今日は保坂氏の意見をゆっくりと検討しますが、保坂氏個人への恨みと敵対心でするのではありません。
日本を賛美し、鬼畜米英と敵国を叩いていながら、敗戦になった途端変節した著名人が世間に五万といます。愛国者から反日左翼へ変節した人物について、13年前と8年前の「ねこ庭」で取り上げました。
氏はちょうどその逆で日本を貶し、日本人を批判していながら、風向きが変わると変節した著名人です。
当時は「怒りと憎しみ」で変節した彼ら酷評しましたが、大手マスコミは何も変わらず、共同通信社とNHKと朝日新聞が彼らを持て囃していました。今回保坂氏の間違いを指摘しても、マスコミが微動だにしないと分かっていますから、以前のように意気込むのをやめました。
氏個人というより、氏によく似た変節漢が沢山いるので、彼らへの検討作業という感があります。保坂氏という具体例が現れたので取り上げているのですが、対象にしているのは国民をたぶらかす「卑怯者たち一般」です。
「小さな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言」と紹介しいる通り、「ねこ庭」は氏のように国民全体に向かって意見を述べているのではありません。誰に読まれているのか分からないまま、千葉県の片隅でする「草莽崛起」の活動です。
言い古された言葉で言えば、「亀は自分の甲羅に合わせて穴を掘る」ということになるのでしょうか、大言豪語せず、身の程を自覚した活動です。
検討作業の第一歩は、保坂氏の経歴の確認になります。
共同通信社がすでに紹介していますが、氏の変節を知るにはもう少し詳しい経歴が必要です。ウィキペディアの解説から引用します。
・保坂は、札幌市で教員の父親のもとに生まれる。父は群馬県、母親は北海道江別市出身
・父親の勤務の関係で生後間もなく江別市に移り、3歳で福島県二本松市、5歳で北海道二海郡八雲町に移る
・八雲町で終戦を迎え、小学校6年まで同町で育った後、根室市を経て札幌市に移った
・札幌市立柏中学校、北海道札幌東高等学校を卒業。阿部典英 ( えいてん ) は中学高校の同級生、西部邁 ( すすむ ) は中学校の一年先輩にあたる。
・同志社大学文学部社会学科卒業 在学中は演劇研究会で特攻隊員を描いた創作劇を執筆
・卒業後、電通PRセンターへ入社。その後、物書きを志して転職した朝日ソノラマで編集者生活を送る
・昭和45年に三島由紀夫事件をきっかけに、「死のう団事件」を2年間取材
・途中で5年勤務した朝日ソノラマを退社してフリーに転じ、昭和47年ににデビュー作として『死なう団事件』を作家として出版
・平成16年、個人誌『昭和史講座』の刊行で第52回菊池寛賞受賞
・平成29年、『ナショナリズムの昭和』で第30回和辻哲郎文化賞受賞。平成30年、第72回北海道新聞文化賞受賞
氏の作品がどのような内容なのか知りませんが、文筆の才のある氏が世間に認められていく過程が見えます。
・札幌の高校生時代、北海道大学のシナリオ研究会に入会し、先輩に唐牛 ( かろうじ ) 健太郎がいた
・京都の私大に通っていた時は、60年安保に反対する学生運動に参加する左翼系の学生だった
・1960 ( 昭和35 ) 年6月の運動最盛期には、それまでの地元の商店主やタクシー運転手から『迷惑だ』との怒声がなかったこと、反対デモ参加者の多くは安保条約改定の中身を知らなかったことを明かしている
ウィキペディアの最後の説明が何を意味しているのかよく分かりませんが、安保デモへの参加は当時の学生には珍しいことでなかったようですから、左翼でも氏は過激派でなかったのかもしれません。
むしろここでは、影響を受けた人物を紹介する方に意味があると思いますので、ウィキペディアで調べました。
〈 阿部典英 ( てんえい ) 氏 〉
・北海道札幌市生まれの彫刻家
・元浅井学園大学(現在の北翔大学)教授。立体造形の作品を多数発表
〈 西部邁 ( すすむ ) 氏 〉
・北海道出身。評論家、保守思想家、東京大学教養学部教授
・東大入学後にブントのメンバーとなり、東大自治会委員長として安保闘争に参加
・安保闘争から離脱後東大大学院で近代経済学を専攻し、英米への留学を経て東大教授となる。
・1980 ( 昭和55 ) 年代から保守の論客として活躍し、東大駒馬騒動の際に東大教授を辞職
・以後在野の評論家として評論活動を行い、平成30年に多摩川にて入水自決
〈 唐牛 ( かろうじ ) 健太郎氏 〉
・北海道函館市生まれ、日本の学生運動家
・1960年安保闘争当時の全学連委員長。
・昭和31年に北海道函館東高等学校卒業後、北海道大学(文類)に入学
・同年中に大学を休学・上京し、深川の印刷工場などで勤務しながら砂川闘争に参加
・翌年に勤務していた印刷工場が倒産したため、函館に戻り材木屋に勤めたのち、北海道大学へ復学
・大学でシナリオ研究会に入り、そこでは当時高校生だった保阪正康も同会の会員だった
唐牛氏の経歴を紹介していると、それだけでシリーズ何回分にもなりますのでここでやめます。書き留めておくとすれば、氏は左翼の人間に評価されただけでなく、右翼と呼ばれた田中清玄などからも気に入られ、金銭の補助を受けたり就職の世話をしてもらったりしています。
保坂氏が、これらの人々の誰から一番影響を受けたのか分かりませんが、保守でもなく左翼でもないという複雑さを、彼らから受け継いでいるところは間違いなさそうです。
西部氏は自死し、唐牛氏は波乱の人生の途中で胃がんのため47才の若さで亡くなり、穏やかな最後を迎えていません。自らの中にある矛盾した思考を抱え、二人は終生苦悩していたように思えます。
「ねこ庭」が保坂氏に疑問を抱く部分が、ここにある気がしてなりません。氏は変節を隠したまま共同通信社のインタビューを受け、それとなく軌道修正をしています。
主観的になるのかもしれませんが、次回は「卑怯」という言葉の根拠を探してみたいと思います。