◎立替の経綸の奥は沢あれど 人に言はれぬ事の多かり
(2021-03-13)
肥田春充ばかり読んでいると、パワー系、マッスル系の根源が丹田であるかのように思えるが、出口王仁三郎説では、鎮魂においては、令義解に「離遊の運魂を招きて身体の中府に鎮む」とあるように冥想のrootでもある。更に言霊では、言霊を息吹くのは臍下丹田からであり、神人合一して現界霊界に活躍する根幹でもある。
霊界物語の余白歌は、あまりにも分かりやす過ぎるがゆえに、出口王仁三郎が、まとめての出版を嫌っていた。だが、何だか今は余白歌集まで出ている。出口王仁三郎没後は霊界物語があまり読まれぬ時代があったので、余白歌も当然に読まれなかった時代が長かったのだろう。
立替立直しを教義の軸に据えるというのは、この世の終わりが明日にでも来るように唱えるということで、イエスの幻視もそういうところがある(世の終わりには云々)。教団への弾圧が予見されていても、立替立直しという広汎な文明破壊が見えていても、それでも自らの行うべきことを行い続けるというのは、誠に丹田ができていなければできないのではないかと思う。
余白歌は、その篇の内容を神の立場から評価しているものばかりであって、人間の立場から解釈すると誤解する。
逆立ちした人間とは神の立場から見ているということだが、それは必ずしも人間にとって都合のよいことばかりではない。人に言はれぬ事の多かり、なのだ。
以下霊界物語第七巻の余白歌から
『国所家々(くにところいえいいえ)のみか人草の
心の内も立替ゆるなり
〈第6章〉
月の光昔も今も変らねど
遙(はろ)の高峰(たかね)にかかる黒雲
〈第7章〉
高山の嵐は如何に強くとも
渓間(たにま)の木草倒されもせず
〈第7章〉
世を救ふ神は渓間に現はれて
深き心の経綸(しぐみ)を遂げつつ
〈第7章〉
世の人に普(あまねく)く好かれ世の人に
またそねまれむ神の宮居は
〈第12章〉
海津見(わだつみ)の深きに潜む曲神も
浮びて神代を讃美なすらむ
〈第14章(校)〉
久方の天津空より鳴き渡る
鳥の叫びに眼を覚ますべし
〈第17章(校)〉
世の元の神の心は急ぐらむ
立替の日も迫り来れば
〈第17章〉
神は世に出る道つけて出でませり
誰も此の道安く歩めよ
〈第17章〉
立替の経綸の奥は沢あれど
人に言はれぬ事の多かり
〈第17章〉
身も魂も月日の神の与へたる
賜物なればおろそかにすな
〈第19章(三)〉
この度のふかきしぐみは惟神(かむながら)
ただ一息も人ごころなし
〈第20章〉
天の時今や到りて諸々の
罪に満ちたるものは亡びむ
〈第20章(校)〉
久方の天の鳥船かずの限り
舞ひつ狂ひつ神代は到らむ
〈第21章(校)〉
あら鷲は爪研ぎ澄まし葦原の
国の御空に世を窺がへり
〈第21章(校)〉
常磐木の弥栄えゆく足御代(たるみよ)を
神の心は松ばかりなり
〈第23章〉
神人(かみびと)の夢にも知らぬ立替は
生ける昔の神の勲功(いさおし)
〈第23章〉
この度の世の改めは万世(よろづよ)に
ただ一度(ひとたび)の経綸(しぐみ)なりけり
〈第23章〉
常暗(とこやみ)の世を照らさむと東(ひむがし)の
空より落つる火弾のかずかず
〈第23章(校)〉
驚きて逃げ惑ひつつ諸人は
神知らざりし愚をかこつらむ
〈第23章(校)〉
葦原の瑞穂の国は世界なり
中津御国は日の本の国
〈第28章〉
天地(あめつち)の神の稜威(みいづ)は現はれて
上下睦(かみしもむつぶ)ぶ神代となるらむ
〈第28章〉
日の本の国に幸(さち)はふ言霊(ことたま)の
稜威に亡ぶ百(もも)の曲神(まがかみ)
〈第31章〉』
このように結構な内容な予言歌が続々と並んでいる。
聖徳太子未来記を読んでモンゴル遠征に出発し、ごくわずかな人数しか生還できなかった出口王仁三郎。
終戦後の最晩年に吉岡発言で今後のリアルな見通しを述べた出口王仁三郎。
生涯に六度死に、その都度神人合一を果たしたであろう出口王仁三郎。
27歳、高熊山での1週間の水も飲まない断食での修行で世の終わりと新時代を幻視し、見たビジョンが出口ナオと合致したので、共同戦線を張った出口王仁三郎。
この余白歌にあるように、最後まで渓間での活動を強いられる。それでも神人合一が世人(よびと)の目標。
最後はまた米軍の火弾ですかね。