渡辺恒雄氏に関する情報を紹介します。
・1945(昭和20)年4月、東京帝国大学文学部哲学科に入学。
・同年大東亜戦争で徴兵され、近衛師団に配属。渡辺の回顧録によれば陸軍二等兵としての軍隊生活で上官から暴行を受けたという。この学徒出陣時代に受けた暴行などから、天皇制ファッシズムを嫌悪していた。
軍隊でのいじめに遭い、皇室や軍隊を嫌悪するようになったところは、司馬遼太郎氏に似ています。もしかすると渡辺氏も口だけ達者で、運動神経に恵まれないのろまだったのかもしれません。こういう人物は、大抵上官からしごかれます。夜陰に乗じて軍国主義の校長や教師を殴ったというのですから、いじめの原因は上官だけでなく、氏の方にもあったと推察します。
・1945(昭和20)年12月、東大在学中に反天皇制を掲げていた日本共産党に、入党を申し込む。
・1947(昭和22)年頃、日本青年共産同盟員として、ビラ貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験し、正式な党員として認められる。東大細胞に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やした。
やっぱりそうだったのかと、納得するものがあります。最初に日本を侵略国家だと公言し、謝罪談話を発表した細川総理が、元朝日新聞記者だったと知った時と同じ印象です。元共産党員でも、目を覚まして立派な愛国心を持つ国民になった人も沢山いますが、氏はそのまま碌な人間になれない人物でした。
・同年9月、カスリーン台風の被害に対する共産党の考えをきっかけに、党の思想に疑問を抱き、反マルクス主義の東大新人会運動の展開を開始。12月に自ら離党届を提出し党から除名処分を受け、東大細胞も解散となった。
共産党員の期間は、実質2年あるか無しです。ちょっとしたきっかけで、思想信条を変えるのですから、哲学志向の割には考えの軽さが見えます。それでも「メディア界のドン」ですから、共産党は忘れていません。「ウィキペディア」が説明しています。
「離党後の彼をしんぶん「あかはた」は、〈 戦後の一時期に入党した渡辺氏は、青春を燃やした日々が懐かしいのか、いまでも日本共産党に入っていたことをよく口にしている 〉と評している。」
・1950(昭和25)年3月、東京大学新聞研究所を修了。
読売新聞社への入社年月日が書かれていないので、調べていましたら、平成18年12月の日経新聞の「私の履歴書」を見つけました。込み入った話ですが、本人の書いたものですから本当なのでしょう。
「共産党のなかで、人間の道徳的価値を問う論争を提起しながら、哲学論とは別の論理で除名され、そのうえスパイの汚名まで着せられた。」
「揺れる気持ちを抱えて学生の身分のまま、思索社という出版社に入社し雑誌『哲学』の編集者になった。『哲学』は間もなく廃刊になったため、同じ出版社の『思索』という総合雑誌に移った。」
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日経だけでなく、最近はどの新聞社も新聞が売れなくなったため、ネットの記事を有料にしています。これ以上読む必要がないので止めましたが、読売の社長が別の会社にいたと知られるのが憚られたでしょうか。「ウィキペディア」が省略していました。
・読売新聞社に次席で入社(その年の首席は、後に作家となる三好徹)。また、東京新聞の採用試験にも合格している。
・朝日新聞社に入社したかったが、採用試験で不採用になったと、週刊朝日のインタビューで答えている。
・中央公論の入社試験も不合格となっており、「頭が良すぎて採用されなかった」とは本人談である。なお中央公論に関しては、渡辺が読売新聞社長時代に買収している。
東京新聞には合格したが、朝日新聞には不合格だったと、「メディア界のドン」に忖度している割には、遠慮のない記事です。自分を不合格にした「中央公論」は、社長になった時買収したと、こんなことまで紹介しています。
氏が「政界のフィクサー」と呼ばれるようになったのは、政治記者の経験があったからです。次回は、これに関する情報を紹介します。