いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

イッピンNHK 「色で勝負!華やぎの器~石川 九谷焼~」

2023-07-18 07:43:53 | イッピンNHK

 第86回 2015年3月24日 「色で勝負!華やぎの器~石川 九谷焼~」リサーチャー: 安田美沙子

 番組内容
 けんらん豪華な絵付けを特長とする、石川県の九谷焼。高級品のイメージがあるが、近年はスタイリッシュでカジュアルな器が続々と登場し、人気を博している。料理を盛りつけると思わず写真を撮りたくなる“額縁”のようなカラフル器。飲み物を注ぐと、犬がお風呂に入っているかのように見える、遊び心あふれる杯。そして、極細の線を操る“赤絵細描”の超絶技巧とは?使ってみたくなる、現代の九谷焼の魅力を安田美沙子さんが探る。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201503241930001301000 より

 詳細不明につき、勝手に調べてみました。

 「九谷焼」

 九谷焼(くたにやき)は、石川県南部の金沢市、小松市、加賀市、能美市で生産される色絵の磁器。五彩手(通称「九谷五彩」)という色鮮やかな上絵付けが特徴である。

 歴史

 古九谷
 江戸時代、加賀藩支藩である大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として始められたとされる。しかし、約半世紀後の元禄末期(1700年代初頭)に突然廃窯となる。廃窯の理由は諸説あり、判然としていない。この頃に作られたものを「古九谷(こくたに)」と呼ぶ。

 窯跡は加賀市山中温泉九谷町に、「1号窯」「2号窯」と呼ばれる2つが残る。しかし、研究が進むにつれて産地は有田であった事が判明しつつあり、現在では「古九谷様式」あるいは「初期色絵」とも称される。いまだに謎が多いとして九谷焼の本場ではこの説を認めない人が多い。

 再興期
 廃窯から約1世紀後の文化4年(1807年)、加賀藩が京都から青木木米を招き、金沢の春日山(現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」と呼ぶ。同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見され、今日までの主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器をそれぞれ移入禁止にした。

 再興期の主な窯元 括弧内は開窯時期

 春日山窯(文化4年(1807年))
 若杉窯(文化8年(1811年))
 小野窯(文政2年(1819年))
 民山窯(文政5年(1822年))
 吉田屋窯(文政7年(1824年))
 木崎窯(天保2年(1831年))
 宮本屋窯(天保3年(1832年))
 蓮代寺窯(弘化4年(1847年))
 松山窯(嘉永元年(1848年))
 春日山窯は京風、若杉窯は有田風、吉田屋窯は古九谷風を得意とした。春日山窯開窯以前の天明年間に、ほぼ同じ場所で越中国城端の焼物師、殿村屋和助という人物が窯を開いていた記録があるが、どのような焼物であったのかは判っていない。

 中興の祖
 九谷焼中興の祖と呼ばれる九谷庄三(くたに しょうざ、文化13年(1816年) - 明治16年(1883年))は、寺井村(現能美市寺井町)の農家に生まれた。17歳の時に小野窯に陶匠として招聘される。後に窯業の指導に諸国から招かれるが、能登の火打谷(現志賀町)で、能登呉須と呼ばれる顔料を発見。後の九谷焼に多大な影響を与える。26歳で故郷に戻り寺井窯を開いた。西洋から入った顔料を早い時期から取り入れ 彩色金欄手を確立し、庄三風と呼ばれる画風は、後に西洋に輸出される九谷焼の大半に取り入れられることになる。

 新九谷
 明治に入り、九谷焼は主要な輸出品となり、ジャポニスムが流行していた欧米で人気を集めた。1873年のウィーン万国博覧会などの博覧会に出品されると同時に、西洋の技法も入り込んだ。1872年頃から、型押しの技術が九谷焼にも取り入れられ、1892年頃から獅子をはじめとする置物の製作が盛んとなり、大正時代になると型が石膏で作られるようになり、量産化が進んだ。

 また、明治維新による失業士族の授産施設として、1872年(明治5年)に誕生した金沢区方開拓所製陶部は、砂子吉平、初代諏訪蘇山等の参加を得て成果を上げ、1876年(明治9年)には、石川県勧業場と名を改めた。1887年(明治20年)金沢工業学校(現石川県立工業高等学校)が開校し、次代の陶芸家が育成されるようになった。

 その他
 九谷の地名は古くからの山中温泉を1番目、大聖寺川上流へ旧西谷村の栢野大杉がある左岸村落を2番目とし9番目の村落を九谷とした、また『加州名跡誌』に拠れば「山広く方五里にわたり谷深くして九百九十九谷あり、略して九谷という」とあり、その地元伝承や谷が多く最高数字の九とした説がある。

 2005年(平成17年)8月完成(2006年(平成18年)3月竣工)の大聖寺川上流の九谷ダムによって出来た湖を一般公募から「五彩湖(ごさいのうみ)」と名付けたが、古九谷の地元であり、その特徴である五彩色にちなむ。

*Wikipedia より

 *https://item.rakuten.co.jp/garandou/kamid-052/ より

 九谷焼を代表する画法「赤絵細描」

*https://kutani-iwataya.com/?tid=2&mode=f12 より

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« < お米 > お米の品種・銘柄... | トップ | 日経トレンディ 2023 上半期 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

イッピンNHK」カテゴリの最新記事