ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日清戦争』 - 6 ( 三国干渉 の結論)

2021-09-11 17:57:20 | 徒然の記

 323ページ、この本もそろそろ終わりです。本は終わりですが、書かれている国際情勢は、現在の日本に繋がっています。亡国の憲法を有り難がり、日本だけが悪い国だったと信じる、自称平和主義者たちは、松下氏の著書を読んでみたらどうなのでしょう。

 「下関条約調印から7日後の4月23日、在東京の露、独、仏三国の公使が、」「外務次官林薫 ( ただす  ) を訪ね、」「日本が遼東半島を所有することは、東洋の永久平和に害があるから、」「速やかにこれを放棄すべしと、勧告した。」

 なんと、たった1週間後に、ロシア、ドイツ、フランスが干渉してきました。交戦国同士が調印した条約に対し、他国が、白昼堂々と嘴を入れてきたのです。

 「日本国憲法」が言う、「平和を愛する諸国民の公正と信義」が、どこにあるのでしょう。ロシア、ドイツ、フランスがやっていることのどこが、「公正と信義と平和を愛する国」なのでしょう。国際社会の不安定さと、危険さを忘れた日本人に対し、何度でも言いたくなります。昔の話で終わっているのでなく、今でも世界の国は自国の利益のため、せめぎあいをしているのです。

 各国の思惑と変身について、著者が分かりやすく説明していますから、要点を抜粋します。これで理解できない、人道主義者と平和主義者は「お花畑の馬鹿者」としか言いようがありません。

 1.ロシア  2.ドイツ  3.フランス  4.イギリスの、4つの強国の説明です。

 〈 1. ロシア  〉

  ・東侵政策をとっているため、日清問題には兼ねてから強い関心を持っている。

  ・積極策に出るには準備不足のため、現状維持を策し、局面を注視していた。

  ・たとえ戦火が広がっても、清国が勝利し、現状維持にとどまると見ていた。

  ・ロシアの現状維持策は、たまたまイギリスの政策とも一致していた。

  ・戦争が意外にも発展し、意外にも日本が大勝したため驚いた。

  ・遼東半島が日本のものになると、現状維持策が破綻するので、積極策に出た。

  ・大蔵大臣ウィッテの大演説が、ロシアの国論を決めた。

   「台湾の割譲を許すとしても、旅順・大連を含む遼東半島の割譲は、」「どうしても、防止しなければならない。」「ロシアは武力をもってしても、日本兵を遼東半島から駆逐しなければならない。

 〈 2. ドイツ  〉

  ・開戦当初から必ずしも日本に敵意を見せていなかったが、行動には曖昧な点があった。

  ・日本に対し同情・友誼をかわすと言いながら、密かに清国に戦時禁制品を輸出していた。

  ・自国の退職士官を、公然と清国へ関与させ、自国の利益を図っていた。

  ・もともと東洋にさほど利害関係がなく、進んで干渉する必要もなかった。

  ・露仏同盟を警戒していたため、急遽間に割り込んだ形であった。

 〈 3. フランス  〉

  ・当時の外交関係から見て、自国の生存上、ロシアと離れられない関係にあった。

  ・開戦当初は日本に敵意がなく、むしろ相当の好意すら持っていた。

  ・にもかかわらず、ロシアが干渉を決意し、ドイツがこれに応じる態度を見せ始めると、従わざるを得なくなった。

 〈 4. イギリス  〉

  ・当初、ヨーロッパ諸国で連合し、日本へ干渉しようと提議したが、ドイツに拒絶されて諦めていた。

  ・東洋に最も多く利害関係を持っていたため、露・独・仏の干渉を扇動したことは、史実に歴然としている。

 

 初めは積極的に干渉をするそぶりを見せなかった、ドイツとフランスが豹変したことについて、氏が興味深い意見を述べています。

 「これは全く、ヨーロッパの外交関係から生まれたものに、ほかならなかった。」「露仏同盟に危険を感じていたドイツが、この機会に、露仏二カ国の仲間入りをしたと言うことである。」

 「一国の利害関係が、〈昨親今敵〉の態度を平然と取らせることは、」「今も昔も変わらない、国際関係の複雑さである。」

 これとともに、次の叙述が「三国干渉」についての氏の結論です。

 「以上のことから、三国干渉の張本人がロシアであることは、明らかであるが、」「ロシアがその決心を固めたのは、ドイツの豹変に起因していることも分かる。」

 ちょうど書評が終わりましたので、私も結論を述べたいと思います。

  1. 1日も早く、亡国の「日本国憲法」を改正しなくてはなりません。

  2. 総裁候補では、日本の安全保障を第一とする、高市氏を応援するべきと思います。 

  3. 間違っても、「女性宮家」に賛成する反日・亡国の河野氏を支援してはなりません。

  賛成の方も反対の方もいると思いますが、これが私の結論です。

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『日清戦争』 - 5 ( 中国側に立つ、ネットの情報 )

2021-09-11 13:05:47 | 徒然の記

 明治24年の大津事件については、中学校の歴史の時間で習いました。日本訪問中のロシア・ニコライ皇太子が、警備に当たっていた巡査・大津順三に切り付けられた事件です。

 発展途上であった日本が、武力報復されかねない緊迫した状況下ですから、朝夜を上げて大騒ぎになりました。死刑にすべしという行政の干渉を受けながらも、時の大審院長の児島惟謙が、司法の独立を守ったという事件でもありました。

 その4年後の明治28年3月、下関に来日した李鴻章が宿舎に戻ろうとした時、暴漢に狙撃され負傷した事件については知りませんでした。氏の説明によりますと、当時の新聞は大事件として報道していますが、私たちの歴史教科書では、教えなかったのではないでしょうか。

 犯人小山豊太郎は、上州館林の生まれで、26歳の青年でした。戦争継続論者の彼は、李鴻章を殺せば講和が破れ、戦争が進むと思ったとのことです。犯人がどうなったのか、後の顛末は書かれていませんが、この時の明治天皇のお言葉に、私は関心を持ちました。遭難の報を受けられた陛下は、即座に言われたと書いています。

 「この際、前後の策を誤ってはならぬ。」「休戦のことは、先方が申し出ている通り、無条件にやってよろしい。」「なお償金も手心を加え、早く事件の決着をつけるよう、」「伊藤に伝えよ。」

 昭和天皇のお言葉に関しては、沢山本が出されています。つい先日はNHKが『昭和天皇拝謁記』と言う違法番組で、陛下を貶めていますから、色々知っています。しかし明治天皇については、現在では書物も報道もないため、どんなお言葉を述べられているのか、トント知りませんでした。

 氏の叙述を見ますと、明治天皇もやはり一旦緩急があれば、ご自分の意見を率直に述べられる方と知りました。元勲に担がれただけの、飾りの陛下ではなかったと言うことで、私には貴重な資料になります。

 明治28年3月、李鴻章遭難後の交渉の経緯を、時系列で抜書きします。

  1. 4月1日 日本側講和条約案を清国へ提示

  2. 4月5日 李鴻章が書面による回答 長文だが抽象的で具体案なし

  3. 4月8日 伊藤全権が切言した

    ・日本が勝者で、清国が敗者であることを忘れられては困る。

    ・不幸にして談判が決裂すれば、日本の大軍は北京へ向かうであろう。 

    ・その場合には、北京の安危を言うに忍びないものがある。

    ・清国全権大使が退去したのち、安全に北京へ到着しうるか、保証の限りでない。

  4. 4月9日 清国の修正案提示、談判を引き延ばす便法でしかない内容

  5. 4月10日 日本側の修正案提出 回答期限を4日後と宣言

  6. 4月17日 清国がついに譲歩し、日本側の案を承認 講和条約調印

    内容は、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・膨湖列島の割譲、軍事賠償金二億両等

   これが下関条約と言われる、講和条約締結までの経過です。松下氏の説明を読み、私は敗戦国の立場を認めようとしない、清国の尊大さに不快感を覚え、日本政府の忍耐と覚悟に敬意を表しました。

 この間ネットで検索していましたら、松下氏と違う情報に出会いました。ここまで違う意見ですと、息子たちのためにも、報告する価値があります。

 「日本側は、清国使節の持参した委任状を問題視したが、」「これは世界的には、むしろ不評を買っていた。」「使節の全権委任を証明するのに、瑕疵があったのは確かだが、」「アヘン戦争以来、清国が外国と結んだ多くの条約には、そのような事例は数多くあり、」「使節の資格が問題になることは、きわめて稀だった。」

 「諸外国からは、露骨に交渉を引き延ばしたうえで、自国に有利な武力行使を、」「展開しているように、みられた。」

 この説明には無理があると、私は感じます。露骨な引き伸ばしをする余裕が、日本にはなかったからです。同じ情報が、次のように述べているところからも証明されます。

 「交渉に先だって陸奥は、時間はたっぷりあるのでゆっくりと話し合おうと、」「清国側に呼びかけたが、陸奥本人としては、」「内心、ヨーロッパ諸国諸国の干渉が気がかりで、」「実は一刻も早い講和成立を、念頭に置いていた。」「李鴻章が列強の干渉の動きに気づけば、交渉を延引させたり、」「あるいは破談に持ち込んで、清国に引き上げてしまうことも考えられたので、」「決して急いではいないというポーズを、あえてとったのである。」

 日清、日露の戦争はいずれも、やっと近代化しつつある日本にとって、国運を賭けた、薄氷を踏む戦争だったと言われています。これを正しいと信じている私は、日本を批判するネットの情報に首を傾げます。

 「日本としては、当面は休戦の必要がないことから、講和条件の方を先議しようと考え、」「そのため、清国にとっては苛酷であることを承知のうえで、このような条件を出したのであった。」

 「清国側が、講和条件案を指し示して欲しいと求めると、」「清国が休戦提案を撤回しない限り、講和条件案は出せないと応答し、」「いったん撤回したならば、休戦について、再び話し合うことはできないと付言した。」「継戦しながらの交渉か、4条件丸呑みの休戦かの二者択一を迫ったわけである。」

 現在の日本には、中国の側にたち、自分の国を悪し様に述べる学者が無数にいます。ネットの情報を書いた人物も、そんな人間の一人なのかもしれません。

 次回はいよいよ、「三国干渉」について述べようと思いますが、ここまで事情を知れば、「三国干渉」が唐突なものでなかったことが理解できます。明治政府の要人たちが恐れていたことが、とうとう現実になったかと、そんな気持ちになります。

 下関条約は、大国中国にとって「屈辱の条約」だったのかもしれませんが、「三国干渉」は、同様に日本にとっては、「最大の国辱」です。もう一度、次回で検証いたします。

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