◎ダンテス・ダイジの詩「実際のところ」注釈
ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言に「実際のところ」という詩がある。
率直に言って、自分が20代の頃、彼の文章は、せいぜい三分の一しか理解できていないというのが実情だった。この詩は、当時おそらく理解できない文章の一つだったと思われる。そこで、現代の冥想とか何かまともに生きたいとか、もっとしっくり来るものを捜し当てたいという人にとっても、やはり彼の文章は取りつきにくいかもしれないので、注釈してみる。
(原文1)
『【実際のところ・・・】
実際のところ帝王とは奴隷である。
だから宇宙の奴隷になるがいい。
支配者はつねに
被支配者とファッキングしている。
創造主はつねにつねに
被造物とファッキングしている。
———この認識が、すでに
誰かと誰かのファッキングなのだ。
だから本当に
破れかぶれになればいい!
それは一つの素直さであり得る。』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用。)
金も権力も権威も得た世俗の帝王とは、聖者から見れば、何の救いもないみじめで情けない人間の一人であって、それは、アイドルやスポーツのヒーローが内心では、死におびえ、老いを恐れ、人間関係に苦悩しているのと同じ。
だが、帝王は奴隷あっての帝王であって、一人では帝王にはならない。また帝王は、見果てぬ夢を見ている英雄だが、その夢は必ず破れる。
そして光は闇あっての光であり、悟りも迷いあっての悟りであり、支配者と被支配者、創造主と被造物の関係も同じ。
だが、そういう見方は、二元を前提しており、その見方自体がトラップである。二元と言えばかた苦しいが、好きなものと好きでもないものがあること自体が、二元トラップだとは気づきにくい。『だから宇宙の奴隷になるがいい。』と是認する。
その二元トラップである『誰かと誰かのファッキング』を脱却する一つの手段は、『破れかぶれ』。それは、どう『破れかぶれ』なのかとか、『破れかぶれ』は、向こうから来るのか、内発的なのか、などと頭でっかちでなく、とにかく『破れかぶれ』なのだろう。でもその時、本当に『破れかぶれ』は起きるのか?
『破れかぶれ』は、窮極の肯定キーワード『素直さ』で裏打ちされている。
(続く)