らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

大阪散策(その3)宰相山公園

2014-03-24 | 地元紹介

「大坂冬の陣から400年」に関連する場所巡りの3か所目は宰相山公園を訪ねました。

「宰相山(さいしょうやま)公園」
この公園の周辺は、大坂冬の陣で真田幸村が出城を築いた古戦場跡と推定されています。
公園名にもなっている宰相山という地名は、一説には、冬の陣の折に、真田幸村が守る「真田丸」を攻めた越前宰相・松平忠直が陣を置いたということからの他に、一緒に攻めた前田利常(前田宰相)の陣だったことが由来とされています。

・宰相山公園です。


「真田丸」
真田丸の跡地は現在明確になってはいませんが、推定で現在の真田山周辺や江差町辺りのようです。
真田丸(さなだまる)とは、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城で、 単独で機能する小城砦です。
この宰相山公園の隣にある三光神社には、幸村が大坂城内との行き来に使ったという「真田の抜け穴」が残っていることから、この丘陵が「真田山」で、真田丸の跡地と推定されているようです。

「大坂冬の陣」
ここ宰相山は大坂冬の陣で真田丸を攻撃した前田利常が陣を張った場所です。
1614年(慶長19年)年12月4日、大坂城への砲撃を命令された前田隊は大坂城の付近に砲撃用の施設を作っていました。
そこに真田信繁(幸村)が守っている真田丸の中から挑発があり、前田隊の一部がそれに乗ってしまたため、他の部隊もこぞって真田丸を攻め始めました。
その様子を見ていた井伊直孝と松平忠直と藤堂高虎の各隊も、遅れをとる訳にはいかないと、我先に総構えや真田丸に攻め込んでいきました。
結局この戦いは午後には真田信繁(幸村)の作戦に乗せられた徳川方の惨敗が確定的になり、徳川方は各陣へと撤退を始めたのでした。
それから約20日後、豊臣方は徳川方と和睦し、真田丸など本丸の堀を除いて破壊されました。

・1614年(慶長19年)12月4日、大坂冬の陣の陣図です(ウィキペディアより)


「真田山公園」
この真田山公園は宰相山公園の近くにあることから、この辺りも古戦場跡のようですが、それを示すような案内などは何も見当たりませんでした。
「真田山」と言う地名だけが残っている状態です。