◎ソーマ依存になって廃人になる危険が大
OSHOバグワンのアシュラムでもソーマ摂取が盛んだったようだが、OSHOバグワンはこれに対して否定的な意見だった。要するにソーマ・ヨーガによって悟りに至る可能性は否定はできないが、実際のところソーマ依存になって冥想修行どころか、生活すらできなくなる危険の方が大きいと見ていた。
OSHOバグワンは、ソーマ・ヨーガによって悟りに至る方法としては、ソーマによって、幻想の世界、夢の世界があることを自覚させること(霊道を開くということでもある)をきっかけにより、以後冥想修行に邁進できる可能性を見ていた。だが、そのケースでもソーマの使用はいわば最初の一回に限定している。
ソーマの使用は、未悟者は禁止だが、覚者の中にはソーマや酒でもって悟りを維持する場合があるらしい。冥想パワーで体内の毒性を意識で排出できるような連中だけが、それを可能なのだと思う。
唐代の知識人や貴族の間には、外丹という向精神性薬物摂取が流行したが、かなりの人が水銀中毒やヒ素中毒で死んだ。ところが則天武后だけは晩年までばんばん外丹摂取し元気はつらつだったという。則天武后は、冥想パワーで体内の毒性を意識で排出できるようなレベルまで行っていたのだろう。
以下は、OSHOバグワンがソーマ使用に反対している意見の冒頭。
『(OSHOバグワンのThe Last Testament, Vol 4 Chapter #6の一部を仮訳)
薬物は人類と同じくらい古く、確かにそれほど重要な価値を持っている。私は薬物に反対だが、私が薬物に反対する理由は、何千年もの間、人々が薬物に依存している理由と同じだ。奇妙に見えるかもしれない。薬物は、日常の世界を超えた幻覚的な体験を与える能力がある。それが瞑想によって探求される体験だ。 瞑想は実際の体験に連れて行ってくれ、薬物はただの幻覚、夢のような体験だが非常に似ている。瞑想することは難しい。
薬物は安い。しかし、薬物の魅力は精神的なものだ。人は日常の存在に満足していない。彼は何かもっと知りたいと思っている。彼はもっと存在したいと思っている。ただの平凡な人生はあまりにも平坦で、意味がなくて、もしそれがすべてなら、唯一の救いは自殺だと思われる。それはエクスタシーも喜びも与えない。それどころか、ますます多くの不幸、心配、病気、老齢、そして最終的には死を積み重ねる。生から死まで、普通の人生はただの足かせだ。人々は臆病だから、それを生き続けている。さもなければ自殺するだろう。彼らには自殺するだけの勇気がない。しかし、これは誰も喜べるものではない。
ずっと続けられるけど、それは生きるとは言えない。そこにダンスもなければ、色彩もない。ただ見渡す限り広がる砂漠があり、どこにもオアシスはない。 レオ・トルストイの夢の一つを思い出す。それは珍しい夢だ。それが彼の人生のほとんどの間、繰り返し現れたという点でも、また独特だ。彼が覚えている限り、その夢は起こり続けた。そしてその夢はとても奇妙だ。 彼の夢の中では、広大な砂漠と、中に誰も入っていない2つの長靴が見える。足のないその2つの長靴がただ歩いていて、歩き続けて、歩き続ける。歩くのが終わることはない。砂漠は果てしない。そして彼はいつも汗をかいて目を覚まし、心臓が激しく鼓動し、恐怖に襲われた。
彼は精神分析医に行かずとも、その意味を理解していた。彼自身が天才だったのだ。彼はこれが彼の人生であり、夢ではないことを知っていた。それは象徴的ですらない。それはまさに彼の人生そのものだった。
彼はどこへ行こうとしているのか?どこへ行っても、最終的には墓にたどり着くだろう。誰が歩いているのかはわからない。長靴は空っぽだ。彼の中には誰もいないことがわかる。彼は長靴を履いている人を知らない。彼は見えない。見えるのは長靴と砂漠、そして果てしない、無意味な旅だけだ。
これが、人々が初めからドラッグに惹かれてきた理由だ。それが一時的な救いを彼に与えたからだ。しかし、瞑想を試みた人はわずかだった。』
※冥想は現実そのもの(今ここ、カイヴァリヤ)に連れて行くが、薬物はただの幻覚、夢のような体験を出ない。瞑想することは難しい。
ただし、カルロス・カスタネダのようにソーマ使用を繰り返して究極に至る道もあることは不思議なことである。