「真田丸の史跡を訪ねる」シリーズの6回目は心眼寺をご紹介します。
「心眼寺」
心眼寺は1622年4月、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村父子の冥福を祈り、堂宇を建立したのが始まりで、創建から寺の定紋は六文銭、、山号は真田山です。
当時の大阪は徳川幕府の直轄地でもあり、豊臣家の武将である真田幸村親子の墓を作ることは許されなかったそうです。
それが400年目となる2014年10月にようやく真田左衛門佐 豊臣信繁之墓として建立することができました。
・心眼寺の山門です。十数名の真田丸を巡るグループが見学しているところでした。
心眼寺は真田幸村とその子・大助の供養のために真田家の祖先である滋野氏が江戸時代に建てた寺です。
心眼寺周辺は大坂冬の陣で真田幸村が築いた大坂城の出丸・真田丸跡地といわれ、三光神社が真田丸の東側に位置し、心眼寺は西側にあたるそうです。
・山門に向かって右側には「真田幸村出丸城跡」の碑が建っています。
「京都見廻組」
山門左側には、京都見廻組 渡辺吉太郎と桂早之助の墓所の石碑もあります。
坂本竜馬の死後、慶応3年(1867年)12月9日に王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府による武家政権が終わり、新政府が樹立されました。
それに不満をもった旧幕府軍と新政府軍(討幕派)が武力衝突し、慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽伏見の戦いが始まりました。
その戦いに京都見廻組も参戦し、最前線で戦いました。
龍馬暗殺の実行犯といわれる隊士のうち、桂早之助と渡辺吉太郎はこの戦いで戦死しました。
戦死した桂早之助と渡辺吉太郎は、現在の大阪市天王寺区にある心眼寺まで運ばれ葬られたのだそうです。
本堂の手前の左側に、桂早之助と渡辺吉太郎のお墓がありました。
「真田左衛門佐豊臣信繁之墓」
歴史学者・平山優氏の「大いなる謎 真田一族」によれば、文禄3年(1594年)11月2日、真田信繁(幸村)は従五位下・左衛門佐に任じられました。
このときの口宣案(くぜんあん:口頭で伝えた控え書き)に「豊臣信繁 叙従五位下左衛門佐」と記されていることから、豊臣姓を許されたのではないかと言われています。
心眼寺本堂です。
「真田丸顕彰碑」
「真田丸」は大阪明星学園の辺りにあったとされていることから、同学園テニスコート外側に2016年2月「真田丸顕彰碑」が設置されました。
天王寺区役所では、真田丸跡地を訪ねて全国からやって来る方々の観光の目玉になるであろうと期待しているようです。
・顕彰碑の場所は大阪市天王寺区餌差町5-44。心眼寺坂の興徳寺前にあります。