を籠める。