◎気を見る
次の時代の人間と現代人の相違は、まず第一に神・仏・道なるものを明瞭に実感しているかどうかと、霊的なるものに対する感受性・知覚能力の有無ということがあるように思う。
だからといって「みんな霊能力をつけチャネラーになりましょうという」方向は全く誤ったものではある。というのは、現代人の不安定な心理状態のままで、霊能力をつけチャネラーになろうと努力したところで、その感受性の増進により、日々の生活に必要な生存競争に必要な闘争心が減退して、生活ができにくくなるだけで、一利はあるかもしれないが百害があるように思う。
確かに冥想には感受性を深める側面があるが、それが必ずしも霊がかりを目指すものであってはならない。冥想に対して、霊がかりや神懸かり、霊的な世界観を目標や先入観としない、ありのままの姿勢で臨めば、感受性の深まりに応じたネガティブな状態に迷ったりひっかかったりすることは、比較的少ないのではないか。もっともその人の持つ素質や霊的因縁、カルマというものを排除して考えることはできないけれど。
ライヒは、種々の物体から青っぽい光が放射されていると語っているが、同じことを多くの人間が語っているわけではないので、これは、ライヒの持つ特殊な知覚のなせるわざではなかったかと思う。ヒトのオーラは、ある人が見れば光輪と見え、またある人が見れば、狐や狸が憑いていると見えるが如きものではないか。
ライヒのオルゴンの定義は、かっちりとしたものがなく、たとえばこのようなもの。
『晴れた日の日中空を見上げ、眼の力を抜いて空中を眺めると無数の光のきらめきが見えてくる。それはぐるぐる回りながら乱舞しているようだ。』
(ウィルヘルム・ライヒ生涯と業績/マイロン・シャラフ/新水社から引用)
この光のきらめきがオルゴンのことのようで、誰でも注意すれば見えるはずだが、科学史上でこれを採り上げた人はいない。また見えたとしても、どうしても眼そのものの属性(飛蚊症?)ではないかという議論を排除できない。またライヒ自身はオルゴンが眼に見えることを非常に強調したが、オルゴンが見えることは、ライヒの個人的特殊能力であった可能性が高い。
オルゴンは、気、プラーナのことではないかという仮説はあるが、気、プラーナが目に見えるかどうかという点では、見える人もあり、見えない人もありというのが穏当な言い方ではないか。またオルゴンの定義そのものがしっかりしていないので、気、プラーナと同一かどうかという議論も難しい。
中国の医学書の古典黄帝内経では、体内を真気、邪気、正気、陽気など沢山の気が巡ることをいい、そのすべてが陰陽の影響を受けることを語っている。インドのウパニシャッドでもプラーナが体内を巡ることは言っているが、明らかに肉体レベルのことではない。
肉体レベルでない、気つまり七つの身体論でいうエーテル体レベルの議論をするに際して、全員が見えることを前提に議論を勧めようとしたところにライヒの無理があったのではないか。気を見れる人は少ないのだ。気を全員が見るのは現代ではないだろう。
オルゴン?
プラーナ?
見えます(^-^)
晴れた日の信号待ちとか、
なんか、暇なとき、
ふと、そこへ焦点が合います。(゚∀゚)
ライヒは、オルガスムスに際して強力なエネルギーの放出があるが、それをオルゴンと命名しました。一方で、カトリックの修行僧も禅僧もクンダリーニ・ヨーギも、皆禁欲して何かのエネルギーを蓄えているが、それもオルゴンではないかと想像するのが自然ではないでしょうか。
ライヒの発見で本当に評価されるべきはそこかもしれません。