ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『世紀末の幸福論』 - 5 ( 医者の不養生・紺屋の白袴 )

2022-10-29 17:12:35 | 徒然の記

  50ページまで読み、「 序章・煉瓦の幻想 」の残り3章を終えました。

   1. ふり出しにもどる  2. 審きの剣 ( つるぎ )  3. 仕事算のあやまり

   4. むなしくない人生  5. ゆるがない信仰

 今回は「4. むなしくない人生」の書き出しから、紹介します。

 「小さな街の一つに、ある日突然やってきた地震が、われわれにこれほど大きな衝撃を与えたのです。地域全体の大きさから考えますと、神戸という街は小さな街ですが、それが今回与えた衝撃とその意味は大変大きいものがあります。」

 相変わらず氏は、神戸の震災について述べます。

 「もしこれと同じ地震が関東を襲ったら、一体どうなるのだろうか、と言うことも、われわれは今からよく考えておかなければなりません。」

 「あれもこれも私のものだ、あれもこれも残しておけると考えていたものの大半が、無くなるか潰れるかしてしまったと嘆きたい人は、いまも心を痛めておられるにちがいありません。」

 心を痛めている人の気持ちが分からない氏は、震災の話をやめれば良いのに続けます。

 「私の大学時代の教師の一人が、韓国の京城 ( 今のソウル  ) から引き上げて来られる時、帝国大学教授時代に苦労して収集された蔵書類をすべて強制的に没収され、身一つになって帰って来られたことを嘆いておられたお気持ちが、ようやく今分かるようになった気がしています。」

 神戸の大震災で被災した人は、「あれもこれも私のものだ、あれもこれも残しておける」と考えていた人たちだったのでしょうか。蔵書を収集した大学教授の話と、氏はどこに繋がりを見ているのでしょう。

 昭和20年の敗戦時に10才だった少年が、ソウルから引き揚げてきた大学時代の教師といつ話をしたのでしょうか。時代の曖昧さを我慢するとして、氏の話はここでいつものように、突然別の話になります。

 「人と人とが自由に、その人らしく互いにつきあえるような生活が欲しい、という人は、人間としてごく自然な願いでしょう。しかし、人と人とが自由につき合うために必要な〈出会い〉と言うのは、そう容易に見つかるものではありません。」

 自分の半生を振り返ってみますと、私は氏の言うような「人間としてのごく普通な願い」に無縁でした。というより、ほとんど意識せず生きてきました。

 「最近ではシングル・ルーム化した若者が、傷つけることも傷つけられることも牽制しあっているからか、激しい恋をすることが少なくなっているようです。」

 こういう話をするのなら、 『世紀末の幸福論』 という書名でなく、『シングル・ルーム化した若者の幸福論』にすれば良かったのかもしれません。

 「若い人にこだわりの持ち物があるとか、こだわりのおしゃれがあると言うのはわかります。しかしそういうこだわりが、もっぱら持ち物に向けられるばかりで、それで幸せを感じられると言っていた人が、たとえばこの度の震災で、物を持つこと、土地を持つことの虚しさなどが、少しでも分かるようになったとすれば、失った代償は決して高くないと、思っていいのではないでしょうか。」

 いったい氏は、何を言っているのか自分で分かっているのでしょうか。国民の誰に向かって話しかけているのでしょう。〇〇○さんや〇〇〇〇さんが「ねこ庭」へ来て、この文章を目にしないでくれれば良いと思いますが、無自覚・無神経の氏はびっくりするような意見を述べます。

 「われわれは今、滅びる世にあって、滅びない古い教えに帰る必要があります。古来いろいろな宗教や哲学は、古典として、また経典として、われわれにいろいろなメッセージを残してくれました。」

 「しかしそれにしても、既存の宗教家たち、僧侶も神主も牧師も神父も、なんという怠慢か無口であって、彼らの声が必要な時に必要に人たちにほとんど聞こえて来ない、というのが現代の日本の特徴ではないでしょうか。」

 小原先生、貴方がそれを言いますか ? と、つい問いかけたくなります。氏は私が言ったように、「あくまでも善意の人」です。「小さな親切、大きなお世話」と言う言葉を、紙に書いて渡したくなります。

 「しかし現代という社会は、たとえ最悪に近くても、これが今は最上の時代だと信じて生きたい、と私は考えています。今目の前に立ちはだかっている扉を開けると、その向こうには、これまで見ることのできなかった新しい世界との出会いが、待ち構えているのです。それを確信できるというのは、何という喜びでしょう。」

 氏はおそらく感動に包まれているのでしょうが、私の心は冷え切っています。

 「大震災でどれほど辛かったか、どれほど悲しい思いをしたのかは、おそらくその人の秘密でしょう。もしかしたら、うまく不幸を忘れることが幸せかもしれないのにと、言われたところで、そううかつにあの惨事、正視しかねるあの惨事を忘却できるものではないはずです。」

 言葉だけで理解した気になっているから、いつまでも震災と「幸福論」を並べて語ります。

 「しかし、たとえささやかでも、共に今を充実させて生きようとする時、男女、老若を超えて、共に新しい「われわれ」という視点から、真に私たちの時代の出来事として、あの大震災の惨事を生かしていくことができるのではないでしょうか。またそういうやり方によってしか、新しく出直す道はないと思います。」

 これが結びの言葉です。そして私は氏に言います。

 「私の知人は、貴方のいう方法でなく出直しています。たくさんの言葉を並べず、黙って、しかも笑顔で暮らしていますよ。」

 ここで書評を終えてもいいのですが、「5. ゆるがない信仰 」について述べると「序章」が終わります。これほど厚顔で無恥な教授がいるのかと息子たちが驚かないようにするためにも、あと一回続けます。息子たちに言いたいのは、

 「小原教授の話に驚いてはいけません。大学の先生には、こういう人がたくさんいますよ。」、ということです。

コメント
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