ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『世紀末の幸福論』 - 4 ( 神の審き論 ? )

2022-10-28 11:48:46 | 徒然の記

    序章   煉瓦の幻想

     I   過去を消す文明

     II  幸福論の視点

       III  朝(あした)のうちに種をまけ

    終章   世紀末の幸福論

   あとがき

 ブログが長くなりそうな時は、適度なタイミングで目次が必要になります。氏の著作は話が長いだけでなく、焦点が定まらないので何度も確かめることになりそうです。「序章 煉瓦の幻想」の中身は、5つに分かれています。

  1. ふり出しにもどる  2. 審きの剣 ( つるぎ )  3. 仕事算のあやまり

  4. むなしくない人生  5. ゆるがない信仰

 38ページの「 3. 仕事算のあやまり」まで読み進みましたが、やはり文字を追うしかできません。「2. 審きの剣」の内容は、阪神淡路大震災の話です。神戸出身の氏が震災直後の神戸の街を何度か訪れ、その時の思いが書かれています。「3. 仕事算のあやまり」は、震災後の神戸の話の続きとオーム真理教に関する話です。

 「それにしても、いきなりの大地震で、何もかも失うということは、一体どう考えればいいのでしょう。朝早く、誰もが寝静まっていた時だけに、一家が離散し家族を探しまわると言う悲劇だけは避けられたものの、予告など何もなく、誰もが備えらしい備えなどしていられない、一瞬に起きた出来事であったのです。」

 これが「2. 審きの剣」の書き出しの文章で、氏が体験を語ります。

 「数え年10才の少年の私は、昭和20年の敗戦の時、神戸が空襲を受けたとき、街が全て真っ平らになったところを見ております。誰も住めない、誰もいない廃墟と言うのを、少年の私は目撃し、言葉を失ったままそこに立ち尽くしたものでした。」

 空襲体験の悲惨さを語っているのは分かりますが、氏が何を言いたいのかがつかめません。

 「敗戦から半世紀が経ち、日本は驚異的な発展を遂げ、高度経済成長を成し遂げた経済大国と呼ばれる国にまで発展したのです。敗戦からもう50年が過ぎていることを、私は改めて思い出しながら、神戸の街はまたやられてしまったのだ、という思いを深くしております。」

 少しずつ違った言葉で、似たような思いが繰り返されますので、割愛して先へ進みます。激しい地震で倒壊したビル、崩れた人家、道路をふさぐ家具、家電、机、本棚、衣類などの描写が続き、氏の思いが述べられます。

 「電車から降りた人のほとんどが何も喋らず、誰もが重い荷物を両手と背中に持ったまま、黙々と目的地へ進んでいくのです。それはかっての〈買い出し〉の姿を、思い出させるものでした。とにかく私は、みんなが声をなくして、黙って歩いていたと言うことに衝撃を受けたのです。」

 『世紀末の幸福論』 にどこがつながっているのだろうと、焦らされているような気持ちになったところで、訓話らしいものが書かれます。

 「不思議に思ったのは、どの家の庭にも、樹木がしっかり立っていてどこも倒れていないことでした。立派な日本家屋とか土塀が無惨に倒れているのに、庭の木だけは微動だにしていないのです。」

 「考えてみると、木だけは、いずれも大地にしっかりと根をおろしているからでしょうか。大地に根を下ろすことの意味を、私は改めて考えさせられたような気がします。」

 神戸を愛すると言う著者が、大震災後の街を訪ねた時の感想です。2ページ半飛ばしますと、やっとキリスト教信者らしい意見が出てきます。

 「内村鑑三は関東大震災の前日、神の使いが、首都を審きの剣 ( つるぎ ) をひっさげて通過したとするなら、彼はこの家こそ、神の国建設のために必要欠くべからざるものだと認める家を発見しただろうかと、問いかけています。」

 「神の使いが、審きの剣 ( つるぎ ) をひっさげて全東京をさまよったのち、審きを下したように感じられた、というのです。」

 内村鑑三の言葉も氏の説明も、私には分かったような分からないような話です。これを受けた次の説明は、やはり聖書に戻っていきます。

 「わずかなものを分け合い、それだけで十分に幸せを味わうことができた時代もあった。そういうことを夢のように遠い過去にして、文明社会では、そう言うことがまるで存在しなかったかのように、振る舞おうとしているのです。」

 「しかし今では色々なものが氾濫するにつけ、いつの間にか新しいタイプの〈貧しさ〉が誕生するようになってしまったのです。名門校、教祖、エステ、テレビのスクープなど、色々な欲望にかられて貪欲に取り込んでいるわりに、今も〈飢えて〉いるように感じるのは何故でしょう。」

 氏はここで使い捨て時代といわれる、大量消費生活を強く批判しています。「消費は美徳」「消費者は王様」と、マスコミが宣伝した時代でした。

 「私は時折、旧約聖書の初めにある、創世記の中のあの話を思い出します。それはわれわれ人間の作る文明は、いつまでたっても、結局はせいぜい 〈煉瓦の幻想〉のようなものだという箇所が、いかにもその通りだと言う気がするからです。」

 驕り高ぶった人間への神の審きが、関東大震災であり阪神淡路大震災だったと言う意見です。多様な意見があるのが自由社会ですから、反対せず、疑問点だけを述べます。

 1.  世界各地で発生する大災害が、すべて神の審きというのならその神はキリスト教の神様だけなのでしょうか。

 2. イスラム教、ヒンズー教、仏教の国も、キリスト教の神様の審きで災害が起こるのでしょうか。

 3.  日本には 八百万の神様がおられるのに、なんであまり縁のないキリスト教の神様が審きをするのでしょうか。

 「驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」

 平家物語の一節は仏教の教えから来ていると言われていますが、人間の栄枯盛衰をかたるのなら、むしろこちらの方が当たっている気がします。大学の教授ですから、間違った意見を言われていると思いませんが、やはりそれは、キリスト教宗派100分の1の「幸福論」で、私のような日本人には馴染まないようです。

 著者である氏が「ねこ庭」を知られることはないとしても、批判ばかりするのは愉快でありません。この不毛な書評をこのまま続けて良いものかと、再読して、決断を迫られています。批判ばかりして相手を不愉快にし、実りのない議論をするのは反日左翼の人々が得意とするところですから、真似をする気になれません。

 氏に敬意を表し最後まで読むとしても、「ねこ庭」での書評はやめた方が良いような気がしてきました。次回に決めようと思いますので、息子たち以外の方はどうかスルーしてください。

コメント (6)
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