今年1月7日に天童独持の飾り駒や根付け駒である「左馬」の由来についてご紹介しました。
今日は何故、天童で将棋駒が有名になったのか調べました。
現在、山形県天童市の将棋駒づくりは全国の生産量の大部分を占めていますが、その起源は藩士の内職からだそうです。
山形市の北側に隣接する人口6万3000人の天童市が、日本一の将棋駒産地となった歩みは次のように伝えられています。
「天童織田藩の駒づくり」
天童で駒作りが盛んになったのは天保2年(1831年)に織田信美が天童に城を移した際に、家臣たちに「将棋駒」作りを内職として奨励したのが始まりと言われています。
当時、天童藩の財政は非常に厳しく、下級武士は俸禄だけでは食べていけない状態であったことから、天童藩家老の吉田守隆は将棋駒作りを奨励したそうです。
しかし、内職することに抵抗を示す者も少なくなく、そこで、吉田は「将棋は兵法戦術にも通じるものであり、駒を作ることは武士の面目を傷つけるものではない」と下級武士たちを説得したと言われています。
駒づくりが本格的な産業となったのは明治時代に入ってからで、旧藩士が木地師と書き師に分かれて分業生産を始めたことで、天童は大阪などと並ぶ大量生産地となっていきました。
さらに大正期に入ると、いち早く駒木地の機械化を開発し、駒の書き手は、大人だけでなく子どもたちも担うなど、天童は町をあげての分業体制に入ったそうです。
「押し(スタンプ)駒」も導入した昭和初期には、大阪を退けて全国一に成長しました。
こうして、下級武士の内職として始まった天童の将棋の駒作りは特産品となり、平成8年(1996年)には通産省(現・経産省)から伝統的工芸品に指定され、日本を代表する芸術品にまで発展したということです。