「久米島紬」
Description / 特徴・産地
久米島紬とは?
久米島紬は(くめじまつむぎ)は沖縄県久米島町で作られている織物です。
久米島紬の特徴は、素朴でしなやかな風合いと独特の深い色調です。久米島紬の制作は、図案の選定、染色の原料の採取、糸の染め付け(そめつけ)、製織(せいしょく)のすべての工程を1人の織子(おりこ)が手作業で行います。
使用する糸は、紬糸(つむぎいと)か引き糸のいずれかで、島内に自生している植物を使った「草木染め(くさきぞめ)」や「泥染め(どろぞめ)」という手法で染め付けます。紬糸とは、繭(まゆ)から生糸(きいと)を作る際に使用できない屑繭(くずまゆ)を真綿(繭を綿のような状態に引き伸ばしたもの)の状態にして、撚り(より)をかけて手紡ぎ(てつむぎ)した糸のことで、引き糸とは、繭から生糸を手で引き出したものです。
天然染料を使うことで、織り上がった久米島紬は、洗うたびに染料の灰汁(あく)が抜けていき、色が冴えてますます美しい色合いになっていきます。
また、絣模様(かすりもよう)に織り上げるために糸に色を付ける部分と付けない部分を細かく染め分けなければなりません。色を付けない部分には、事前に木綿の糸を巻き付ける「絣くくり(かすりくくり)」という工程を行います。非常に繊細で根気のいる作業で、一般的な紬や絣は機械を使用して「くくり」を行う場合が多いですが、久米島紬の場合は、「絣くくり」の工程もすべて手作業で行います。
History / 歴史
久米島紬 - 歴史
久米島紬の歴史は古く、室町時代にはすでに紬が作られていたと言われています。「琉球国由来記」によると、14世紀末久米中城(くめなかぐす)の家来頭・堂之比屋(どうのひや)が明(みん:当時の中国)に渡り、養蚕(ようさん)などの技術を持ち帰ったことが起源だと伝えられています。
久米島紬の歴史は重い人頭税とともにありました。1511年(永正8年)に琉球王国の支配下になると紬を貢納布(税金)として納めるようになり、1609年(慶長14)に琉球王国が薩摩藩に侵攻されると、ますます税は重くなり、紬の質の向上も求められました。そこで、琉球王府は1619年(元和5年)に、越前から坂本普基(さかもとひろもと)を招聘し、養蚕や真綿の製法などの技術を伝えさせました。
その後、薩摩の友寄景友(ともよせかげとも)によって染色や紬織の技術が伝えられ、久米島紬の基礎が築かれたと言われています。やがて、久米島の紬は薩摩を経て江戸に送られ、「琉球紬」の名で知られるようになりました。
貢納布としての紬の生産は1903年(明治36年)に人頭税制度が廃止されるまで続き、1905年(明治38年)頃から始まった改良事業により、ようやく産業として発展するようになりました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kumejimatsumugi/ より
紬の里に脈々と伝えられる泥染めの技
久米島は紬のふるさとといわれている。中国から養蚕を学び、17世紀前半には織りの基礎が固まっていた。祖母と母親から受け継いだ技を、若い人に伝えようとしている桃原禎子さんにお話をきいた。
光沢のある黒の地に茶や黄色の絣(かすり)模様が映える久米島紬。この代表的な配色に使われる黒い地色は、泥染めによるものだ。茶褐色でも赤褐色でもない、しっとりときれいな黒を出すのはむずかしく、一カ月もの間、染めの作業を繰り返す。
桃原禎子さんにおおまかな手順を教えてもらった。糸をただ泥に入れても黒くはならない。その前に、植物染料のテカチ(車輪梅)かグール(サルトリイバラ)で80回も染める。染めて干してを繰り返すから、これだけで25日かかる。
糸が茶色く染まると、いよいよ泥染めだ。久米島のおばあちゃんたちは、午前3時に起きて作業を始める。山からとってきた泥を大きなポリバケツに入れ、糸をつけて2時間おく。洗って、またつけて、一日7回ほど行なう。
翌日、またテカチに染める。そして2、3日して泥染め、テカチ……と繰り返す。泥そのものの色は、灰色がかっていて真っ黒ではない。なのに黒く染まるのは、泥の中の鉄分とテカチのタンニンが反応するためだ。
島では10月の末から一カ月が泥染めの時期になっていて、一年分の糸を染める。一人ではたいへんな作業なので、「ゆいまーる」といって、近所の人が集まって協力する。そのころは庭先に糸が干してある光景がいたるところで見られる。
作品を広げる桃原禎子さんの表情は明るい
久米島は紬の島である。集落を歩けば機の音が聞こえてくる。桃原さんも子供のころ、母親の機の音で目を覚ましていた。中学生のころから手伝い始めた。高校を卒業して岐阜で働いていたが、まもなく沖縄に戻って県の工芸指導所で染織を学んだ。以来24年、久米島紬を織り続け、作品は展覧会で入選するなど高い評価を受けている。
「布の出来は、括(くく)りと染めでほとんど決まります。」と桃原さんはいう。括りというのは、染める前に、糸の染めたくない部分をひもで巻いて染料が入らないようにすること。4反分の糸を2~4週間かけて括るので、糸で手の皮膚が切れてしまう。そんなきつさを口にしながらも、桃原さんはとても楽しそうだ。
「私、準備の工程が好きなのよ。糸を機織り機にのせて織り始めるとき、模様が出てくるのがとっても楽しみ。あとは人にあげてもいいくらい」と笑う。
真綿から糸を紡いで、図案を考えて、括って、染める。ここまでに何カ月もかかるから、織りはもうゴールのようなものなのだろう。計算した通りの絣柄が目の前に現れたときのうれしさは、想像にかたくない。
「小さいときから触っているから、覚えるのに苦労はしなかったんだけど、やっているうちに本当のむずかしさがわかってきました。満足できる作品はまだありません。いい色が出なかったとか、糸が太すぎたとか、どうしても不満が残りますね。」
桃原さんは今、昔の色柄を再現しようとしている。17世紀、琉球王府が久米島の女性に貢納布として久米島紬を織らせたとき、色柄を指定するために送った図案集「御絵図帳」にのっているものである。
「昔のほうが色が豊富なんです。手がこんでいるし、柄も今より複雑。おもしろいですよ。」
次の作品への意欲のほうが大きくて、苦労などものともしていないようだった。
職人プロフィール
桃原禎子 (とうばるていこ)
1954年生まれ。作品は沖縄県工芸公募展などに入選している。指導者としても活躍している。
*https://kougeihin.jp/craft/0126/ より
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