先日、所用で大阪・北浜に出かけた折、少し早めに出かけて真田丸の関連史跡を訪ねてきました。
今日から数回に分けてご紹介します。
「茶臼山」
大阪市天王寺区にある茶臼山は標高26メートルの丘で、元々は1546年に細川晴元の家臣・中山又三郎が築城した大塚城でした。
この大塚城は5世紀の豪族の墓である茶臼山古墳を活用した平山城で、茶臼山古墳の後円部を本丸としていたようですが、1547年7月21日舎利寺の戦いで細川氏綱・遊佐長教の連合軍の攻撃を受けて落城したと言われています。
茶臼山は、慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」では徳川家康の本陣となり、次いで翌年「大坂夏の陣」では真田幸村(信繁)勢の本陣となり、「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となったことでよく知られています。
「大坂夏の陣」
慶長20年5月7日(1615年5月7日)、真田の赤備が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤備えと松平家の家紋のつま黒が交互に入り乱れる大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられました。(大阪夏の陣ー天王寺口の戦いー)
数では劣る真田隊でしたが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られました。
・「茶臼山の山頂」です。
「一心寺」
一心寺は大阪府の天王寺区にある浄土宗の寺院で、山号は坂松山、院号は高岳院、本山は京都にある浄土宗の総本山知恩院です。
浄土宗の開祖とされる法然上人が、四天王寺別当の慈鎮和尚の請により、文治元年(1185)に結んだ草庵が始まりで、後に源空庵、さらに一心寺となりました。
当時この土地からは西に海が見え、まるで極楽のようだったと伝えられています。
「真田の抜け穴」
その一心寺にも真田の抜け穴といわれる井戸があります。
真田の戦法に於いては 抜け穴は有名で、上田城や真田丸にも抜け穴といわれるものがありますが、この一心寺にもありました。
井戸は蓋がしてあり、中を覗くことはできませんが、茶臼山近くにあるという事で、大坂夏の陣で真田十勇士がこれらの抜け穴を利用して、神出鬼没で徳川軍を悩ましたという伝承の信憑性が増したような気がします。
「本多忠朝の墓」
更に、一心寺には慶長20年(1615)5月7日に大坂夏の陣で討死にした本多忠朝の墓があります。
忠朝は本多忠勝の次男で、関ヶ原の戦いで父に従い手柄を立て下総・大多喜5万石の領主となり大坂夏の陣にも参戦したのです。
しかし、忠朝は深酒のため二日酔いで5月6日の戦闘に遅参したため、家康にひどく叱責されたといわれています。
5月7日の天王口の戦いで先鋒の忠朝は毛利勝永隊と激突しましたが、本多隊は毛利隊に突き崩され敗走する者が多く出ました。
前日の汚名を晴らそうとしていた忠朝はこれに大いに怒り、単騎で敵陣へ斬りこんで奮戦したのですが、二十箇所以上の傷を負って壮絶な戦死を遂げたのです。
忠朝は死に臨んで、深酒をしたことを悔い、「この先、酒のために身を誤る者を救いたい」と言って絶命したといわれています。
それ以後、忠朝の墓は「酒封じの神」として酒を止めたい人の参拝が絶えないということです。