今日は淀屋橋の由来をご紹介します。
現役の頃、毎日淀屋橋を通って通勤していたことから、この風景はよく見慣れていますが、写真に収めたのは今回が初めてです。
この橋は大阪のメインストリート、御堂筋の一部で、長さ53.5m、幅員36.5mで、現在では1日6万台の自動車、7万人の人々が利用する重要な交通路となっているそうです。
・南行き一方通行のメインストリート、御堂筋と手前が淀屋橋です。
淀屋橋は土佐堀川に架かる橋で、国の重要文化財に指定されており、北東側には大阪市役所が北西側には日本銀行大阪支店があります。
・土佐堀川と国の重要文化財の淀屋橋です。
淀屋橋は、江戸時代前期の大坂を代表する最大の豪商であった淀屋が、屋敷前で開いた米市場に集まってくる商人のために自費で架けた橋です。
淀屋初代の常安(じょうあん)は、秀吉が伏見在城のとき淀川の築堤工事を請負い財をなし、その後、大坂の陣では徳川方にくみし、大坂三郷(北組・南組・天満組)の惣年寄(そうとしより:町政の筆頭年寄)にも任ぜられ、中之島の開拓にも力を尽くしました。
2代个庵(こあん)のとき、靭(うつぼ)に海産物市場を開き、また西国諸藩の蔵米を取り扱い、淀屋の米市を開き、金融業や廻漕業を営むなど経営の多角化をはかり、2代で巨万の富をきづいたそうです。
その屋敷はこの付近から北浜にかけ百間四方(約33,000平方メートル)の広さをもち、内装も当時珍重したガラスを多用し豪奢を極めました。
・淀屋の屋敷跡の石碑です。
大阪は八百八橋と言われるほど橋が多いのですが、多くの橋は大阪の豪商によって架けられたそうです。
淀屋橋も淀屋によって架けられましたが、その淀屋は1705年(宝永2年)、5代目淀屋三郎右衛門(通称辰五郎)のときに、突如、幕府から闕所(けっしょ)処分が出され、全財産を没収、所払(ところばら)いに遭って取り潰されてしまいました。
闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだったそうですが、実際は諸大名に対する莫大な金額の貸し付けや訴訟のもつれでとがめられたことが本当の理由であろうと言われています。
・淀屋の碑です。奥に見える建て物が日銀大阪支店です。