ねこ庭の独り言

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『日露戦争』 - 8 ( 小林外相の外交方針 )

2021-09-22 16:21:53 | 徒然の記

 267ページ「終戦交渉と列国の動き」の、書き出し部分を転記します。

 「国家間の紛争が、戦争にまで発展し、相手国を軍事的に、」「全面的に敗北させた場合でも、それだけでは戦勝国も、」「十分な成果をうることはできない。」

 下村教授の言葉は、「日露戦争」に関するものですが、「日清戦争」についても、そのまま当てはまります。戦いに負けていても、捨てられない大国の面子のため、清国もロシアも、言を左右にして敗北を認めませんでした。そこにあった戦勝国日本の内情を、氏が説明します。

 「日露戦争の場合、日本にとっては、資本のための市場の獲得や、」「天皇の名誉心の満足ためや、国内の不満を、」「外戦で逸らそう、と言うものでなかった。」「また、バルカン、中央アジア・清国で、ロシアの南下政策に悩まされる、」「イギリスにそそのかされ、その肩代わりをした、と言うような戦争でもなかった。」

 「日本は当時、そのような余裕のある戦争を、」「大国ロシアに仕掛ける富力、軍事力を持っていなかった。」「ロシアによる、韓国・満州への野心と進出に脅かされ、」「立ち上がっただけであった。」

 戦後の反日・左翼学者やマスコミが、侵略戦争だったと主張しても、諸般の事情から判断すれば、下村氏の意見が正しいと思います。政府の指導者たちも、勝利を確信していませんでしたし、まして世界の指導者たちは、日本の敗北を予想していました。それだけに、「奉天の戦い」でロシア陸軍を敗走させ、「日本海海戦」でバルチック艦隊を全滅させた時、世界中が驚きました。

 少し横道へそれますが、息子たちに伝えたいのは、氏の次の言葉です。( 272ページです。 )

 「日露戦争開始前に、わが軍部に満州作戦の具体的構想はなかったが、」「公表された歴史書類には、あたかも存在していたかのように、述べたものがある。」「それが嘘であり作文であることは、戦前の陸軍大学の講義が証明している。」

 「当時の若手軍人や官吏が組織した " 胡月会  " や、民間ジャーナリストなどの放言を引用し、 」「満州に対する侵略意図を説く歴史家があるが、それは資料を分析する能力がないか、」「他に意図があって、やっているのである。」

 日清・日露戦争を、侵略戦争と説明する南原繁、宮沢俊義、芦部信喜氏らの学者たちは、こうした自己に有利な、作られた資料を使っているのでしょうか。次の説明を読みますと、どちらの教授が正しい事実を述べているのか、分かると思います。

 「こんな戦争であったから、完勝は期待できないため、」「政府は戦前、戦後を通じて、外交を重視した。」「戦争を互角以上になんとか持っていき、外交的に国家利益を守ろうとした。」「その外交を担当したのが小村寿太郎で、彼は列国との関係に苦心した。」

 日露講和条約の締結後、まるで国賊のように非難・攻撃された小村外相のことを、私は知っています。しかし今回氏の著書を読み、外相に関する考えを大きく改めました。

 「小村外相の奮闘は、東郷元帥に匹敵する功績だった。」

 これは外相の外交基本方針と、当時の各国の動きを知れば、自ずと納得できますので、割愛しつつ紹介します。

 〈 小村外相の外交基本方針 

  ・日露交渉に対し、同盟国イギリスを含む第三国が口を入れることは、それがどのような方法によるものであっても、ロシアの利益となる懸念があるから避ける。

 〈 イギリス 〉 

  ・同盟国であるから、日本は戦争前から、対露交渉経過を内報した。

  ・日露交渉への不干渉を要請し、了承を得た。

 〈 ロシア 〉

  ・国内で戦争熱が高まらないことと、日本の強腰は、イギリスの陰謀であると宣伝し、イギリスを挑発した。

  ・ロシア外相ラムスドルフは、この情勢を利用して、イギリスに調停させようとした。

  〈 アメリカ 〉

  ・義和団事件以後、主としてロシアの満州侵略に対抗する面が強かった。

  ・日本と協調し、米清条約に門戸開放を要求していたので、むしろ日本に同情的であった。

  ・イギリス同様、日本は対露交渉経過を通告し、日露交渉への不干渉を要請し、了承を得た。

  〈 ドイツ 〉

  ・自国領の安全のため、独露密約があるとの噂があった。

  ・ドイツ皇帝ウィルヘルム二世が、在独ロシア大使に、「日露開戦の場合、余は中立を守るが、ロシアは万事ドイツに、」「友誼的援助を期待して良い。」と語っていた。 

  ・小村外相は、ドイツに対しても、日露交渉への不干渉を要請した。

  〈 フランス  

  ・露仏同盟が威力を減少することを恐れ、ロシアがドイツ寄りになることを警戒し、日露間を調停する動きをしばしば見せた。

  ・外相デルカッセは、英米に共同調停を呼び掛けたが成功せず、単独で行おうとした。

  ・日本に調停の意思を通告したが、小村に拒否された。

 少し長くなりましたが、これが日露開戦後の各国の動きです。日本が戦果を上げていますが、「奉天の戦い」と「日本海海戦」はまだこれからと言う時です。次回は、ルーズベルト大統領の動きについて報告します。金子堅太郎の苦労が、偲ばれます。

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