「灰野敬二」
1952年5月3日生まれの69歳
灰野敬二、ロスト・アラーフを語る
「三里塚で石を投げられたことがオレの宝」 インタビュー・文/剛田 武 , 写真/船木和倖
JAPAN Rock / Experimental 2021.02.03follow us in feedly
2020年12月31日にリリースされた2枚組CD『LOST AARAAF』には灰野敬二のミュージシャンとして最初期の活動が記録されている。灰野自ら〈ロックを継承した唯一のバンド〉〈いちばんシンプルなパンク〉と表現するロスト・アラーフだが、常に〈今〉を追求しつづけているアーティストとして自他ともに認められている灰野にとっては、過去よりも現在の活動の方が遥かに重要であることは間違いない。とはいえ70年代日本のロックの黎明期におけるロスト・アラーフの活動が、現在の灰野敬二の音楽の基本にあることは確かである。40年以上昔の話なので正確に覚えているわけではないと前置きする灰野に話を聞いた。
やりたいから乱入する
――ロスト・アラーフ加入前に参加した〈実況録音〉はブルース・ロックのバンドとのことですが、加入の経緯と活動内容を教えてください。
「加入の経緯は思い出せない。高校を辞めた後に、都内の別の高校に行っている友達に誘われて彼の同級生のバンドに参加して、彼の高校の学園祭で1回だけライブをした。学外のメンバーが参加するのは異例のことで少し揉めたけど。多分その時のライブを実況録音のドラマーの高橋さんが観てくれて誘ってくれたんじゃないかな。錦糸町でリーダーの伊藤(寿雄)さんを紹介してもらった記憶がある。
実況録音はフリートウッド・マックみたいなブルース・ロックをやっていた。ベースはのちにカルマン・マキ&OZに入る川上シゲさんだった。ビアホールやジャズ喫茶で演奏したけど、音がでかい、ヴォーカルがわけわからん、と言われていつも途中でライブを中断させされた」
――ロスト・アラーフに加入する前に、南正人さんやブルース・クリエイションのライブに飛び入りしていたそうですね。どんな経緯で飛び入りしたのでしょうか?
「飛び入りするのに経緯なんかないよ。やりたいから飛び入りした、というより乱入だね。歌う前に一言断りを入れたけどね。対談※でも話したけど、南正人さんの〈魂のコンサート〉に飛び入りした時、南さんは学生服のオレのヴォーカルを聴いて〈カッコいいね!〉って褒めてくれた。南さん、今までいろいろどうもありがとうございます。あまり会う機会はありませんでしたが、ご冥福をお祈りします。
ブルース・クリエイションは布谷(文夫)さんが辞めてヴォーカリストが不在の頃で〈演奏はいいのにヴォーカルがいないじゃん、それじゃオレが歌っちゃおう〉と思って乱入した」
ロック、フリー・ジャズ、現代音楽
――渋谷のヤマハに行ってレコードを試聴していたとのことですが、どんなふうにレコードを選んだのでしょうか? 当たりだったのはどんなレコードですか?
「当時輸入盤を扱っていた店は、渋谷ヤマハの他に銀座・山野楽器や桜上水のドンキーくらいしか知らなかった。とにかく自分が聴いたことがないもの、『ミュージック・ライフ』に載っていないものを片っ端から聴いた。特にハードなもの、ロリー・ギャラガーがいたテイストとか、当時は誰も知らなかったね。
それから変わっているもの。インクレディブル・ストリング・バンドを聴いて普通のロック・バンドとは違う楽器編成に興味を持った。どっちが先か忘れたけど、サード・イヤー・バンドに出会って衝撃を受けたのもその頃。この頃買ったレコードは今でも持っているよ」
――フリー・ジャズを教えてくれたのは川越のレコード屋だとお聞きしましたが、ロック少年だった灰野さんはショックを受けましたか?
「音羽屋という一見のお客はお断りという雰囲気のレコード屋があって、その店長からフリー・ジャズのレコードを聴かせてもらったけど、そのときはグチャグチャしてると思っただけでピンと来なかった。
それより渋谷ヤマハのレコード・セールで傷あり600円で買ったオリヴィエ・メシアン『世の終わりのための四重奏曲』は大ショックだった。当時の自分が好きになれるものがここにあった!と感動した。その頃ラジオでNHK FMの『現代の音楽』や『バロック音楽のたのしみ』を聴いていた。電波が悪くて雑音交じりだったのをテープ・レコーダーで録音して聴いていた。
他にパティ・ウォーターズもセールで買った。これも傷ありだったけど、この2枚は買い直す気になれないね。ノイズも含めて記憶に馴染んでいるから」
17歳の時、レッド・ツェッペリン“You Shook Me”を聴いて覚醒した
――前衛ヴォーカルがやりたかったとのことですが、なぜそう思ったのでしょうか? 具体的に影響を受けた音楽やミューシャンはいますか?
「人がやっていないことをやりたかった。17歳の時、レッド・ツェッペリンの“You Shook Me”(69年)の最後のヴォーカルとギターの掛け合いをTBSの深夜ラジオ番組「パックインミュージック」火曜日の福田一郎さんの番組で聴いて、夜中に覚醒した。それからアーサー・ブラウンの“Fire”(68年)もショックだった。
高校でバンドをやり始めた。ひとつは先輩のバンド。ギタリストが生徒会の副会長でジェフ・ベックそっくりだった。ギターの腕はそれほどじゃなかったけど。もうひとつの同級生のバンドで学園祭に出演した時は、バンドが10分間(ローリング・ストーンズの)“Satisfaction”のリフを繰り返して、オレはずっと叫び続けた。本当はクリームやテイストをやりたかったけど、高校生には無理だったからね。
その後に教師から呼び出しをくらって、英語と音楽の成績が2段階落とされた。特に音楽の先生はそれまでオレの声を認めてくれていたから、バンドでオレのヴォーカルを聴いてショックを受けたみたいだ」
――その頃の衝動がロスト・アラーフ加入に繋がったわけですね?
「自由劇場でブルース・クリエイションに飛び入りした時、おそらく富士急〈ロック・イン・ハイランド〉の関係者のひとりだった宇佐美さんという人が観てくれたみたいで、その後に〈ロック・イン・ハイランド〉に出演しないかと電話が来たんだと思う。で、前衛ヴォーカルをやりたい、と言ったらロスト・アラーフを紹介してくれたんだ。ロスト・アラーフがいなかったら、ソロで出演していたかもしれない。ソロでやったら一瞬で引きずり降ろされただろうね」
オレはどこにも属さなかった
――71年8月の〈三里塚幻野祭〉をはじめとして、この時代のロック・コンサートには学生運動や政治が関わっていることが多かったと思いますが、灰野さんはどう感じていましたか?
「社会を批判しているくせに、奴らは自らも飲酒や喫煙など社会の悪習慣に染まっていた。そして権力に対しての憤りをドラッグで自ら沈静してしまっていた。今になって煙草をやめたという人がいるけど、どうして煙草を吸い始めたのか自問自答してほしい。
オレはどこにも属さなかった。誰とも付き合いはない。集団や共同体は大嫌いだった。学生団体、ヒッピー、演劇集団、新興宗教、人が集まればろくなことをしない。だからフォーク・ソングは大嫌い。個人として好きな人はあらゆるジャンルにいるけどね」
――髙橋廣行さんとの対談で当時の灰野さんはコンサート荒し(潰し)で有名だったと言っていますが、なぜそんなことをしていたのですか?
「彼らのコンサートのやり方は自分にとってはロックじゃないと思っていたから。当時はコンサートに警備員はいなくて、バンドの関係者のふりをして潜り込むこともできた。もしかしたらオレがコンサート荒しをしたせいで警備員がつくようになったのかもしれないね」
望む音楽は即興演劇
――自分で歌詞を書き始めたきっかけは?
「初めの頃は究極の言葉は叫びだと思っていた。その後自分の言葉が見つかって、歌詞が溢れてきた」
――活動を続けるにつれて即興でありながらも曲構成が出来てきたとのことですが、構成のあるロックの方向へ転換しようという意図はあったのでしょうか?
「それまでも完全にフリー・フォームだった訳ではなくて、最初の何分はドラム、その後全員で何分、といった感じで時間的な流れは決まっていたし、CD2の3曲目“LAW OUT”ではドラムとピアノがリフを作っていた。組曲“1999年の微笑”はみんながアイデアを持ち寄って作った。
オレは元々役者志望だから、演劇性を求めた。オレが望む音楽は言ってみれば即興演劇、(定型を)なぞらない演劇だから」
――“1999年の微笑”の歌詞は、かなり露骨で過激な言葉が出てきますが、インスピレーションの元は?
「その頃のオレは、今よりも言葉や文学にも近づいていた時期だった。観念的になっていて、いわゆるダダにも興味があった。それで“1999年の微笑”で言葉をたくさん使った。すべての色を使った。
その後、自分にとってすべての色の素と思う黒に近づいていった。フランスのある作家が、東洋に傾倒し、たったひとつの世界に溶けていくことを描いている。オレは最終的に言葉をひとつにしてしまいたかった。シュールレアリズムやダダには興味がなくなった。
だから不失者では言葉をできるだけ使わないし、固有名詞を使わない。使う言葉は同じで組み合わせを変えているだけ」
ロックの弁護士
――73年に裸のラリーズの水谷(孝)さんとブルー・チアーのカヴァー・バンドをやったそうですが、その経緯・意図は?
「ロング・ヘアーが好きだし、ブルー・チアーが好きだから。確か2回スタジオに入った。誰かが録音していたみたいだけどオレは覚えていない」
――73年7月から裸のラリーズと共同でイベント〈エレクトリック・ピュア・ランド〉を始めました。企画は髙橋さんが中心だと思いますが、灰野さんとしてはラリーズとのイベントをどう感じていましたか?
「自然な流れだね。なるべくしてなった。オレたちとラリーズはやっていることが違うから一緒にできたんだ。〈エレクトリック・ピュア・ランド〉では一度も揉めたことはないよ。実務はすべてオシメ(髙橋のニックネーム)に任せた。交渉は彼の方が得意だったし、リーダーが二人いると必ずぶつかるからね。チラシ配りだけは一緒にやったけど」
――74年5月5日、最後の〈エレクトリック・ピュア・ランド〉でのソロ・ライブは、ステージの4つの椅子の前にマイクを立てて、ひとつの椅子にロングブーツ、2つ目に1万円札を置いたそうですね。3つ目は忘れたそうですが……。
「いま思い出したけど、3つ目の椅子に置いたのはコードのついていないマイクだった」
――そして4つ目の椅子にスイッチをオンにしたジューサー・ミキサーを置いて、その音をマイクで拾いながら詩の朗読をするというユニークなものだったそうですね。どうやらこの時の録音がどこかにあるらしいですが。
「おそらくこれが日本で初めてのノイズじゃないかな? フルクサスのヘニング・クリスチャンセンや川仁宏さんのように、何でもないような事でも、やる人によっては醸し出す魔術がある。日比谷のライブがそのようになっていたら嬉しい。実際に魔術になったかどうかは分からないけど。音楽に対するアンチテーゼだよ。
ハプニングとかインスタレーションをやり出した人間の中で、オレが唯一のロック畑の人間だと思う。だからその頃から自分を〈ロックの弁護士〉と呼び始めたんだ」
三里塚で石を投げられたことがオレの宝
――灰野さんがずっと音楽をやり続けている中で、ロスト・アラーフとはご自分にとってどういう意味があるのでしょうか。
「対談でも言ったように、ロスト・アラーフがあったから今のオレがいる。三里塚で石を投げられたことがオレの宝。あの時受け入れられていたら、不失者は生まれなかっただろう。50年という節目に集大成CDをリリース出来て本当によかったと思う」
――結成50周年の集大成音源集CD『LOST AARAAF』の装丁について聞かせてください。アルバム・ジャケットを〈赤〉にした意図は?
「一言で言えば〈やりたかった〉から。デザイナーの北村(卓也)君、彼はオレのやりたいことを分かっていて、〈あの赤〉を持ってきてくれた。これはなんだ?と驚く色。だから赤にしたんだ。
特に限定盤のジャケットの形と色合いがとても綺麗に出来て、紫色に銀で印刷した歌詞カードと合わせて自分の美意識にピタッとハマった。美術品としても価値があるものが作れて満足しているよ」
*https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/27556 より