今日は日本の憲法学の第一人者と言われる、宮沢俊義氏について述べます。氏は明治32年に長野県で生まれ、昭和51年に77才で亡くなっています。
氏の講演は『神々の共存』という表題で、平易に語られているので、そのまま紹介します。
「いったい政治における正義とは、なんでしょう。原始人にとっては、その属する部族の正義が、人間社会のただ一つの正義だったようです。その部族の正義を決めるのは誰かと言うと、それは多くの場合、その部族を守ってくれる神でありました。」
「神は、喋ったり書いたりしませんから、生きた人間が代わって喋ったり書いたりしてくれなくては」「神の言葉は人間に通じません。多くの場合、その神の代人となるのは、その部族の政治的支配者でした。つまり王の声が、神の声だったのです。」
「しかし人間はやがて、自分の部族の正義とは違った正義を示す神が、存在することを知るようになります。王の声が神の声という原則に、疑いを持つようになります。」「いうまでもなく、これが人間の本質に内在する合理精神です。」
「歴史は、同じ人間の社会でも、昔と今では違う神が存在し、違う内容の正義が存在することを教えてくれました。」「日本でも昔は、殉死やハラキリや仇討ちが、正義に叶うと考えられていましたが、今ではそうでないことを私たちは知っています。」
子供向けの童話みたいな話から、氏の意見は、次第に戦前の日本への批判に繋がっていきます。憲法学の泰斗にしては、あまり知的でない中身です。
「民主主義や自由主義は国体に反するから、それを否定するように教育しろと、全国の教員に指示した文部省が、それから十年とたたないうちに、教育は民主主義と自由主義にもとづかなくてはいけないと指示したことも、私たちは良く知っています。」
ここから本論が展開されますが、どう読んでもレベルの低い内容です。紹介するのが面倒になりますが、信じてもらえないでしょうから続けます。
「人間は大まかに言って、次の二つの道のどちらかを取ることを余儀なくされると思います。」「第一の道は、自分の神をどこまでも主張する道です。この道に立てば、何が正義か確実に分かるわけですから、あらゆる手段で、それを排除して当然だということになります。」
「日本国の正義が、人間社会でただ一つの正義だとすれば、天皇の 〈みいつ 〉 に 〈まつろわぬ 〉者どもは、 武力をもってでも〈まつろわせる 〉のが正義になります。」
「この道を進んだ当時の為政者たちは、これに逆らう者を、国の内外を問わず警察力や軍事力によって、徹底的に押さえつけようとしたのです。アウシュビッツの道もこれでしょう。」
「ナチの指導者たちは、ユダヤ人を悪魔に間違いないと確信していましたから、平然と、いや冷然と、彼らを徹底的に処理しようとしたのでしょう。」
日本を非難するとき、左翼反日たちが、二言目には「ナチの犯罪」を口にするのは、ここから来ていたのかと発見しました。
憲法の第一人者と言われる氏は、ヒトラーの『わが闘争』を読んでいたのでしょうか。本の中でヒトラーは、ユダヤ人を悪魔だと一度も言っていません。彼がユダヤ人を嫌悪し、敵意を燃やしたのは、彼らがドイツやオーストリアで、経済と政治とマスコミを支配していたからです。不正確な意見を公然と主張する氏に、疑問を抱きます。
どうやら氏は、天皇について個人的な恨みでもあるのか、頭から否定しようとしています。戦前の学界で自由主義思想が、保守の学者から排斥されたので我慢がならないのかもしれません。それならそのことについて語るべきで、わざわざナチスのユダヤ人迫害の話を持ち出す必要はありません。
「第二の道は第一の道と違って、自分の神や正義の他に、それと違ったさまざまな神や正義の存在を、承認する道です。」「自分の神や正義を守り続けるけれど、他の神が自分たちの神と並んで存在することを、承認し容認します。すなわち、多くの神々の共存ということです。」
「日本の憲法は、二つの道のどちらを取るのでしょうか。明治憲法は、たぶん第一の道に傾いていたようです。」「これに対して、戦後の憲法の取る道が、第二の道であることはきわめて明瞭です。」
「戦後の憲法は、思想、学問、表現の自由を確立しました。天皇の神格は否定され、天皇制の批判も自由になりました。戦後の憲法の取った道は、平和の道といってもいいと思います。反対の神々の存在を排除せずに、それらと共存しようとするからです。」
私の認識では、世界で一番神々に寛容な国が日本です。キリスト教国やイスラム国、あるいはインドのヒンズー王朝などでは、神の名においてどれだけの殺戮が行われたことでしょう。
歴史の事実と比較すれば、日本は無原則と言われるほど寛容です。これが世界の常識ですが、氏の非常識な意見はどこから導かれるのでしょう。その一端を示唆する意見がありますので、参考のために紹介します。
「宮沢氏は当初 、日本国憲法の制定は、日本国民が自発的自主的に行ったものではない。」「大日本帝国憲法は、部分的改正で十分ポツダム宣言に対応可能だという見解を持ち、押しつけ憲法論の立場に立っていた。」
「氏の変説の理由について、駒澤大学名誉教授の西修氏が、〈東京帝大教授で憲法の権威であった宮沢には、GHQから相当の圧力があったであろう〉、という説を紹介している。」
「氏の学説は、変節を繰り返した。当初は大日本帝国憲法の講義の際、〈憲法第一条から第三条まで、これは伝説です。講義の対象になりません。省きます〉、として進歩的立場を示していた。」
「美濃部達吉の天皇機関説が批判されると、岩波書店から出した『憲法略説』で、主張を一変した。」
「皇孫降臨の神勅以来、天照大御神の新孫この国に君臨し給ひ、長へに、わが国土および人民を統治し給ふべきことの原理が、確立した。」
「現人神として、これを統治し給ふとする、民族的信念の法律的表現である。神皇正統記の著者が、『大日本は神国なり』と書いた所以もここに存すると、その主張は、神権主義に変化した。」
この意見が事実を述べているとするなら、氏が変節の学者だったと言う話になります。自分の変節した過去を隠し、正当化するため、天皇を批判し戦前の政府を批判していることになります。
「宮沢氏は敗戦後、松本烝治憲法大臣と美濃部教授とともに、助手として帝国憲法改正作業に従事していた時、外務省に対して憲法草案について、新憲法は必要なしとアドバイスしていた。」
「占領軍が松本大臣を嫌っていることを知ると、氏は彼らを裏切った。」「ここで占領軍に取り入れば、自分は神のごとき権威になれると判断した。なぜならGHQは権力を振りかざすことはできても、細かな国際法や憲法学の議論ができなかったからだ。」
「占領国による被占領国の憲法改正が、国際法違反であるということをGHQも認識していた。本来は無効である日本国憲法の正当化理論を、宮沢氏はひねり出した。」
「その詭弁が、〈8月革命説 〉だ。つまり昭和20年8月15日に、日本では革命が起きていた。 日本は天皇主権の君主国から、まったく別の国民主権の共和国になった。すなわち昭和天皇が、共和国の初代天皇になる。」
昭和革命説について、私は一度も聞いたことがありません。宮沢氏が本当にこんな説を主張したのかと、詐欺かペテン師の話に聞こえます。しかし、同様の情報がネット上にありますから、あながち嘘と決めつけることもできません。
グーグルで、「宮沢俊義」といれて検索しますと、類似の情報が沢山出てきます。敗戦後の日本で、反日左翼の氏が占領軍と一体となり、どれだけ日本を破壊したかと、そら恐ろしいほどの情報があります。
最後にその中の一つを紹介し、氏に関するブログを終わります。
「昭和42年の『憲法講話』(岩波新書)で、氏は、天皇はただの公務員だと述べ、死去する年の昭和51年には、『全訂日本国憲法』(日本評論社)で、天皇はなんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって、機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在だと、解説した。」
憲法問題研究会には、今日の日本をダメにした有害な学者が集まっていたと、私には確信となりました。最後の情報での氏の意見には、我慢のならない怒りが生じますから、説明はいたしません。
自分の考えに都合よく解釈してるのも気が付きにくい部分であります。
onecat01さんの解説で左翼思想への入りやすさの秘密が暴かれたようで気分スッキリの5時限目でした。
高名な学者は嘘をつかない。私もそうでしたが、頭から思い込んでいました。
こうして調べてみますと、学者も卑しい心をしているのだと分かり、安心もしました。こんな学者に比べたら、知識はなくとも、自分の方がマシでないかと、そんな気がしました。