ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

渡辺恒雄氏と読売新聞 - 2 ( 共産党、入党・除名 )

2022-10-01 18:23:36 | 徒然の記

 渡辺恒雄氏に関する情報を紹介します。

 ・1945(昭和20)年4月、東京帝国大学文学部哲学科に入学。

 ・同年大東亜戦争で徴兵され、近衛師団に配属。渡辺の回顧録によれば陸軍二等兵としての軍隊生活で上官から暴行を受けたという。この学徒出陣時代に受けた暴行などから、天皇制ファッシズムを嫌悪していた。

 軍隊でのいじめに遭い、皇室や軍隊を嫌悪するようになったところは、司馬遼太郎氏に似ています。もしかすると渡辺氏も口だけ達者で、運動神経に恵まれないのろまだったのかもしれません。こういう人物は、大抵上官からしごかれます。夜陰に乗じて軍国主義の校長や教師を殴ったというのですから、いじめの原因は上官だけでなく、氏の方にもあったと推察します。

 ・1945(昭和20)年12月、東大在学中に反天皇制を掲げていた日本共産党に、入党を申し込む。

 ・1947(昭和22)年頃、日本青年共産同盟員として、ビラ貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験し、正式な党員として認められる。東大細胞に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やした。

 やっぱりそうだったのかと、納得するものがあります。最初に日本を侵略国家だと公言し、謝罪談話を発表した細川総理が、元朝日新聞記者だったと知った時と同じ印象です。元共産党員でも、目を覚まして立派な愛国心を持つ国民になった人も沢山いますが、氏はそのまま碌な人間になれない人物でした。

 ・同年9月、カスリーン台風の被害に対する共産党の考えをきっかけに、党の思想に疑問を抱き、反マルクス主義の東大新人会運動の展開を開始。12月に自ら離党届を提出し党から除名処分を受け、東大細胞も解散となった。

 共産党員の期間は、実質2年あるか無しです。ちょっとしたきっかけで、思想信条を変えるのですから、哲学志向の割には考えの軽さが見えます。それでも「メディア界のドン」ですから、共産党は忘れていません。「ウィキペディア」が説明しています。

 「離党後の彼をしんぶん「あかはた」は、〈 戦後の一時期に入党した渡辺氏は、青春を燃やした日々が懐かしいのか、いまでも日本共産党に入っていたことをよく口にしている 〉と評している。」

 ・1950(昭和25)年3月、東京大学新聞研究所を修了。

 読売新聞社への入社年月日が書かれていないので、調べていましたら、平成18年12月の日経新聞の「私の履歴書」を見つけました。込み入った話ですが、本人の書いたものですから本当なのでしょう。

 「共産党のなかで、人間の道徳的価値を問う論争を提起しながら、哲学論とは別の論理で除名され、そのうえスパイの汚名まで着せられた。」

 「揺れる気持ちを抱えて学生の身分のまま、思索社という出版社に入社し雑誌『哲学』の編集者になった。『哲学』は間もなく廃刊になったため、同じ出版社の『思索』という総合雑誌に移った。」

 これから先は有料になります。会員登録すると、全文読めます。

 日経だけでなく、最近はどの新聞社も新聞が売れなくなったため、ネットの記事を有料にしています。これ以上読む必要がないので止めましたが、読売の社長が別の会社にいたと知られるのが憚られたでしょうか。「ウィキペディア」が省略していました。

 ・読売新聞社に次席で入社(その年の首席は、後に作家となる三好徹)。また、東京新聞の採用試験にも合格している

 ・朝日新聞社に入社したかったが、採用試験で不採用になったと、週刊朝日のインタビューで答えている。

 ・中央公論の入社試験も不合格となっており、「頭が良すぎて採用されなかった」とは本人談である。なお中央公論に関しては、渡辺が読売新聞社長時代に買収している。

 東京新聞には合格したが、朝日新聞には不合格だったと、「メディア界のドン」に忖度している割には、遠慮のない記事です。自分を不合格にした「中央公論」は、社長になった時買収したと、こんなことまで紹介しています。

 氏が「政界のフィクサー」と呼ばれるようになったのは、政治記者の経験があったからです。次回は、これに関する情報を紹介します。

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渡辺恒雄氏と読売新聞 ( メディア界のドン )

2022-10-01 13:49:45 | 徒然の記

 安倍総理の国葬は、沢山のことを教えてくれました。反日左翼の人間の「正義」と、国を愛する人々の「正義」は言葉が同じでも、中身が違うという発見もその一つでした。

 国民が静かに祈りを捧げている横で、亡くなった人を攻撃・批判し、マイクで騒ぎ邪魔をするのが反日左翼の正義です。醜い行為に多くの人が眉を顰めても、仲間内では立派な「正義」の行為です。

 NHKを含めほとんどのマスコミが反日左翼系なので、今回報道は彼らの側に立ち国民を不愉快にしました。私はこれまで、渡辺恒雄氏と読売新聞について誤解していたことも発見しました。安倍氏の国葬で発見した下記2つの事実は、人生の転換点になる大きさです。

  1. 「宮沢官房長官談話」以来、政府の出す談話は全て「東京裁判史観」に基づく反省・謝罪・補償の談話だったこと。しかもこれが、日本政府の公式方針であるかのように発信されていたこと。

     2.  渡辺恒雄氏と「読売新聞」が、「わが秋津洲の大和(たま)」と縁のない、反日左翼だったということ。

 渡辺氏が中曽根総理と親しかったので、自民党に賛同し記事を書いているのかと善意に解釈していましたが、「国葬」を契機に間違いだったと知りました。朝日新聞よりはマシかと思いますが、氏が生きている限り、読売新聞も日本のために不要な新聞でした。

 高橋洋一氏に言わせると、新聞業界そのものが早晩消えていくのだから、相手にする必要がないそうです。そうは言っても、事情を知らない私のような人間、特に息子たちには、事実を知らせるに越したことはありません。今回は丁度良い機会なので、「マスコミ界のドン」と呼ばれ、自分でも「独裁者」と豪語している氏に関する情報を紹介しようと思います。「ウィキペディア」の記事がメインです。

 「憎まれっ子世に憚る」の言葉通り、毀誉褒貶の激しい氏はかの竹中平蔵氏に似て、ネットには関連情報が幾らでもあります。

  ・渡辺恒雄は1926 ( 大正15 ) 年現東京都杉並区生まれ、日本の新聞記者、実業家

  ・読売新聞社グループ本社代表取締役主筆、勲等は旭日大綬章、「ナベツネ」の通称で知られる

  ・株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長など歴任

  ・日本プロ野球界に関連する伝説は数知れず、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ、マスメディアで「球界の独裁者」または単に「独裁者」と呼ばれていることについては、渡辺自身が認めている。

  ・他に「メディア界のドン」「政界フィクサー」とも呼ばれる。

 書き出しの部分だけでも、褒めているのか貶しているのか奇妙な叙述です。新聞社の社長が実業家と呼ばれるのも、馴染めません。新聞やテレビは、実業でなく言葉を弄ぶ「虚業」とばかり思っていました。

 以下「ウィキペディア」の記事も、好意的でありませんがそのまま紹介します。

 ・第一志望の府立高等尋常科(現:都立桜修館中等教育学校)、第二志望の武蔵高等尋常科(現:私立武蔵高校)、第三志望の府立一中(現在の都立日比谷高校)と、続け様に受験に失敗

 ・ようやく第四志望の開成中(現:私立開成高校)にビリに近い成績ですべり込んだ。同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いたという

 メディア界のドンである氏が、「ウィキペディア」の記事を知らなかったとは思いませんが、そのままにしているところを見ますと、歯牙にもかけていなかったのでしょうか。

 ・1939(昭和14)年4月、開成中学校に入学。同中学3年生の時、哲学の道を志し、日々哲学書ばかり読むようになる。

 ・また反軍少年であり、旧制高校の記念祭では上級生らと夕闇の中蜂起して、軍国主義を吹聴する校長をはじめ、教職員を襲撃して殴っている。勤労動員された航空機の工場では、密かに不良品を作り抵抗した

 ・1943(昭和18)年4月、開成4年修了で旧制東京高等学校(現:東京大学中等教育学校高等部)に入学。

 ・網野善彦、氏家斉一郎が、一学年上の高等科に入ってきた。以来2人は、共に軽演劇場や純喫茶に繰り出す仲になった

 どういうきっかけで反軍少年になっのたか分かりませんが、こういう不良少年の話を「ウィキペディア」は、なにか立派な行為でもあるように書いています。情報を読んだ人間は、氏への批判とは受け取りません。「メディア界のドン」にこういう形でおもねっているのか、それとも「ウィキペディア」の正義も反日左翼のものなのでしょうか。

 ちなみに網野氏は、『聖徳太子』は『倭人』であり、日本人ではないとして「倭人は日本人ではない」と奇妙な説を唱える歴史学者で、私の中の分類では反日学者です。また氏家氏は、読売新聞グループの総帥である渡辺恒雄氏の盟友として、同グループ内、特に日本テレビにおいて強大な発言力を有していたと聞いています。

 次回も更に、渡辺氏の情報を紹介します。

コメント (2)
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