氏が語る沖縄の歴史を、紹介します。
「歴史に残る初代の琉球王は、舜天王といわれています。」「その頃の沖縄には各地に沢山の領主がいて、それぞれが領地を、統治していました。ですから琉球王といっても、沖縄全土を統治していた訳ではありません。」
「良港に恵まれ、農耕が栄えていた浦添一帯を統治していた舜天王が、最も大きな勢力であったと、思われます。」
舜天王の即位が1187年といいますから、源頼朝が弟の義経と力を合わせ、平家と戦っている頃です。1187年には、平家が壇ノ浦で滅ぼされています。沖縄が日本と分かれば、日本史と合わせて話を進める方が分かりやすくて便利です。
「舜天王は源為朝と、沖縄の女性との間に生まれた子だと、琉球の古い歴史書に書いてあります。」「それを裏付けるものとして沖縄には、運天港と牧港の地名が残っています。」
氏の説明によりますと、
運天港・・為朝は、自分の運命を天にゆだね、自然に流されるまま、船で辿り着いとい
われ、港の名前が付けられた。
牧 港 ・・為朝が帰ってしまった後、沖縄に残された妻子が、為朝を「待ちわびた
港 (まちみなと )」が変化して牧港となった。・・という説です。
舜天王から、義本王、英祖、玉城王と、王様が続きますが、詳しすぎるので省略し、沖縄で初めて統一国家を作った王様の話に飛びます。それが1492年に、偉業をなした、尚巴志王 ( しょうはし・おう ) でした。この王統を、第一尚氏と言います。
1492年といえば、世界史ではコロンブスが、アメリカ大陸を発見した年です。日本は室町時代で、10代将軍義材 ( よしき ) の時です。足利幕府の権威が地に落ち、世はまさに、戦国時代へ突入しようとしていました。
「この時代に琉球王国が交易した国は、中国はもとより、ベトナム、タイ、インドネシア、マレーシア、」「フイリピンや、朝鮮、日本の足利幕府など、アジアの全域にわたっていました。」
「しかしそれから60年後に、第一尚氏は内紛により倒され、第二尚氏の王統へ移ります。」「初代尚円王から、その子尚真王になった時、琉球は華々しい発展を遂げました。」
尚真王の大きな改革が四つあり、氏がこれを説明しています。文章でなく、項目にして列挙します。
1. 中国との貿易の回数を増やした。
3年に一度で行っていた貿易を、毎年行えるよう中国と交渉し認めさせた。
2. 国王を頂点とする、身分制度を確立した。
王、大名、士族と、統治される百姓 ( 農、工、商を含む平民の意 )
3. 地方領主を首里の王都に集め、すべての武器を取り上げた。
4. 中国、朝鮮から多量の書籍を輸入し、学問と仏教を奨励した。
以後王朝の財政は貿易の利益で潤い、身分制が確立し、仏教と学問の普及で人心も安定しました。この時代は、「琉球の文芸復興期」とも呼ばれています。さすがに、うるま新報の社長だっただけあり、沖縄の知識は半端ではありません。知らないことばかりですから、学徒の私は氏の教えを拝聴します。
「足利幕府は15世紀の半ば以来、琉球貿易の船は薩摩の印証を受けなければならないよう、薩摩に特権を与えてしまったので、薩摩と琉球の結びつきがますます深まりました。」
「なぜ、このようなことになったのでしょうか。」「1440年に足利6代将軍義則が、陰謀を企てた弟の義昭を薩摩が打ち取った褒美として、島津忠国に琉球を与えたのが始まりです。」「それ以来島津氏は、琉球貿易を独占しようと考えるようになり、また琉球支配を、当然と思うようになりました。」
この辺りになりますと、私の知らない話ばかりです。沖縄から見た日本史とでも、言えば良いのでしょうか。
「豊臣の時代に秀吉は、亀井茲矩 ( これのり ) に、琉球の守とすることを約束しました。」「1582年に亀井は、琉球征伐に赴く準備をしたのですが、秀吉の朝鮮出兵のため断念させられました。」
「当時倭寇と呼ばれる日本の海賊船が、中国沿岸を荒らしまわっていたため、中国は、日本の貿易船の中国への立ち入りを、禁止してしまい、足利幕府は大変困りました。」
「そこで幕府も諸大名も、沖縄を利用し、中国やその他の国々と貿易をしようと、ひそかに考えていたのです。」「そのような、諸大名の考えを、薩摩はよく知っていましたので、なるべく早く沖縄を手に入れようと待ち構えていました。」
この辺りが、私には理解できない部分です。足利幕府から、特権的地位を与えられていた薩摩も、秀吉に変わると無視されたのか。島津氏の立場も天下人の前では、不安定だったということでしょうか。
「秀吉が死に、徳川家康が将軍になりました。」「家康が将軍になっても、琉球王からの慶賀使が来ないため、島津氏は、家康に琉球征伐を願いで許可を得ました。」
「こうして薩摩は年来の計画を決行し、奄美大島諸島に攻め入り、次々と制服してしまいました。」「琉球王府は和睦の使者を、薩摩軍に送る計画を立てましたが、もう、手遅れでした。」「薩摩軍は沖縄本島の、今帰仁 ( なきじん ) の港に、押し寄せていました。」
尚真王が、地方領主を首里の王都に集め、すべての武器を取り上げてしまったのですから、薩摩の強兵に敵うはずがありません。王府が今帰仁に送った和睦の使者も無視し、薩摩軍は那覇へ向かい、首里に攻め入り、首里城を手に入れました。琉球の尚寧王 ( しょうねい・おう ) は、城を出て降伏し薩摩へ連れて行かれました。
もう一度氏の叙述の肝心な部分だけ、引用いたします。
私が沖縄についての最初の頃の知識は、琉球の神話や伝説、民話に関する書物によるものでした。
著者は、地元の沖縄のかたでしたが、もちろん非政治的なものです。
また、民俗学者の柳田國男先生や、折口信夫(しのぶ)先生の著書に書かれている、沖縄の土俗信仰と日本本土の神道(しんとう)との同一起源論の考察を述べられた部分には、大いに啓発されました。
柳田先生も、折口先生も、沖縄には熱い愛情を注いでおられました。
私は、このような方面から、沖縄の事を学ぶ糸口になったのは幸いだったと思います。
また、沖縄出身のタレント、、、、夏川りみさんや、新垣結衣さんは大好きですし、その点からも沖縄に親近感を感じています。
ですから、沖縄の基地問題とか戦争がらみの話しばかりする人には、違和感を抱いたものです。
むろん、本土と沖縄にはさまざまな問題や相克もあるでしょう。
ただ、その問題には、客観的で公正な観点から論議してほしいと、常々思っております。
ねこにわ様のブログに期待しています。
沖縄の言葉で、「うちなんちゅう」「やまとんちゅう」という、表現があります。
辞書で調べますと、「沖縄人」「本土人」という意味だと書いてあります。私は長い間、「やまとんちゅう」を、「日本人」と解釈しておりましたので、沖縄は異国だと思っていました。
しかし氏の本を読み、同じ日本人だとわかり、これは私たちが、今でも時折使う「会津人」とか、「薩摩隼人」とか、「土佐っぽ」というような、県民を区別する言葉だと、理解いたしました。
会津人が、今でも心のどこかで、薩摩や長州に怒りを持っているように、沖縄人も、薩摩や明治政府が許せないのであろう、と思います。
しかしこの何でもない県民意識を、民族差別意識や、反日・左翼の政治活動に結びつけたのが、共産党であり、旧社会党であったのだと、今は分かりました。
あなたが違和感を抱かれる、基地問題や戦争に結びつけ、政治絡みにしてしまったのは、彼らです。日本人を分断し、騒ぎ立てて、社会を乱し、彼らはそれが目的なのです。
問題は、日本の中にいて、反日・左翼に同調し、一緒に騒ぐ人々がいることなのです。こういう愚かな日本人が、沖縄だけでなく、どれだけ戦後の日本を害してきたことでしょう。そういう意味で、沖縄は、「戦後日本の縮図」でもあろうと、私は考えております。
いつものことながら、ブログの結論がどうなるのか、自分でも分からぬままに綴っております。
これからも、真摯なご意見の頂けることを、期待しております。