アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOバグワン信心銘を説く

2023-01-23 20:35:20 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎そのような思いは、ついには一瞬にして止む

(2021-01-23)

 

歴史とは暴力を記録するもの。これに対し、聖者の言行録とは、言葉にできないものを言葉でなぞるもの。

禅の第三祖僧さんは、北周武帝の仏教弾圧下で、各地を漂泊せざるを得ず、その中で、達磨にも二年ほど仕えたらしい。

 

OSHOバグワンを読もうとする人ならば、数少ない大書店の精神世界コ-ナーやブッククラブ回などに行って、どれを読もうかと本を選ぶ。その中で「信心銘」は、馴染みのないことから真っ先に切り捨てられる本の一つだろう。その「信心銘」を読んでみる。

 

OSHOバグワンは、あらゆる「しなさい」「してはいけない」が人を殺すと言う。(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P28)

 

つまり人は、「愛しなさい、憎んではいけない。」「平和を望みなさい、戦争と暴力はいけない。」「リラックスしなさい、緊張はいけない。」などと、いくらでも頭でやっている。

 

だが本来愛するのも簡単で、憎むのも簡単なことである。えり好み、好き嫌いが、他人を殺し、弱小民族を圧殺し、敵国を滅亡させ、自分を殺し、あらゆる狂気と暴力の巷を現出するのだ。

 

そこでOSHOバグワンは、息をすれば生命力プラーナを取り入れられるから「息を吸うだけで呼かないことにしよう」などと唱えてみる。なぜなら吸気は生で、呼気は死、一呼吸一呼吸の間に人は生死を繰りかえすから。だが、息を吸うだけで呼かなければ人は死ぬ。

 

えり好みをするというのは、そういうことだ。

どうすれば、えり好みをせずにすませるのか。

 

信心銘から、

「迷えば寂乱を生じ、

悟れば好悪無し。

一切の二辺、妄りに自から斟酌す。

 

夢幻空華、何ぞ把捉に労せん。

得失是非、一時に放却す。

眼若し睡らざれば、諸夢自から除く。

心若し異ならざれば、万法一如なり。

 

一如体玄なれば、兀爾として縁を忘ず。

萬法斉しく観ずれば、帰復は自然なり。」

 

これが、OSHOバグワンでは、こうなっている。

『安心も不安も迷いの故だ。

光明とともに、好悪は消える。

 

すべての是非は、無知なる解釈によって起こる。

夢のようなもの、空中の華のようなもの、

捕らえようとするのは愚かなことだ。

得だとか、正しいとか、間違っているとか、

そのような思いは、ついには一瞬にして止むべきものだ。

 

ーつの眼が眠らなければ、

一切の夢は自ずから止む。

想いがどんな区別もしなければ、

万物は、そのあるがままで

ただ一つの精髄の顕れになる。

この精髄を理解することが、

あらゆる混乱からの解脱だ。

一切が等しく見えるとき、

永遠の自己に到達している。

そこには比較も比喩も不可能な、

因果の絆の断たれた所だ。』

(信心銘/ラジニーシ/禅文化研究所P283から引用)

 

ここでは、悟りは光明だと謂い、万物の帰っていくところを精髄と呼ぶ。だが、光明も精髄も理解などという言葉も原文にはない。

一切が等しく見えるの「見える」という言葉もなく、「永遠の自己」という言葉もない。一如体玄には見る自分などないからである。

 

OSHOバグワンの見ているであろう英訳が結構いろいろ問題がある印象である。だがOSHOバグワンは、見る自分のない一如体玄はちゃんとわかっている。

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熟睡中に眠らなければ夢も見ない

2023-01-23 20:26:41 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎信心銘でアートマンの後先

(2019-05-24)

 

信心銘の続き。

『眼(まなこ)若し睡らざれば 諸夢 自ずから除く

心 若し異なざれば 万法一如なり

一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず

万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり』

 

※眼(まなこ)若し睡らざれば:

熟睡中に眠らない自分。ウパニシャッドの頻出テーマ。荘子大宗師篇にも寝ても夢見ないというのがある。ケン・ウィルバーが、自分では悟ったと思っていた時期に、熟睡中に眠っている自分を発見して愕然として、修行をし直した例もある。

 

※心 若し異なざれば:

臨済録に、『如何なるか是れ心心不異の処?」と弟子が問うと臨済が云く、「あなたがこれを問おうとしていることは、既に異であって、いけない。』というのがある。これに続く言葉である万法一如(ア―トマン)と心が異なってはならない。

 

※一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず:

万法一如(ア―トマン)は、この一つながりのものであって、万物も時間も空間も物質もあらゆる生物無生物の想念も感情も意思も含まれる今ここしかない今。これが玄(神秘)なのだが、ごつごつとした石くれのように取り付くしまがなく、非人間的な乾いたもの。

そこでは、あらゆる人間ドラマを起こす原因である縁すら忘れられている。

 

※万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり:ここで斉(ひと)しく観ずるのは、男女、天地、有無、善悪、貧富、貴賤などあらゆる区別。万法アートマンという石ころの心から一歩出て区別がスタートしたら、以前とは別の本来のナチュラルな自分らしい自分が始まる。

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智者は無為なり愚人は自縛す

2023-01-23 20:22:29 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎信心銘から

(2019-05-23)

 

禅の三祖僧璨(ソウサン。達磨の弟子の慧可の弟子)の信心銘から。三祖僧璨は、中風を病み、臨終時は立ったままだった。仏教禁令の時代を片腕のない慧可と過ごした。

 

『智者は無為なり 愚人は自縛す

法に異法は無く 妄(みだ)りに自ら愛著す

心を将(も)って心を用う 豈に大錯に非ずや

迷えば寂乱を生じ 悟れば好悪は無し

一切の二辺は 妄(みだ)りに自ら斟酌する

夢幻虚華 何ぞ把捉を労せん

得失の是非 一時に放却す』

 

※大錯:大間違い

※寂乱:寂と乱の対立、差別

※夢幻虚華:夢と幻想と空虚な華

大意:

心をもって心を用いるのは、大間違い。心が静まったり乱れたりするのは、実体のないことで、迷うから起こるもの。男女、天地、貧富、貴賤など一切の二辺の区別は、心が起こすものであって、そうした実体のないものをことさらに追うべきではない。メリット、デメリットの判断は捨て去ることだ。

 

これを哲学と見るようなことは禅者はしない。このメリット・デメリットでの区別全盛の時代に、それをほおっておくことを求める。

 

ほおっておくためには、まずスマホを離し、イアホン・ヘッドホンをはずし、テレビ・ラジオを止めることから始めなければならない。最初は、そのこと自体が惑乱と感じる人も多いのだろう。そして坐る。

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三祖信心銘

2023-01-23 20:19:37 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難

(2011-03-16)

 

禅の三祖の信心銘の冒頭

 

『至道無難唯嫌揀択

 

至上の大道は、すぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただえり好みしさえしなければ、それでよいのである。』

 

「えり好みをしない」ことほど難しいものはない。

ただ「えり好みをしない」とは、正気で意識が清明であって、来るものを拒まないこと。

 

我が無くならなければそんな風にはなるまい。

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天国と地獄の卒業-5

2023-01-23 07:46:31 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎見ている自分が残り、消える

 

イーシャ・ウパニシャッドでは、自分個人が世界全体に転換して、その次に言葉では言えないシチュエイションに飛び込むわけだが、自分個人が世界全体に転換するサプライズについては、感動を以って描かれているわけではなかった。

 

すでに非思量底の、つまり思考を超えた世界であり、無意識の世界ではシンボルで思考するなどと言うが、その思考は麻痺し、その場では立ちすくむばかりで、ただ見ているばかりなのか?見ている自分と見られるものが合体する瞬間。

 

第一、イーシャ・ウパニシャッドの経文の

『いとも麗しき 善なる汝の姿を我は見る

我は日神たちと共に座す者である』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P358から引用)』

この一節の前半では、見ている自分が残り、後半では見ている自分は残っていないかのようである。よってこの一節だけが、個から全体への逆転だとして、そのサプライズの動揺も記述がなく、その変化が当たり前のことのように淡々と描かれている。

まるで「体験した者だけがこれをわかる」という風である。

 

天国と地獄を卒業すれば、非二元、ノンデュアリティの世界に入るはずが、そのメカニズムはそう単純明快なものではなく、人間の現実認識のあり方からすれば容易に具体的に描写できる代物ではないようだから、このようなわかったようなわからないような記述になるのだろう。

 

禅の信心銘で、自分と世界全体についての言及がある。

『真如法界 他無く自無し

急に相応せんと要せば 唯(ただ)不二と言う

不二なれば皆同じ 包容せざる無し』

(大意:過去現在未来を含む世界全体には、他も自もないが、どうしても言葉にするならば、非二元(不二)である。不二はすべてを含む。)

 

これも、『悟りを開けば、世界はあなたと私は一緒の非二元』みたいな単純な物言いを避けた表現となっており、そこにこそ秘儀、神秘が隠されているのだろうと思う。

 

人はいろいろと願望がありすぎて見込みのないことばかり望み続けるものであり、本当に追い込まれてどうしようもなくならないと『現実を受け容れない』あるいは『真理を受け容れない』ものである。その先に真如がある。

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天国と地獄の卒業-4

2023-01-22 06:32:24 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎無始無終へと跳躍していく最終地点

 

イーシャ・ウパニシャッドの経文から。

『太陽よ

世界を育み支えるものよ

空の孤独な旅人よ

ヤーマよ 太陽よ ブラフマンの太陽よ

汝の光を納め給え

いとも麗しき 善なる汝の姿を我は見る

我は日神たちと共に座す者である』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P358から引用)

※ヤーマ:死の神。

 

これは、アートマンがブラフマンに突入して起こるニルヴァーナを描写するものだが、一読して全然そのようには読めない。

文中の太陽は、ブラフマンの太陽であって中心太陽、未顕現のブラフマン、種(たね) のブラフマン。

 

OSHOバグワンの説明はこんな具合。

これも祈願文であって、修行者は、「太陽よ。その光をお納めください」と祈る。既に修行者は、生も死も、光も闇も克服済である。そこで前の段階で、黄金の覆いである光を取り払って下さいと神に祈願したのと同様の祈りを行う。

 

生も死も、光も闇も克服する方法は、二種あって、太陽が生も死も光も闇も創造している中で両方とも受け入れる方法と、太陽に祈って生も死も光も闇も創造する以前のすべてを収縮吸収した源泉の太陽の状態に戻してもらう方法である。

ここは後者を祈る。修行者が死にも闇にもこだわりがないからこのような祈りができる。

 

『それゆえに賢者は言う、「偉大なる太陽よ、ヤーマよ。あなたは生を授けるお方、生と死の均衡を計るお方。生をお納め下さい。死もお納め下さい。私は生と死を超え、生まれることも死ぬこともないものを知りたいのです。その源泉を知りたいのです。何もなかった最初の瞬間、あらゆるものがそこから生まれ出る、まったき虚空が存在した最初の瞬間を知りたいのです。 あらゆるものが再び吸収され、何も残らないその最後の瞬間を知りたいのです。あらゆるものが生まれ出るその虚空、あらゆるものが吸収されるその虚空を知りたいのです。お願いです。あなたの溢れ出る光をすべてお納め下さい」

 

確かにこれは、目に見える外界の太陽に向けられた祈りではない。これは内側の、あの場所に達した後に唱えられたものだ。その向こうには、無始無終へと跳躍していく最終地点がある。この、「太陽よ、すべてをお納め下さい」という祈りはこの時に唱えられる。そうした祈りを唱えるには、大いなる勇気、この上ない大胆さが要求される。なぜなら人は、「生と死がなくなり、偉大な太陽の光がすべて引き払われる所で、生きていられるだろうか。私も滅びてしまうのではないだろうか」と思うからだ。

 

だが、賢者の望みはこれだ―「私は生きているかもしれないし、死んでしまうかもしれない。 だが、それはもはや問題ではない。要は、常住のものを知りたいということだけだ。私は、すべてが失われすべてが滅んでも存在するものを知りたい。私まで消えてしまうかもしれないが、失われることのないものを知りたいのだ」

 

限りない年月の間に、数限りない人々がこの世で真理を捜し求めてきた。しかし、この世のどこにも、内なる世界で為されるような探求は見られなかった。この内なる世界の探求者たちが為す究極の探求、勇気を試す究極の試験、それに匹敵するような例は、この世のどこにもない。

 

私は長い間調べてきたが、真理の探求のためなら喜んで滅びようとする人を、捜し出すことはできなかった。この世には多くの真理の探求者がいるけれども、彼らは一つの条件を付ける― 「私は真理を知りたい。だが自分を生かしたままで」と。だが、「私」が保持される限り、あなたが知るのはこの世、サンサーラだけだ。なぜなら、「私」というのは、この世にとって重要不可欠のものだからだ。もし、アリストテレスとか、ヘーゲルとか、カントのような探求者に、「自分の内側を捜せば、真理を知ることができるでしょう」と言う人があれば、「何のためにそういう真理を知 るのですか。自分を滅ぼすような真理を知って何の役に立つのですか」と答えるだろう。彼らの探求には、「自分を生かしておきたい、その上で真理を知りたい」という一つの条件が付いている。

 

真理を探求しつつも、自分を保持しようとした者は、決して真理を知るに至らなかった。代わりに彼らはそれを作りだした。真理を作り上げた。だから、ヘーゲルは大著を著わし、カントは真理についての深遠で難解な定理を提示したのだ。しかし、自己を探求する姿勢のない人の著作や原理には、何の価値も意味もない。もしカントやヘーゲルに、このウパニシャッドの賢者をどう思うかと尋ねれば、「その人は気が狂っている。真理に達しても、自分を失ってしまうのでは意味がない」と答えるだろう。

 

だが、賢者の理解は極めて深い。賢者は言う、「『私』というものは、真理にあらざるものに不可欠の要素、この世の、サンサーラの一部だ。この俗世のものが去り、真理が私に訪れることを願い、なおかつ「私」がそのままに残るようにと願うのであれば、私は不可能なことを望んでいる。俗世のものをなくそうというのであれば、それは徹底されなければならない――外からも内からも。一方で外の物体が消え、他方で内側の「私」が消えなくてはならない。内にも外にも虚空だけを残し、外からも内からも形がなくならなければならない。ゆえに、真理を見つけようというのであれば、自分を失うことがその不可欠の条件なのだ。「お願いです。偉大な太陽よ、あなたのすべてをことごとく消し去り下さい。すべての広がりを納め、元の種にお戻り下さい。何もなかった場所にお戻り下さい。すべてがそこから始まるところのものを、私が知ることができますように」

 

これは究極のジャンプだ。このジャンプをしようと勇気を奮い起こす時、人は至高の真理と一つになる。自分を失わずに、この至高の真理と一つになることはできない。だから、西洋の哲学者が真理を追究しようとしても、人間を、通俗的真理を超えることはできなかったのだ。

 

彼らの探求は人間のそれであって、実存的なものではない。人間の範疇に属すものでしかない。 東洋の賢者が求めるのは、通俗的・人間的な真理ではなく実存的な真理だ。』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P364-367から引用)

 

OSHOバグワンの解説で、無始無終へと跳躍していく最終地点に立っていることはわかる。このジャンプによって自分は失われるかもしれないが、それでも飛び込んでいく。

 

光も闇も、善も悪も、生も死も超越したポイントに私はいて、私は世界全体であったはずだが、その私が更に自分が失われるかもしれないジャンプに挑む。

このシーンは、クンダリーニ上昇シーンで、アートマンがブラフマンに向かって上昇するシーンの図(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP101)を見れば、そうだとしか考えられないのだが、にわかには信じられないということもある。

どこで個なる私が宇宙全体、世界全体に転じ、さらにモクシャに進むのかというタイミングについては、このOSHOバグワンの説明でもダンテス・ダイジの解説でも不明瞭なところがある。

 

とにかく、無始無終へと跳躍していく最終地点に立ち、そこからジャンプアウトすることを神は期待しているわけだ。

 

単に、生と死の超越あるいは天国と地獄の卒業を目指してきた情熱的にして勇気ある探検者は、ついに世界の始原に飛び込む思い切りのある英雄であることを求められることになったのだ。

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ひらがなの意味

2023-01-21 20:08:04 | 古神道の手振りneo

◎世界創造の道具

(2009-03-16)

 

世の中には姓名判断のようなものがあるが、その原理には、画数の数字の部分と音の部分があり、仮名48音のそれぞれの意味がある。その説明がどこに由来するものか不思議に思っていたが、これは出口王仁三郎が太鼓判を押しているものなので、信用できるものと思う。

 

霊界物語では、いろは歌は空海の創作ではなく、霊界最奥の太元顕津男の神の言霊から出てきた神歌とする。48音は、世界創造の具材であるが、罪けがれのある世界のものだから、クンダリーニ・ヨーガ的世界観のものであることがわかる。

 

ネガティブな意味を充てている字は少ない。

【ゐ】は快感の極度に達したる時の意也とは、ニルヴァーナの謂いだろうか。

【て】には、暗夜への言及がある。【あ】も光。

いずれにしても世界に鳴り鳴りて響きわたる父音、母音を聞くような集合的無意識にあって聞こえる言霊のことだろう。

 

たとえば麻生太郎の「たろう」なら、

【た】は円満具足の意也。

【ろ】は水と火の固まりて水火となり、

【う】は潤ひの意、又天消地滅的場合に発す言霊也。

となり、大体がポジティブな意味が配当されているが、自分の名前で見てみるとそれなりに思い当たることがあるもの。

 

 

【い】は水と火の並びたる象徴也、右は水、左は火。

【ろ】は水と火の固まりて水火となり、宇宙に開く言霊を、【は】といふ。

言霊宇宙に開きて前後左右に活用く象は、【に】也。

此の活動によりて一つのヽ現はる、即ち、【ほ】の言霊也。

【ほ】は次第に高く昇り膨れ拡がる態を、【へ】といふ。

【と】の言霊は水火の完成したる言霊也。

水火完成して宇宙に滋味を生ず、之を【ち】といふ。【ち】は子を育つる母乳の意也。又万物発生の経綸場たる大地の意也。

 

【り】の言霊は女男二神水火を合せて並び立たせる言霊也。

【ぬ】の言霊は互に和らぎ寝み温かき心を以て神業に尽す水火の象也。

【る】は夫婦の道又は天界の総ての定まりし言霊也。

【を】は心也。

 

【わ】は和らぎ睦み御子を生み給ふ態を言ふ也。

【か】は抱へ合ひ、輝き合ふ意にして、俗言に嬶といふも此の言霊の意也。

【よ】は夫婦二神世帯を持てる象也。

【た】は円満具足の意也。

【れ】は夫唱婦随の意也。

【そ】は上下四方揃ふ意也。左右の指の五本と五本と合せて拍手せし態也。

 

【つ】は永久に続く意にして世人のいふ玉椿の八千代までといふも同じ。

【ね】は懇にして夫婦同衾の意也。

【な】は二人並ばし寝給ふ象也。

【ら】は左旋右旋の意にして婚ぎの時の態をいふ。

【む】は蒸し蒸して生し蒸生し息子娘を生むの意也。

 

【う】は潤ひの意、又天消地滅的場合に発す言霊也。

【ゐ】は快感の極度に達したる時の意也。

【の】は一物より迸る水気の意也。

【お】は穏かに修まりし心。

【く】は夫婦組合ひたる象。

【や】は弥益々の意。

【ま】は誠の心を以ちて幾万年も夫婦の道を守らむとの意也。

 

【け】は身の汚れの意也。

【ふ】は吹払ふ言霊にして男女の汚れを吹き払ふの意也。

【こ】は子にして、

【え】は胞衣也。

【て】は照り輝く意にして、暗夜の神業も終局の時火を照す意味也。

 

【あ】は暗室に点じたる火によりて一切のもの現れる意也。

【さ】は避くる意にして男神は女神の面を見る事を避け、又女神は男神の面を見る事を恥らひ避くる事の意也。

【き】は気の高ぶりて心いそいそする意也。

【ゆ】は豊かの意にして仲の好くなりし言霊。

【め】は木の芽を吹き出す如く御子の種宿り始めたる意。

【み】は弥々胎児となりし言霊也。

【し】はしつくりの意にして、茲に愈夫婦らしく初めて落ち着けるの言霊也。

 

【ゑ】は歓ぎ喜ぶ意にして、御子の生れたるを見て互に笑み栄えるの言霊也。

【ひ】は日子日女の意也。

【も】は催合ふ意にして、一家和合の言霊也。

【せ】は川の瀬の意にして、夫婦の仲に一点の邪曲もなく清らかなる態の言霊也。

【す】はいよいよ澄みきりて親子睦じく世に住む言霊也。』

(霊界物語73巻より引用)

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グルジェフの生い立ち

2023-01-21 19:40:53 | 現代冥想の到達点neo

◎最も大事なものを捨てる

(2008-01-02)

 

グルジェフのやり口は、単刀直入で、人の意表をついて、いろいろな意味での先入観を打ち壊すことから始める。これに対して、彼のよき紹介者であったウスペンスキーのアプローチは、知的論理的であり、絶対に人の意表をつかないという弱点があり、出会いの最初から「何かあるぞ」という目で見ない人には、ウスペンスキーのアプローチでは気づきを得ることはなかったのではないだろうか。グルジェフも、ウスペンスキーのやり方のその点を心配していた。

 

さて20世紀ロシアの神秘家グルジェフの生い立ちは、謎に満ちている。おまけに後年欧米で出会った人には、その多くを語らなかった。

 

グルジェフのパスポート上の生年月日は1877年12月28日。彼は当時ロシアとトルコの間で領土争いの焦点になったグムルーの町に生れた。この誕生日は、当てにならないとされている。

 

グルジェフの父はギリシア人の大工で、叙事詩ギルガメシュを朗誦する吟遊詩人でもあった。母親はアルメニア人。

 

カルスという町で、この地方の軍事学校のボルシェ神父に神学と医学を学ぶかたわら、アレクサンドロポールまで出かけて壊れた家具や機械を修理しては小遣い稼ぎをした。

 

そして10代の初めには、チフリスの駅で火夫をしたり、鉄道新設ルートの町や村に駅を作る便宜を図ると言っては賄賂をもらっていたようだ。また、この頃彼は、アルメニア正教発祥の地であるエチミアジンに巡礼をしたり、様々な社で祈ったりするという経験を積んだ。

 

チフリスに戻る頃には、鉄道の仕事をやめていいくらいのお金がたまったので、古いアルメニアの本を一山買ってきて、古都アニへ友人ポゴッシアンと引っ越して、読書と研究、そして廃墟の発掘・探検の日々を過ごした。

 

そうしたある日廃墟で見つけた修道僧の古い羊皮紙の手紙をきっかけにエジプトへ渡り、グルジェフは、エルサレムに移り、ロシアの観光客のガイドになった。

 

こうした放浪の末、どういう修行があったのかはわからないが、1902年ゴビ砂漠のはずれのヤンギヒサールで、流れ弾にあたり3か月も意識を失っていた。その2年後同じ町で、ロシア皇帝と革命家の争いに巻き込まれ、また流れ弾に当たった。

 

この怪我の回復過程において、自分が全く無価値であるというネガティブな意識状態におちいったが、駱駝が動いたことをきっかけに、グルジェフはこの魂の暗夜を振り払うことができた。

 

これは全的な自己知覚状態であり、グルジェフの見性にあたるものだと思う。この時、彼は超能力を自分のために使うことを含むすべてを捨てれば、自己知覚状態の源泉を引き出すことができると考えるに至った。

 

見性前には、グルジェフですら、それまで積み重ねてきた一番大事なものまであきらめる覚悟が必要だったということ。その後の老獪に見える彼のやり口に比べ、暗夜を乗り越える時はとても人間的であった事を知り、ほっとさせられる。

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暗夜から光へ-3

2023-01-21 19:16:27 | 究極というものの可能性neo

◎第二夜について

(2006-08-25)

 

十字架のヨハネは、神との一致には次の3つが必要であると見る。

知性による信仰、記憶につながる希望、意志による愛である。そして、知性(理性)、記憶、意志それぞれが暗夜になる原因でもあると見る。

 

1.理性の暗夜

十字架の聖ヨハネは、神および霊的なものとの関連をもつ、理性的な高い部分についても、やはり同じように目をつむって、真っ暗な状態にとどまらなくてはならならいと言う。つまり理性は、不可知の暗夜を作り出すことになるのである。

 

というのは、超自然的な魂の変容と神との一致は、理性の捕らえられるところではないので、暗黒になるべきであるのは明らかであると説明している。カトリックの道で、光を持つためには、自らは闇の中にいなければならないのである。

 

こうして自分の理性を捨て、自我を捨て、無になったところに神が働くとする。

 

2.記憶の暗夜

神との一致の始めには、記憶の忘却と、想像の停止が起こる。希望は記憶を消去してしまうのである。この段階では、時に自分自身をすっかり忘れてしまうため、何かを思い出そうとすると非常な力と努力を要するほどだと言う。

 

『神は記憶によってとらえられるような形やイメージを持たないので、記憶が神と一致する場合には、(毎日の経験においてみられるように)何の形もイメージもなく、想像も絶えて、記憶は全く忘却のうちに一言も思い出すことのない至福の状態に置かれる。というのはその神的一致は、イメージをなくし、形や概念のすべてを一掃し、記憶を超自然へと高めるからである。』

(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

 

3.意志の暗夜

  意志による愛を貫きとおすために、意志の暗夜がある。そのためには神のために意志力を蓄える必要があるが、その力を散漫なものにする障害が、乱れた欲望であったり、よこしまな執着であったりする。具体的には、神以外のものに対する喜びと期待、また神以外のものに対する悲しみと恐れである。これが意志の暗夜と呼ばれるもの。

 

現代人は、神以外のものに対する執着が強いことが普通なので、それは一種の意志の暗夜であるといえる。

「神は彼らを、そのよこしまな心のままにゆだねたもうた。」聖パウロ

 

こうした暗夜を超えて、神との一致に進んでいく。

 

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暗夜から光へ-2

2023-01-21 19:12:04 | 究極というものの可能性neo

◎第一夜について

(2006-08-24)

 

カトリックの冥想プロセスに特徴的なものではあるが、神の観想を進めていくと、自分はすっかりダメな奴で、悪と罪に満ち満ちた者であるという、苦悩と困窮に追い詰められるものである。これは、神の認識の光に照らして自分を見つめると、自ずとそうなっていくものである。

 

もちろんそうした状態は、ノイローゼだったり、うつという病的な精神状態に過ぎないのか、それとも神との一致に進む途上の正統的な「暗夜」なのか見分ける必要がある。

 

カトリックでは、観想法が用いられているところが特徴的である。禅では観想法はなく、クンダリーニ・ヨーガ系にはあり、たとえば日本密教(真言、天台)でも月輪観など観想法がある。

 

第一夜は、感覚的な欲望の暗夜がテーマ。

まず神と合一しようとする精神的な愛の炎が絶えがたいほどに燃え上がらないと、感覚的、官能的なものへの誘惑を退けて、感覚の暗夜に入っていこうとする勇気が起こらない。

その勇気をもって、欲望を弱め、静めていくと、いつしか感覚的な暗夜を通過したことに気づく

 

第一夜に該当する詩句

 

『暗き夜に

炎と燃える、愛の心のたえがたく

おお幸いなその時よ

気づかるることもなく出づ、

すでに、我が家は静まりたれば』

(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

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暗夜から光へ-1

2023-01-21 18:58:00 | 究極というものの可能性neo

◎暗夜について

(2006-08-23)

 

カトリシズムの巨星、十字架の聖ヨハネは、著書「カルメル山登攀」において、神との合一に至る直前の段階での、精神の暗夜には三夜あると説明する。マラソンで言えば、最後の直線のラスト・スパートの部分である。

 

この中身は、あらゆる神秘体験や神秘的ビジョンの正邪の見分け方、聖書の出来事の解釈の方向性など、示唆に富むものが多い。

 

第一夜

これは、感覚の暗夜と呼ばれるもの。すべてのものに対する欲求の楽しみつまり感覚的欲望から、心をはぎ取ってしまえば、霊魂は暗い何もない状態になる。これが第一夜。

観想の初歩にある人がこれに該当する。

 

第二夜

これは、精神の暗夜と呼ばれるもの。

精神の機能を、理性、記憶、意志の3種類と見て、信仰が進むにつれて、それぞれの機能に暗夜が到来する状態。

 

既に感覚からは暗夜状態であるが、さらに理性、記憶、意志についても暗夜を加えた状態。

 

つまり信仰、神というものは、決して理性でもって理解はできない。従って理性でもってアプローチすればするほど、信仰、神というものは、暗黒と観ぜられるのである。記憶、意志についても、核心に迫るほど暗夜に陥っていくことになる。

 

第三夜

これは夜明け前にあたる。第一夜第二夜においては、個人の魂が能動的に神を求めて進んで行った暗闇であったが、第三夜は、神から個人への働きかけが主となる受動的なものとなるのである。これも暗夜であり、神との一致以前である。

 

十字架のヨハネの著書「カルメル山登攀」においては、第一夜、第二夜は詳述されているが、第三夜はほとんど何も記述されないで終わっている。「神の御心の許されるままに」書き進めて行ったが、第三夜については、神の御心の許されるままに筆を置いたということになるようだ。

 

カルメル山登攀は、登攀の途中で終り、最後は自ら挑戦してみる方のお楽しみということになっている。

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天国と地獄の卒業-3

2023-01-21 06:28:29 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎魂の闇夜、無数の太陽

 

OSHOバグワンは、未顕現のブラフマンは光中の光だから、最初はまぶしくて見えないとする。キリスト者の言う魂の闇夜は、これであって光の中心である未顕現のブラフマンに比し周りは暗すぎる光だから魂の暗夜と感じる。しかし既に闇はなく光ばかりだから、それは闇ではない。

 

これに対応するイーシャ・ウパニシャッドの経文。

『あふれる光の中に座すブラフマン

その顔は黄金の覆いに包まれている

神よ

真理の探求者たる私が

究極そのものに達せますよう

その覆いを払い給え』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P344から引用)

 

これは、祈願文すなわち祈りの言葉になっている。見ている自分はこの時点でそもそもないのだろうかということが気になる。

 

この経文では黄金の覆いと表現しているが、スーフィの神秘家なら無数の太陽が一斉に輝いていると表現する。それらの多数の神聖なる太陽のうち中心の太陽以外の太陽が妨げになっている。その黄金の光の覆いを払って下さいと神に祈る。

 

OSHOバグワンは、二元性との最後の戦いが、『光との闘い』であると述べる。それを経て非二元に入る。つまり闇と光の戦いの最終ステージは光との闘いになるのだ。

なお彼自身の大悟の描写にまぶしすぎるというシーンは出てこない。

 

この段階を通過して、人は闇と光とを超え、二元性を終了し、非二元になる。つまり生死、光と闇、天国と地獄、男と女などあらゆる二元が終わり非二元に入るが、そこは第六身体と考えられる。

 

そして非二元に入るには、天国的なものを捨てるという人間の本性からして極めて抵抗の強い行為をせねばならないので、ここは神に祈るのだと、OSHOバグワンは説明する。神に明け渡すわけである。

 

そしてそれが成功すると、知る者も知られるものがない、体験する者も体験されるものがない解脱となる。第六身体アートマンである。

 

だが、これを光の中心、最終目的地、真理の顔と言っているものの、まだニルヴァーナではないようだ。

 

更に先がある。

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OSHOの9種の意識

2023-01-20 20:17:59 | 究極というものの可能性neo

◎顕在意識の上方
(2009-08-03)

OSHOに限ったことではないが、聞き手である弟子のレベルに応じて、OSHOの話がどの程度核心に触れてくるかが変わって来る。それは、音楽でいえば、聴衆のレベル、雰囲気に応じて、同じ奏者の演奏でありながら、あるコンサートではひどいものになったり、別のコンサートでは秀逸なものになるのと同じである。大体が、どんな聖者も、肝心かなめの部分は、高弟か、同レベルの覚者に対してしか漏らしていないものだという印象がある。

だから不特定多数向けの講話録は、大体がとおり一遍の内容であることがおおい。OSHOの本も内容に出来不出来があるのは、OSHOのせいではなく、聞き手のせいなのだと思う。ダンマパダは、出来の良い本のひとつ。

ダンマパダにあるOSHOの9種の意識論。

まず、潜在意識は意識の全体の9割を占め、残り1割が顕在意識。ダンマパダでは、話の流れの中で詳しく説明していないが、こんな感じだろうか。

1.宇宙的超意識(ニルヴァーナ、モクシャ、解脱、真理)
2.集合的な超意識(諸宗教で神々と呼ばれる)
3.超意識的な心(サマーディ、三昧、統合された気づき)
4.顕在意識の上の「真に意識的な心」(冥想を通じて到達)
5.通常の顕在意識(いつもの気持ち)
6.漠然とした個人的潜在意識
7.個人的無意識(夢や薬物で知ることができる)
8.集合的無意識(家系、集団、民族、人類などとあるグループに共通の無意識)
9.宇宙的無意識

6から下は、心理学者のフロイトやユングの発見。4から上はインドの聖者オーロビンドの発見とする。潜在意識があることは、夢を見ることで知られるが、顕在意識に更に上があるなんて日常感覚では想像もできないことだ。

仏教ではアラヤ識を立てるが、それは集合的無意識レベルだと思うが、仏教では、なぜ顕在意識の上方について言及しなかったのだろうか。

顕在意識とは、覚めていること。覚めている、はっきりしているといえば只管打坐。只管打坐に顕在意識上方へのヒントが隠されているように思う。

さてOSHOが9種類の意識を語るからには、これは間違いではないだろうが、どういう意図で、どのような狙いでもってこれを説いたのだろうか。おまけに一番上の宇宙的超意識と一番下の宇宙的無意識は同じみたいだし。

 

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OSHOの光明-2

2023-01-20 20:00:29 | 現代冥想の到達点neo

◎光明

(2006-02-17)

 

『わたしは八時ごろ眠った。それは眠りとはちがっていた。いまなら、パタンジャリが睡眠とサマーディは似ているという意味を理解できる。ちがいはただひとつ―――サマーディのなかで、あなたは完全にめざめていて、また同時に眠ってもいる。眠っていて同時にさめている。からだ全体はリラックスしている。肉体のどの細胞もひとつ残らず完全にリラックスしている。あらゆる機能がリラックスしている。しかしなおかつ、覚醒の光があなたの内で燃えている。明るく、煙もださずに――。あなたは目を見はっていて、しかもリラックスしている。ゆったり としていて、しかも完全にめざめている。肉体は可能なかぎりもっとも深い眠りにはいっていながら、意識はその絶頂にある。意識の頂点と肉体の谷間が出会うのだ。

 

わたしは眠りについた。それはとても不思議な眠りだった。からだは眠っていたが、わたしはさめていた。それはじつに奇妙だった。まるで、自分がふたつの方向に、ふたつの次元に引き裂かれているかのようだった。まるで、二極性がその極致に達したかのようだった。自分が同時にその両極であるかのようだった。正と負が出会っていた。睡眠と覚醒が出会っていた。死と生が出会っていた。それこそ、「創造主と創造物が出会う」と言うにふさわしい瞬間だ。   

 

それは気味が悪かった。生まれてはじめて、それはまさしく根底からあなたにショックをあたえる。あなたの基盤を揺るがす。その体験のあと、あなたは二度ともう同じあなたではありえない。それはあなたの生にひとつの新しいヴィジョンを、ひとつの新しい質をもたらすのだ。

 

一二時近くになって、突然目が開いた。わたしが開いたのではない。眠りがなにかべつなものによって破られた。わたしは、部屋の中の自分のまわりにひとつの大いなる<現存>を感じた。それはとても小さな部屋だった。わたしはあたり一面に脈動する生命を感じとった。大いなる波動だ。ほとんどハリケーンといってもいい。光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐---。

 

それが実に途方もなく現実的であるあまり、なにもかも非現実的になってしまった。部屋の壁が非現実的になり、家が非現実的になり、自分自身のからだも非現実的になった・・・

 

その夜、もうひとつの現実(リアリティー)がその扉を開いた。もうひとつの次元が姿をあらわしたのだ。突如として、それはそこにあった。もうひとつのリアリティー、分離したリアリティー、本当に現実(リアル)なるもの―――あるいは呼びたければどう呼んでもいい。<神>と呼んでもいいし、<真理>と呼んでもいい。<ダルマ>と呼んでもいいし、<タオ>と呼んでも、ほかのどんな呼び方をしてもいい。

 

それは無名なるものだった。しかし、それは厳然としてそこにあった。じつにすきとおっていて、実に透明で、しかも手でさわれるぐらい確固としていた。そのおかげで、部屋の中は窒息しそうだった。それはトゥーマッチで、わたしにはまだそれを吸収する力がなかった。

(中略)

 

わたしはなにかべつなエネルギーの手中にあった。

生まれてはじめて、わたしは孤独 (alone)ではなかった。生まれてはじめて、わたしはもう、ひとりの個ではなかった。生まれてはじめて、水滴は大洋に落ちたのだ。いまや、海全体がわたしのものだった。わたしが海だった。そこには限界というものがなかった。まるでなんでも好きなことができるかのような、 途方もない力が湧いてきた。そこにわたしはいなかった。ただその力だけがあったのだ。

(中略)

 

わたしはあたりを見まわした。一本の木が途方もなく光り輝いていた。モールシュリの木だ。それがわたしを惹きつけた。それ自身にむかってわたしを引き寄せた。わたしがそれを選んだのではなかった。神自身がそれを選んだのだ。わたしはその木のところへ行くと、その下に腰をおろした。そこへすわると同時に、ものごとが落ち着きはじめた。全宇宙がひとつの天恵となった。』

(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社P136-140から引用)

 

最初の『二極性の極致』は、天国と地獄の結婚直前なのか、神人合一直前の様子か。

 

次の「光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐」は、あたり一面に脈動する生命で、最初のリアリティで、非現実。これは、サビカルパ・サマーディ、有、アートマンと思われる。

 

この次に無名という言葉で表現できないものが来る。これは、最初のとは別のリアリティ。OSHOバグワンはそれを吸収できず、外出し、庭園のある樹木の下に坐った。これは、ニルビカルパ・サマーディ、無、ニルヴァーナと思われる。

 

OSHOは、この直前には、上体を立てた冥想姿勢でなく、意識は醒めながら深い睡眠にあった。このサマーディが呼吸停止、心拍停止で起きたかどうかは定かでないが、限りなくそれに近い深い睡眠で起きたのかもしれない。

熟眠中の夢を見ない状態で、それは起こった。

 

またこの大悟覚醒が、クンダリーニ・ヨーガ型か、只管打坐型かといえば、どちらでもないように思う。

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夏目漱石の禅

2023-01-20 16:48:15 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎見性失敗

(2007-12-25)

 

夏目漱石は、明治27年8月宮城県松島の瑞巌寺の南天棒に参禅し、生まれつき凡庸な素材なので、到底見性するような玉ではない(生来の凡骨到底見性の器に非ず)と、自分が全然悟れそうもないことを嘆いた。

 

同年12月今度は、鎌倉円覚寺の釈宗演に参じて、父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案を与えられた。これは、本来の自己を徹見しなさいというものであったが、漱石は、「私のようなものには到底悟りは開かれそうにありません」と申し出て、円覚寺を下山することとなった。

 

円覚寺の参禅体験をそのまま書いたと言われる小説「門」では、腹痛がおさまらないまま6畳の自室に線香を持ち帰って、ぼんやりと坐ったが、腹痛で苦しんでいる最中にむずかしい数学の問題を出されて、解いてみなさいと言われたようなもので、まず腹痛がおさまらなくては、問題にとりかかるのは無理などと述懐している。

 

公案を透過するとは、公案そのものになりきることを要求されるのであるが、そのためには公案以外の教養とか博識とか腹痛などというものは、まず一切捨て去ろうという覚悟が必要なので、漱石はおよそそうした覚悟なく入ったようだ。

 

漱石の心は、弱くて落ち着かなくて、なんとか世の中を忍耐でもって渡っている状態であったから、禅で心を落ち着かせて力強く生きたいとでも思って参禅したのだろう。

 

こうした気分は、今の人も同じだろうが、参禅するからには、いきなり棒で殴られたり、大声で「カーツ」とどなられたり、水をかけられたり、意地悪な仕打ちをされたりすることに耐える心の準備が必要なことは当たり前だろう。

 

最後には片腕一本切り落として、達磨に差し出して安心を求める慧可のような不退転の決意があって初めて本来の自分の面目に出会うのであるから、何とも心もとない参禅に入る姿勢であったとは言える。

 

けれども最近の人が坐禅など冥想をしようというきっかけも、漱石と似たりよったりの人が多いのであろうから、まず漱石の見性失敗を笑うことはできまい。

 

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