大阪の冬の夜を彩っていた「御堂筋イルミネーション」は1月18日で終わりましたが、このイルミネーションが1月9日にギネス世界記録に認定されました。
一つの通りに、300個以上のライトが点灯した街路樹「606本」というのが記録だそうです。
新聞報道では、「御堂筋イルミネーション」は6年前から、大阪府などが観光の振興につなげようと始め、今シーズンは淀屋橋から難波西口交差点までの約3キロにわたって、街路樹のいちょう、606本がピンクやオレンジのLED電球で彩られました。
松井知事は「観光客に対して、世界一の認定ほどすばらしいおもてなしはありません。次のシーズンは梅田まで距離を広げてさらに記録を更新し、冬の風物詩として発展させていきます」とこたえていたということです。
・御堂筋のイルミネーションです。
ところで、イルミネーションの起源はいつごろなのでしょうか?
調べてみると、16世紀のはじめ、ドイツの宗教改革者マルチン・ルターが、礼拝の帰りに、もみの木の向こう側に見えた星空を再現しようと、もみの木にろうそくを飾ったのが始まりだそうです。
その後、ろうそくの炎が電球に変わり、現在に至っているということです。
日本におけるイルミネーションは、1900年(明治33年)4月30日、神戸沖において行われた観艦式で、夜間、各艦船が発光して海面を照らし、一大偉観を見せたことに始まるとされています。
明治36年(1903年)には、銀座の輸入食品店が初めてクリスマスに本格的なイルミネーションを飾ったそうです。
御の字
月に1~2回、文化庁が言葉の本来の意味を解説している「ことば食堂」から取り上げていますが、今日は10月16日に公開された第13話「御の字」についてご紹介します。
例えば「70点取れれば御の字だ。」のように使われる「御の字」ですが、読者の皆さんはこの使用例をどのようにご理解されてますか?
「一応、納得できる」でしょうか?
それとも「大いに有り難い」でしょか?
「御の字」を広辞苑で調べると、①最上のもの。極上のもの。結構なもの。「今の世の――の客」
②ありがたい、しめたなどの意。「この試験に60点とれれば――だ」、と説明しています。
「御の字」は、本来は「それ以上にない有り難いもの」を示す言葉であり、「ひとまず、納得する」というような意味ではありません。
「御の字」の「御(おん)」は、「からだ」の敬称である「御身(おんみ)」や「その人自身」を敬って言う「御自(おんみずか)ら」のように、尊敬の意味を添えて、「特に優れたもの」「最上のもの」を表す接頭辞です。
ところが、平成20年度の「国語に関する世論調査」で、「70点取れれば御の字だ」という例文を挙げ、「御の字」の意味を尋ねたところ、結果は次のとおりだったそうです。
(ア) 一応、納得できる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51.4%
(イ) 大いに有り難い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・38.5%
調査結果では、本来の意味である(イ)と回答した人の割合は4割弱で、5割強の人が本来の意味とは異なる(ア)という意味で解釈していたようです。
但し、ことば食堂でも解説していましたが、「70点取れれば御の字だ。」と誰かが言った場合、その発言を聞いた人が「70点」をどのようにとらえるかが「御の字」の意味に影響している可能性があるということです。
即ち、「御の字」の本来の意味を知っている人は、自分自身の「70点」に対する感じ方とは関係なく、その誰かの発言を「70点取れれば大いに満足だ。」と解釈することができますが、本来の意味を知らない人の中には、「70点」を「満足ではないが喜べる最低ラインの点数」と受け取って「70点取れればとりあえず納得できる。」と解釈する人がいるかもしれないということです。
「御の字」の本来の意味は、「大いに有り難い」、「非常に満足である」という意味です。
再認識したいですね。
大相撲初場所が行われています。
今場所も史上最多優勝をねらう白鵬がただ一人8連勝で勝ち進んでおり、白鵬を中心に優勝争いが展開されています。
ところで、大相撲の番付には横綱を始め、大関、関脇、小結、前頭などの序列がありますが、皆さんはこの由来をご存知でしょうか?
調べてみたのでご紹介します。
・「横綱」・・横綱は白麻で編んだ太いしめ縄のことで、その横綱を「吉田司家(よしだつかさけ)」から締めることを許された大関力士を言いました。
つまり、横綱は綱そのもの、または大関の中で品格・力量・技の最も優れた者をさしたもので、本来は力士の階級ではなかったそうです。
・「大関」・・大関は「横綱」の地位ができる明治時代までは力士の最高位でした。
古くは、最上位の力士は「最手(ほて)」と称していましたが、室町時代頃から「関(せき)」と呼ばれるようになったそうです。
この「関」は「関門」のことで、「関」に最上位の意味で「大」を冠した語が「大関」で、近世に出現した語のようです。
・「関脇」・・関脇は、大相撲において大関の下の階級で、「大関」の「脇」をつとめる者、という意味が語源とされています。
・「小結」・・「小結」は、「小口の結び」からきており、「小口」とは、「始まり」の意味だそうです。
横綱の制度ができる前、「小結」「関脇」「大関」にあたる上位3人の取組を「結びの三番」と言いました。
このうち、最初に取組をする力士を「小口にあたる力士」ということから、「小結」と呼ぶようになったそうです。
・「前頭」・・「前頭」の「前」は、新弟子たちの取組「前相撲」のことだそうです。
「前相撲」で勝ち進み、「前」の「頭」を経験すれば、番付に載ることができるようになるので、番付の力士全てを「前頭」と呼ぶようになったのだそうです。
・「幕内」・・現在、番付の一段目の力士は、「幕内」と言います。
これは、江戸時代、将軍が相撲をご覧になる際、強い力士だけが、張りめぐらした「幕の内側」に控えることができたので、「幕内」と言う言葉ができたそうです。
その中で、「前頭」は、役についていない幕内の力士ということで、「平幕」とも呼ばれました。
・「十両」・・正式な呼称は十枚目で、もともとは、明治初期に幕下の上位10枚目までに10両の給金を渡して特別待遇を与えたことが、この地位の由来だといわれています。
・「幕下」・・正式には幕下二段目を言うそうです。「幕内」の下、番付の二段目以下の力士を「幕下」と言うようになったようです。
・「三段目」・・「三段目」は、番付で上からも下からも数えると「三段目」にあることからです。
・「序二段」・・「序二段」は、上から数えると四段目ですが、「死」に通じるので、下から数えたそうです。
・「序の口」・・「序二段」「序の口」の「序」は、「物事の始め」という意味で、番付がここからスタートすることから名づけられたとされています。
昨日は阪神・淡路大震災から20年と言うことで、関西地方の各テレビ局では、その特集番組一色でした。
東日本大震災では、復興ソングに「花は咲く」がありますが、阪神・淡路大震災には、献唱曲「しあわせ運べるように」があります。
この曲は神戸市内の小学校で音楽専科教諭を務めている白井真先生が、震災から約2週間後、身を寄せていた親戚宅で、生まれ育った街の変わり果てた姿をテレビニュースで見て衝撃を受け、わずか10分で作詞・作曲したのだそうです。
この曲は、多くの人々の心を捉え、希望の灯となり、神戸復興を願うシンボル曲になっており、神戸では、市内の小学校をはじめ、追悼式典、KOBEルミナリエ、成人式等で、20年間大切に歌い継がれているものです。
関西地方の方はよくご存知だと思いますが、全国の皆さんに聴いていただきたいと思い、取り上げることにしました。
献唱曲
「しあわせ運べるように」
作詞・作曲 白井 真
1.地震にも 負けない 強い心をもって
亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
支えあう心と 明日への 希望を胸に
響きわたれ ぼくたちの歌
生まれ変わる 神戸のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
2.地震にも 負けない 強い絆(きずな)をつくり
亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
やさしい春の光のような 未来を夢み
響きわたれ ぼくたちの歌
生まれ変わる 神戸のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
神戸市立港島小学校生徒さんの合唱です。
なお、白井先生は、音楽を通して、やさしさや人の心の痛みがわかる子、目に見えないものの美しさがわかる子、さまざまなことに感動して涙を流せるような子になってほしいと願い、勤務する小学校で音楽を教えながら、各地で「しあわせ運べるように」の指導、曲に込めた想いなどについての講演活動もしているそうです。
今日は「阪神・淡路大震災」から20年になります。
今朝5時のNHKニュースでもトップで、追悼行事の模様を伝えていました。
被災された兵庫県の各地では、今日一日鎮魂の祈りに包まれます。
当ブログも、被災されたご遺族の皆様に追悼のお祈りを捧げたく、余分な記事を差し控えさせていただきます。
・20年前、震災直後の神戸の街です。
「参考」
「阪神・淡路大震災」は、平成7年(1995年)1月17日、午前5時46分に淡路島北部を震源として発生し、神戸や阪神地区、淡路島に大きな被害をもたらしました。
地震の規模を示すマグネチユードは 7.3で、揺れの大きさは「震度 7」といわれており、人が感じる震度1以上の揺れの範囲は、東は福島県の小名浜、西は長崎県の佐世保、北は新潟、南は鹿児島までの広い範囲であったそうです。
この大震災では死者数6434名、被災世帯は46万世帯以上という大被害をもたらしました。
♪ 花の命の 短さを
初めて知った 哀しさに
青いインクも滲んでる
めくれば はらはら
涙こぼれる はたちの詩集
これは昭和36年(1961年)にヒット曲した白根一男の「はたちの詩集」の歌詞です。
先日の成人式のニュースを観ていて懐かしくこの歌を思い出しました。
白根一男は、私の好きな歌手の一人なので、時々、ユーチューブで聴いています。
ところで、「はたち」とは二十歳のことですが、なぜ「はたち」と言うのでしょうか?
今日はその語源を調べてみました。
「はたち」の「はた」は「二十」という意味だそうです。
広辞苑にも、①にじゅう。伊勢物語「比叡の山をーばかり重ねあげたらんほどして」、 ②20歳。と説明しています。
そして「ち」は、助数詞で、「ひとつ」「ふたつ」の「つ」と同じ言葉だということです。
従って、「はた・ち」で20個、数が20という意味になり、それが次第に20歳の年齢に限定して使われるようになったそうです。
また、「はた」の語源には「果て(果つ)」だという説もあるようです。
この「果て(果つ)」は「終わること、尽きること」という意味で、これは「両手、両足の指を使って数を数えていくと二十で終わる」、つまり“果てる”からですが、これは俗説と言われています。
他にも、戦国時代、二十歳になった青年武将は、主君の紋所を染抜いた旗を背中にくくりつけて戦場に出られ、その旗には「旗乳(はたち)」と呼ばれる旗を通す輪が年齢に合わせて20個ついており、「命をかけた決断の出来る年齢」という意味で「はたち」と言うようになったと言う説もあるようです。
硬い話題が続いたので、今日は柔らかい内容にします。
早速ですが、こんにゃく芋を見たことがありますか?
昨年末、法事で帰省した時、大きなこんにゃく芋がありました。
法事の前日、その半分で刺身こんにゃくを作って食べさせてくれたのですが、それがとても美味しかったので、使用残りのこんにゃく芋を貰って帰り、教えてもらった方法で作ったのでご紹介します。
・これがもらってきたこんにゃく芋です。
大きさは直径22㎝、高さ11㎝ある巨大なこんにゃく芋です。
材料は、 1.皮をむいたこんにゃく芋1kg、
2.水 2500cc
3.無水炭酸ソーダ10g
「作り方」
1.皮をむいた生こんにゃく芋1㎏を用意する。
2.上記の芋をミキサーにかけられる程度の大きさ(4~5センチくらい)に切り、箸が突き刺さるくらいの柔らかさになるまで湯がきます。
3.ミキサーにかける前に1㎏を再確認します。
一度にたくさんミキサーに入れると、固まって動かなくなるので、少しずつ何回にも分けて行う。
4.ミキサーにかけた芋は桶に入れてよくかきまぜて30分ほど置く。
5.その後、お湯に溶かした無水炭酸ソーダ10gを少しずつ加えながら、再度よくかき混ぜる。(混ぜるほど粘りが出てくる)
粘りが出た後、1時間ほどそのままにしておく。
6.1時間ほどおくと、手で固められるようになるので、両手で丸めて沸騰したお湯で茹でる。
7.白い灰汁(あく)が出るのでその都度取り除きながら、40~60分茹でる。
8.茹で終わると冷水に移して灰汁(あく)を抜く。
水が灰汁で黄色になるので、時々替えながら保存する。
9.翌日になると、灰汁が抜けて、市販されているような薄灰色のこんにゃくが出来上がります。
薄く切ると、柔らかい刺身こんにゃくの出来上がりです。
10.ワサビと刺身醤油、或いは酢味噌などで食べると美味しいです。
萩市の明倫小学校で行われている「吉田松陰先生の教え」をご紹介しています。
6回目となる今日は6年生の朗唱文をご紹介します。
・6年生の朗唱文です。
・6年生の朗唱文と意味です。
1学期・・・「体(たい)は私(わたくし)なり。心は公(おおやけ)なり。
私を役(えき)して、公に殉(したが)う者を大人(たいじん)と為し、公を役(えき)して、私に殉(したが)う者を小人(しょうじん)と為す」
意味・・人は心と体の二つを持っている。そして心は体よりも神性(しんせい)に近いが、体は動物に近い。心を公(おおやけ)と呼んで、体を私(わたくし)と呼ぶ。
心を大切にするのは、人が良心を持っているからである。心(公)のために体(私)を使役(しえき)するのは当然のことで、大人(たいじん:徳のある人)の為す
所である。しかし、体(私)のために 心(公)を使役(しえき)するのは小人(しょうじん:徳のない人)が為す所である。
2学期・・・「冊子(さっし)を被繙(ひはん)すれば、嘉言(かげん)林の如く、躍々(やくやく)として人に迫る。顧(おも)うに人(ひと)読まず。
即(も)し読むとも行わず、苟(まこと)に読みて之を行わば、則(すなわ)ち、千万世(せんばんせい)と雖(いえど)も、得て尽くすべからず。」
意味・・本にはよいことがたくさん書いてある。よいことは知るだけではだめで、知ったことを行うことが大切である。
3学期・・・「天地には大徳(たいとく)あり。君父(くんぷ)には至恩(しおん)あり。徳に報(むく)ゆるに、心を持ってし、恩を復(かえ)すに、身を持ってす。
この日、再びし難く、この生(せい)、復(ふたた)びし難し。この事終えざれば、この身(み)息(や)まず。」
意味・・天地には万物を生かしている大きな徳がある。また、歳が上の人や父母には、有り難いご恩がある。その徳や恩に対して心と体をつくして報いなければ
ならない。
日が暮れると、今日と言う日は二度と戻って来ない。人の命も死ねば戻ることはない。
天地の徳や君父の恩に報いるためには、少しの時間も無駄にせず、何事にも一生懸命につとめ、励まなければならない。
明倫小学校で暗唱している1年生から6年生までの朗唱文を学年ごとにご紹介してきました。
各学年とも、現在の小学生には余りにも難し過ぎる松陰先生の教えのように感じました。
しかし、幕末に吉田松陰先生から学んだ多くの門下生が、時代を動かし、明治維新後の日本を作ったのは事実です。
松下村塾同様、明倫小学校の生徒の中から、将来の日本を担う人材が出てくることを、大いに期待したいものです。
萩市の明倫小学校で行われている「吉田松陰先生の教え」をご紹介しています。
5回目の今日は5年生の朗唱文です。
・5年生の朗唱文です。
5年生の朗唱文とその意味です。
1学期・・・「誠(まこと)は天の道なり、誠を思うは人の道なり、至誠にして動かざる者は未(いま)だ之れあらざるなり、
誠ならずして未だ能(よ)く動かす者はあらざるなり」
意味・・・誠というものは人の作ったものではなく、天の自然にある道である。
この誠というものに心づいて、これに達しよう。得ようと思うのは、人の人たる道である。
学んでこれを知り、つとめてこれを行うのは、人たるものの道である。
このように、誠にいたる心に会っては、なにものもかんどうされないものではない。
誠というものは、すべてのもとになるものである。
2学期・・・「道は即ち高し、美(うつく)し、約(やく)なり、近(きん)なり。
人(ひと)徒(いたず)らに、その高く且つ美しきを見て、もって及ぶべからずと為し、
而(しか)も、その約(やく)にして且つ近く、甚(はなは)だ親しむべきを知らざるなり」
意味・・・人の道は高大(こうだい)で、また美しく、同時に簡約(かんやく)であり、身近なものである。
しかし、人はその高大で美しいものを見て、とても自分には出来ないことだと、初めから決めてかかるが、それは間違いであって、
道徳というものは簡単なもの、手近かなものであり、また最も親しむべきものであるということを知らない。
日頃の生活と離れたものではない。
3学期・・・「仁とは人なり、人にあらざれば仁なし、禽獣(きんじゅう)是れなり。
仁なければ人にあらず、禽獣に近き是なり。必ずや仁と人と相合(あいがっ)するを待ちて、道というべし」
意味・・・仁(じん)とは、仁を行うところの人のことである。人でなければ人徳を行うことはない。動物に仁はない。
だから人徳がなければ人ではない。動物に近い人がこれである。
人徳と人の身が相合(あいがっ)するとき、道というのである。
5年生になると更に難しい内容となりますね。
この学年では、孔子が提唱した道徳観念、即ち、礼に基づく自己抑制と他者への思いやりなどを説いているように感じます。
それにしても難し過ぎます。
歳だけをいたずらに重ねた老人には全く分かりません。
一昨日の大河ドラマで、1学期の「誠を思うは人の道なり、至誠にして動かざる者は未(いま)だ之れあらざるなり、・・・」という言葉を、吉田寅之助(松陰)が言っていましたね。
お気づきになりましたか?
萩市の明倫小学校で行われている「吉田松陰先生の教え」をご紹介しています。
4回目の今日は4年生の朗唱文です。
・4年生の朗唱文です。
4年生の朗唱文とその意味です。
1学期・・・「凡(およ)そ読書の功は、昼夜を捨てず、寸陰(すんいん)を惜しみて、是(これ)を励むにあらざれば、その功を見ることなし」
意味・・読書の効果を上げようと思えば、昼と夜の区別なく、僅かな時間でも惜しんで、一心に読書に励まなければ、その効果を見ること
はない。
2学期・・・「人の精神は目にあり、故に人を観るは目においてす。胸中の正不正は眸子(ぼうし)の瞭眊(りょうぼう)」にあり」
意味・・人のよしあしを判断するには、その人の目を見つめて、その瞳に注意するより、ましなことはない。
人の心に悪いことがあれば、瞳はかくすことはできない。心が正しければ、自然と瞳もはっきりしている。
3学期・・・「其の心を尽くす者はその性を知るなり、その性を知れば、即ち天を知る」
意味・・人と言うものは、その心の奥底までを辿りつめていけば、その本性が善であることが分かる。
そのことを知れば、人の本性は天から受けたものであるから、天が善を好むと言うことがわかる。
4年生になると難しい文章ですね。
1学期では読書のすすめ、2学期では人を見る目を養うこと。これは社会に出ると必ず役に立ちます。
そして3学期では孟子の性善説を説いています。
即ち、人間の本性は善であり、仁・義を先天的に具有するという考えであり、それに基づく道徳による政治を主張した説です。
いずれも小学4年生では難しそうですね。