らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

八百屋お七

2013-03-29 | 雑学

「八百屋お七(しち)」という人物を御存じでしょうか?
「八百屋お七」とは、八百屋の娘・お七のことで、放火の罪で火あぶりの刑に処せられましたが、今日は彼女が鈴ヶ森刑場にて火あぶりの刑に処せられた日だそうです。

今から330年前の1683(天和3)年の3月29日、18歳の八百屋の娘・お七が、3日間の市中引回しの上、鈴ヶ森刑場にて火あぶりの極刑に処せられました。
お七は、その前年の天和2年12月28日の大火で、避難した寺で出会った寺小姓の生田庄之介のことが忘れられず、火事になればまた会えると考えて3月2日の夜に放火しました。
当時、放火の罪は火あぶりの極刑でしたが、17歳以下ならば極刑は免れることになっており、奉行はお七の刑を軽くする為に「おぬしは17だろう」と問いますが、その意味がわからなかったお七は正直に18歳だと答えてしまい、極刑に処せられたそうです。

お七が丙午「ひのえうま」年の生まれであったことから、その後、丙午生まれの女子は気性が激しく、夫の命を縮めると言う迷信が生まれ、現在でも信じられています。

・八百屋お七です。(ネットより)


(参考)
「八百屋お七」放火のあらまし
お七は江戸本郷で八百屋を営む父・市左衛門の次女として生まれ、平凡に暮らしていましたが、ある日この八百屋が火事になり、一家は本郷の正仙院に避難します。
ここでお七は生田庄之助という20才の男と出会ってから、たちまち恋に陥ってしまい、寺内で庄之助との逢瀬を重ねていました。
暫くして八百屋の再建が終わると、お七は実家に帰ることになり、今までのように庄之助に会えなくなりました。

会いたい気持ちが抑えられなくなったお七の脳裏に、「もう一度家が火事になればまた会える」と、思いついたようです。
(但し、この説には異説があって、寺の門番の息子でお七の恋を取り持つと言っては小遣いをせびっていた吉三郎が「実家がもう一度燃えたらまたここで避難生活をして庄之助に会える」と、そそのかしたとの説もあるようです。)

お七の頭の中は、生田庄之助に会いたい一心で他の事が考えられなくなっていました。
そして、自宅の物干し台に上がり、油を注いだ柴木に火をつけ再建出来たばかりの自宅を再び火にかけてしまったのです。

火は瞬く間に広がり、自宅だけでなく江戸中が火の海になり死傷者で埋まると言う悲劇が起こりました。
18歳の娘お七が恋心のために犯した放火の罪は余りにも代償が大きすぎ、奉行の計らいも通じず、極刑に処せられたものです。