昨年10月に国の史跡に指定された地元の山頂にある山城「土丸・雨山城跡」をご紹介しています。
昨日は「城の山(土丸山)」山頂の土丸城跡を取り上げたので、今日は標高312mの雨山山頂(左側)に残る「雨山城跡」と遺構をご紹介します。
「雨山」
鎌倉時代には熊取荘と言う荘園が存在しており、南北朝時代には雨山(312m)の頂上に築かれた雨山城が北朝と南朝の争奪戦の場となりました。
雨山城は紀州と泉州を結ぶ粉河街道をおさえる山城として、泉州北部の宮里城(和泉市)と並んで戦略上重要な城であったようです。
正平3年(1347年)、北朝方から任命されて和泉国守護に着任した高師泰(こうのもろやす)は、日根野荘を拠点とする武士・日根野時盛にこの城の固めを命じました。
このあと足利尊氏、直義兄弟の争いから高師泰は追われ、一時的に南朝方が勢力を盛りかえし、正平8年(1353年)に、雨山城は南朝方の橋本正高の手に渡りました。
・左側の高い山が314mの雨山、右側が287mの「城の山(土丸山)」です。
「道石」
尾根伝いに歩いていると熊取町と泉佐野市日根野の境を示す「大阪府」と彫られた道石が建てられていました。
「雨山城本丸跡」
雨山(312m)は熊取町の南端にそびえ、雨乞いの山として山頂には雨山龍王社(雨山神社跡)があります。
頂上に築かれた「雨山城」は南朝軍と北朝軍が争奪戦を繰り広げた要城として有名な山城です。
1388年(嘉慶2年)南朝方の広橋経泰らが兵を起こし、雨山城に拠ったが、山名義理の来攻で落ち、その後、根来寺衆の拠るところとなった時期もありましたが、1617年(元和3年)に城郭が取り払われたと言われています。
紀州と泉州を結ぶため戦略上重要であったこの城は、今では南北朝時代の争乱の面影もなく、静かにその跡には雨山神社が残っています。
・雨山城本丸跡です。
「遺構」
雨山城跡の遺構としては、登城道に残る堀切、千畳敷の広い削平地、今も満々と水をたたえる井戸、月見の亭、馬場跡、射場などが本丸周辺にあって往時を忍ばせています。
「井戸跡」
300m以上の山の上にありながらこの井戸は今も水を満々と湛(たた)えています。
「月見亭」
月見亭では先着のハイカーが一息ついているところでした。
「千畳敷き」
広場が残っているだけです。説明板などは建っていませんでした。