ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日露戦争』 - 6 ( 明治天皇と伊藤博文侯 )

2021-09-20 17:14:54 | 徒然の記

 明治37年早々、日本政府は戦争回避のための提案書を、ロシア側に手交しました。軍備増強を続けるロシアは解答せず、ウラジオストック在住の日本人への退去命令を出します。情報を受けた政府は、ロシア軍の攻撃開始真近と判断し、急遽同年2月4日に御前会議の開催を決めました。

 「陛下の決断を得るための御前会議は、午後1時40分に開かれ、夕刻まで続いた。」

 氏の説明に従い明治天皇の席に向かって、右側と左側に並ぶ出席者の顔ぶれを転記いたします。

  〈 右側に並ぶ重臣 〉      〈 左側に並ぶ重臣 〉

    伊藤枢密院議長          山本海相  ( 首相代理 )

    大山参謀総長           小村外相

    寺内陸相             元老・山縣有朋

    曽彌蔵相             元老松方正義

    元老井上馨            桂首相   ( 激しい腹痛のため欠席 )

 「伊藤は寺内陸相・山本海相らに、果たして勝算があるかどうかたずねた。」「ともに確信はなかった。」「伊藤はさらに、曽彌蔵相に、軍費その他、」「国内経済上の諸問題について質問した。」

 「やがて、伊藤が聖断を乞うた。」

 明治天皇が述べられたお言葉を、息子たちのため転記しますが、もしかするとそれは、私が知る数少ない陛下のお言葉なので、自分自身のためかもしれません。

 「国交断絶は、日露両国の不幸である。」「できる限り、平和的解決に持っていきたい。」

 意外なお言葉でした。ロシアによる「三国干渉」に対し、陛下も「胡月会」の血気な軍人のように、強い言葉を述べられるとばかり思っていました。軍服姿の写真しか見たことのない私は、激しい性格の方だと勘違いしていたようです。

 「先に送った文書に、まだ回答を得ないことは、誠に残念である。」「私および私の政府が送った電文が、まだ貴陛下のお耳に達していないためかと、考える。」「ついては、自ら直接ロシア皇帝に、最後の電文を送ってみたいと思う。」

 陛下が電文案を読み上げられると、すぐに打電され、ここで会議が打ち切られています。しかし翌日になっても、ロシアからの回答がないため、政府は最終の電文を打ちました。

 「日本政府はこれまでの談判を断絶し、貴国のため侵略せられた、わが国の地位、」「権利・権益を防衛・保護するために、必要な独立行動を取ることに決めた。」

 日清戦争前の清国もそうでしたが、ロシアも日本を軽視し、まともな対応をしていないことが分かります。国土の広大さと人口から見れば、遥かに小さな国ですから、彼らが軽くあしらっても不思議はありません。小さな国が、大きな国にまともに扱われないのが、国際社会の現実だからです。

 明治天皇は、清国との交渉が難航しているときにも、次のように語られていました。 

 「この際、前後の策を誤ってはならぬ。」「休戦のことは、先方が申し出ている通り、無条件にやってよろしい。」「なお償金も手心を加え、早く事件の決着をつけるよう、」「伊藤に伝えよ。」

 病気がちだった大正天皇については、資料がほとんどありませんが、明治・昭和の両陛下について、私たちはもっと心に刻む必要があります。現在67ページですが、伊藤侯の言葉も、同様に刻むべきと考えます。

 「伊藤は、御前会議の終わった夕刻に、金子堅太郎を呼び寄せた。」「金子はかって伊藤の助手として、憲法起草に当たったことがあり、」「アメリカにルーズベルト以下の友人を持っていた。」

 「伊藤が金子を呼んだ理由は、すぐアメリカへ行き、ルーズベルトの斡旋を得ることとアメリカ世論の工作をするためだった。」

 伊藤侯は、開戦前に既に和平のことを考え、その手を打とうとしていました。話を聞かされた金子は、役目の困難さを考え、渡米を渋りました。

 「君は、成功不成功の懸念のために、行かないのか。」

 伊藤侯の問いに金子がうなづくと、侯が言いました。

 「それならば言うが、今度の戦いについては、誰一人として成功すると思う者はいない。」「陸軍でも海軍でも大蔵でも、今度の戦いに、日本が勝つと言う見込みを立てている者は、」「一人としてありはしない。」

 「かく言う伊藤は、もし満州の野にあるわが陸軍が、」「ことごとく大陸から追い払われ、わが海軍が、」「対馬海峡でことごとく撃ち沈められ、いよいよロシア軍が、」「海陸からわが国に迫った時は、伊藤は身を士卒に伍し鉄砲を担いで、」「山陰道か、九州海岸において、命のあらん限りロシア軍を防ぎ、」「敵兵は、一歩たりとも日本の土を踏ませぬという、決心をしている。」

 金子は侯の胸の内を語られ、彼もまた、命をかけて渡米の決意をします。読んでいる時は静かに文章を追いましたが、こうして文字を打ち込んでいますと、自然と涙がこぼれます。この叙述に、「ご先祖さまの苦労」がこもっている、と分かったからだと思います。明治天皇のお言葉も、侯の言葉にも、忘れてならない「日本人の心」がありました。

 それを「大和魂」と言う人もあり、「武士道」と呼ぶ者もいます。私は私なりに、「愛国心」と言います。「大和魂」も「武士道」も「愛国心」も、戦後の日本では、ヤクザも者の右翼を表す言葉になっています。国民に忌避され、嫌悪される言葉です。

 しかしこの言葉は、元々は謙虚で、弱い者いじめをするような、口先だけのならず者の使う言葉ではありません。くどいので息子たち嫌われるだろうと思いますが、日本をこんな情けない国にしたのは、「東京裁判史観」を肯定し、亡国の「日本国憲法」制定に手を貸し、国内に広めた学者たちです。

 中心人物は、南原繁、宮沢俊義、芦部信喜氏らの憲法学者たちです。

 読んでいるのは232ページですが、書評はやっと68ページが終わったところです。「そりゃあ、ご苦労なことだね。」と、笑う人間がいるのかもしれませんが、

 「ご先祖さまのご苦労を知れば、遅々とした書評などなんでありましょう。」「他人の批評をする暇があったら、貴方こそ総裁選の報道で、河野太郎氏や共同通信社に騙されないようにしなさい。」・・・と、これが本日の結論です。

コメント (2)
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