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<知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト> 備蓄米2

2025-02-16 08:26:50 | 知ってるようでよく知らない言葉・モノ・コト

 「備蓄米 その2」

 【速報】政府備蓄米21万トンを放出と発表 江藤大臣「必要あれば数量拡大も」店頭に備蓄米が並ぶのは来月下旬か 2025年2月14日(金)9時23分 TBS NEWS DIG
 農林水産省はコメの価格高騰をうけて、備蓄米21万トンの放出に向けた概要を公表しました。早ければ、来月下旬にも備蓄米が店頭に並びそうです。
 江藤拓農林水産大臣
 「流通が滞っているこの状況をなんとしても改善したいという強い決意の数字だ」
 備蓄米は全体で100万トン程度ありますが、農水省はそのうち2割にあたる21万トン、お茶碗32億杯分を市場に放出すると発表しました。
 流通の円滑化を目的に備蓄米を放出するのは初めてで、江藤大臣は、「必要があれば、更にこの数量を拡大する」と話しました。
 最初は15万トンを放出し、その後は市場の状況などを見ながら追加する考えです。
 初回入札の対象は、去年の秋に収穫した2024年産が10万トン、2023年産が5万トンとなります。
 早ければ、来月下旬にもスーパーなどの店頭に備蓄米が並ぶということです。
 コシヒカリの価格は去年5月ごろ、5キロ=2400円程度でしたが、先月には4000円を突破しました。
 備蓄米の放出で、コメの流通量が増えれば値下がりが期待されます。
 ただ、関係者からはスーパーなどには高値で仕入れたコメの在庫があることから、「備蓄米が流通してもすぐに店頭価格は下がらないのではないか」との見方も出ています。

*https://news.biglobe.ne.jp/economy/0214/tbs_250214_6105904863.html より

 

 大臣の発言に「必要があれば、更にこの数量を拡大する」というのが、民間在庫の牽制になるか?

 まずは「値上げ」を待つ生産地に近い在庫が動くか?

 大手は動くと損することも考えられるから動くことはまだないだろう。

 あとは「関西万博需要」を見越して、会場出展者に納入している業者も保持するだろう。

 大阪の中小卸は「高騰したお米」を抱えているから、放出備蓄米の買い入れで「在庫確保」と「サヤ確保」をすることだろう。

 もし価格が落ち着けば、今年のお米-令和7年産の青田買いは控えめになるかも?

 まだまだ不安要素満載なので油断禁物である。

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<社名の由来> 毎日新聞社

2025-02-16 08:17:49 | 社名の由来

 「毎日新聞社」

 株式会社毎日新聞社(まいにちしんぶんしゃ、英: The Mainichi Newspapers Co., Ltd.)は、全国紙『毎日新聞』を発行する日本の新聞社。ニュースサイトの「毎日新聞デジタル」の運営も行う。大阪毎日新聞と東京日日新聞を源流とし、1970年代までは本社と本店を大阪に置いていたが、その後東京に移転した。選抜高等学校野球大会(春の選抜高校野球)などのスポーツや文化事業の企画開催も行っている。

 毎日新聞グループホールディングス(毎日新聞GHD)傘下の中核事業会社である。株式会社毎日新聞社と名乗る企業名は通算3代目(現在のそれは、毎日新聞GHDの設立後に新たに設立されたもの)である。

 1872年 - 「東京日日新聞」創刊。
 1876年 - 「大阪日報」創刊。
 1882年 - 「大阪日報」の身代わり紙として「日本立憲政党新聞」(後の「大阪毎日新聞」)創刊。
 1943年 - 「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」が題号を統一[注 2] して、「毎日新聞」となる。

*Wikipedia より

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< 郷土料理 > 静岡 ぼくめし

2025-02-16 08:13:43 | 郷土料理

 「ぼくめし」

 主な伝承地域 吉田町(中部地域)

 主な使用食材 ウナギ、ごぼう、いんげん、米

 歴史・由来・関連行事
 県内の主な養殖ウナギの産地は、浜名湖周辺と大井川流域の2カ所があり、吉田町は大井川流域の産地にあたる。吉田町におけるウナギの養殖は、大正時代に度重なる大井川の洪水で稲が育たなくなり遊休水田となった地に養鰻池を築造して、大井川の伏流水を利用したことからスタートした。吉田町のウナギは、身が柔らかくて脂のりがいいと評判の品である。
 「ぼくめし」は炊きあがったご飯にウナギとごぼうを煮たものを合わせた混ぜごはん。その名は太い杭の「木杭(ぼっくい)」からきており、当時、太すぎるウナギが売り物にならなかったため、養鰻場のまかない飯として利用し食べられ始め、それが「ぼくめし」と呼ばれるようになったという。
 昭和30年代後半から、全国のウナギ生産量の4割を占めるほど多く養殖され(※)、大量に捕れて地元では安く購入できたため、ぼくめしは多くの家庭で作られていたが、近年はウナギの値段が高騰し、家庭で作る機会も減っている。
※よしまち公社HPより

 食習の機会や時季
 祭りや祝い事の際に食べられている。

 飲食方法
 ごぼうをささがきにして茹で、ウナギは蒸して細かく切る。両者を煮て、炊きあがったご飯と混ぜる。斜め切りにして茹でたいんげんや錦糸卵などを飾る。

 保存・継承の取組(伝承者の概要、保存会、SNSの活用、商品化等現代的な取組等について)
 家庭料理だが、販売している店もある。

*https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/36_10_shizuoka.html より

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<B級ご当地グルメ> 長崎 トルコライス

2025-02-16 07:59:52 | B級ご当地グルメ

 「トルコライス」

 トルコライスは、長崎県、主に長崎市を中心としたご当地グルメで、一皿に多種のおかずが盛りつけられた洋風料理である。

 また関西地方や横浜・川崎地区など、長崎以外の地域にも内容の異なるトルコライスが存在する。北海道の根室地方の郷土料理のエスカロップとも良く似ている。

 概要
 豚カツ、ピラフ、スパゲティが一つの皿にのっていることを基本とする。ピラフは当初、ドライカレー(カレーチャーハン、カレーピラフ)が主流だったともされ、あるいはチャーハンであることもある。スパゲティはナポリタンが多い。上からデミグラスソースやカレーソースなどがかけられる。サラダも同じ皿に乗せられるか、または別皿でつくこともある。細部は店によって異なり、また一軒の店で複数の種類のトルコライスを提供する場合もある。「トルコ風ライス」として出している店もある。

 一つの皿に複数の料理をのせることからお子様ランチにたとえられ、「大人版お子様ランチ」、「大人のお子様ランチ」などと形容されることがある。

 1950年代に誕生したとされるが、名前の由来も含めて確かなことは分からない。

 →詳細は「§ 発祥と由来の諸説」を参照
 1952年生まれのさだまさしは3歳8か月から小学生時代にかけて長崎音楽院に通い、日曜の昼休みに外食するのが楽しみだったとしつつ、夕月のカレーとともにツル茶んのトルコライスは「滅多に食べられることはなかった」と記している。

 かつては長崎と同じタイプのトルコライスが県外で見られることはあまりなかった。うえやまとちの漫画『クッキングパパ』は1992年に掲載されたトルコライスを題材にした回で劇中、長崎ではどこにでもある、博多にはないと登場人物に会話させている。1999年には朝日新聞島根版で長崎出身の記者が「他県ではあまりみたことがない。」と記していた。また2001年の朝日新聞大阪版では記者の長崎出身の知人が大阪のトルコライスに「スパゲティがついてない」と不満そうにしている様が記されている。さだまさしと長崎県東京事務所はそれぞれ、東京に出てから長崎のトルコライスがないことを知ったと記している。

 近年は長崎を紹介する旅番組でご当地グルメとして紹介されたり、前述の「クッキングパパ」や森田信吾「駅前の歩き方」(2004年)のように料理・グルメ漫画で取り上げられるなどメディアでの紹介も増えた。旅行ガイドの「るるぶ長崎」や「まっぷる長崎」では2010年代にはほぼ毎年のようにトルコライスの頁が掲載されている。県外でも長崎出身の料理人が開いた店で提供されたり、トルコライスを知って店のメニューに加えたりされるようにもなった。また2003年頃からはセブン-イレブンなどのコンビニエンスストアで弁当として販売されるようにもなっている。長崎県東京事務所も2007年には東京でトルコライスを食べられる店を2軒、紹介している。

 なお長崎にもバターライスの上にサワークリームで仕上げた牛肉、エビ、野菜がのるといった全く異なるタイプのトルコライスを出す店もあった。トルコの兵隊に作って食べさせていたトルコ料理を先輩から伝授されたとしていた。

 トルコ料理との比較
 「トルコ」の名を冠してはいるが、トルコ料理に同じものは無い。トルコは世俗主義ではあるもののイスラム圏であるため豚肉食は忌避される。日本経済新聞の連載「偏食アカデミー」では1997年の記事でトルコ料理店マネージャーの「トルコの人にとって豚肉は宗教上食べるのはおろか、見るのも嫌なものなんです」というコメントを掲載している。周達生は塚口駅前のイタリア料理店にあったトルコライスの写真と、大阪・東京・長崎の店のトルコライスを取り上げた朝日新聞記事を挙げて、豚カツを使った料理に「トルコ」の名前を付けていることが「許せない」「ケシカラン」「いただけない」と記した。またピラフとスパゲティを一つの皿に盛り合わせることもない。

 一方でトルコ料理のケバブでは皿に盛って供するものがあるが、ピラフと肉・サラダの組み合わせを1枚の皿に盛る点でトルコライスに似る。「偏食アカデミー」では鈴木董から「トルコにはピラウ(ピラフ)の上に羊肉や豆の煮込み、野菜などをのせたものや、鳥肉に木の実、野菜、米を詰めたドルマという料理はあります」と紹介され、ピラウ料理の写真を掲載して比較している。また2001年の朝日新聞記事でも「スライスしたケバブを載せたピラフ」の写真を「本物のトルコ料理」として掲載、比較している。

 発祥と由来の諸説
 植原一郎説
 ビストロ・ボルドー店主の父、植原一郎は兵庫県姫路市の出身で外国船の船員をしていたが、戦後は神戸の米軍将校クラブ「シルバーダラ」に勤めた。クラブに出入りする日本人女性や従業員のために冷やご飯で焼き飯を作ったが、外国人のクラブのため焼き飯と言えず、トルコのピラウに似せたとして「トルコ風ライス」と呼んだ。実際にトルコのサフランピラフに似せようとサフランを用いたり、ターメリックを試したりもしたが、カレー粉になったともいう。トンカツやスパゲティはおかずを求められて付けたという。植原は妻の故郷である長崎に移ってレストランマルゼンのシェフ松原と知り合う。松原が入院して助っ人として入ったが、経営者から相談を受けた際にトルコ風ライスを紹介し、松原が退院して復帰した後に初めてメニューに載り、長崎に広まったとする説。

 2004年の「リブながさき」が有力とした三つの説の一つ。長崎外国語大学の副学長、姫野順一が2019年6月6日「秘密のケンミンSHOW」で有力な二つの説の一つとして紹介した話は本説の将校クラブのくだりに沿っているが、料理を将校に出したとしている点に相違がある。

 柏井寿は植原一郎をビストロ・ボルドーの先代シェフとしているが、ビストロ・ボルドーは1987年(昭和62年)に当代の店主、植原一が自ら開業した店である。伊丹由宇は既に廃業したレストラン金子の先代マスターの話として「神戸の将校クラブ」や「ピラウ」、「レストラン丸善」に触れて「最も具体的な理由を持っている」としたが、レストラン金子は店主が1983年に店を構え、2008年1月末に閉店して25年の歴史に幕を閉じた店である。

 レストラントルコ説
 レストラントルコで出していたメニューが店名からトルコライスと呼ばれ、他の店にも広がったとする説。喫茶店「ツル茶ん」がこの説を提唱しており、二代目店主がレストラントルコの開店特別メニューをヒントにしてメニューに加えたとしている。レストラントルコは5年ほどで廃業したという。またレストラントルコのマッチが残っている。

 2004年の「リブながさき」が有力とした三つの説の一つであり、姫野順一が「秘密のケンミンSHOW」で有力とした二つの説の一つでもある。

 長崎の喫茶店で考案されたとする説もあるが、レストラントルコを喫茶店としているのかは分からない。また喫茶店である「ツル茶ん」について毎日新聞は2008年から2009年にかけて「トルコライス発祥の店」と書いていた時期があったが、ツル茶ん自身は「元祖」ではないとしている。喫茶店の店名を「トリコロール」とする説については#トリコロール説を参照。

 松原三代治説
 レストランマルゼンのシェフだった松原三代治がつくり、命名したとする説。女性の晴れ着姿をきっかけに上半身をライス、帯をカツ、着物の派手な柄の裾をスパゲティに見立てた。

 2004年の「リブながさき」が有力とした三つの説の一つ。

 当時、特殊浴場をトルコ風呂と呼ぶなど「トルコ」と名付けるのが流行っていたので便乗して命名したとする。また当時人気を呼んでいたトルコ風呂にあやかり、「うんと精力をつけて頑張ってほしいから」という理由で命名したとすることもある。

 長崎の郷土史家、中西啓はレストラン・マルゼンのコック長を創製者として、当初はトンカツではなくシシカバブを乗せていたとした。ただし松原は初めてメニューに出したトルコライスと同じレシピとしてシシカバブではなくトンカツを挙げている。

 地理的命名説
 トルコライスを構成するそれぞれの料理をどこかの国・地域にあてはめ、その中間にあるのがトルコだからとする説。2000年代半ば頃から、二つをつなぐ「架け橋」と表現されることもある。

 チャーハンが中国でスパゲティがイタリア、トルコが東洋と西洋にまたがる国、中東発祥のピラフがアジアでイタリア料理のスパゲティがヨーロッパ、カレーがインド・とんかつが中国・スパゲティがイタリアなど、どの料理をどこに例えるかにも諸説ある。

 1993年の「リブながさき」では「中間説」として取り上げているが、自店舗での命名の証言としてではなく、聞いたことがあるとして紹介されていた。また同誌ではトルコ人にトルコライスについて聞いた記事があり、そこではトルコライスの命名の由来としてではなく、トルコという国について「ブリッジ・カントリー、架け橋」であると説明されていた。

 柏井寿は「最も有力なのが地理的命名説」とするが、ビストロボルドーではトリコロール説とともに長崎のタウン誌によって二十数年前に編集会議で仮説として作られ、書かれた物であるとして事実とは異なるとしている。俵慎一もまた、地元タウン誌の編集会議でたてた仮説だったと当時の編集者が後に明かしたとしている。なお2004年の「リブながさき」では思い付いた仮説や未確認の噂を取り上げたことがあったとして謝っているが、具体的にどの説がそうかは記していない。

 また中間説・架け橋説とは別にピラフをトルコのアナトリア高原、トンカツをタウルス山脈、スパゲティをエーゲ海の海岸線に見立てた説を1993年の「リブながさき」がやはり伝聞として「トルコの地形説」と記し、日本経済新聞の連載「偏食アカデミー」では証言者を紹介した二つの説とは別に挙げた「諸説」の中で「地形説」として記している。伊丹由宇もまた「並べ方が、トルコの地形に似ている」説を挙げている。

 トリコロール説
 トリコロール(三色旗または店名)が転訛してトルコとなった説。

 1993年の「リブながさき」でフランス国旗に代表される三色旗を挙げて「トリコロール説」として取り上げられているが、他の説と違い証言者、伝聞の紹介者のいずれも記されていなかった。

 ビストロボルドーでは地理的命名説とともに長崎のタウン誌によって二十数年前に編集会議で仮説として作られ、書かれた物であるとして事実とは異なるとしている。俵慎一もまた、地元タウン誌の編集会議でたてた仮説だったと当時の編集者が後に明かしたとしている。なお2004年の「リブながさき」では思い付いた仮説や未確認の噂を取り上げたことがあったとして謝っているが、具体的にどの説がそうかは記していない。

 柏井寿はトルコライスを最初にメニューに載せたのが「トリコロール」という店だったからという説を紹介し、続けて新説と称して3つの食材をフランス国旗に見立てた説を披露しているが、前述の通り1993年の時点で三色旗からのトリコロール説は言及されている。

 「よくわからない料理」説
 トルコが当時あまり知られていなかったとして、「よくわからない料理」という意味に由来するという説。

 関西地方
 伊丹由宇は著書で、神戸と大阪には長崎とは全く異なる「トルコ・ライス」が存在すると記しているが、詳細は省くとしてそれ以上のことは書いていない[57]。今柊二は「大阪、京都などの関西地方」にトルコライスがあるとしている。『京阪神の洋食』では大阪と京都の店を挙げつつ「関西トルコライス」とした。

 2001年に朝日新聞が大阪で元祖を名乗る店として洋食店「イスタンブール」を取材している。炒めたケチャップライスの上に半熟に焼いた溶き卵とトンカツを乗せて、デミグラスソースをかけたもの。店主(当時67歳)が20代半ば頃にアルゼンチンの公園で見たトルコ人が食べていた弁当をヒントにして1963年にメニューにしたという。記事では大阪でトルコライスを出す他の店でもよく似ていたとする。今柊二はオムライスの上にトンカツが載ってデミグラスソースがかかっているとした。店名は元は「エビス」だったがトルコライスが有名になってそれに合わせて1989年に変更した。『Meets regional』2005年5月号が「スタンダード・トルコライス3傑。」としたうちの一つ。

 柏井寿は京都の洋食店「のらくろ」のトルコライスについて、ケチャップ味の炒めご飯にひと口カツの卵とじがのり、デミグラスソースがかかったもので「洋風カツ丼」と表現し、「京都はおろか、他都市の洋食屋さんでもとんと見かけない」とした。今柊二は卵がプルプル震えるトロトロオムレツの中にケチャップライス、その上にビーフカツとし、2007年の44、5年前に店の主人が独自に考案したもので、「イスタンブール」とともにオムライスとカツという流れと記しているが、「大阪トルコ」「京都トルコ」と分けて書いていることもある。『Meets regional』2005年5月号が「スタンダード・トルコライス3傑。」としたうちの一つで、約40年前にナポリタンのライス版として作ったとする。

 俵慎一は大阪のトルコライスとよく似た料理として福井県越前市武生のボルガライスを挙げている。

 周達生は塚口駅前のイタリア料理店に豚カツを用いたトルコライスの写真があったとしている。

 関西地方にはまた別のタイプのトルコライスを出している店もある。

 今柊二はまた大阪の「ゼニヤ食堂」のトルコライスについても記している。鉄板の上に玉ネギや肉など親子丼の具のようなものが載り、生卵が落とされていて、具の下に隠れていたご飯はカレー味だったという。2007年時点で店は35年目だった。『Meets regional』2005年5月号も「スタンダード・トルコライス3傑。」とは別に掲載し、洋風ドンブリを目指したとしている。

 NHK「食彩浪漫」は2009年2月28日の放送で神戸の「ピザハウスF」を取り上げ、テキストにトルコライスを掲載し「香ばしく炒めたご飯にカレーをかけ、生卵をトッピングした」と記している。

 横浜・川崎地区
 今柊二が「横浜・川崎地区」にある「ケチャップライスの中にカツが入った長崎と違うタイプ」としているもの。「中入れ方式」とも呼び、また「横浜・川崎型トルコライス」「京浜トルコ」とも記している。俵慎一はケチャップライスとカツをまぶすと表現している。

 川崎市の中華料理店「かどや」は戦後まもなく[注 12]渋谷駅前の大衆食堂「渋谷食堂」で食べたものを後になってまねたという。渋谷食堂は現在の渋谷の万葉会館だが、万葉会館には当時のメニューは残っていないという。東急東横線沿線の多くの店でメニューに加わったが、姿を消していったという。俵慎一は「ケチャップライス+トンカツデミグラスソース+ケチャップライスという三層構造」とする。

 本牧の「キッチンさし田」は1975年に移転して来る前は蒲田のミスタウンという映画館街にあり、その頃からトルコライスがメニューにあったという。俵慎一は「洋食系のポークカツレツのテイストのトンカツ」が「一口サイズに刻まれていて、ケチャップライスに隠されている」とする。

 横浜の「ミツワグリル」ではもともとケチャップライスの中にトンカツが入っていたのを、一見してカツが入っているのがわからないとしてカツを上にのせるようになったとする。店主は名前の由来について「トルコ式サウナのように中に入っているからトルコライスという説もあった」と述べている。

 今柊二はこれらの店舗の調査から戦後の東京南部・川崎・横浜ではトルコライスはそれほど特別なメニューではなく、親しまれたメニューであったと判明するとした。

 その他
 地域で同じタイプのトルコライスを出している複数の店があるかは不明ながら、他にも長崎とは異なるタイプのトルコライスを出している店がある。また文献や映画にもトルコライスが見られる。

 東京
 東京には横浜・川崎地区のトルコライスの源流とは異なるトルコライスもある。

 1963年(昭和38年)にニユートーキヨーが数寄屋橋店でカツとハヤシライスなどを組み合わせた料理をトルコライスとして出し、人気を集めたという。

 2001年に朝日新聞が東京で元祖を名乗る店として千代田区の大衆食堂「フジ」を取材している。ケチャップライスの上にキャベツの千切りを敷いてトマトソースをかけた豚カツがあったとする。店主が約20年前、本で見たトルコ料理をまねたが、写真が不鮮明でトンカツとケチャップライスに見えたという。「偏食アカデミー」でも同姓同名の店主で「富士食堂」として紹介している。

 なおどのような料理だったかは不明ながら1930年(昭和5年)の『東京名物食べある記』では洋食をやっていた銀座の「東京パン」に「メキシコライス、トルコライス等」があったことを記している。また伊勢丹新宿店の社員食堂では1936年(昭和11年)3月第1週月曜日の夜の献立でトルコライスを選択できた。

 稚内
 いくつか有名店があったとされるが、俵慎一が取材した時には食べられる店は一軒しか確認できなかったという。ライスにチキンカツをのせ、カレールウとハヤシソースを半々にかけたもの。他の店ではトンカツだったり、チキンライスだったりしたとする。元祖とされる店のトルコライスは長崎のトルコライスが元だとも、と記している。

 明治時代の文献
 小菅桂子は日本経済新聞の連載「偏食アカデミー」にて(長崎のトルコライスと)「同じものかどうかは別にして」「明治時代の文献にすでに登場している」としたが、具体的な文献は挙げなかった。

 福澤諭吉が創刊した「時事新報」の料理コーナー「何にしよう子(ね)」(明治26年10月21日号)にある「土耳其めし」は、鶏肉または牛肉のスープで炊いたご飯をバター炒めにしたものである。

 また村井弦斎の小説『食道楽 秋の巻』でも「第二百四十八 ペラオ飯」に「土耳古飯即ちペラオと云ふお料理」、「第二百六十一 料理の粋」には「ペラオの様な米料理は土耳古風から出て居る」と言及があり、さらに「附録 西洋料理の部」では「第一 ペラオ飯 と申すのは土耳古風の極く手軽なお料理」に始まって「第八 サフラン飯」「第十 土耳古飯」などが挙がっている。伊丹由宇は「長崎のトルコ・ライスとは関係ないようだ」とし、産経新聞は「ペラオ飯」に「ピラフ」と括弧書きしている。

 フランス料理
 オーギュスト・エスコフィエは著書『Le Guide Culinaire』(邦題『エスコフィエ・フランス料理』)に「Riz à la Turque」(リ・ア・ラ・テュルク。米、トルコ風)を記している。「Riz Pilaw」(リ・ピロウ。ピラフ)を作る際の注ぎ汁にサフランを一緒に入れ、煮あがった後フォンデュ・ドゥ・トマトを混ぜるものとした。

 鈴本敏雄『仏蘭西料理献立書及調理法解説』も「RIZ」(米飯料理。RICE)の中に「― à la Turque」を挙げて「サフランの粉末 Cayenne, Smyrna raisins 及び生牛酪を加へて調製するものとす。」としている。

 深澤侑史も著書『西洋料理』の「第2章 米飯料理」に「5 リー・ア・ラ・テュルック(Riz à la Turque)」を挙げてトマトとサフランを用いた複数の料理法を記し、「この米飯はサフランを加えた米飯はチュルックと称えられる」としている。また著書『西洋料理500種』では「ポルトガル風ご飯(Riz à la Portugaise)」の応用として「トルコ風バターご飯」を挙げ、ピローご飯(Riz Pilaw)を作る際にトマトとサフランを加える料理法を記した。

 なお『フランス 食の事典』では「トルコふう(―風、à la Turque)」について「トルコまたはオスマン文化を想起させる料理に用いる表現」としている。またサフランピラフは現在のトルコでは見かけないという。

 荒田勇作は『荒田西洋料理(仔牛・粉・御飯料理編)』の「Timbale タンバル料理」に「Timbale de riz turque(Turkish rice. ハムライスに豚肉の棒フライのせトルコ・ライス)」を挙げて「これはトルコ・ライスと称し、大衆向きの安価なライス料理である」と記した。トマト色をつけたハム混ぜライスを丼に盛り、豚肉を棒切りにしてパン粉をつけて揚げたものを上に並べて片側にカレーソース、片側にドゥミグラスをかけるとしている。

 映画『山の音』
 1954年公開の映画「山の音」で45分過ぎの一場面に東京近辺でロケをしたと思われる街頭の店先にメニューとしてカレーやチキンライス、ハヤシライスとともにトルコライスを表記した飲食店の立て看板がチラリと右下に写っているが、どのような料理だったかは分からない。

*Wikipedia より

ツル茶ん 昔懐かしトルコライス

*https://tabelog.com/matome/19100/#17-restaurant より

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うまいッ! NHK 「巨大!新鮮!美味!大あなご〜島根・大田市〜」

2025-02-16 07:56:35 | うまいッ!NHK

 「巨大!新鮮!美味!大あなご〜島根・大田市〜」 2024年12月29日

 島根県大田市沖でとれる大あなごは60cm超、生きたまま水揚げされ超新鮮!刺身から郷土料理まで多彩な味が堪能できます。地元に元気をもたらす大あなごパワーをご覧あれ

 あなごの漁獲量日本一の島根県。食材ハンター・當間ローズさんが、大あなごを一日漁で水揚げしている大田市を訪ねます。超新鮮な大あなごは何と刺身で!そのまろやかな味にまず感動!とれたてで作る一夜干しはうまみ凝縮でまた感動!さらに地元の野菜とともに煮込んだ郷土料理の温もりの味にまたまた感動!この大あなごが今地元で大ブーム、地域に元気をもたらしています。アナゴるなかれ!大あなごの魅力をたっぷりお伝えします。

 「うまいッ!」の秘密
 大田に伝わる伝統漁法「一日漁」こそが最大のポイント。一日漁とは、早朝に漁に出てその日のうちに帰ってくること。とれた大あなごは、身が白く輝くほどに新鮮で臭みもないといわれています。

 一日漁でとれた大あなごを、すぐに水槽に入れて生きたまま持ち帰っています。大あなごが元気に過ごせるように、水槽も、大あなごが生息する海底の水温に近い8度前後を保ちます。

 「あなごを使った料理レシピ」について
 「あなごのへか焼き」※海の幸と山の幸に恵まれた大田市ならではの郷土料理。農機具の先端である「へか」を鍋の代わりに使用したことが料理名の由来とされている。「魚のすき焼き」ともいわれるほど甘いだしでいただく魚の鍋。
 <材料>
 ・あなご(ぶつ切り):適量
 ・お好みの野菜(水菜、白菜、ねぎ、なす、エリンギなど):適量
 ・だし汁(昆布だし7:甘口しょうゆ1:薄口しょうゆ1の割合のもの):適量
 <作り方>
 1) あなごを一口大のぶつ切りにする。
 2) 水菜、白菜、ねぎ、なす(短冊切り)、エリンギなどの野菜を一口大に切る。
 3) 鍋にあなごと野菜を入れ、ひたひたになるくらいにだし汁を加える。
 4)あなごがひと煮たちしたらできあがり。

*https://www.nhk.jp/p/umai/ts/P7R4N8K39M/episode/te/6626VQ84MJ/ より

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<料理用語-和食> 鯛麺

2025-02-16 07:49:19 | 料理用語

 「鯛麺-たいめん」

 ① 広島、愛媛の郷土料理で、そうめんと鯛を盛り合わせたもの。
 鯛を姿で盛り、波のように茹でそうめんを盛る。
 鯛は竹皮を敷いて醤油味で煮たものか、塩焼きの鯛の、いずれかを用いる。

 ② 鯛の身を材料にした「魚そうめん」

*https://temaeita.net/top/t2/kj/96_K/014.html より

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<異名-スポーツ選手> すべてを備える選手

2025-02-16 07:36:59 | 異名

 「すべてを備える選手 アデミール・マルケス・デ・メネゼス」

 アデミール・マルケス・デ・メネゼス(Ademir Marques de Menezes、1922年11月8日 - 1996年5月11日)は、ブラジル・レシフェ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。

 ニックネームは顎を意味するケイシャダ(Queixada)。

 ブラジル代表としては39試合に出場して32得点を記録。1950 FIFAワールドカップでは8得点を挙げて大会得点王となったが、2次リーグ最終戦のウルグアイ戦に敗れて準優勝に終わった。2次リーグのスウェーデン戦では4得点を挙げた。南米選手権には4回出場して、1949年大会で優勝している。

 高い運動能力、スピード、テクニック、力強いシュートなど、「すべてを備える選手」と言われた。

*Wikipedia より

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<慣用句・諺> 春さる など

2025-02-16 07:30:20 | 慣用句・諺

 「春さる」

 《「さる」は季節などが近づく意》春になる。春が来る。

 

 「春立つ」

 春の季節に入る。立春になる。《季 春》

 

 「春の夜の夢」

 春の夜に見る夢。はかなく短いことのたとえ。

 

 「春設く-はるまく」

 春を待つ。また、春を迎える。

 

 「春を売る」

 売春をする。春をひさぐ。

 

*goo辞書 より

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<日本酒メーカー> 新潟 柏露酒造

2025-02-16 07:19:40 | 日本酒

 「柏露酒造」

 柏露酒造が蔵を構える長岡市は、昔から長岡藩の城下町として栄えてきた地。また越後平野の中央に位置し、良質な米の集散地としても賑わってきた。この地域は、冬の厳しい寒さに加えて日本でも有数の豪雪地帯であり、降り積もる雪が空気を清める。清酒造りに最適な自然環境である市内には現在も新潟県内で最多の16もの日本酒蔵があり、技を競っている。

 目指すは芳醇で味わい深く上品で奥深い酒

 出荷先は県内よりも首都圏の百貨店などでの取り扱いが主となっている。
 代表銘柄は『柏露』。贈答品によく選ばれているという。
 「酒質は、芳醇で味わい深く上品で奥深い酒を目指しています」というが、なるほど、三つ柏の紋をあしらった『柏露』のラベルには高級感が漂い、誰かに贈りたくなる趣がある。

 紋は旧長岡藩主の家紋から

 大手の流通に乗っているため首都圏で知られる『柏露』だが、これからは地元の人たちにも親しんでほしいという
 この三つ柏、じつは旧長岡藩主牧野家の家紋。牧野家は江戸時代から明治維新までの250年余り、長岡の地を統治した大名家だ。
 1882年その牧野家から酒造蔵を譲り受け、三つ柏紋の使用と商品名「柏露」を継承したという経緯が『越乃柏露』にはあった。
 もともとこの蔵の創業者は長岡藩の御用商人。江戸時代の1751年に「越中屋」として造り酒屋を開業した。『柏露』には、そうした関わりから生まれた背景を持つ由緒ある銘柄。贈答品に選ばれる品格も頷ける。

 進化し続ける『氵』さんずい

 伝統を守りながら新しい日本酒の世界を拓く『氵』さんずい
 柏露酒造が蔵を構える長岡市は、昔から長岡藩の城下町として栄えてきた。長岡駅から車で10分、「長岡藩主牧野家資料館」には牧野家の繁栄の跡が残され、300分の1のスケールで再現された長岡城の偉容も見ることができる。
 また越後平野の中央に位置し、越後の良質米の集散地としても賑わってきた。市内には、現在も新潟県内で最多である16の日本酒蔵が点在する。
 こうした激戦地にあって埋もれないためには、個性ある商品の開発も課題となる。『氵』さんずいはその一例。
 「氵(さんずい)」偏は水を表し、他の漢字につけられてその意味を成す。酒蔵の命とも言える水と、伝統的な技術が出会うことで醸される清酒造りの原点を表現したブランドが『氵』さんずいだ。
 2015年の発売以来、多くの支持を得てきたが、さらなる進化を目指し2021年4月にリニューアル。日本酒を愛するすべての人たちの“明日を潤す一滴”となることを願い、オール新潟にこだわり抜いた逸品に仕上げた。通年商品の「瓶火入れ」と季節限定の3アイテム(直汲み・生原酒・生詰め)をそれぞれ飲み比べることで、製造方法の違いも楽しめるという。
 個性と言えば見た目も印象的。ラベルには筆で大書された「氵」。初めて目にすると一瞬、意表をつかれる。

 時代の変化を読み、研究を重ね、新たなうまい酒を創り出す

 上品な甘さと花火のように発泡する味わいでファン急増の「柏露花火」
 近年、アルコール市場においても消費者の嗜好の多様化が進んでいる。柏露酒造では、酒造りの伝統を守りながらも、変動する消費者のニーズと期待に応えるべく、新技術や新商品の研究開発に積極的に取り組んできた。「発泡清酒」もそのひとつだ。
 柏露酒造の発泡清酒の歴史は、研究開発を開始した2008年から始まる。同年10月には初の商品化を実現した。2015年、仕込み方法を変更した「スパークリング純米 柏の花言葉」を発売。 2017年には、飲みやすさに重点を置き、甘味と酸の絶妙なバランスを追求した「発泡純米清酒 HANABI」を発売した。
 製法のこだわりが「瓶内二次発酵」。開発当初は、炭酸ガスをお酒に注入し溶け込ませるカーボネーション方式にも挑戦した。様々な製法を試みた中で、ガス圧の安定・管理が難しい瓶内二次発酵を採用。その決め手は、後入れの炭酸では味わえない酵母由来の旨みときめ細かく繊細な発泡感だった。
 2022年、市場の活性化・ブランドの拡大を図るべく、酒質・味わいをブラッシュアップし、蔵名を冠して誕生したのが「柏露花火」だ。JR東日本の観光列車「越乃Shu*Kura」1号車・食事付旅行商品の2023年シーズンのウェルカムドリンクにも採用された。にいがた酒の陣や越後長岡酒の陣でも話題となり、県内外問わず人気が高まっている。

 大名蔵としての地元密着の活動と伝統の継承

 初開催のイベントで1,300人を超える柏露ファンが集まった
 2024年4月には『柏露酒造 蔵まつり 第1回発酵フェス2024』を開催。構想から4年、幾度も中止を余儀なくされてきたが、満を持して開催した第1回の来場者数は1,300人超。目標の倍近い数字に嬉しい悲鳴が漏れた。来場者は日本酒と地元飲食店のおつまみ、JAZZ演奏、ダンスパフォーマンスに酔いしれた。
 蔵まつりの目玉は、若手蔵人を中心に企画した「発酵フェス限定酒」。「雪囲い仕込み」「超甘口仕立て」「呑口超辛口仕立て」の3アイテムを発売。経験豊かなベテランの技と若手の新しい感性の見事な連携で3アイテムとも好評を得た。このように酒造りはもちろん、杉玉づくりや大名蔵としての心得も若手へ引き継がれている。「酒造りは人づくり」。酒造りに携わる者は時とともに変わるが「多くの人々に喜ばれる美味しい酒を造る」という姿勢はこの先も受け継がれていくだろう。
 今後はより一層、酒造りもイベントも従業員一丸となって全力で取り組んでいくという。

 柏露酒造株式会社 新潟県長岡市十日町字小島1927番地

*https://www.niigata-sake.or.jp/kuramoto/hakuro/ より

 代表銘柄

柏露 超辛口純米酒
純米酒でありながら、日本酒度+15を実現した超辛口タイプ。長期発酵に合わせた酵母を厳選し、ゆっくりじっくり醸すことで、キレのある呑口ながら、米の旨味がしっかり感じられる酒質に仕上がっています。

酒別 / 純米酒
精米歩合 / 65%
アルコール分 / 15度
日本酒度 / +15.0

さんずい 純米大吟醸 無濾過生原酒 直汲み

搾りたてのお酒を出来る限り空気に触れさせない「直汲み」「無濾過生原酒」で仕上げることで、軽い微炭酸感とフレッシュな味わいを楽しめます。
使用米 /(麹米)五百万石、(掛米)新潟県産米
精米歩合 / 50%
アルコール分 / 16度
日本酒度 / -6.0

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<日本の名水百選> 長野 龍興寺清水

2025-02-16 07:06:58 | 名水百選

 「龍興寺清水」

 「村指定文化財 龍興寺清水」

 龍興寺清水は木島平村内山地区の公民館の横(穂高1282‐4)に湧き出る清水で、かつてこの地にあったお寺の名から、龍興寺清水と呼ばれ周囲の住民達により大切に守られてきました。

 現在は内山和紙体験の家で、紙すきの工程や手法を受け継ぐとともに、はがきやうちわなどの製作を体験することができます。

 龍興寺清水
 言い伝えによると、昔、有名な弘法大師が日本中まわっていたとき、この内山に立ち寄りました。そのとき杖を突き立てて村人に「水が欲しいか、お湯が欲しいか」とお聞きになり、村人が「水が欲しい」と答えたら数日してここに清水がわき出したといいます。村人はこの清水を弘法清水と呼んで大切に守ってきました。弘法大師は、亡くなってからの名前で、生きている時は空海と言いました。真言宗を開き、奈良県の高野山にお寺(金剛峰寺)を建てた人です。内山のこの場所に治承年間(1177年~1181年)見龍というお坊さんが寺を建てましたが、山くずれでお寺がなくなりました。天文元年(1532年)この泉屋敷に住んでいた土地の豪族壁和泉守が土地を贈って寺をふたたび建てましたが、弘治2年(1556年)また山くずれにあいなくなりました。慶長2年(1597年)得応というお坊さんが三たび建て、名前を龍興寺と改めました。以来この清水は龍興寺清水と呼ばれています。その後この水を利用して寛文元年(1661年)萩原喜右ェ門(1642年~1705年)が紙すきを始め、内山紙と名付け、広く知られるようになりました。以来この地方の一大産業として昭和時代前期までコウゾ、ノリウツギを使い内山紙が作られてきました。この間、この地方に疫病が流行して困っているとき、仏様(大日如来)をまつればなおると聞き、大日如来をまつり、このころから信仰に関係の深い柱松子が内山に始まり、今日まで続いて来ています。内山集落はこの龍興寺清水によって栄え、ありがたい弘法大師の話として代々語り継がれて来ています。

 萩原喜右ェ門は青年時代、伊勢へお参りに行くとき、美濃の牧谷という所で紙の製造法を覚えたといいます。萩原喜右ェ門は宝永2年11月19日63歳で亡くなりました。喜右ェ門の生まれた家は今は内山にはありません。

 住所 穂高1282-4

*https://www.vill.kijimadaira.lg.jp/articles/2013022000185/ より

 水質・水量
 1日の湧水量:1,223トン
 由来・歴史
 正応2年、住職が撤通大禅師を招いて座禅供養会を催したとき、1人の美女が来て「某(それがし)にも戒法を授けたまえ。我は居多ヶ浜人なり。」と名乗り、7日の戒行が終わると、「我は居多明神なり、戒法を授けていただいたお礼に霊泉を献ずる。」と告げ、姿が消えるとこの地に冷水が湧き出た。
またこの地は、内山紙の発祥の地である。
 水質保全活動
 現在は、内山区(68世帯)住民が当番制で月に一度清掃活動を行っているほか、住民主体で「内山和紙発祥の地」の石碑、説明看板、案内板の設置を行い、定期的な水質検査も実施している。

 周辺の自然環境-ブナの大木や白樺が群生する「カヤの平高原」により涵養された地下水。通産大臣指定の伝統的工芸品「内山和紙」の精製にも用いられ、「龍興寺清水祭り」の際には、この清らかな水を使った手打ちそばが好評を得ている。
 利用状況-地元の人々は、飲用の他に蕎麦やうどんを茹でたり、野沢菜漬をする前に清水を使って野沢菜を洗うなど生活用水に利用している。また、ニジマスなどの養殖業や農業用水としても利用されている。毎年11月に行われる龍興寺清水祭りでは、この清冽な清水を利用した蕎麦やうどんが人気を集めている。

*https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=47 より

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