いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-伊勢正三

2021-06-16 07:39:35 | MUSIC

 「伊勢正三」

  1951年11月13日生まれの69歳

 今なお進化し続ける伊勢正三によるオリジナルアルバム「Re-born」発売決定-2019年2月20日
 近年オールタイムベストや風をフィーチャーしたLIVE アルバム等、自身の活動をアーカイブした作品を連続リリースしファンを喜ばせてきた伊勢が、16年振りに待望の全編書下ろしによるオリジナルアルバムを完成させた。 アルバムタイトルは「Re-born」作詞作曲はもちろん、アレンジ、演奏まで細部に渡り自身のオリジナリティーに満ち溢れた、AOR、フォーク、フレンチポップ、レゲエ、歌謡曲、ラップ等を散りばめた最新書下ろし楽曲の数々が収録されている。また37年振りに森一美がアルバム中4曲にアレンジャー&プレイヤーとして参加している。今作品はそのキャリア47年を集約した今の伊勢だからこそ創り出せるマイルストーン的な作品になるのは間違いない。 最新にして最高傑作アルバムの誕生である。

*http://www.forlife.co.jp/iseshozo/reborn/ より

 

 伊勢正三LIVE 2021 2021.07.11

 公演日  2021年7月11日(日)
 開場 16:00/開演 17:00

 出演者 伊勢正三
 会場 横浜・関内ホール

 料金 全席指定 7,000円(税込)

*https://event.1242.com/event1/2263 より

 

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-田中昌之

2021-06-15 10:40:33 | MUSIC

 「田中昌之」

  1951年6月30日生まれの69歳

 

 「大都会」元クリスタルキング田中昌之のいま 北斗の拳のおっちゃんは生涯ロック! あの人~ネクストステージ 2018.03.13

 黒々とした髪に彫りの深いマスク。1979年、「大都会」の大ヒットから39年の時を経ても若々しいルックスに驚かされた。66歳になったクリスタルキングの元ボーカルで歌手の田中昌之は「俺は生涯ロック。体型もスタイルも変わらないように頑張っていますよ」と自慢のロングヘアをなびかせた。

 変わったといえば、その声だろうか。「3オクターブの美声」と呼ばれたハイトーンボイスは、アダルトなハスキーボイスへと変わっていた。「草野球でイレギュラーした打球がのどに当たった」と故郷・佐賀のイントネーションが残る九州弁で振り返った。


 1989年、軟式球をのどに当て声が出なくなった。「3カ月ぐらい出なくてCTも撮影したが、どこも悪くないと…今ではあの声で歌っている夢を見るんですよ。昔の声が出ていればという悔しさはありますね。でも出ないものは仕方がない」と唇を噛んだ。

 “声変わり”したとはいえ、ロックへの情熱は冷めることはない。2016年には洋楽カバーアルバム「It,s My Life」を発売。3月23日には東京・目黒Blues Alley Japanでソロライブも控える。2011年3月に急性心筋梗塞で倒れ、「歌に対する考え方が変わった。歌える限りは1分1秒を気持ち抜くことなく歌おうと。この至福の時間を1日でも長くやりたい」と生涯現役へのこだわりを明かした。

 歌い続けていることでこんなエピソードもあった。1984年に発表した「愛をとりもどせ!!」はアニメ「北斗の拳」のオープニング曲やパチスロ機に使用され、若い世代にも浸透。「クリスタルキングとしての代表曲は大都会と思っているんだけど、子どもに“北斗の拳を歌っているおっちゃんやで”と言うと急にリスペクトしてくる」と笑った。

 私生活では、最高11匹もの猫を飼っていたという愛猫家の顔も持つ。「家にいる時はにゃんことまったりしているのが一番幸せ。パジャマのままでぽけーっとしている」という。

 一方で野球愛は変わらず熱い。大ファンである巨人の敗戦で「テレビを3台ぐらい壊した」ことも。今年の楽しみは、巨人もさることながら、23日に開幕するセンバツ大会に故郷の佐賀・伊万里市から県立伊万里高校が21世紀枠で出場すること。昨年10月から同市の観光大使を務める田中は「5万人の街から甲子園に出る選手は俺たちの誇り。応援にも行く」と鼻息は荒い。


 そしてインタビューの最後、田中に聞いてみた。クリスタルキングが再結集することはないのかと。「高い声が出ないのだからもう元のようにはできない。ファンは求めていると思うがやりようがない。(オリジナルメンバーの)ドラマー金福健も(2014年に)亡くなった。永久にあり得ない」。

(デイリースポーツ・中村博格)

 ◆田中昌之(たなか・まさゆき)佐賀県出身、66歳。クリスタルキングのボーカルとして1979年、シングル「大都会」でデビュー、150万枚の大ヒットを記録。86年にグループを脱退し、ソロとして活動。ウルトラマンガイア、仮面ライダークウガのオープニング曲を担当したほか、97年にはポッカコーヒーのCM「クリスタルブラック」に自ら出演し、話題を集めた。

*https://maidonanews.jp/article/13160224 より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-高山 厳

2021-06-14 12:41:49 | MUSIC

 「高山 厳」

  1951年10月19日生まれの69歳

 ベテラン歌手、高山厳。71年に結成されたフォーク・グループ、バンバン(75年の大ヒット曲「いちご白書をもう一度」で著名)のメンバーとしてデビューする。その後、シンガー・ソングライターとして独立するが、ヒット曲に恵まれず、92年の「泣くなよ」から演歌に転向した。とは言え、ポップス風な味付けが施されたナンバーには、同じくニューミュージックから演歌に転向し成功した堀内孝雄にも通じる、温かみを感じさせるものが多い。女性のひたむきな恋心をテーマに歌っている。

*https://okmusic.jp/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8E%B3 より

 1971年、ばんばひろふみ、今井ひろしと『バンバン』を結成。1975年、バンバンを脱退し、『忘れません』でソロデビュー。同年にはファーストアルバム『この世には愛がなさすぎる』を発表した。

 その後年間延べ1000ヵ所の有線放送所訪問を経て1991年、ポリスターレコードより『泣くなよ』を発表。ニューアダルトミュージック路線に転身。以後の楽曲は商業上、演歌・歌謡曲に分類される。

 1992年に発表した『心凍らせて』が1994年にかけて大ヒット。同曲で1993年、第35回日本レコード大賞作詞賞、第26回全日本有線放送大賞グランプリといった賞を受賞し、『第44回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たした。

 その後、シャ乱Qのつんくがプロデュースした曲をリリース。2002年、28年ぶりにバンバンの復活コンサートを行った。デビュー35周年に当たる2006年、『伊根の舟歌』を発表した。

 ミュージックバードのSPACE DiVA 126ch「コミュニティ」で放送(一部のコミュニティ放送局でもネット)されている『アフタヌーン・パラダイス火曜日 ‐ Folk Song』(15:00-16:55)のレギュラーとしてパーソナリティを三浦和人と交互に担当している。

 2014年、杉田二郎・堀内孝雄・ばんばひろふみ・因幡晃とブラザーズ5を結成。

 バンバン脱退後から『心凍らせて』がヒットするまでの間、アーティスト活動と兼ねて工場に勤務するなど不遇の時代が長く続いていた。

*Wikipedia より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-中島みゆき

2021-06-13 08:48:01 | MUSIC

 「中島みゆき」

  1952年2月23日生まれの69歳

 

 中島みゆき コロナ禍の今、『ファイト!』で紅白出場あるか

 沈黙を守る中島みゆき(68才)の周辺が騒がしくなっている。今年1月にスタートした「中島みゆき ラスト・ツアー『結果オーライ』」が新型コロナのため2月28日より全公演中止に。周囲の関係者は「このまま引退の可能性も」と気を揉む毎日だという。

 そんな折、世の人の心を強く揺さぶった中島の歌がある。

《泣きそうになった。すごいよかった》
《涙が出た。励まされた》

 SNSを絶賛で埋め尽くしたのは、8月26日放送の『2020 FNS歌謡祭 夏』(フジテレビ系)で満島ひかり(34才)がカバーした「ファイト!」だ。澄み渡るミントブルーのワンピース姿で、全身全霊を込めて歌い上げた満島の表現力はもちろん、つらい立場にいる人々にエールを送る歌そのものの力が多くの人の胸を打った。

 1983年にリリースされた「ファイト!」は満島のほか、吉田拓郎(74才)、櫻井和寿(50才)、福山雅治(51才)ら錚々たる面々がカバーしてきた。現在公開中の映画『糸』でも、その曲は2度出てくる。思い通りにはいかない人生を嘆くかのように、榮倉奈々(32才)と成田凌(26才)がそれぞれ力を込めて歌い上げる。

 この映画は中島の名曲「糸」をモチーフにしているが、観客からは「劇中で流れる『糸』もよかったけど、『ファイト!』の熱唱シーンに感動した」「あらためて『ファイト!』の歌詞にドキリとさせられた」との声が寄せられる。聴けば聴くほど人生の重みを感じる中島の歌詞。彼女は、コピーライターの糸井重里氏との対談で創作方法についてこう述べている。

《この感情は子どもの頃にもあったなと思い出すわけです。昨日のことは忘れても、子どもの頃の気持ちが鮮明に甦ることもあるでしょ。そういうことも歌を書くひとつのきっかけですね》(『ダ・ヴィンチ』2020年3月号)

 中島は雪深い北海道生まれ。祖父は市議会議員を長く務め、父は産婦人科の開業医で、幼い頃は父の勤め先の都合で道内を転々として育った。そのため少女時代はひとり遊びに興じることが多く、友達の輪に入れない内気な女の子だったという。

 進学した高校は封建的で、「女は口を出すな」との雰囲気が強かった。だが高校3年生の文化祭、中島はひとり、ギターを抱えて舞台に上がり、弾き語りをした。女生徒が舞台に立つのは前代未聞。会場から激しいヤジが飛ぶなか、思いの丈を歌いきった。札幌市にある藤女子大学文学部国文科に進学後、本格的に音楽活動を始め、数々のコンテストを総なめにしたが、卒業後は実家に戻って父の病院を手伝った。

「開業医といっても生活は苦しく、みゆきさんとお母さんが病院で働いて家計を助けていました。みゆきさんの弟は父と同じ医師をめざしていたから、その学費を捻出する必要もありました。

 当時の北海道は閉鎖的で男尊女卑的な風潮が残り、女が家計を手伝って、弟の出世を助けるのは当然とされました。『コンテスト荒らし』と呼ばれ音楽の才能があふれていたみゆきさんは家族の幸せを望む一方で、自分を犠牲にせざるを得ない状況にやりきれない思いがあったでしょうね……」(中島を知る音楽関係者)

 赤字の病院を手伝いながらも、音楽の夢を諦めきれなかった中島は、ヤマハ主催のポピュラーソングコンテストでグランプリを獲得し、デビューのきっかけをつかんだ。だがまさにデビューする直前、父が脳溢血で倒れて昏睡状態となった。

 「お父さんの意識が戻らないまま、みゆきさんは音楽活動を続けました。家計も苦しく、弟が医師になる見込みも立たないなか、自分だけ上京して音楽活動をしていいのだろうかという葛藤があったはずです」(前出・音楽関係者)

 父が病に伏せるなか、中島は1975年9月に「アザミ娘のララバイ」でデビュー。その約4か月後に父は旅立った。その後は母を東京に呼び寄せ、同居しながら長年にわたって二人三脚で過ごしてきた。1977年には「わかれうた」がシングル売上ランキングで初の1位を獲得。それから「ひとり上手」「悪女」の大ヒットを経て、1983年に発売したのが「ファイト!」だ。

 「あなたを理解している人はどこかにいる」
 この歌が生まれたのは、中島がパーソナリティーを務めていたラジオ番組『オールナイトニッポン』に寄せられた、17才の少女のハガキがきっかけだった。家庭の事情で高校に進学できず働いていた少女が、職場の先輩から「あの子は中卒だから」と陰口を叩かれたことを、「悔しい」と打ち明ける内容だった。同じく家庭の事情で夢を断念しそうになった中島は、少女のハガキをゆっくり読んだ後、静かに語りかけた。

 「どういうところを通ってきたかよりも、そこであんたが何を吸収したかの方が大事だと思う。周りのすべての人間にさ、あなたのよさをわかってもらうなんて、そりゃ無理な話。でも、たった1人でも、あなたを理解してくれる人はどっかに1人はいるものよ」

 それは、かつての自分に向けて語った言葉でもあったのだろうか。そして中島は、自分の経験を織り交ぜて、つらい思いをしているすべての人にエールを送る歌を書き上げた。

 1995年4月、阪神・淡路大震災の傷跡が残る大阪で行われたコンサートのラスト、中島は「ファイト!」をピアノで弾き語りした。会場には、すすり泣きと拍手がこだました。

 それからしばらく、中島はこの曲を歌っていない。

 「新型コロナで苦しむ人が多いいまこそ、みゆきさんが歌う『ファイト!』を聴いて勇気をもらいたいという人はいるはず。リモート紅白歌合戦とウワサされる今年なら、紅白出場のハードルは低いはずです。親しい人が去り、ラストステージが近づいているといわれるなか、彼女が『ファイト!』を歌う決断をしてくれることを、多くの人が願っています」(前出・レコード会社関係者)

 たった1人でも、あなたを理解してくれる人はどこかにいる。そんな思いから生まれた名フレーズを中島と観客が一緒に歌う日は来るだろうか。

※女性セブン2020年9月24日・10月1日号

*https://www.news-postseven.com/archives/20200912_1594546.html?DETAIL より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-さだまさし

2021-06-12 11:23:49 | MUSIC

 「さだまさし」

 1952年4月10日生まれの69歳

 まだまだ現役の「さだまさし」。

 デビュー当時の病弱のイメージもなくなり、テレビにコンサートに大忙し。

 でももう69歳って・・・

 ご活躍の確認はご自身のHPでどうぞご覧ください。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-デヴィッド・バーン

2021-06-10 11:58:29 | MUSIC

 「デヴィッド・バーン」

  1952年5月14日生まれの69歳

 デビッド・バーン&スパイク・リーが生み出した至福の体験! 「アメリカン・ユートピア」5月7日公開 2021年3月10日 12:00

 スパイク・リー監督(「ブラック・クランズマン」)と、元「トーキング・ヘッズ」のフロントマンでグラミー賞受賞アーティストのデビッド・バーンのコラボレーションが実現した映画「David Byrne's American Utopia(原題)」が、「アメリカン・ユートピア」の邦題で、5月7日から公開されることが決定。あわせて、日本版ポスター、予告編、場面写真が披露され、字幕監修をブロードキャスターのピーター・バラカンが務めることがわかった。

 映画の原案となったのは、2018年にバーンが発表したアルバム「アメリカン・ユートピア」。同作品のワールドツアー後、19年秋からブロードウェイのショーとして再構成された舞台が始まり、その斬新な内容が評判となった。映像化の可能性を考えたバーンが、リー監督に声をかけたことで映画化がスタートしている。

 バーンのライブ映画としては「トーキング・ヘッズ」時代の傑作「ストップ・メイキング・センス」(ジョナサン・デミ監督)が製作されたが、今回のコラボによって、ドキュメンタリーでもなく記録映画でもない、新たなスタイルのライブ映画が完成。海外では早くも高評価を得ており「ふたりの大物が組んだ見事なコラボ」(バラエティ)、「このジャンルの最高傑作の1本」(インディワイヤー)、「圧倒的な傑作」(ローリング・ストーン)と絶賛の声が相次いでいてる。

 本作では、全21曲、スペクタクルな107分のステージが展開。本国アメリカでは HBOでの配信のみとなったが、日本では映画館での上映が叶うことに。冒頭、プラスティックの脳を持ったバーンが登場し、人間の脳の進化について語り始める。「人間の脳は成長と共に衰えていく」。そんな衝撃な研究結果について話を始めるバーン。今回のショーを通じて、彼は現代のさまざまな問題について問いかける。コミュニケーションの大切さ、選挙の重要性、人種問題……。混迷の時代を生きる現代人の意識をゆさぶる物語が語られていく。

 今回の舞台でバーンは意識的に何もない空間を選び、マイクやドラムセットもなくし、新たな仲間である11人のミュージシャンやダンサーと舞台の上を縦横無尽に動きまわっている。パントマイム、前衛パフォーマンスの要素も取り入れた斬新な振り付けを担当したのは、過去にもバーンの舞台も手がけたアニー・B・パーソン。プロダクション・コンサルタントもバーン一家のアレックス・ティムバースが担当している。

 舞台に立った11人の仲間はさまざまな国籍を持っており、クライマックスではBLM(ブラック・ライブズ・マター)を訴えるプロテスト・ソング「Hell You Talmbout」(ジャネール・モネイ)を熱唱。アルバム「アメリカン・ユートピア」からは5曲、トーキング・ヘッズ時代の代表曲から9曲が選ばれ、計21曲を演奏。パワフルに歌いながら踊る大ベテランのバーン。そんな彼が、11人の新たな仲間と組むことで、ミュージシャンとしても更なる進化を遂げたショーとなっている。

 ポスターは、バーンと11人のミュージシャンたちを活写。ジェンダー、国籍あらゆる境界線を飛び越え、さながら理想郷(ユートピア)へと見るものを誘う使者のようだ。予告編は、至福のステージングの一部を解禁。ステージからは一切の配線をなくし、自由自在な構成に。ミュージシャンたちは揃いのグレーのスーツと裸足というスタイルでショーを展開している。

 「アメリカン・ユートピア」は、5月7日から東京・TOHOシネマズシャンテ、渋谷シネクイントほか全国公開。

 (映画.com速報)

*https://eiga.com/news/20210310/11/ より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-灰野敬二

2021-06-09 10:10:20 | MUSIC

 「灰野敬二」

  1952年5月3日生まれの69歳

 

 灰野敬二、ロスト・アラーフを語る
 「三里塚で石を投げられたことがオレの宝」 インタビュー・文/剛田 武 , 写真/船木和倖
 JAPAN Rock / Experimental 2021.02.03follow us in feedly

 2020年12月31日にリリースされた2枚組CD『LOST AARAAF』には灰野敬二のミュージシャンとして最初期の活動が記録されている。灰野自ら〈ロックを継承した唯一のバンド〉〈いちばんシンプルなパンク〉と表現するロスト・アラーフだが、常に〈今〉を追求しつづけているアーティストとして自他ともに認められている灰野にとっては、過去よりも現在の活動の方が遥かに重要であることは間違いない。とはいえ70年代日本のロックの黎明期におけるロスト・アラーフの活動が、現在の灰野敬二の音楽の基本にあることは確かである。40年以上昔の話なので正確に覚えているわけではないと前置きする灰野に話を聞いた。


 やりたいから乱入する

――ロスト・アラーフ加入前に参加した〈実況録音〉はブルース・ロックのバンドとのことですが、加入の経緯と活動内容を教えてください。

 「加入の経緯は思い出せない。高校を辞めた後に、都内の別の高校に行っている友達に誘われて彼の同級生のバンドに参加して、彼の高校の学園祭で1回だけライブをした。学外のメンバーが参加するのは異例のことで少し揉めたけど。多分その時のライブを実況録音のドラマーの高橋さんが観てくれて誘ってくれたんじゃないかな。錦糸町でリーダーの伊藤(寿雄)さんを紹介してもらった記憶がある。

 実況録音はフリートウッド・マックみたいなブルース・ロックをやっていた。ベースはのちにカルマン・マキ&OZに入る川上シゲさんだった。ビアホールやジャズ喫茶で演奏したけど、音がでかい、ヴォーカルがわけわからん、と言われていつも途中でライブを中断させされた」

――ロスト・アラーフに加入する前に、南正人さんやブルース・クリエイションのライブに飛び入りしていたそうですね。どんな経緯で飛び入りしたのでしょうか?

 「飛び入りするのに経緯なんかないよ。やりたいから飛び入りした、というより乱入だね。歌う前に一言断りを入れたけどね。対談※でも話したけど、南正人さんの〈魂のコンサート〉に飛び入りした時、南さんは学生服のオレのヴォーカルを聴いて〈カッコいいね!〉って褒めてくれた。南さん、今までいろいろどうもありがとうございます。あまり会う機会はありませんでしたが、ご冥福をお祈りします。

 ブルース・クリエイションは布谷(文夫)さんが辞めてヴォーカリストが不在の頃で〈演奏はいいのにヴォーカルがいないじゃん、それじゃオレが歌っちゃおう〉と思って乱入した」

 

 ロック、フリー・ジャズ、現代音楽

――渋谷のヤマハに行ってレコードを試聴していたとのことですが、どんなふうにレコードを選んだのでしょうか? 当たりだったのはどんなレコードですか?

 「当時輸入盤を扱っていた店は、渋谷ヤマハの他に銀座・山野楽器や桜上水のドンキーくらいしか知らなかった。とにかく自分が聴いたことがないもの、『ミュージック・ライフ』に載っていないものを片っ端から聴いた。特にハードなもの、ロリー・ギャラガーがいたテイストとか、当時は誰も知らなかったね。

 それから変わっているもの。インクレディブル・ストリング・バンドを聴いて普通のロック・バンドとは違う楽器編成に興味を持った。どっちが先か忘れたけど、サード・イヤー・バンドに出会って衝撃を受けたのもその頃。この頃買ったレコードは今でも持っているよ」

――フリー・ジャズを教えてくれたのは川越のレコード屋だとお聞きしましたが、ロック少年だった灰野さんはショックを受けましたか? 

 「音羽屋という一見のお客はお断りという雰囲気のレコード屋があって、その店長からフリー・ジャズのレコードを聴かせてもらったけど、そのときはグチャグチャしてると思っただけでピンと来なかった。

 それより渋谷ヤマハのレコード・セールで傷あり600円で買ったオリヴィエ・メシアン『世の終わりのための四重奏曲』は大ショックだった。当時の自分が好きになれるものがここにあった!と感動した。その頃ラジオでNHK FMの『現代の音楽』や『バロック音楽のたのしみ』を聴いていた。電波が悪くて雑音交じりだったのをテープ・レコーダーで録音して聴いていた。

 他にパティ・ウォーターズもセールで買った。これも傷ありだったけど、この2枚は買い直す気になれないね。ノイズも含めて記憶に馴染んでいるから」

 

 17歳の時、レッド・ツェッペリン“You Shook Me”を聴いて覚醒した

――前衛ヴォーカルがやりたかったとのことですが、なぜそう思ったのでしょうか? 具体的に影響を受けた音楽やミューシャンはいますか?

 「人がやっていないことをやりたかった。17歳の時、レッド・ツェッペリンの“You Shook Me”(69年)の最後のヴォーカルとギターの掛け合いをTBSの深夜ラジオ番組「パックインミュージック」火曜日の福田一郎さんの番組で聴いて、夜中に覚醒した。それからアーサー・ブラウンの“Fire”(68年)もショックだった。

 高校でバンドをやり始めた。ひとつは先輩のバンド。ギタリストが生徒会の副会長でジェフ・ベックそっくりだった。ギターの腕はそれほどじゃなかったけど。もうひとつの同級生のバンドで学園祭に出演した時は、バンドが10分間(ローリング・ストーンズの)“Satisfaction”のリフを繰り返して、オレはずっと叫び続けた。本当はクリームやテイストをやりたかったけど、高校生には無理だったからね。

 その後に教師から呼び出しをくらって、英語と音楽の成績が2段階落とされた。特に音楽の先生はそれまでオレの声を認めてくれていたから、バンドでオレのヴォーカルを聴いてショックを受けたみたいだ」

――その頃の衝動がロスト・アラーフ加入に繋がったわけですね?

 「自由劇場でブルース・クリエイションに飛び入りした時、おそらく富士急〈ロック・イン・ハイランド〉の関係者のひとりだった宇佐美さんという人が観てくれたみたいで、その後に〈ロック・イン・ハイランド〉に出演しないかと電話が来たんだと思う。で、前衛ヴォーカルをやりたい、と言ったらロスト・アラーフを紹介してくれたんだ。ロスト・アラーフがいなかったら、ソロで出演していたかもしれない。ソロでやったら一瞬で引きずり降ろされただろうね」

 

 オレはどこにも属さなかった

――71年8月の〈三里塚幻野祭〉をはじめとして、この時代のロック・コンサートには学生運動や政治が関わっていることが多かったと思いますが、灰野さんはどう感じていましたか?

 「社会を批判しているくせに、奴らは自らも飲酒や喫煙など社会の悪習慣に染まっていた。そして権力に対しての憤りをドラッグで自ら沈静してしまっていた。今になって煙草をやめたという人がいるけど、どうして煙草を吸い始めたのか自問自答してほしい。

 オレはどこにも属さなかった。誰とも付き合いはない。集団や共同体は大嫌いだった。学生団体、ヒッピー、演劇集団、新興宗教、人が集まればろくなことをしない。だからフォーク・ソングは大嫌い。個人として好きな人はあらゆるジャンルにいるけどね」

――髙橋廣行さんとの対談で当時の灰野さんはコンサート荒し(潰し)で有名だったと言っていますが、なぜそんなことをしていたのですか?

 「彼らのコンサートのやり方は自分にとってはロックじゃないと思っていたから。当時はコンサートに警備員はいなくて、バンドの関係者のふりをして潜り込むこともできた。もしかしたらオレがコンサート荒しをしたせいで警備員がつくようになったのかもしれないね」

 

 望む音楽は即興演劇

――自分で歌詞を書き始めたきっかけは? 

 「初めの頃は究極の言葉は叫びだと思っていた。その後自分の言葉が見つかって、歌詞が溢れてきた」

――活動を続けるにつれて即興でありながらも曲構成が出来てきたとのことですが、構成のあるロックの方向へ転換しようという意図はあったのでしょうか?

 「それまでも完全にフリー・フォームだった訳ではなくて、最初の何分はドラム、その後全員で何分、といった感じで時間的な流れは決まっていたし、CD2の3曲目“LAW OUT”ではドラムとピアノがリフを作っていた。組曲“1999年の微笑”はみんながアイデアを持ち寄って作った。

 オレは元々役者志望だから、演劇性を求めた。オレが望む音楽は言ってみれば即興演劇、(定型を)なぞらない演劇だから」


――“1999年の微笑”の歌詞は、かなり露骨で過激な言葉が出てきますが、インスピレーションの元は?

 「その頃のオレは、今よりも言葉や文学にも近づいていた時期だった。観念的になっていて、いわゆるダダにも興味があった。それで“1999年の微笑”で言葉をたくさん使った。すべての色を使った。

 その後、自分にとってすべての色の素と思う黒に近づいていった。フランスのある作家が、東洋に傾倒し、たったひとつの世界に溶けていくことを描いている。オレは最終的に言葉をひとつにしてしまいたかった。シュールレアリズムやダダには興味がなくなった。

 だから不失者では言葉をできるだけ使わないし、固有名詞を使わない。使う言葉は同じで組み合わせを変えているだけ」


 ロックの弁護士

――73年に裸のラリーズの水谷(孝)さんとブルー・チアーのカヴァー・バンドをやったそうですが、その経緯・意図は?

 「ロング・ヘアーが好きだし、ブルー・チアーが好きだから。確か2回スタジオに入った。誰かが録音していたみたいだけどオレは覚えていない」

――73年7月から裸のラリーズと共同でイベント〈エレクトリック・ピュア・ランド〉を始めました。企画は髙橋さんが中心だと思いますが、灰野さんとしてはラリーズとのイベントをどう感じていましたか?

 「自然な流れだね。なるべくしてなった。オレたちとラリーズはやっていることが違うから一緒にできたんだ。〈エレクトリック・ピュア・ランド〉では一度も揉めたことはないよ。実務はすべてオシメ(髙橋のニックネーム)に任せた。交渉は彼の方が得意だったし、リーダーが二人いると必ずぶつかるからね。チラシ配りだけは一緒にやったけど」

――74年5月5日、最後の〈エレクトリック・ピュア・ランド〉でのソロ・ライブは、ステージの4つの椅子の前にマイクを立てて、ひとつの椅子にロングブーツ、2つ目に1万円札を置いたそうですね。3つ目は忘れたそうですが……。

 「いま思い出したけど、3つ目の椅子に置いたのはコードのついていないマイクだった」

――そして4つ目の椅子にスイッチをオンにしたジューサー・ミキサーを置いて、その音をマイクで拾いながら詩の朗読をするというユニークなものだったそうですね。どうやらこの時の録音がどこかにあるらしいですが。

 「おそらくこれが日本で初めてのノイズじゃないかな? フルクサスのヘニング・クリスチャンセンや川仁宏さんのように、何でもないような事でも、やる人によっては醸し出す魔術がある。日比谷のライブがそのようになっていたら嬉しい。実際に魔術になったかどうかは分からないけど。音楽に対するアンチテーゼだよ。

 ハプニングとかインスタレーションをやり出した人間の中で、オレが唯一のロック畑の人間だと思う。だからその頃から自分を〈ロックの弁護士〉と呼び始めたんだ」

 

 三里塚で石を投げられたことがオレの宝

――灰野さんがずっと音楽をやり続けている中で、ロスト・アラーフとはご自分にとってどういう意味があるのでしょうか。

 「対談でも言ったように、ロスト・アラーフがあったから今のオレがいる。三里塚で石を投げられたことがオレの宝。あの時受け入れられていたら、不失者は生まれなかっただろう。50年という節目に集大成CDをリリース出来て本当によかったと思う」

――結成50周年の集大成音源集CD『LOST AARAAF』の装丁について聞かせてください。アルバム・ジャケットを〈赤〉にした意図は?

 「一言で言えば〈やりたかった〉から。デザイナーの北村(卓也)君、彼はオレのやりたいことを分かっていて、〈あの赤〉を持ってきてくれた。これはなんだ?と驚く色。だから赤にしたんだ。

 特に限定盤のジャケットの形と色合いがとても綺麗に出来て、紫色に銀で印刷した歌詞カードと合わせて自分の美意識にピタッとハマった。美術品としても価値があるものが作れて満足しているよ」

*https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/27556 より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-平原 まこと

2021-06-08 09:52:15 | MUSIC

 「平原 まこと」

  1952年5月2日生まれの69歳

 

 【今夜8時】「TOKYO JAZZ」に平原まこと(Sax)&平原綾香が登場! 2020年5月24日
  
 平原綾香さんは吹奏楽部出身!
 例年、大々的に行われているジャズイベント「TOKYO JAZZ」ですが、今年は新型コロナウイルスの影響により、YouTubeでのオンライン配信となります。

 すでに昨日5/23に小曽根真さんやチック・コリア、上原ひろみさん、ハービー・ハンコック、挾間美帆さんといった豪華アーティストのライブが配信され、本日5/24が2日目(最終日)となります。


 そのトップバッターを務めるのが、《ジュピター》で知られる平原綾香さん。

 実は、平原さんのお父様は、マルチサックスプレイヤーの平原まことさんです。

 その温かく、明るいサウンドはオザワ部長も大好きですし、CDもよく聴いています。

 お父様の影響か、平原綾香さんは吹奏楽部でサックスを演奏していた経験があります(洗足学園音楽大学でもサックス専攻)。そして、中学校時代の吹奏楽部の顧問が、現在の小平市立小平第三中学校吹奏楽部の澤矢康宏先生でした。

 そのご縁で平原まことさんが、小平三中の定期演奏会に出演。オザワ部長も同じステージに立たせていただいたことがあります(なんと楽屋では平原さんのソプラノサックスを使って短い時間ながらレッスンをしていただきました!)。

 素晴らしいサックス奏者の平原まことさん、唯一無二の「宇宙的深み」のある歌声を持つボーカリスト・平原綾香さん。

 最強の父娘が本日夜8時にライブを披露します。

 ぜひ下記YouTubeチャンネルでお聴きくださいね!

*https://suisougakubu.net/tokyojazzhirahara/ より

 

 1952年5月2日大阪生まれ。サックス奏者。ロック、ポップス、ジャズ、クラシックなど幅広いフィールドで活躍する、スタジオ・ワークでも引っぱりダコのプレイヤー。トーキョー・アンサンブル・ラボのリード楽器奏者として活動。また、安全地帯やフランク・シナトラ、ナタリー・コールらのゲスト奏者として活躍し高い評価を得る。98年にリーダー作『月の癒し~wavy music』を発表、ヒーリング音楽として好評を博した。 2012/07/30 (2017/06/27更新) (CDジャーナル)

*https://tower.jp/artist/279296/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E3%81%BE%E3%81%93%E3%81%A8 より

 

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-東郷昌和

2021-06-07 09:14:40 | MUSIC

 「東郷昌和」

 1952年4月29日生まれの69歳

 

 “ケンとメリー”で一世風靡 「BUZZ」の東郷昌和さんは今 公開日:2016/08/08 07:00 更新日:2016/10/17 04:37

 1972年、日産スカイラインのCMソング「ケンとメリー ~愛と風のように~」でデビュー。33万枚のヒットとなったフォークデュオ「BUZZ」。その一人が本日登場の東郷昌和さん(64)だ。今どうしているのか。

 「BUZZとしては去年の8月に長野県の飯田市でファイナルコンサートをやって一区切りつけたんです。再結成して相方の小出博志と10年近く一緒にやってきましたから、そろそろ一人に戻ってもいいんじゃないかとお互いに言いだして……。決してケンカ別れじゃありません。円満解散です、ハハハ」

 高田馬場の喫茶店で会った東郷さん、こう言って笑った。再結成というのは?

 「デビューして10年を過ぎたころからそれぞれスタジオミュージシャンとしての活動が多くなって、BUZZとしての活動は25年近く停止していたんです。ところが、05年ごろに懐メロ番組に2人で出たら反響が大きくて、じゃあ、もう一度組もうかという話になって。07年に再結成コンサートを開き、CDを出したり活発にライブを行ってきましたね。ソロに戻った今も、アルバムを出したり、年間20本くらいライブをやってます」


 ■有名歌手やアイドルを育てた経験も

 さて、東郷さんは中学時代、同級生の高橋幸宏(元YMO)とバンド活動をしていたこともあるが、高3の時に受験で活動休止。その間、幸宏が小出のバンド活動を手伝った縁で、東郷さんが成城大在学中の19歳の時に小出を紹介され、幸宏の兄・高橋信之のプロデュースで「BUZZ」が誕生した。

 「麻布高校時代には幸宏や当時中学生のユーミン(松任谷由実)とテレビの『ヤング720』で演奏したこともあるんです。CMのコーラスの仕事もやっていたから、その意味でボクにはアマチュア時代ってないんですよ」

 「ケンとメリー」がいきなりヒットしたため、コンサートでの持ち歌がなく大急ぎでアルバムを作ったという。

 「メーンボーカルは相方ですからボクはMCや賑やかし担当。おこがましいけど、言ってみれば、『サイモンとガーファンクル』のポール・サイモン。あのコンビだってデュオの時の代表曲はガーファンクルのボーカルだけど、ソロになったらサイモンのボーカルが売れたじゃないですか。相棒のボーカルを客観的に見てたし、BUZZを支えた縁の下の力持ちだと密かに自負してるんです、ハハハ」

 ボーカルプロデューサーとしても活躍。BoAや唐沢美帆ら人気歌手や、アイドルグループ・東京パフォーマンスドールなどを育てた。

 「最近、長女に孫が生まれたんです。その長女がお腹にいるころは胎教としてバーブラ・ストライサンドを聴かせたので、『今何聴かせてる?』って聞いたら、流行のヒップホップグループだと。『そんなのは見る音楽で聴く音楽じゃないよ』とお説教しちゃいました。ボクらの使命は、いつまでも古びない歌をいかに次の世代に継承していくかだと思うんです。孫にもおじいちゃんの歌を聴かせた方がよっぽど情操教育にいいぞ、と思ったりしますが、ハハハ」

 バツ1。都内のマンション暮らし。年の離れた若いガールフレンドがいる。

 「ボクら表現者はロマンチシズムをなくしたらダメだと思うんです。若いころの恋に対するトキメキを忘れてしまったら恋の歌なんか歌えないじゃないですか、いつでも恋はしていたいですね」

 最近はソロ活動のほかに、ジェームス西田、堀江淳、日浦孝則ら往年の人気ミュージシャンと「ファンタスティック4」なるグループの一員としても活動している。

*https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/187014 より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ナラダ・マイケル・ウォルデン

2021-06-06 10:13:50 | MUSIC

 「ナラダ・マイケル・ウォルデン」

  1952年4月23日生まれの69歳

 ジャーニーの新ドラマーはナラダ・マイケル・ウォルデン!
 今年アルバム・デビュー45周年を迎えるアメリカのロック・バンド、ジャーニー。近年は黄金期を支えたスティーヴ・スミスが再びドラマーとして参加していたが、今年3月にベースのロス・ヴァロリーと共に解雇されたことが発表されていた。そんなジャーニーが去る5月25日に「Don’t Stop Believin’」のリモート・セッション動画をオフィシャルYouTubeで公開! これは23日に行われたユニセフUSAのヴァーチャル・イベント出演時の映像で、冒頭、真っ白なツーバス・セットを叩くドラマーが登場。誰だろうと思ったら何とナラダ・マイケル・ウォルデン! ニール・ショーンが自身のSNSでナラダがジャーニーの新メンバーになったことを発表したという。

 ジャーニーが新たな編成で公開した「Don’t Stop Believin’」のリモート・セッション映像。冒頭からナラダが登場!
ナラダ・マイケル・ウォルデンと言えば、マハヴィシュヌ・オーケストラ、ジェフ・ベックなどで活躍した伝説のドラマーで、特にジェフの代表曲である「Led Boots」での名演はあまりにも有名。「Don’t Stop Believin’」の映像でもオープン・ハンド奏法から、重厚なバック・ビートを叩き出し、見事にバンドをグルーヴさせている。

 自身のInstagramで、ナラダはジャーニーへの加入発表の喜びや、長い付き合いのあるニール・ショーンをはじめとする各メンバーへのリスペクトを語り、「ジャーニーは、これから品格あるホンモノのロック&ソウルと共に、頂上を目指して堂々と進んでいく」とコメントしている。新ベーシストは80年代にジャーニーのサポートを務めたこともあるランディ・ジャクソン。強力なリズム体が加わったジャーニーの活動に期待したい!

*https://drumsmagazine.jp/news/news-journey-narada-michael-walden/ より

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