「棚ぼた総理/暗愚の宰相 鈴木善幸」
鈴木 善幸(すずき ぜんこう、1911年〈明治44年〉1月11日 - 2004年〈平成16年〉7月19日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
郵政大臣(第15代)、内閣官房長官(第26代)、厚生大臣(第43代)、自由民主党総務会長(第15・17・23代)、農林大臣(第48代)、自由民主党総裁(第10代)、内閣総理大臣(第70代)などを歴任した。
*Wikipedia より
故鈴木善幸氏が首相になった経緯というのが、まさに「棚ぼた」とでも言うべきものだった。前任の首相は、故鈴木氏が所属していた派閥の領袖(りょうしゅう)である、故大平正芳氏。当時首相の座にあった故大平氏をめぐっては、自民党内からの造反もあって、氏に対する不信任決議案が可決するという事態に追いこまれていた。これを受け、故大平氏は、一気に衆院解散に打って出る。ところがその故大平氏は、衆院選の最中に急死してしまうのだ。
結果的に衆院選は、弔い合戦の形となり、自民党は大勝する。問題は、後任首相に誰が就くかだった。
「結局は、さまざまな党内力学が働いた結果、無印だった故鈴木氏に白羽の矢が立ったのです。もし大平総理が亡くならなければ、故鈴木氏が総理になることもなかったでしょう」(大臣経験のある自民党有力OB)
*https://www.zakzak.co.jp/article/20231219-L6ITEAD3IVKBFM5MFJXOC3UYW4/ より
首相就任以来、一部マスコミからは角影内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。 伊東の後任で外相に就いた園田直の日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年(昭和57年)の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982年(昭和57年)10月に至って突然総裁選不出馬を表明。直前まで鈴木の出馬を前提に、対抗馬の情報を盛んに報じていたメディアにとっても「寝耳に水」の事態であった。中曽根は1982年秋に渡邉恒雄に電話で「首相が中国から帰ったら政権を禅譲してくれそうだ」と言っていた。10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べたが、不出馬の背景についてはそれほど明確に語っていない。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたこと、昭和59年度の赤字国債脱却目標が困難になったことなど、内政・外交の行き詰まりも背景にあるとされている。内閣官房長官だった宮澤喜一は退陣後に「なぜあそこで辞めたのですか」と何度となく鈴木に聞いた。答えはいつも「大政党の政権交代は平和裏に動くべきものだ。党内がそれに反する動きになってはいけないと考えた」だった。日本経済新聞で連載した「私の履歴書」で宮沢はこう記していた。一方で、外遊のたびに首相臨時代理に中曽根康弘を指名して後継候補であることを示し政争の芽を予め摘んでおくなど、引き際の調整力は巧みであった。首相在任記録は864日間で、同日選をきっかけに就任したこともあり、在任中に大型国政選挙を経験しなかった。これは日本国憲法下では最長記録である。退任後自由民主党最高顧問。
*Wikipedia より
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