◎孤独と不安
2016年往年の野球の名選手清原和博選手が覚醒剤で逮捕された。当時はマスコミから、あまりにも彼周辺の情報が細大漏らさず流れ過ぎて辟易するほどであった。そうした中で、彼への同情からか、改めてスポーツ・ヒーローとメンタルヘルスの問題を問う論調も見かけるようになった。
スポーツで成功して、フェラーリとかマセラッティなどの高級車に乗り、妻子がいても毎晩若い女性ととっかえひっかえ遊び、高級住宅に住み、高額所得を手にし、毎日高級グルメを召し上がり、マスコミには寵児とされ情報を提供する。
こういうのが、成功したスポーツヒーローのプロトタイプである。サッカーJリーグでは、このように成功する選手は一握りであり、現役時の反社会的勢力との応対の仕方や、サッカー界からリストラされた後の進路指導まで行っているというのでわかっている対応をしている。
問題なのは、そのごく一握りのスーパーヒーローだって、孤独と不安にさいなまれるのだという事実を、ほとんどマスコミは無視して報道するから、スーパーヒーローにはしばしば清原選手のような運命が降りかかるというところ。
ヒーローが孤独と不安にさいなまれるのは、アメリカの男の中の男にして猟銃自殺した大作家のヘミングウェイ、AKB48、俳優高倉健など枚挙にいとまがない。
裏返せば、人間にとって公的な部分は人生の半分に過ぎず、残りの半分は私的なものであること。ホロスコープの上半分は公的部分で下半分は私的部分。吉の惑星の数が万人にとって同じ数であることは、人間はある部分が恵まれていることはあるが、すべての人生上の側面において恵まれることはないことを示す。
ただごくまれに、公的にも私的にも恵まれている人はいるだろうと思う。人間はそのように目指すべきであり、それが天上と地上のバランスを取るという“真釣り”である。
「恵まれている」とは何か、イエスも釈迦も、そこのどんな困窮にあえいでいる人に対しても「今ここ」で何の不足もないなどと言う。
いわんやスポーツ界のスーパーヒーローに何の不足があろうか。
世俗的に恵まれていることや、世間的に恵まれていることと、それにすら満足できず真に自分が恵まれていることを渇望することは、全く異なる。
要するにスポーツ界のスーパーヒーローは、世俗で成功した人たちなのである。そこから先、別の世俗分野(あるいは感覚刺激の)のスーパーヒーローになることを目指すか、真のスーパーヒーローになるか道が分かれる。
現代の真のスーパーヒーローは、異次元を目指す。クンダリーニ・ヨーガや只管打坐で、卑小な情けない自分を越える道を選ぶのだ。今や真の未開のフロンティアはその方面しかない。宇宙旅行もヒマラヤ登山も今やフロンティアとは言えない。
この辺がスーパーヒーロー達の混迷の仕組みだと思う。