アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

立替立直しと霊界物語の余白歌

2023-01-25 16:43:31 | 古神道の手振りneo

◎立替の経綸の奥は沢あれど 人に言はれぬ事の多かり

(2021-03-13)

 

肥田春充ばかり読んでいると、パワー系、マッスル系の根源が丹田であるかのように思えるが、出口王仁三郎説では、鎮魂においては、令義解に「離遊の運魂を招きて身体の中府に鎮む」とあるように冥想のrootでもある。更に言霊では、言霊を息吹くのは臍下丹田からであり、神人合一して現界霊界に活躍する根幹でもある。

 

霊界物語の余白歌は、あまりにも分かりやす過ぎるがゆえに、出口王仁三郎が、まとめての出版を嫌っていた。だが、何だか今は余白歌集まで出ている。出口王仁三郎没後は霊界物語があまり読まれぬ時代があったので、余白歌も当然に読まれなかった時代が長かったのだろう。

 

立替立直しを教義の軸に据えるというのは、この世の終わりが明日にでも来るように唱えるということで、イエスの幻視もそういうところがある(世の終わりには云々)。教団への弾圧が予見されていても、立替立直しという広汎な文明破壊が見えていても、それでも自らの行うべきことを行い続けるというのは、誠に丹田ができていなければできないのではないかと思う。

 

余白歌は、その篇の内容を神の立場から評価しているものばかりであって、人間の立場から解釈すると誤解する。

 

逆立ちした人間とは神の立場から見ているということだが、それは必ずしも人間にとって都合のよいことばかりではない。人に言はれぬ事の多かり、なのだ。

 

 

以下霊界物語第七巻の余白歌から

『国所家々(くにところいえいいえ)のみか人草の

    心の内も立替ゆるなり

〈第6章〉

 

月の光昔も今も変らねど

    遙(はろ)の高峰(たかね)にかかる黒雲

〈第7章〉

 

高山の嵐は如何に強くとも

    渓間(たにま)の木草倒されもせず

〈第7章〉

 

世を救ふ神は渓間に現はれて

    深き心の経綸(しぐみ)を遂げつつ

〈第7章〉

 

世の人に普(あまねく)く好かれ世の人に

    またそねまれむ神の宮居は

〈第12章〉

 

海津見(わだつみ)の深きに潜む曲神も

    浮びて神代を讃美なすらむ

〈第14章(校)〉

 

久方の天津空より鳴き渡る

    鳥の叫びに眼を覚ますべし

〈第17章(校)〉

 

世の元の神の心は急ぐらむ

    立替の日も迫り来れば

〈第17章〉

 

神は世に出る道つけて出でませり

    誰も此の道安く歩めよ

〈第17章〉

 

立替の経綸の奥は沢あれど

    人に言はれぬ事の多かり

〈第17章〉

 

身も魂も月日の神の与へたる

    賜物なればおろそかにすな

〈第19章(三)〉

 

この度のふかきしぐみは惟神(かむながら)

    ただ一息も人ごころなし

〈第20章〉

 

天の時今や到りて諸々の

    罪に満ちたるものは亡びむ

〈第20章(校)〉

 

久方の天の鳥船かずの限り

    舞ひつ狂ひつ神代は到らむ

〈第21章(校)〉

 

あら鷲は爪研ぎ澄まし葦原の

    国の御空に世を窺がへり

〈第21章(校)〉

 

常磐木の弥栄えゆく足御代(たるみよ)を

    神の心は松ばかりなり

〈第23章〉

 

神人(かみびと)の夢にも知らぬ立替は

    生ける昔の神の勲功(いさおし)

〈第23章〉

 

この度の世の改めは万世(よろづよ)に

    ただ一度(ひとたび)の経綸(しぐみ)なりけり

〈第23章〉

 

常暗(とこやみ)の世を照らさむと東(ひむがし)の

    空より落つる火弾のかずかず

〈第23章(校)〉

 

驚きて逃げ惑ひつつ諸人は

    神知らざりし愚をかこつらむ

〈第23章(校)〉

 

葦原の瑞穂の国は世界なり

    中津御国は日の本の国

〈第28章〉

 

天地(あめつち)の神の稜威(みいづ)は現はれて

    上下睦(かみしもむつぶ)ぶ神代となるらむ

〈第28章〉

 

日の本の国に幸(さち)はふ言霊(ことたま)の

    稜威に亡ぶ百(もも)の曲神(まがかみ)

〈第31章〉』

 

このように結構な内容な予言歌が続々と並んでいる。

聖徳太子未来記を読んでモンゴル遠征に出発し、ごくわずかな人数しか生還できなかった出口王仁三郎。

終戦後の最晩年に吉岡発言で今後のリアルな見通しを述べた出口王仁三郎。

生涯に六度死に、その都度神人合一を果たしたであろう出口王仁三郎。

27歳、高熊山での1週間の水も飲まない断食での修行で世の終わりと新時代を幻視し、見たビジョンが出口ナオと合致したので、共同戦線を張った出口王仁三郎。

 

この余白歌にあるように、最後まで渓間での活動を強いられる。それでも神人合一が世人(よびと)の目標。

 

最後はまた米軍の火弾ですかね。

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ノアとナオとの方舟(別名目無堅間船)

2023-01-25 16:37:12 | 古神道の手振りneo

◎神様は更に公然と世間の人民に予告は為さらぬ

(2021-05-15)

 

海幸彦、山幸彦で、現代日本をみろくの世に渡してくれるのは、意識の極限状況を無事に通過させてくれる『目無堅間の船』であると知った。

 

パニック映画でよく出てくるように、善人も悪人も取り混ぜて巨大宇宙船兼潜水艦みたいな母船に動物ともども乗り組んで、天変地異をやり過ごす。

そして天変地異が終わったら、方舟に乗り組んだ善人悪人取り混ぜて、今みたいな科学の発達した地獄的時代を再建にかかるというのは、どうも違うのではないか。

 

ヨハネの黙示録21章では、

『第21章

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

 

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

 

(中略)

 

わたしは、この都の中には聖所を見なかった。(中略) 汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。』

宗教のない時代が到来するが、その理由は万人が神を知っているからである。

 

さて全人類を千年王国に渡してくれるノアとナオとの方舟(別名目無堅間船)。最後の審判、立替立直しにおいて、ノアは破壊(修祓)、ナオは再建(復興)なので、ノアとナオとが揃わないと方舟にはならない。

 

ノアだけだと、パンミックやら、飢餓やら、核戦争やらで、地上は荒れ果て人口は激減し、技術文明はほとんど喪失するだけとなる。ナオがあってはじめて、人口が激減し「さびしく」なった新時代の初めに復興の萌芽を残すことができる。万人が神を知ってナオ。

※暑さ凌いで秋吹く風を待てど、世界は淋しくなるぞよ(伊都能売神諭)

 

以下は、『出口王仁三郎全集第5巻随筆(一)ノアの洪水と方舟』から引用。

『ノアの神勅を受けて大なる方舟を造り、世界の大洪水来ることを予言し、万民を救はむとした。然れども其時代の人は一人も信じなかつたのみならず、愚弄軽侮し、其方舟を見て散々に嘲笑したのである。(方舟とは神の誠の救ひの教の意也)

 

段々大洪水の日は近づけども、多くの人民は益々放逸、強情、無頓着、破廉恥漢ばかりで、日増しに罪を重ねるばかりであつた。今日の社会は恰もノアの方舟建造当時と少しも変らぬのである。不信悪行、利己の濁流は、天地に漲つて居るのである。

 

今日は最早山麓まで浸水して居るなれど、ノアとナオとの方舟(一名目無堅間船)に乗る事を知らぬ盲目や聾者ばかりである。

 

 天地の元の御先祖なる生神は、至仁至愛に坐ますが故に、世界の人民を一人でも多く救ひたいと思召し、先にはノアの方舟を造りて世人に警告せられ、今又茲に大神は下津磐根の地の高天原に出現して、明治二十五年の正月から、変性男子の御魂の宿り給ふ神政開祖、出口直日主命の手と口を以て前後二十七年間、懇切に世人に向つて日夜警告を与へ給うたのである。

 

然れど今も古も人の心は同じく、邪悪に充ち頑迷にして天来の福音を聞かず、神の救助船を見て散々に嘲笑する者ばかりで、神様も今の世界の人民には改心の為せ様がないので、誠に困つて居られるのである。

 

どうしても改心が出来ねば、已むを得ず大修祓が執行されるより外に途は無いのである。実に今の人民くらゐ暗愚にして頑固な不正直な、身勝手な者は無いのであるから、吾人は世界の前途を案じて心配するのである。

 

神界から堪忍袋の緒を切らして、弥々最後の日が来るにしても、神様は更に公然と世間の人民に予告は為さらぬ。』

 

マスコミも政府も予告などしない。

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古事記をいつ書くか

2023-01-25 16:29:43 | 古神道の手振りneo

◎今再びの中国の日本占領の企てが見える

(2021-05-13)

 

たまにはSLも走る秩父鉄道に乗ると、和銅黒谷という駅があり、ホーム真ん中に直径2メートルはあろうかと思われる巨大和同開珎のレプリカに驚かされる。このレプリカは最近新しくなった。

 

和同開珎は、708年、古事記は、712年成立。

日本一国の伝統文化が唐様になっていくには、まず中国による軍事占領の如きものがあって何十年か経ってほぼ完成する。

 

621年 日本への中国文化移入を推進した聖徳太子没

645年 乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)

646年 大化の改新

660年 百済滅亡

663年 白村江の戦いで大敗し、日本は事実上唐に軍事支配を受ける。 

666年 高句麗滅亡。王族の王若光らが武蔵国に亡命移住?

671年 唐国の使人郭務悰等2千人の唐兵や百済人が日本に上陸。

671年 天智天皇崩御

672年 壬申の乱

673年 天武天皇即位

681年 稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせた。後に筆録されて『古事記』となる

686年 天武天皇崩御

708年 和同開珎

712年 古事記

 

こんな具合で、唐の文化的影響が深刻化する中で、文化遺産としての“古神道”を保持する目的で古事記が編纂されたのであろう。

要するに古神道が滅亡の危機に瀕したので、古事記が編纂されたのだ。

 

同様の流れは、アトランティス滅亡前夜にもあった。一万二千年後の現代に向けて、エジプト、ギリシア、中米、北欧、日本などに向けて、アトランティス文明の精神科学の精華を携えた伝道グループが散って行った。

 

そして彼らが、それぞれの地で、旧約聖書、北欧神話、オリジナル古事記、マヤ神話など、古伝承、神話などの形でアトランティス当時のあるいはそれを上回る精神文明の開花が、フロリダ沖にアトランティス大陸が再浮上することを合図に、現代において起こるだろうことを予言したということ。

 

この文明には神の息吹をダイレクトに感じられる象徴は多くはないが、一般に滅亡と喪失が眼前に迫ると、文明の精華を次代へ残そうとする動きが出る。切羽詰まらないとやる気にならない、非人間的な悪夢が現実化し始めないと改心しないのは、人間の常とは言え、何生も輪廻転生を繰り返してきた人間なら、教訓を学んでいるはずではある。

 

そして今再びの中国の日本占領の企てが見えている聖徳太子未来記。

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森林破壊と社会の崩壊

2023-01-25 15:44:43 | 時代のおわりneo

◎マンガレヴァ島の例

(2007-10-09)

 

一言で地球温暖化と言っても、掘り下げた説明がないと、なかなかその深刻さに思い当たるものではない。

 

南東ポリネシアの孤島マンガレヴァ島は、珊瑚礁に囲まれた直系24キロの潟(ラグーン)からなる豊かな島だった。この島は20余りの死火山と2、3の環礁からなり、陸地の総面積は30平方キロにもなった。

 

樹木に恵まれていたことから、ある程度の降雨量もあり、沿岸の細い帯状の平地に住みながら、サツマイモや。ヤムイモ、タロイモを育てた。更にやや海抜の高い土地にはバナナやパンノキも植えることができた。

 

また潟では、クロチョウ貝という大型の2枚貝がとれた。これは身が食用になり,、長さが20cmにもなる分厚い殻は、釣り針や野菜用の包丁、装身具を作る材料として好適だった。

 

このようにマンガレヴァ島は、石器時代の文明レベルながら自給自足できる文明レベルを保っていた。

 

この島では、農民が畑を拡大するために森林の樹木の伐採を進めた。この結果、畑は拡大したが、樹木がほとんどなくなってしまった。

 

樹木がなくなった結果、カヌーが製造できなくなり、周辺地域との貿易ができなくり、孤島の中だけで、多すぎる人間が少ない食料を奪い合う形勢となった。

 

言い伝えによれば、その結果人肉を食するまでになり、死んだばかりの人間ばかりか、埋葬されたばかりの遺体までむさぼり喰らった。また残された耕作地をめぐって、勝った方が負けた方の土地を奪う争いが絶え間なく続き、その間に世襲の王による統治から、戦士による軍事政権による支配へと、政治形態が変質した。

 

結局マンガレヴァ島は人口が激減したものの、人間の絶滅は避けられた。ところがカヌーがなくなったことで、農産物、石、貝殻などの輸入により社会を維持してきた周辺のピトケアン島とヘンダーソン島は、人が住めなくなり、無人島となった。

 

マンガレヴァ島の森林破壊が、周辺2島の命脈を断ったのである。

 

森林破壊は、耐性がより弱い地域から有無を言わさず、まともに影響を与えることがわかる。

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海幸彦と山幸彦

2023-01-25 15:41:05 | 古神道の手振りneo

◎無間勝間(めなしかたま)の神船

(2021-05-14)

 

海幸彦と山幸彦は古事記に出ていて、いじわるな兄海幸彦を真面目な山幸彦が見返すという物語。

 

ところが出口王仁三郎の講演録によれば、

海幸彦は外国、山幸彦は日本。海幸彦は、針に餌をつけ騙した魚を取るやや卑怯なやり方。山幸彦は弓矢なので心技一体とならねば獲物を取れない大和魂。

山幸彦は、海幸彦から借りた釣り針で釣りをしたが、さっぱりの結果で、釣り針まで落としてしまった。そこで、代わりの針を千個も作ったが、海幸彦はこれは貸した針ではないとして受け取らない。

 

苦悩している山幸彦のところに塩椎(しおつち)翁がやってきて、無間勝間(めなしかたま)の船をつくり、それに山幸彦を乗せて竜宮に送り込んだ。

 

無間勝間(めなしかたま)の船とは、衆生済度のことであり、神様の教えのこと。

 

古事記では、山幸彦は竜宮で妻子を得て、なくした針も見つけて、3年後に地上に戻り、針を海幸彦に返すと同時に呪いによる報復もする。

 

これは、明治維新以来、150年脱亜入欧を行ってきたが、これはつまり『三年間竜宮なる外国留学から帰国』したということで、この頃ようやく日本国にメナシカタマの船なる日本古来の宗教たる皇道が現れてきた。そして最後は、山幸彦が万国を平定されるということ。

 

目無堅間の神船は、大本神諭などにも出てくるが、大悟覚醒した聖者塩椎翁が日本に出現し、目無堅間なる冥想の奥義を招来するということだろう。

 

出口王仁三郎は、古事記上巻は、みろくの世到来前に必ず実現するイベントであり、海幸彦と山幸彦の段もそうだと太鼓判を押している。

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海幸彦山幸彦-1

2023-01-25 07:11:23 | 無限の見方・無限の可能性

◎無間勝間(めなしかたま)の神船に乗り神を知る

 

出口王仁三郎は、古事記の重要部分については、古事記言霊解として特に注釈を施している。

その最後のパートが海幸彦山幸彦。

 

海幸彦は、西洋にして近代西欧文明で、謀略を旨とする。山幸彦は日本であって正直素直の清よ明けき心を旨とする。古事記には、金銀本位制の西洋という言葉も、仲哀天皇の段に登場してきており、飛行機もなく潜水艦もなく外洋船もない古代に、日本と海外の往来、角逐をことさらに問題する古事記があるのは、不思議なことだと言わざるを得ない。

 

海幸彦山幸彦の段には、進退に窮した山幸彦が、

ヨーニムドラーを思わせる無間勝間(めなしかたま)の神船に乗り神を知る件りが出てくる。これにより、神を知った山幸彦が海幸彦に押されっぱなしであった形勢を逆転し、やがてみろくの時代を成就していく。

 

米ロが戦って日本が仲裁に入るとか、世界的武装解除の時期は天皇陛下の役割が大きいとか、東京で仕組みを駿河美濃尾張などといろいろな予言はあるが、基本線は、普通の日本人が冥想により神に目覚めるということで紛れはないと思う。

 

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朱橘

2023-01-24 20:30:58 | 道教neo

◎屍解

(2020-12-03)

 

朱橘は、淮南の人で翠陽と号す。彼の母が孕む時に大きさが斗ほどの一つの星が天上から飛んで口に入ると夢を見た。妊娠末期、なかなか生まれなかったところ、門前に一人の道士が来て、橘の実を与え、これを食べれば腹の中の子が直ちに産まれるであろうと告げ、母が食べると果たして直ちに生まれた。

 

朱橘はひたすら仙道修行にいそしみ、世の名利を厭い、風清き夕暮れなども一人池水の畔にたたずんで、葆光抱一の道の玄妙にして、服気飡霞が長寿を得る手段であることを悟った。

 

ある日一道人がやってきて、手に橘の実を持って、次のように歌った。

橘々識(し)る人無し 惟だ朱を姓とする人がある

まさにこの端的を知る

 

この道人の様子がいかにも気狂いじみていたので、人々は皆彼を指してあざ笑い、誰一人この歌に注意を払わなかったが、朱橘だけは、これが自分のことだと知って大いに喜んで、彼の後について行った。村はずれの野原に出たところで、朱橘は道人に『貴殿は鞠君子という名の真人ではないか』と尋ねると、道人は、その通りだと答え、皖公山に行って仙道を修行するようにと勧めるとそのまま雲に乗って昇天していった。

 

朱橘は、言いつけどおり皖公山(安徽省懐寧県。隋代、禅の三祖僧さんもここに棲んだ)で修行を重ねた。一日に一回小ぎれいな一人の小童が出て来て朱橘の門前にある池水で手を洗っていたが、その動作が極めて軽快で、ひらりひらりと往来する姿が丁度何か物の影が揺らめく様であった。

 

近所の人がこれを訝しんで密かに小童の後をつけると、彼は朱橘の家の中へ入って行ったので、室の中を覗いてみると、室の真ん中に朱橘が端然と坐っていただけだった。件の小童は、朱橘の出神だったのだと悟り、近所の人は彼を尊敬するようになった。

 

宋の理宗皇帝の淳祐二年、朱橘は、郷人の陳六に対し、自分は県庁の官舎の前で仙化するので、その際身体を清い土で上から覆ってくれと頼んだ。

やがてその日になって、朱橘の遺骸を陳六が泥で覆った。するとそこに酔っ払った警官がやってきて、その遺骸を見て大いに笑い、杖でもってこれを突き崩し、ぐしゃぐしゃにした。すると泥土は四方へ散ったが、朱橘の遺骸は見当たらず消え失せていた。

 

これは、全然長寿ではない。小童と見える出神はいかにも大きい。今生の修行だけで出来たものだろうか。

 

屍解を公表、公開するというのは、そのような狙いのあるもの。見聞した人は、いつかの来世でチャレンジするようなこともあるのだろう。

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孫不二の屍解

2023-01-24 20:25:46 | 道教neo

◎あるスーパー女性道士

(2017-11-22)

 

孫不二は、金代の女性道士。全真教の開祖王重陽には、七真と呼ばれる七大弟子がいるが、孫不二はその中で唯一の女性。七大弟子の一人馬丹陽の第二夫人だったので、『二』の字があるという。

 

彼女は、洛陽のそばの鳳仙姑洞という洞窟に住み、髪はぼうぼうで、時に気ちがいじみた行動をとったが、既に内丹を極め、すべての竅(チャクラ)を開放し、弟子もいた。

 

1182年12月29日彼女は、自らの死期を悟り、斎戒沐浴し、遺偈を歌った後、蓮華座に座り、太陽が天頂に達したことを確認して後、屍解したという。

 

弟子にしてかくの如し。

 

屍解したのに棺があったのは、禅僧普化と同じ。日本では、火定はあるが、屍解は聞かないが、それは日本人の民族性の問題なのか、風土の問題なのか、いずれにしても理由のあることと思う。

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幻身の正体

2023-01-24 18:58:45 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

◎メンタル体の特徴

(2014-08-17)

 

チベット密教では、幻身と虹の身体が微細ボディとして頻出する。幻身は、夢の操作あるいは夢中修行の舞台であり、ドン・ファン・マトゥスのソーマ・ヨーガにおける夢見技術にも通じるところがある。まずは、幻身について明らかにする。

 

チベット死者の書によれば、死の直後の最初の原初の光明において覚醒できなければ、第二の中有に入る。

 

第二の中有において、その人のボディは、『清浄な幻身』(原典訳チベット死者の書/川崎信定訳/筑摩書房P23では、意成身の一種である『清浄な幻化身』と訳されている)となる。

 

第二の中有でも解脱できない場合。第三の中有に進む。第三の中有においても意成身があり、これはカルマからできている。これも幻身の一種と考えられるが、カルマにより成るから、ナーローの六法で言うところのマーヤの身体(幻身)(出所:夢の修行/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P161)というのがこれではないかと思われる。マーヤとは無明(迷い)だから、幻身には清浄と不浄と二種あることになる。

 

チベット死者の書では、第二の中有のレベルがより高く、第三の中有のレベルがより低い。よって、第二の中有における『清浄な幻身』がメンタル体、不浄な幻身がアストラル体と考える。

 

これを前提にして、幻身は、以下の説明のように体外離脱し、空間を瞬時に自由移動するという説明を見てみる。

 

シリーズ密教2の『チベット密教(春秋社)第4章幻身(平岡宏一)』によれば、幻身には12のたとえがあるという(「」内のキーワードがたとえにあたる)。智金剛集タントラに曰く、

 

1.微細な風(ルン)と心(意識のことだろう)だけでできた智慧の身体なので「幻」のようだ。

2.「水月」のように、どこで助けを求めてもすぐに現れる。

3.火や武器で焼いたり壊したりできないから「影」のようだ。

 

4.瞬時に揺れるので「陽炎」のようだ。

5.「夢の身体」(アストラル体か)のように体外離脱する。

6.幻身は肉体とは別で、「こだま」のようだ。

 

7.幻身が成就すると「乾闥婆(妖精)の城」が瞬時にできあがるように、マンダラが瞬時にできあがる。

8.幻身を成就すると一度に32尊を成就し、また32尊は一瞬にして1尊となることができるので「魔術」のようだ。

9.幻身は5色であり、「虹」のようだ。

 

10.幻身は、肉体内で成就するのと体外離脱するのが同時である様子は、「稲妻」が雲の中でできるのと同時に外に発光する様と似る。

11.水中から「水泡」が現れるように、空なる本性から幻身は忽然と現れる。

12.「鏡の鏡像」のように身体を映すと一瞬にして全体が映るように、一瞬にして幻身全体が成就する。

 

これらの比喩をみると、この説明が、アストラル体とメンタル体共通の説明であるとしても、齟齬はないように思う。また幻身の説明がコーザル体のものとすれば、コーザル体がうつろいゆく現象世界の空間をあちこち活動して回るとも思えないので、窮極の7つの属性を備えながら、娑婆世界に出現するものとして、幻身とはメンタル体またはアストラル体と見るのが適当であるように思う。

                                        

ところで大日経の十縁生句段には、これとよく似た十縁生句というのがあって(12でなくて10)、幻、陽炎、夢、影、乾闥婆城(蜃気楼)、響、水月、浮泡、虚空華、旋火輪の十を言い、一般的には、実態のない仮のものを現すたとえとして用いられている(旋火輪は闇の中で火をぐるぐる回すと残像で円に見えることを謂うそうだ)そうなので、由来はともかく、とりあえず別の意味で用いられているのだろう。

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死のプロセスから

2023-01-24 18:52:04 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

◎頭頂からの脱出

(2014-08-21)

 

チベット密教では、死に際しての頭頂からの脱出を最優先とする。これぞメンタル体の重視である。

 

チベット死者の書では、中有に入った後も、いろいろとチャンスがあるという書きぶりで再誕生までの出来事を記述してくれているが、悟りを得るという観点からは、一旦中有に入ってしまえば、一から人生をやり直すしかないということになり、再誕生までの途中に悟りのチャンスはほとんどないのだろうと思う。要するに死んで中有に入ったら今生の求道トライアルとしては失敗なのである。

 

よって、ハイ・レベル修行者として、メンタル体でサハスラーラ・チャクラから肉体を離脱できるかどうかが最大の関門であると、チベット密教は見ていることがわかる。

 

というのは、チベット死者の書の冒頭に、頭頂であるサハスラーラ・チャクラからの離脱サポートテクニックが置かれているからである。

 

将来予想される同時大量アセンションにおいても、この点は、間違いなく大きな焦点の一つになるのだろうと思う。

 

○メンタル体での肉体離脱のサポート

 

『喉の左右の動脈の動悸を圧迫せよ。またもし死に赴く者が眠りにおちいろうとするならば、それは妨げられねばならない。そして動脈がしっかりと圧迫されるべきである。そうすることによって、生命力は、中枢神経から還って来ることができず、ブラフマの開き口を通って逝去することは確実である。』(チベット死者の書/講談社P27-28から引用)

※眠りの回避←意識を清明に保つための工夫。

※ブラフマの開き口:頭頂。

 

〈参考〉

○アストラル体での肉体離脱

 

残念ながら死に赴く者(クンダリーニか)が、頭頂(サハスラーラ・チャクラ)を通過しなかった場合は、左右いずれかのイダー管かピンガラー管を通じてその他の開き口(へそ等)を通って去っていく。(チベット死者の書)

 

これはアストラル体での肉体離脱だろうと思う。そして、これが大多数の人の死後のルートであると考えられる。この後、輪廻転生の通常ルートに流れていく。チベット密教ではこれを『無知の状態で死ぬ』と呼ぶ。

 

フツーの人においては、「(8)光明」は指を鳴らす時間しか続かないともいう。「(5)顕明 (6)増輝 (7)近得」は、指を3回鳴らす時間しか続かないとされ、光明(原初の光)が消えてから3日半は無意識の状態に投げ込まれる。

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虹の身体-2

2023-01-24 17:05:38 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

◎まず死から

(2014-08-20)

 

更にナムカイ・ノルブのチベット密教の虹の身体の作り方の説明だが、ダイジェストするとこのようになる。

 

1.まずその修行者は死ぬ。

 

2.肉体が五つの原質(地・水・火・風・空)の真の本性の中に溶け入っていく

 

3.この結果数日~一週間たつと、肉体は、その最も不浄な部分である髪の毛や爪を残し消える。髪の毛と爪だけになるまでの途中では、肉体は縮んでしまうことが知られている。

 

4.しかし肉体は消えても、その形や特徴は五色の光(五つの原質)の中で保たれる。これを虹と見る。

(叡智の鏡・ナムカイ・ノルプP147による。)

 

これは、我が意志のままに肉体を虚空に溶け込ませる技術を持ったという証明なのだろうが、その人がどんな悟りにあるのかはさっぱりわからない。技術的にすぐれていることはわかるが、それが単なる達観だったのか、本当の至福にあったのかわからないのだ。

 

その点で、髪の毛も残さなかった禅僧普化は、ひたすらすごいのひとこと。

 

『顕教にも、身体が消える悟りはある。ゾクチェンにおいても、テクチューの修行をつうじて、こういう成就が生じることはある。ただし、この場合には、特に、原質のエッセンスの再融合が起こるというわけではない。また、空性を行じ、それをつうじて、不二の境地にとどまる修行をおこなった場合や、密教の修行においても、身体が消える悟りは存在する。

 

このような悟りは、チベット語では、ルー・ドゥルテンというふうに呼ばれる。

「ルー」というのは肉体、「ドゥル」というのは原子、微塵という意味である。「テン」というのは、この原子、ないし微塵の状態に入っていくという意味だ。徐々に、ゆっくりと、空性のなかに消え去っていくのである。けれどもこれは、虹の身体とは別ものである。

 

  • 虹の身体

 

虹の身体というのは、肉体が五つの原質の真の本性のなかに入り、そのことによって消える、ということだ。五つの原質というのは、五色の光だ。したがって、肉体は消えても、その形や特徴は、五色の光のなかで保たれたままなのである。

 

グル・パドマサンバヴァを虹の色で描いたタンカがある。それが虹の身体だと言う人もいるけれども、これは正確ではない。虹の身体の場合、鼻や目の形は、全部もとのままだ。ただ、ふつうの人は、それを見ることができないのである。なぜなら、すべて、原質のエッセンスのなかに消え去ってしまっており、わたしたちには、それを見る能力がないからだ。すこし進歩し、いささかなりとも光明が増せば、虹の身体を見ることは可能だ。光明があれば、虹の身体は見えるのである。

 

虹の身体であることを示すしるしの一つは、爪と髪の毛が、あとにのこることだ。爪と髪は、肉体の不浄な部分だ。肉体は、純粋な次元に入る。ただ、その不浄な部分は、あとにのこされるわけだ。

 

ポワ・チェンポ、すなわち大いなる転移という悟りもある。これは、ふつうの虹の身体とは異なっている。伝承によるとガラップ・ドルジェは、この大いなる転移の悟りを得たのだという。しかし、ふつうの虹の身体の悟りを示したという伝承もああ。いずれにせよ、伝記によれば、ヴィマラミトラとグル・パドマサンパヴァは、この大いなる転移の悟りを示したとされる。この場合、死という現象も、ないことになる。

 

ふつうの虹の身体の場合、まず最初に、死ぬ。その後、肉体がしだいに融解していくのである。たとえば、ひとかけらの氷を太陽の光のなかに置いておくと、 ゆっくりゆっくり、小さくなり、溶けていく。それと同じように、肉体、物質の身体が、原質のエッセンスのなかに溶け入っていく。このエッセンスは、そのまま維持されており、形はのこるのである。したがって、まず最初に死があり、それから一週間、ないしそれ以下の時間がたつと、虹の身体があらわれることになる。』

(叡智の鏡/ナムカイ・ノルブ/大法輪閣P147-150から引用

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虹の身体-1

2023-01-24 16:33:51 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

☆虹の身体-1

◎ナムカイ・ノルブの説明

(2014-08-19)

 

虹の身体とは、七つの身体のどこに位置づけられるのだろうか。虹の身体とは、通俗的な説明をすれば、チベット密教行者が、この世を去るにあたって、7日間密室にこもり、その肉体を虚空に霧消させ、爪と髪の毛だけを残すこと。これだけの説明では、世界の転換もなく、精神性のかけらもない。

 

以下はナムカイ・ノルブの説明。

 

『しかしゾクチェンの場合、ただ一回の生で悟ることができるだけでなく、〈虹の身体の大いなる転移〉という特別な悟りが可能になるとされている。この特別な悟りは、パドマサンバヴァやヴィマラミトラ(Vima-lamitra)、あるいはボン教の伝統においては、タピフリスタが成就したものである。

 

肉体的な死を経過することなしに、身体がふつうの生きものの目から見えなくなり、さまざまな元素の光り輝くエッセンスに変容し、あるいは再吸収される。

 

たとえ生きているうちに、この虹の身体を悟ることがなくても、死後においてその悟りを成就することができる。現代でも、チベットにおいてこの悟りを成就したゾクチェンの行者は、たくさんいる。この悟りにいたるには、ゾクチェンの特別の修行法が不可欠なだけではなく、師からの伝授が根本的な重要性を持っている。』

(ゾクチェンの教え/ナムカイ・ノルブ/地湧社P67-68から引用)

 

更に

『虹の身体を成就することはゾクチェンの究極の悟りだ。虹の身体は、報身の本尊とは違っている。虹の身体を成就した存在は、他の生きものと直接に接触し、積極的に助けることができるからだ。虹の身体はまるで肉体のようなものだ。物質的な構成要素はその本質である光に吸収されているが、その微細な側面における元素の集合体として生き続けているのである。

 

それに対して、報身の神々は受動的だといえる。光のたわむれに満ちた本尊の姿を見るだけのヴィジョナリーな力を持っている者でなければ、接触は不可能だからだ。

 

悟りは何か人為的に作りあげるものではない。行為や努力から生まれるものでもない。』

(ゾクチェンの教え/ナムカイ・ノルブ/地湧社P82-83から引用)

 

これだけ読むと、報身の神々よりも虹の身体は微細ではないことはわかる。虹の身体は物質ではないので、肉体でもなく、半物質のエーテル体でもない。他の肉体と意識的にコンタクトできるということなので、アストラル体なのか、メンタル体なのかということになる。

 

もうひとつ。肉体死を経過しないというのであれば、プロセスとしてどうして一つの悟りと言えるのかという疑問は残る。

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虹の身体と幻身の違いについて

2023-01-24 15:58:10 | 【メンタル体】【ザ・ジャンプ・アウト-08】neo

☆虹の身体と幻身の違いについて

(2014-08-18)

 

これについては、ナムカイ・ノルブが明快な見解を出している。要するに、幻身は、アストラル体かメンタル体のことであるのに対し、『虹の身体』とは、七つの身体の呼称ではなく、肉体を捨て窮極とコンタクトしつつ別の微細ボディに生きるアートのことなのだと思う。

 

『ゾクチェンの修行によってもたらされるジャリュ(ja-lus)すなわち虹の身体の悟りは、無上ヨーガ・タントラの密教の修行による「ギュリュ」(sgyu-lus) すなわち「マーヤの身体」ないし「幻の身体」の悟りとは別のものだ。幻の身体は個人の微細なプラーナをもとにしているが、ゾクチェンにおいて、プラーナはつねに相対的な次元だとみなされている。そのため、幻の身体の悟りは、完全な悟りとは見なされないのである。

 

これに対して、ジャリュ、つまり虹の身体の悟りは、ロンデとメンガギデの成就者たちがもっとも好んで示した悟りの形である。非常に短期間、相承がとだえたことはあったけれども、現在に至るまでずっと、この悟りをあらわす成就者たちは存在している。たとえば、わたしのラマだったチャンチュプ・ドルジェのラマも、このレベルの悟りを成就した。チャンチュプ・ドルジェは、その時現場に居あわせた。だから、それが作り話ではないことを、わたしは知っているのである。

 

チャンチュプ・ドルジェは、自分のラマだったニャラ・ペマ・ドゥンドゥルが、それまで全部は与えていなかった教えをすべて伝授したいと言って、弟子たちを全員、近くに住むものも、遠くに住むものもすべて呼び寄せた時のことを話してくれたことがある。ニャラ・ぺマ・ドゥンドゥルは教えを伝授し、それから全員で一週間以上も、供養のガナ・プジャをおこなった。ガナ・プジャはラマと弟子、あるいは弟子同士のあいだの障害をなくす、すぐれた方法である。

 

そうやって一週間が過ぎると、ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、弟子たちに、死の時が来た、近くの山頂をその場所に選ぶつもりだと告げた。弟子たちは死なないでくれと泣いて頼んだ。だが、時は来た、それを変えることはできない、というのがラマの答えだった。そこで、弟子たちは彼について山の頂上まで登っていったのである。

 

ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、そこに小さなテントを立てた。それから、弟子たちにテントを完全に縫い合わさせ、完璧に自分を封印させた。そして、それから、七日間のあいだ静かにほうっておいてくれるように言ったのである。

 

弟子たちは山を降り、ふもとで野営しなから、七日間待った。その間じゅうものすごい量の雨が降り、たくさんの虹が立った。七日後、弟子たちは山頂に一戻り、テントを開けた。テントは弟子たちがそこに置いて山を降りたときと同じで、縫われたままになっていた。そして、その中に弟子たちが見いだしたのは、ラマの服と髪の毛、そして爪だけだったのである。彼の服は俗人のものだった。それが、彼の坐っていたところに、真ん中にベルトをつけたまま重ね合わされ、残されていた。ニャラ・ペマ・ドゥンドゥルは、ちょうど蛇が皮を脱ぎ捨てるように、その服を残していったのである。

わたしのラマはその現場にいて、わたしにこの話をしてくれた。だから、わたしはそれが事実であり、またそういう悟りは可能だということを知っているのである。』

(虹と水晶/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P175-177から引用)

 

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チベット密教と禅

2023-01-24 07:11:28 | チベット死者の書

◎臨終時の悟りと生前の悟り

 

『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧/ダライ・ラマ/地湧社』を読むと、ダライ・ラマは、生存中に実際に肉体死のプロセスが起きることはないと見ており、ニルヴァーナが起こるタイミングは、人生の最後の段階で起こる死における肉体死のプロセスの最後でニルヴァーナに入ることしかないと見ているように思う。

 

これは、チベット密教に一般的な考え方であり、そうでなければ、出家僧ばかりか在家の居士までが、七つの身体とか屍解を目指すなどということはあり得ないと思う。要するに臨終時の冥想修行にあまりにも重心がかかっているのであり、「悟りをもってこの世を生きていく」という日々の日常における悟りの発現という禅的な姿は見えないのだ。

 

以下のダライ・ラマの文では、彼が生前の死の体験を疑似体験と斬って捨てているが、ダライ・ラマ自身がそれを体験していない以上は、生前の死の体験からニルヴァーナに至ることがあるとは断言できないのだろうと思う。

 

『わたし自身は、無常・苦・空・無我という四つの基本的な教えを軸にして修行しています。さらに、毎日行なう八つの異なる儀式の一部として、死んでゆく段階を瞑想します。土の元素が水の元素に溶けこみ、水の元素が火の元素に溶けこみ・・・・・・と順に瞑想していくのです。

 

これといって特別な経験をしたわけではありませんが、すべての顕われの溶解を観想しなければならない儀式では、しばらく呼吸が止まります。もっと時間をかけ、より正確に観想する修行者なら、まちがいなく完全に近いヴィジョンを得ることでしょう。わたしが 毎日行なう 「本尊ヨーガ」の修行法には、すべて死の観想が含まれていますから、そのプロセスには慣れ親しんでいます。ですから、現実の死に直面しても、各段階をよく知っているはずですが、うまくいくかどうかはわかりません。

 

わたしの友人の何人か―――ニンマ派のゾクチェン (大究竟)の行者も含まれます―――は、溶けこんでゆく深遠な経験をしたといいます。それでも、それはあくまで生きているあいだの疑似体験にすぎません。ただし、医師に亡くなったと宣言されたあとも、長いこと肉体の腐敗が起こらなかったチベット人の例はたくさんあります。』

(上掲書P173から引用)

 

これは、死の8段階のプロセスで発生する母の光明(原初の光)を梃子にして、それを子光明に変ずるというニルヴァーナ達成を、死後の肉体が腐敗しない時間を長くすることで実現促進しようとするもの。だから呼吸停止、脈拍停止後○日遺体が腐敗しなかったなどと、腐敗しない時間を重視する。

 

ダライ・ラマ自身も死の観想で呼吸停止することは認めていても、ことさらにそれ以上踏み込んではいかない姿勢がある。法王とはそういうものだろうと思う。

 

そして死の観想に習熟しても実際の自分の人生最後の場面で、それがうまくいくかどうかわからないというのは、あまり語る人は少ないがそうなのだろうと思う。

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二は一に由って有り

2023-01-23 20:40:42 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎禅の三祖僧さんの信心銘から

(2019-02-08)

 

『二は一に由って有り

一もまた守る莫(な)かれ

一心生ぜざれば

万法咎(とが)なし』

 

【大意】

『二は、一があるからある、

だがその一にもこだわってはいけない

一心が生じなければ、あらゆる事象あらゆる生物無生物に問題はない。』

 

このように、まずここではすべての問題の根源は一心という見ている自分であるとしている。

 

『咎なければ法なく

生じざれば心なく(不生不心)

能は境に従って滅し、

境は能を逐(お)って沈む』

 

【大意】

咎がなければ、法(ダルマ)はなく、

一心という見ている自分がなければ心はない

主観(能)は客観(境)に従って滅し

客観(境)は主観(能)を逐って沈む

 

前段で一心がなければ咎がないと言っているのに、それに反して咎なければ法がないなどと、咎という無明マーヤ撲滅の修行の方向をわやにする表現が出てくる。

見ている自分が残っていて初めて主観と客観が成立。

主観と客観の関係性はこれだけの表現でははっきりしないが、続く一段で明らかにされる。

 

『境は能によって境たり

能は境によって能たり

両段を知らんと欲せば

元もと是れ一空なり』

 

客観は主観があることで客観、主観は客観があることで主観たりえる。両方知ろうと思うだろうが、どっちも『空』である、ということで、この話は空の話であることが分かる。

 

『空』はこの一なるもの、有、アートマン、サビカルパ・サマディー、チベット密教の空性の悟り。

 

空もひとつの悟りだが、『空』では、なにもかもなしには届いていないと思う。

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