アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

無意識と死の側-4-地球人口削減のための諸施策-1-概説

2023-12-09 06:32:09 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-04

◎青春期の垂直の道-4

◎生も死も神の許し給うところ

 

人間は、自分が嫌な目に遭うことも不愉快だが、他人がつらい目に遭うことを見聞きするのにも抵抗があるものである。

さりとて人間は自分の力では髪の毛一本白くも黒くもできず、自分が生きるのも死ぬのも神の許し給うところである。

さて20世紀初めに地球人口は17億人とも推計されるが、今や80億人になろうとしている。こうした現況を踏まえ一部勢力が広汎な人口削減策を進めているのではないかと言われている。このような策は、人類への災厄を神威(風水火)と人為(飢餓、疫病、戦争)に分ければ、どちらかというと人為(飢餓、疫病、戦争)に属するものであって、人間が生きることをいやにさせたり、人間を生きづらくさせるイベントや施策である。

地球人口削減策は、人間主義的な視点からすればとんでもないものだが、その起源を探ると旧約聖書イザヤ書や古事記などの神話、古伝承に遡るものであって、最近のぽっと出のものではなく、いわば有史以来人間に随伴してきた大きな流れであることに気がつかされるものだ。

さらに驚くべきことに、聖者、覚者は、地球人口削減策は悪魔の所業であるみたいな決めつけは行っておらず、人類の未来についてのいくつかある正当な選択肢の一つであって、神の立場からは普通に採られるべき方向性であるとしている。

 

人類の未来についてのいくつかある選択肢とは、

(a)人口を減らさず、現文明をある程度維持したまま万人が神知る時代に入る。

(b)人口を大きく削減し、少数のパワーエリートだけが生存し、彼らだけが新たな万人が神知る時代を建設する。

(c)人類は一旦全滅し、地球上、あるいは他の惑星に霊として移転し、そこで新たな万人が神知る惑星を建設する。

この(b)(c)の選択肢は社会常識的には現人類としては失敗と思えるが、神からは正解とされる根拠がある。それは神が文明の成功不成功を測る尺度は、その文明で神を知る聖者覚者が何人出たかどうかということだからである。その尺度によれば、以上の3つの選択肢はいずれも正解の一つである。

ただし、実際の個々の地球人口削減策は、大悪に見せて大善をなすということもある(出口王仁三郎)が、それは、神の視点であって、個々人の感情からは受け入れ難いところがある。

※(a)は水平の道、(b)(c)は垂直の道とも言える。

(人類がもし破滅しないで済めば、禅が最後の宗教になり、人類が破滅するなら、その直前にクンダリーニ・ヨーガが栄える。/ダンテス・ダイジ)

 

さはさりながら、そのような厳しい地球人口削減策がとられつつある中ではあるが、冥想修行者は、それを横目に見つつ、神知るため、あるいは神人合一のために、日々冥想にいそしまねばならない。

実際に陰謀論的な様々な施策を見聞きして、義憤にかられる人も多いのだと思うが、そんな時代であっても、冥想修行者は政治にかかわらないのが大原則である。

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無意識と死の側-3-マインド・コントロール

2023-12-08 06:37:35 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-03

◎青春期の垂直の道-3

◎耽溺から思考停止へ

 

マインド・コントロールは、昔はナチスや広告会社や軍部や宗教が得意だったが、いまやスーパー・コンビニの買い物から特殊詐欺にまで応用されるとんでもない時代になった。マインド・コントロールというのは、カルト教団や独裁国家だけで行われているものではなく、世界中の日常茶飯で行われている。そして、昨今のITの発達によりマインド・コントロールは、その稠密度、巧妙性において新たな様相を見せている。

大雑把な言い方をすれば、七つの身体論では、人間は肉体で空気を呼吸し、エーテル体で気を呼吸し、アストラル体で感情を呼吸し、メンタル体で想念を呼吸している。それをベースにすれば、マインド・コントロールは、これら四ボディを舞台に展開されている。

イエス・キリストの時代のように自説を主張する人自体が少なく、ある説を唱えれば素直に信じる人が大半だった時代には、マインド・コントロールは容易だった。

また平安時代の空海のいた頃のように、病気は霊の仕業ということが広く信じられていた時代にも、時に不可知なる霊を以って説明すれば、マインド・コントロールは容易だった。

かくして科学が発達し、自己実現を広く唱える自意識を持った現代人の自分の心理を顧みてみれば、政治、経済、教育、商業、文化、宗教、歴史、社会常識、科学、法規範、世間体、地域社会の因習、マスコミの情報、家族知人からの口コミなど、ほとんどが自分の外から来る情報によって成っていることに気づくだろう。これを、現代人は外部情報を除けばほとんど中味が残らないと言い、これが、マインド・コントロールの全体像である。

さらに、いわゆる洗脳情報は何年かたてば消えてしまうが、消える前に繰り返すことで、嘘も真実と信じ込ませる洗脳(マインド・コントロール)が永続される仕組が広く行われている。

 

さらに、昨今のマインド・コントロールで注目すべきものに2種を挙げる。

1.正反対の情報によるプロパガンダ合戦での判断停止

2022年からのウクライナ戦争では、NHK ニュースは、西側のウクライナによる戦争プロパガンダを放送しては、ロシアの戦争プロパガンダを放送する。また、2022年5月のバイデン米国大統領来日時に、アメリカは台湾有事に軍事的関与を示すという発言の一方で、引き続いて中国の反発を流すと同時にNHK の人物がバイデン大統領は失言が多いとコメントをして、視聴者の判断を迷わせる報道になっていた。

また2023年のイスラエルのガザ侵攻では、マスコミがイスラエル支持とパレスチナ支持とに立場が分かれた報道を行っている。

こういう正反対の情報によるプロパガンダ合戦は、昨今多いと言われる「考えない人々」すなわちあらゆるプロパガンダに対し頭を受動的にしたままにする人々をさらに思考停止させる効果があるように見える。

さらに最近は、Covid-19問題などで、SNSとマスコミの主張が正面衝突しているケースが多く、これは長期的に見て新聞発行部数の急減、テレビの視聴者数の激減と相まって、マスコミの衰退とさらなるSNSの隆盛を招くだろう。

だがそれは為政者にとって不都合だから早晩SNSの禁止に始まる思想言論信教の自由の圧迫が起こるだろうと思う。それは、既に70年以上前に出口王仁三郎が予言している。

 

2.スマホという思考停止装置

思考停止は、人が無意識に引き込まれることで起こる。無意識に引き入れるためのメソッドそのものには色がついていないこと、人間の悪意というものを今の文明では社会通念としてあまり問題だとは考えていないこと、テレビ・マスコミなど様々なレベルでの洗脳手法の氾濫、さらに人を耽溺させるメカニズムとして、「言語的、心理的ゲームを繰り返していき、次々に与えられた関門を突破していく仕組み」が、モバゲー、ネットワークビジネスから特殊詐欺などにまで組み込まれていること、そうしたいろいろなことが相まって、偶発的な自己催眠性トランスを多発させているのではないか。

最近多くなったスマホを見つめつつ人ごみを前に注意しないで歩く人達というのは、既にそうした催眠性トランス予備軍であるように思う。

 

スマホが思考を停止させることは皆実感しているだろうが、その効果は、静止画よりは、動画の方が高く、コンテンツで言えば、モバゲーやエロの方が高いと思う。

スマホによる大衆の思考停止は、マインド・コントロール実施者の狙いをより容易に実現せしめる。為政者が民衆に気づかれないように何かろくでもないことをしようとする場合には、恰好の目隠しにはなる。

ところが、平和な日本で電車に乗れば、半数以上の人がスマホ・携帯でゲームなどに打ち込んでいる。食べるもの心配はないかもしれないけれど、異性間での結婚すら所得が低いのであきらめざるを得ない若者(若者は生かさず殺さず?)が多いとか、老人が将来増え過ぎて国では面倒を見切れなくなるとか、中国が日本の領土に攻め込んでくる準備が進んでいるかもとか、将来の不安は尽きないが、それでも、「今ここで」このゲームをクリアするのが至上命題なのだ。

そんなこんなで、国家間ドンパチは周到な準備の後に始まるのだろうから、情報通は、「歴史に偶然の出来事はない」などとのたまう。

         

さて現代人の心理において、大半の情報が外から来るものだが、逆に、本来の自分個人に固有のものは、浮草のように翻弄される原因である我がカルマと永劫不壊なる神仏ということになる。

冥想修行では、よく既成概念を払拭せよとか、先入観をなくせよなどというのだが、それは、神仏にアプローチするためには、まず外部から来るものを排除せねばならぬということであり、それはあらゆるマインド・コントロールを免れよということである。

そうした修行環境として、例えばキリスト教の修道院や仏教の禅堂があるが、そうした場所では、外部からの情報は入らず、沈黙が求められるものであるのは当然である。さらに修行者個人の内面の操作として、観想法、一行専心、マントラ念唱、只管打坐(浮かんでくる思いを相手にしない)などのテクニックが使用される。

修行の前半でまず求められるのは、マインド・コントロールの払拭である。

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無意識と死の側-2-無意識を操作する

2023-12-07 06:43:26 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-06-02

◎青春期の垂直の道-2

◎死の世界(無意識)が日常生活に与えている影響

 

死の世界(無意識)が日常生活に与えている影響とは、大きくは2種類に分けられる。一つは、広範に大規模に綿密に行われているマインド・コントロールであり、いま一つは、地球人口削減のために採用されている多様かつ深刻な施策の数々である。どちらもあまりに日常生活に食い込んでしまっているので、そういったものがあるとは気がつかないほどだ。それでも発達した知性と鋭敏な感受性をお持ちの諸氏、特に青年たちは、それにもめげずに垂直の道を進むべきだろう。

また以上2種に加え、超常現象、オカルト現象についても、垂直の道を目指す修行者は死の世界(無意識)周辺のトピックとしてその概要を承知しておいて不便はないように思う。

そもそも垂直の道とは、脱身から神人合一を目指す冥想手法群である。ところが、冥想修行そのものが日常生活と隣接・混在しているため、その冥想手法も、マインド・コントロールも、地球人口削減のための諸施策も、いずれも「無意識を操作すること」が主たる技法の一つとなっているからには、相互に影響を与えているので、冥想について述べる前にそれぞれについて説明をしておく必要があるように思う。

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無意識と死の側-1-水平の道と垂直の道の違い

2023-12-06 06:46:51 | ジェイド・タブレット

◎青春期の垂直の道-1

◎ジェイド・タブレット-06-01

◎無意識と死の側

 

青春期の垂直の道は、青年として自己の意志で広義のクンダリーニ・ヨーガ系の冥想修行に取り組むことである。広義のクンダリーニ・ヨーガ系冥想とは、古神道、真言密教、天台密教、チベット密教、道教内丹、クンダリーニ・ヨーガ、西洋錬金術などである。これらは、霊能力、超能力に由来する行事、イベント、作法、風習にかかわるものであって、究極ではない中間段階を認める冥想法なので、水平の道とは明確に区別せられる。

中間段階とは、「究極である主神」以外の諸神霊、天使をも認めるということで、この特徴を以って、水平の道とは生の側から極める道、垂直の道とは死の側から極める道とも云う。この場合の死の側とは、無意識のことを言っていて、無意識の中に霊も超能力も主神も諸神霊、天使もあるということを総称している。

また人は、夢や白昼夢を見ている際は無意識にあるが、目が覚めている時でも、無意識になる瞬間がある。ボクシングの4階級世界王者井上尚弥は、人は3分間も絶対に集中できないので、相手の集中力が途切れた瞬間を逃さずパンチを打ち込むというが、その瞬間が無意識になる瞬間であって死の側である。

また垂直の道では中間段階を認めるので、様々な段階を区分してみせる。フリーメーソンでは33位階あるとか、古神道では181段階あるとか、仏教では菩薩の段階は52段階あるなどがそれである。空海は上から十番目であるなどと素人受けするようなことまで伝えられている。

さらに水平の道では、中間段階である見神、見仏、見性を認めないのに対し、垂直の道では、それらの神や仏をちら見・一瞥することを段階として評価する。禅の十牛図では、見性は第三段階であり、究極・大悟は第八段階である。

 

こうした説明をすると、霊能力や超能力と無縁の一般人と垂直の道は、ほとんど関係がないように思われるかもしれないが、豈はからんや『死の世界(無意識)』が大きく日常生活に影響を与えているのが、この世紀末の日々の実態である。

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一休-4-最期-1-念仏門に改宗

2023-12-05 03:37:15 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-38

◎青春期の水平の道-37

◎親鸞の法は天下一なり

 

自戒集によれば、長禄元年(1457年)の冬至に、紫野大徳寺の兄弟子養叟のやり口があまりに出鱈目なことに憤慨して、一休宗純は、法華宗(念仏門)に入信したと明記がある。

更にこの著名は、一休宗純ではなく、「法華宗純」となっていて、本気の改宗であることのダメ押しとなっている。一休は63歳にして禅宗を捨てた。

(一休和尚禅宗第三巻 自戒集・一休年譜/春秋社P254)

 

このあたりから蓮如との交流が始まり、一休68歳の時、親鸞上人200年遠忌にあたり、大谷本廟に招待された。一休は、蓮如に請うて親鸞聖人の画像をもらい受け、次なる賛をつけた。

『末世相応のこころを

 

襟巻のあたたかそうな黒坊主

こいつの法(のり)は天下一なり』

親鸞の法が天下一であるとお墨付きを与えたのだ。

 

ダンテス・ダイジはこの改宗の原因について、「禅の結跏趺坐と念仏の姿勢を比べてみれば、どちらが楽な姿勢かわかるだろう」と解説している。悟りに至る冥想法としては、禅のように知で押し詰める冥想と自分をオープンにして感情の高まりで行く冥想と比べれば、情で行く念仏の方が人間心理に与えるインパクトが大きいから容易だと言っているように思う。

ただし、ダンテス・ダイジは、念仏やお題目などのマントラ念唱の効果は、直接窮極を目指しているものではないという意味で本来限定的であることを示していることも忘れてはいけないと思う。

 

更に一休は臨終に際して、弟子に遺言するには、「念仏の中陰(四十九日の法要)を蓮如にしてほしい」と。遺言によって、一休の弟子は蓮如上人に念仏を頼むのだが、蓮如はこれを断って曰く、法は現身に説くものであって死んでからでは意味がない、と。

一休の改宗は、今の禅宗の人にとっては外聞の良いものではないだろうからあまり世間では言わない。漫画にも、一休が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とやっているところは出て来ないのではないか。

 

一休道歌 

成仏は異国本朝もろともに 宗にはよらず心にぞよる

 

彼は、このように宗派なき冥想を体現していた。

 

一休は、ニルヴァーナという体験とは言えない体験を経て、その悟りを持って生きた。まるで十牛図の第10図の徳利を持って町を歩くおやじの姿だが、そのように、男色女色など一見破戒僧の生き様を見せながら、覚者であることは踏み外さなかった。
これは日本に禅の覚者は多数出ているとは雖も破格で例外的なことであった。21世紀のアクアリアン・エイジの現代人はそのように生きるべきである。
一休は、日本で神から最も離れた時代の一つである応仁の乱の時代を生きた。神は、そうした時代にはかならず神人(アヴァタール)を下し置かれるものであって、一休もその一人。応仁の乱の影響は古神道にも及び伊勢神宮も遷宮のできない120年余りがあったほどであった。

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一休-3-生きる姿-5-一休骸骨

2023-12-04 03:55:00 | ジェイド・タブレット

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◎青春期の水平の道-36

◎マーヤとしての現実

 

マーヤは幻想。あらゆるものは、すべて滅び、あるいは死ぬ。だから現実とはマーヤでもある。そういう真相を知る人があるかと思って、人気のない仏堂に籠って一夜を眠れぬままに明け方になって、まどろんだ。

その夢の中で仏堂の後ろに行ってみたら多くの骸骨たちがいて、その振る舞いは別々であって、まるで生者のようだと見ていると、ある骸骨が歩み寄って詠むには、

 

思ひ出の有るにもあらず 過ぎ行かば

夢とこそなれ あぢきなの身や

(何か特に思い起すこと(求道)がないままに一生を過ごしてしまえば、夢のようなものである、味気ないこの身よ)

 

仏法を神や仏に別かちなば

真の道にいかが入るべき

(仏法を本来一つである神道と仏教に分けてしまえば、真(まこと)の道に入ることはできない)

 

しばし げに息の一筋(ひとすじ)通う程

野辺の屍(かばね)もよそに見えける

(わずかの間でも本当に息の一筋が通っている間(生きている間)は、野辺に晒されている死骸もよそよそしく思えたことだ)

 

さて死の世界に分け入り、

このように骸骨と親しく慣れ遊ぶうちにその骸骨は、まるで自分となったかの如く世を捨て僧となり諸方の経典を調べ、善知識たちを訪問しまくり、我が心の源を明らかにした、と思えば、夢から覚め、松風の音と月の光が残るばかりであった。

邯鄲の夢風に叙述しているが、主題を出世競争に明け暮れる一生から究極を求める冥想修行に置き換えている。そこで、現実という夢から覚めるというのは、どういうことなのだろうか。一休は、二重の現実感を生きている。

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一休-3-生きる姿-4-普化和尚

2023-12-03 05:59:52 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-36

◎青春期の水平の道-35

 

一休は、少年時から男色になじみ、尼さんとの情交も厭わず、晩年には盲目のうら若き30台女性との同棲までこなした。こうした男性なので、さぞやイケメンだったと思いきや、むさくるしい中年男の肖像が残されているのは、死後においても一休のしつらえた公案のような気がする。

大徳寺の幹部でありながら、重要な法要の時はさぼって別室で女性と同衾しているが、その最中に読経の声が聞こえるなどという、授業をさぼった不良高校生みたいな詩も狂雲集にはある。

それもこれも、大死一番、すべての宇宙が死に自分が死ぬという、体験とはいえない体験を経て、自分が宇宙意識(ニルヴァーナ)の展開であることを自得しているからできること。未悟の者が、同じ真似をしても世界の混乱をさらに深めるだけ。

大破壊の時期は近いが、覚者たちは、敢えてその後の復興のことを重視する。

 

普化は臨済を上回る自由自在の禅僧。悟りは、一見人間の生業のことなど全く気にしていないのだが、それを生きた普化和尚は、禅の正統の伝統を生きる臨済和尚をもどやしつけるシーンがある。

『普化和尚

 

朝な夕なに、町中わかせ、

人を泣かせた、おやじの手ぐち。

古今きっての気ちがいぶりが、

禅門くるわす、色おとこ。

 

議論明頭又暗頭 

老禅作略使人愁

古往今来風顛漢

宗門年代一風流』

(日本の禅語録 一休/柳田聖山/講談社 P191から引用)

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エーテル体と雷

2023-12-02 20:55:38 | チャクラと七つの身体neo

◎雷電で世界を滅ぼさんとする

(2017-08-24)

 

朝から熱風の吹く晩夏の一日の始まりである。

人間は、電気の肉体であり、電気とは神経や筋肉である。神経系とほぼ似た位置に経絡であるエーテル体がある。

エーテル体は半物質であって、物質の性質が半分であって、経絡であるが故に電気的な性質も有している。

最近の名古屋地区や東京の一時に何千発もの落雷があって、巨大積乱雲スーパーセル直下では何千発もの雷が発生することが知られるようになった。

 

ギリシア神話に、神はこの世を滅ぼそうとして、いきなり洪水にしようと思ったのではなく、最初に雷でやろうとしたというのがある。

時代は、金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代と進み、既に敬虔と正義は人の心から失われた。そこで大神ユピテルは、日々罪という罪を犯しまくり、大地の広がる限り荒々しい狂乱の支配している人類すべては罰を受けねばならないとし、いつも愛用の武器である雷電でもって人類を滅ぼそうと考えていた。

ユピテルは、既に無数の雷電を地上の至るところにばらまこうとしていた。

ところがユピテルは、雷火では、地上の火が天上に延焼し、天の軸が端から端まで燃え、海も地も天上の宮殿も燃え上がり、宇宙全体が滅亡するかもしれないと懸念し、急遽無数の雷電による人類滅亡から、洪水による滅亡に切り替えることにした。

つまり無数の雷電とは核ミサイルのことであり、世界中に配備完了し、いつでも世界滅亡できるのだが、なぜだか、大洪水に切り替えるということ。

スーパーセル下の多数の落雷も核ミサイルも広義の雷電。大洪水前に雷電を見せるのは、スーパーセルだけでなく、核戦争も派手な雷電の打ち合いではある。

対エーテル体ということでいえば、スマホ、携帯電話の電磁波でエーテル体に影響を与えながら生活するのもプチ落雷のようなものである。

ギリシア神話もなかなかに意味深長である。

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一休-3-生きる姿-3-ダライ・ラマ6世との類似

2023-12-02 03:27:04 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-35

◎青春期の水平の道-34

 

一休宗純の狂雲集にこんなのがある。

 

愛念愛思胸次を苦しむ、

詩文忘却して一字無し。

唯だ悟道あり道心無し、

今日猶お愁う生死に沈まんことを。

 

これは前半が愛欲に目がくらむ自分の現実を表現し、後半がニルヴァーナを経て生死を超えたはずだが、戒律を守る清純な生き方はしておらず、今日なお生死の区別ある迷いに沈む自分を愁うくらいの意味だろうか。

この世はドリームでもあり、リアルでもあり。『如』なる現実感覚でもって愛欲生活に沈潜すればこういう感慨になるのだろうか。

 

一方ダライ・ラマ6世(1683-1706年)の恋愛詩は、一休の狂雲集のそれとは違って、単純に甘い恋の出来事を断片的に描写するものが多いものの、狂雲集ばりの詩もある。

 

『たった一夜といえども、 一人で過ごしたことはない。

私の床にはいつもすばらしい美女たちがもたらされた。

だが一瞬たりとも道(空性が歓喜となって顕現する大楽の体験)を踏みはずしたことはない。

なぜならば私は”普遍的な心(ユニヴァーサル マインド:一切の命あるものを苦界の輪廻から救済するという普遍的な責任を受容した純粋な意識)”を決して見失ったことはないのだから』

(14人のダライ・ラマ/グレン・H・ムリン/春秋社(下)P5-6から引用)

 

ダライ・ラマ6世も一休同様に、ニルヴァーナ・道というものを持ちながら女犯をするという立場にあったことは同じ。

 

また一休の性愛遍歴を見れば、求道としてのカーマ・ヨーガではないように思う。理由はパートナーをどんどん変えているからである。

さらに、こうしてみるとカーマ・ヨーガは、確かに男性側の修行法なのだろうが、かたや女性においてはカーマ・ヨーガは修行ではないという位置づけに、男女の魂の完成プロセスの別を感じさせられる。ある生では男性として生き、次の生では女性として生き・・・などという事情もあり。

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一休-3-生きる姿-2-地獄太夫

2023-12-01 03:09:13 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-34

◎青春期の水平の道-33

 

一休禅師が地獄太夫に逢うの一段。

『一休和尚が堺の浦にお越しになったとき、旅人相手の旅籠に美しい女があった。その女は一休であることに気づくと、一首の歌を詠んで送り申し上げた。

 

(出家の身である以上)俗塵を離れて山居するならば、深い山の奥に住むのがふさわしいでしょう。ここはまさしく憂き世の『堺』と聞いているから。

(山居せば 深山の奥に住めよかし ここは憂き世の堺と聞くに)

 

一休和尚の返歌

一休は我が身を塵ほどに思わないので、人々の雑踏する市も、人気のない山住まいも全く変わらない住処であることよ。

(一休が身をさほどに思わねば 市も山家も同じ住処よ)

 

とお詠みになると、「この女はただ者ではない」とお思いになり、「一体どういう素性の女であるか」と尋ねたところ、「あれこそ世間で評判の地獄という名の遊女である」と申し上げると、和尚すぐさまお詠みになった歌

 

かつて人づてに聞いていたよりも、見るとはるかに恐ろしい地獄であることよ。

(聞きしより 見て恐ろしき地獄かな)

 

地獄太夫返歌

死んでくる人で、この地獄に落ちないものはございません。

(しにくる人のおちざるは無し) 』

(般若心経抄図会/一休和尚全集第四巻/春秋社より引用)

 

遊女地獄太夫の最初の歌は、「坊さんであるならば、このような汚れ果てたこの世の地獄の一丁目のようなところにいらっしゃるものではないのに、それでもこのようなところにいらっしゃるのですか」というような気持の歌である。

これに対し一休は、「禅僧にはもとより肉体などないので、苦界(売春宿)も山の寺も同じ住処であることに変わりはない」字義どおりならこの程度の解釈だが、

この問答の本質は、「一休ほどの高僧が、どういうつもりで売春宿にセックスしに来るのでしょうか」という問いかけに対し、一休が「セックスを楽しむのも禅僧の自由自在なありようの一つである」と返歌しているところである。

いわゆる禅道修行の中で情交は当然禁止であり、このような一休の生き方は修行という面では問題とされるが、既にすべてを見切った一休の世界の中では、一休が性愛冥想を楽しむというのも自由自在な人間の自然な行動となる。

そこで一休は、この女ただ者ではないと見たわけだ。

最後の地獄太夫の返歌も心得ており、一休が求道的禁欲を超えた立場であることを知り、人間はいつかそうした性愛そのものを「いのちの流れ」の中で、心ゆくまで楽しまない者はいないと同じ立場に立った歌となっている。

一休の性愛を謳った歌は数多い。あからさますぎて、ブログに書くのも恥ずかしいのがある。「大燈国師の法事(忌日)の読経の声が寺全体に聞こえる中で、一休は寺の一室の中に女性を連れ込んでセックスを楽しんだ。こんな具合だと、睡魔と闘うために錐で身(太もも)を突き刺した中国の禅僧慈明の故事の生真面目さを笑ってしまう。」という漢詩まである。しかし、求道者のことをばかにしているので不謹慎と思われても、それを超えた世界を生きる一休がある。

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