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<都市の異名> 東洋のベニス

2022-10-13 08:07:29 | 都市の異名

 「東洋のベニス 堺」

 大阪湾に面し、大阪市(大坂)の南に位置する都市。また、その市街地を中心とする政令指定都市。

 地名は、方違神社付近がかつて摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)」であったことに由来する。市街地はその西方に形成され、大小路通を境に摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡に跨っていた。

 中世に貿易港として発展し、栄華を極めた。三津七湊。戦国時代には環濠都市となり会合衆と呼ばれる有力商人たちにより自治的な都市運営が行われた。

 ガスパル・ヴィレラは『耶蘇会士日本通信』の永禄4年(1561年)8月17日付け書簡に「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」、また1562年の報告書の中では、「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者もこの町に在住すれば、皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加えるものなし。町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり」と書いたことで「東洋のベニス」と海外から注目され、1598年のアブラハム・オルテリウスの日本地図の中にも、Sacay(堺)という名前が記され、Meaco(都=京都)とともに知られる主要都市だった。

*Wikipedia より

 その昔、栄華を極めた名残はほとんどない。

 戦国~江戸時代にかけての繁栄は再度明治時代に訪れる。それの象徴は「第5回内国勧業博覧会」の開催である。

 19世紀、欧米では文化、産業振興の大規模な万国博覧会が盛んでした。江戸幕府も慶応3年(1867)のパリ万国博覧会に正式に参加しています。明治になると、政府は殖産興業政策のため、自ら博覧会の開催に努めました。

 明治10年(1877)、東京上野公園で開かれた、第1回内国勧業博覧会は、多くの来会者を得て、大成功をおさめました。その後、第2回と3回は東京上野で、第4回は京都で開催されましたが、第5回は堺商業会議所のメンバーの尽力もあり、大阪市天王寺を第1会場に、堺大浜公園を第2会場(水族館)として、明治36年(1903)に開催されることになりました。

 第2会場の水族館は、すでに公園となっていた堺港の南砲台跡地に建設されました。我が国初の本格的水族館として、2階建ての本館下に大養魚槽を設け、天井をガラス張りにして魚を見上げるようにするなどの工夫がされました。

 122日の会期中、水族館の観覧者は80万人を超え、大変な人気となりました。しかし、これで政府主催の内国勧業博覧会は最後となりました。*https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/sakaikoutooohama/kyo_digi_nai.htm より

 会場となった現 大浜公園は、明治12年(1879年)に開園し、堺市営で最も古い公園です。(府営浜寺公園は明治6年(1873年)に開園)。明治36年(1903年)には大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、世界に誇る東洋一の水族館と言われた堺水族館が設置されました。その他にも公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋などもあり、当時は、関西有数のレジャー地として賑わいました。 しかし、当時の白砂青松の美しい海岸線も臨海工場地帯の埋め立て造成に伴い、その面影をなくしました。現在は、野球場、屋外プール、体育館、テニスコート、相撲場、猿飼育舎、蘇鉄山などがあり、スポーツ・レクリエーションの場として利用されています。

*https://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/koen/shokai/oohama.html より

 私の幼少期には、まだ朽ちた水族館があった。その前には動物園-象舎や檻など、そして「猿山」も。猿山-猿飼育舎だけが形は変わったが、今もある。あと場所は変わったが「潮湯」もある。

 料理旅館も数年前まで移転した場所で営業を続けていたが、すべて営業を終了した。

 当店も以前は大浜公園へは徒歩圏内だったため、先代からいろいろその昔の頃の話を聞いた。が、今では「大浜」を語る語り部はいなくなってしまった。


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