詩人PIKKIのひとこと日記&詩

すっかりブログを放任中だった。
詩と辛らつ日記を・・

「大逆事件」関係の詩 (2)

2007年12月09日 | Weblog
「大逆事件」関係の詩  (2)
  千九百十一年一月二十三日  佐藤春夫


大石誠之助は殺されたり
 
げに厳粛な多数者の規約を
裏切る者は殺されるべきかな
  
死を賭して遊戯を思ひ
民族の歴史を知らず
日本人ならざる者
愚かなる者は殺されたり

「偽より出でし真実なり」と
絞首台上のその一語その愚を極む

われの郷里は紀州新宮
かれの郷里もわれの町

聞く、かれの郷里にして、われが郷里なる
紀州新宮の町は驚懼せりと
うべさかしかる商人の町は歎かん
  
町民は慎めよ
教師等は国の歴史を更にまた説けよ


  慶応在学中で19歳だった佐藤春夫は、同郷で親戚付き合い同様だった大石誠之助処刑の号外を読み、この詩を一晩で書き上げて「スバル」に発表したという。
当局の目をくらますために反語的内容とし、処刑の日もわざと違った日になっている。
彼の憤慨と・・絶望感が伝わってくる詩だ。

 誠之助の死  与謝野鉄幹

大石誠之助は死にました
いい気味な
機械に挟まれて死にました
人の名前に誠之助は沢山ある
ただし、ただし
わたしの友達の誠之助は唯一人

わたしはもうその誠之助に逢はれない
なんの、構うもんか
機械に挟まれて死ぬやうな
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の
誠之助

それでも誠之助は死にました
おお、死にました

日本人で無かった誠之助
立派な気ちがひの誠之助
有ることか、無いことか
神様を最初に無視した誠之助
大逆無道の誠之助

ほんにまあ、皆さん、いい気味な
その誠之助は死にました
誠之助と誠之助の一味が死んだので
忠良な日本人はこれから気楽に寝られます
たとえばTOLSTOIが歿んだので
世界に危険が断えたように
おめでたう
    (詩歌集「烏と雨」大正四年刊より)

  
 石川啄木、佐藤春夫以外にも、身の危険を顧みずに勇気ある詩を書き発表したのが与謝野鉄幹だった。ありし日の友情のために。

年末思い出す「大逆事件」という近代裁判史上最悪の判決(1)

2007年12月09日 | 歴史
この事件が何故重要かといえば、この冤罪事件を境に、影響力を持っていたマスコミ・知識人の国家権力への迎合や沈黙が大勢を占めるようになった点ではないかと思う。
わずかな例外はといえば、死期間近な石川啄木や反語的な詩を残した佐藤春夫や与謝野鉄幹くらいのものだった。
この後すぐの関東大震災後の日本史上最大の汚点ー約1万人もの植民地になってすぐの朝鮮半島の人々や大杉栄一家や労働運動家たちの虐殺の出発点は、このでっち上げの「大逆事件」にあるのではと思う。

  友も、妻も、悲しと思ふらし
  病みても猶
  革命のこと口に絶たねば (石川啄木)

  やや遠きものに思ひし
  テロリストの悲しき心も
  近づく日あり       

明治憲法下刑法73条、天皇・皇太子等に危害を加えんとする者への罪は死刑(あるいは無罪)しかなかった。
「大逆事件」というと明治44年1月18日に24人の被告に死刑判決の下った幸徳秋水の大逆事件が有名だが・・
その他にもー難波大助の虎ノ門事件、朝鮮人朴烈と金子文子が関東大震災の後予備拘束されての朴烈事件、同じく朝鮮人の李奉昌が閲兵式後の昭和天皇に爆弾を投げつけた桜田門事件がある。

幸徳秋水の「大逆事件」の真相とはー
幸徳秋水の経営する平民社の前に警察の小屋が建てられ、24時間刑事が張り付いて出入りする者の身体検査をしたり、秋水の書く新聞記事・出版物が即差し止め・没収等の迫害に憤慨した幸徳秋水の周りにいた菅野すが・宮下太吉・古川力作・新村忠雄の四人が、天皇の馬車に爆弾を投げつけようと話し合っただけの・・当時珍しくなかった大言壮語に等しいものだった。

逮捕後約半年後の明治43年12月10日から始まった公判は全て傍聴禁止、一人の証人も認められない上に、わずか一ヶ月後には被告24人の死刑判決という類い稀な暗黒裁判だった。

僕のブログを唯一リンクしている一級建築士のブログから

2007年12月09日 | 日記
《ところで、砂漠はというと、毎年6万平方キロメートルずつ増えている。 これは、ご都合コンピュータのシミュレーションではないので、たぶん本当だろう。
6万平方キロというと、砂漠でない陸地の0.06%にあたる。 規模を理解するためにあえて単純な言い方をすれば、1600年で地球は全部砂漠になる。

巨大な伐採企業が、現地政府と癒着して、やりたい放題の違法伐採をしているのである。
そして、その巨大伐採企業の元締めは、日本の商社である。
地球上でもっとも速いスピードで森林が消滅していると言われるインドネシアでは、伐採の8割近くが違法伐採であり、切った木材の半分は、双日などの日本の商社が買い取っている。

日本の山には使い切れない木が、それこそ山のようにあるのに、わざわざ他国の山を砂漠に変えて木を輸入している。

これは、熱帯だけの問題ではない。
北洋材といわれる、ロシアのツンドラ地帯の木も深刻だ。永久凍土で木を切ったら、もう生えてこない。しかも、地中から塩が上がってきて、何も生育できない土地になってしまう。

地の人々の怨念と砂漠化による地球の悲鳴が込められた輸入材の家に住むよりも、伐らないと荒廃する日本の山の木を切って森の精をいただいた家のほうが良いに決まっている。
このような人為的な砂漠化までも、あたかもCO2が原因であるかのようにゴマカスのが、CO2温暖化論なのであり、都合の悪いことはなんでもCO2のせいにして、最後の落としどころは原子力発電という、悪魔の呪文のような最悪の魔法が、CO2温暖化論なのである。》
      (「反戦な家づくり」より)

「十勝平野」上西晴治(筑摩)やっと読了!

2007年12月08日 | 日記
春の入院以来半年もかかってしまった。
下巻には、僕の大好きな故アイヌ人彫刻家砂澤ビッキさんが大活躍だった。
武田泰淳「森と湖の祭り」のビッキさんよりもずっと好感をもてた。

北海道を理解するにはー
この本と、小林多喜二の本と、松浦武四郎・・
それが僕のお勧めする北海道を理解するための本だ。

犬について (犬猫は寿命20歳、人間だと百歳)

2007年12月08日 | 日記
犬について(犬猫は寿命20歳、人間だと百歳)
明治時代最大の仮想敵国はロシアだったので、陸軍の毛皮はもっとも暖かいという犬の毛皮だったという。犬の肉は、スタミナがつくというので韓国や中国では今でも高価な料理だ。
日本先住民のアイヌにも日本人にも、犬を食べるという習慣はないので、日本人のもともとの先祖縄文人は南方系だったのではないかと思う。

北海道(アイヌ)犬は熊狩り用の犬だ。子犬の頃に熊にけしかけて、熊に吠え掛かっていかないような犬は駄目犬の烙印を押される。
その他のこの列島に固有の犬ー甲斐犬、紀州犬、琉球犬・・その他に韓国のどっかの島の犬も同じ遺伝子を持つという。

エスキモーは、いよいよ食料が無くなったら犬を食べてしまうという。
この緊急時食料の輸送手段の犬の存在があったので、人類は寒冷地へと進出できたのだろう。
同様に、豚という長い航海での食料確保方法が解決できたので、世界一の冒険民族ポリネシア人のハワイ・ニュージーランド・イースター島への大航海が可能だったんだろう。

日本の秘密はほとんどの文化・風習の起源がある中世にあるのかも

2007年12月08日 | Weblog
 遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、
 遊ぶ子供の声聞けば、わが身さえこそ動(ゆる)がるれ
               (『梁塵秘抄』』

「日本論の視座」網野善彦(小学館)やっと読了。
中沢新一「ぼくの叔父さん網野善彦」(中沢新一の自伝で面白い!)を読んで以来気になっていた網野善彦の本を初めて読んだ。もっと読んでみたい歴史家だ。
今は「歴史はマージナル」(現代書館)を読書中 。
この中の「道ゆく芸能者たち 猿舞座村崎修二」は必見!

《現在の話ではありませんが、例えば山口県のある地域では、いわゆるの人たちが五段階いたんですね。
僕はの問題を解決したいという立場で言ってますんでこらえてほしいと思うんですが、
例えばカワタ、通常はヨツといわれていた大きな集団がありました。
しかし、奇妙なことにヨツの上にヨツ半というのがありまして、家船(えぶね)というのはヨツ半で瀬戸内海の漁民です。

それからサンカをサンタと言いました。それからニタというのがありました。
これは修験者とか巫女さんだとか、いわゆる道心坊、何かいかがわしいものを持って歩く人たちです。
通常、われわれの世間でサンカというと、茶せんと呼ばれたり宮番と呼ばれたり、あるいは日本海のほうへいっちゃうと、鉢屋と呼ばれたり、院内の者とか、夙の者とか、坂の者とか、岩国領では道々の者と、それぞれの地域によっていろんな言われ方がありまして・・》

ー「左川ちか詩集」よりー

2007年12月07日 | 日記
  花

夢は切断された果実である
野原にはとび色の梨がころがつてゐる
パセリは皿の上に咲いてゐる
レグホンは時々指が六本に見える
卵をわると月が出る


  花咲ける大空に

それはすべて人の眼である。
白くひびく言葉ではないか。
私は帽子をぬいでそれ等をいれよう。
空と海が無数の花瓣(はなびら)をかくしてゐるやうに。
やがていつの日か青い魚やばら色の小鳥が私の顔をつき破る。
失つたものは再びかへつてこないだらう。


    山脈

遠い峯は風のやうにゆらいでいる
ふもとの果樹園は
真っ白に開花していた
冬のままの山肌は
朝毎に絹を拡げたやうに美しい

私の瞳のなかを
音をたてて水が流れる

ありがとうございますと
私は見えないものに向って拝みたい
誰も聞いてはいない 
免しはしないのだ

山鳩が貰い泣きしては
私の声を返してくれるのか

雪が消えて 谷間は
石楠花や紅百合が咲き
緑の木陰をつくるだらう
刺草の中にも遅い夏はひそんで
私たちの胸に どんなにか
華麗な焔が環を描く

盲目

2007年12月07日 | 日記
冬の一本道を
ひとり歩いてゆくぼくに
さよならと微笑みながら
君の自転車が
行き過ぎていったから
なんだか後ろ向きで
歩いてゆきたくなる

どうせ両眼も 心も
とっくに盲しいているから
こんなにも
世界は美しいのかもしれない
両耳を塞いで生てきたから
たったひとつの言葉が
いつまでも
響き渡っているのかもしれない

忘れていた何かを
思い出せそうでいて
思い出せない夕暮れには
より深い群青色へと
染まりゆく風の後ろ姿を
いつまでも見上げている

かたわらを
流れすぎていったものたちよ
意味もなくお前たちを
呼び止めてしまったのは
ぼくの心も また
捨てることしか知らない
盲目だったから

「宮沢賢治ファシズム批判」という副題が相応しい本を読んでる最中

2007年12月07日 | 日記
この分厚い「宮沢賢治伝説ーガス室のなかの希望へ」山口泉(河出書房新社)という本の著者は・・僕が日本で一番好きなドキメンタリー作家松下竜一全集のすべてに解説を書いている物書きだ。
けれども、この本は書かれるべくして書かれた本なのかもしれないと思う。より宮沢賢治に肉薄するためには、崇拝するばかりではいけないのだとも。

この本の中に引用されている詩やドストエフスキーは、そのどれもが懐かしい僕の青春時代の愛読書や愛唱詩だった。
(「戦後現代史詩」の本を借りたままだったの・・別れの時に餞別までくれた定時制のO先生御免なさい!)

《聴いてくれ
 だから聴け
 だから忘れないでくれ
 忘れないでくれ
 忘れてくれ そして忘れよ
 「(かつて)蓑を纏うことが人格を
 離れて神格に入る手段であった」と 暗く
 四肢がうごき
 濡れた着物の落ちる
 音が聴こえたとき
 だが過ぎ去ることさえない季の死
 わたしの草の着物は
 ひとりの肉と実在を包んでいたと
 黙しながら
 覚えある蓑のひとが暗がりから
 波うつ葉緑素の国家の真昼間へ
 深い現時いまとなって戻らず
 ここから歩きでていった
 ことを忘れてくれ
 だから忘れてくれ
 だから忘れるな
 河べりのひとつの夏を忘れないでくれ
      (黒田喜夫「葦の湿原(さろべつ)のかなた」より抜粋)
 
        
《私たちはいつも死を計算に入れていた。
私たちは知っていたーゲシュタポの手中に落ちたら、最後だ、ということを。・・
私の劇も終わろうとしている。劇の結末を私はもはや書くことができない。私にはそれがどういうものになるかわからないのである。
これはもはや劇ではない。生活なのである。
そして生活には、観客はいない。》
(ユリウス・フチーク『絞首台からのレポート『岩波文庫』)

この詩はいったい、どこで目にした詩だろうか?
「山椒魚戦争」やロボットの命名者だったチャッペク兄弟の本の解説でだったろうか?
それともー
600万人以上もガス室等で虐殺されたとも言われる、強制収容所にひしめく素裸にされたユダヤ人達や、ドイツ軍兵士の前を素裸にされて走り抜けて行くユダヤ人少女の写真集の解説でだったろうか・・

倚りかからず    茨木のり子

2007年12月06日 | Weblog
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない

ながくいきて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳・目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
      (筑摩書房 倚りかからず より)

  

  金子光晴「反対」によく似た詩だ。
  ただ僕は、自然には倚りかかりたいなと思う。
アメリカにこれ以上倚りかかるのは、地獄の底へ真っしぐらだろ。

「日本論の視座」網野善彦(小学館)やっと読了

2007年12月06日 | 歴史
遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、
 遊ぶ子供の声聞けば、わが身さえこそ動(ゆる)がるれ
               (『梁塵秘抄』』

中沢新一「ぼくの叔父さん網野善彦」を読んで以来気になっていた
網野善彦の本を初めて読んだ。疲れた。
に古代・中世史や地方史に関心ある人には面白かもしれないナー


米国とそのコピー&奴隷国家日本の崩壊の時は近い

2007年12月05日 | Weblog
十年後はいったいどうなってるんだろうか・・と暗澹たる思いで考えてる。
アメリカ以上に貧富さや公的赤字が増大して、弱者の抹殺が進行してる日本。
けれども、アメリカ的な方向から別な進路へと舵を取るならば・・
21世紀こそ、「平和憲法」や世界でもトップレベルの生産技術・環境保護技術を持った日本や日本人が人類の未来のために活躍できる時代なのではと思う。

《今夏以来のアメリカの金融危機で最も重要な点は、米金融界が1980年代の自由化以来、強さの源泉として培ってきた「あらゆる権利関係を証券化(債券化)し、経済を活性化する」という証券化の技法が破綻したことである。7月末の金融危機発生以来、アメリカの債券(社債)市場は機能不全のままで、特にリスクの高い債券の市場は開店休業で、証券化の魔力は失効し、儲けの大黒柱だった債券化商品は、今や最大の損失源と化している。

 金融危機は、今後少なくとも数年間は悪影響を及ぼすだろうから、アメリカの金融の力は大幅に落ちることになる。アメリカではすでに製造業が死んでいるので、米経済から金融力が除外され、刷るだけで世界から輸入できたドルの基軸性も失われて消費力も減退したら、ほとんど何も残るものがない。

 アメリカを偏愛する日本人(戦後のアメリカの気前よさを経験した高齢者に多い)の中には「アメリカは人材が豊富だから潰れない」「アメリカは蘇生力が強いので立ち直る」といった見方をする人がいまだにいる。だが、1980年代以降のアメリカは、研究開発より金融のトリックが重視され、アメリカの弾力性を支えてきた中産階級の没落を招く大金持ち優遇の税制が採られ、ネオコンのような詭弁を弄する勢力が政府中枢に入り込んで無茶苦茶をした結果、1960年代までのアメリカの素晴らしさは、もはや過去の話になっている。》 (「深化するドルの危機 」田中宇より)

より詳しい内容はー
リンク集の「田中宇の国際ニュース解説」参照を。

家船(えぶね)についての以前の書き込みを再度アップ

2007年12月05日 | Weblog
谷川健一の「日本の神々」には、沖縄についての面白い内容が満載だった。
とりわけ面白かったのは、第一尚氏と長崎の西彼杵半島との深い関係について。
12世紀から15世紀にかけて本土で普及し、沖縄でも相当数出土される「石鍋」とは?八幡信仰や鉄器等をも沖縄にもたらしたのは、この半島にいた家船集団ではないかと谷川氏は言っているのだが・・

そういえば、これも以前どこかに書いたのだけど・・沖縄・長崎・瀬戸内や華南・東南アジアに共通するペーロンやクーロンという舟のお祭りも関係あるのかもしれない。水死寸前の楚詩人屈原を救おうと多くの舟を出したという華南が起源の話だが。

僕のリンク集にある焼尻紋次郎さんの説でも、沖縄・長崎・出雲・津軽は言語的にとても似通ってるという。
下記の「青(おう)」の島という水葬の痕跡などは、日本列島の全域に広がっている。

《沖縄では青の島は死者の葬られた島につけられた名前である。習俗の中で葬制はもっとも変化しにくいものである。もし本土の海岸や湖沼に「青」を冠した地名があり、そこが埋葬地と関係があり、また海人の生活を営んでいるならば、南方渡来の民族が移動して、本土の海辺部に定着した痕跡をたしかめる手がかりを得るのではないかと私は考えた。》(「日本の地名」より)

沖縄とアイヌの基層的な宗教観はほとんど同じように思える。
沖縄の場合はさらに、古代天皇制や出雲とも極めて類似した構造が、その上に乗っかっているようだ。
沖縄のような水葬が、平安時代初期までの出雲では行われていたらしい。国造の死体を赤牛に結び付けて、出雲市の東南の菱根の池に沈めていたそうだ。
赤牛は、宮古島では冥府の使いと見られていたとか・・